>
その横でベアトリーチェは、静かに息を吐いた。
――みんな、いろいろあるんだ。
アルスフェルトでの一件以来、さまざまな人に出会い、さまざまなことを教えてもらってきた。
その中で痛感したのは、昔の自分は恵まれた環境にあったということ。
みずからも捨て子ではあるが、そんな過去がかわいく思えるほど、周りの人々の苦悩は深かった。
――私も、なんとかしたい。みんなの力になりたい。
そう強く願うものの、今の状況ではその気持ちは焦りに変わり、自身をさらに追い込んでいくだけ。
どこかのんびりとした周囲の空気が、なぜか恨めしかった。
「おや、神官様ではございませんか」
なかば自分の世界に入りかけていたところを、一言で打ち破られた。
はっとして顔を上げると、いつの間にか隣に、神官衣をまとった細身の青年が立っていた。
「ああ、はじめまして。神官のベアトリーチェと申します」
「どうかされたのですか?」
「ええ、それが実はお願いしたいことがありまして」
と言って、荷物の入った袋から紹介状を取り出してみせる。
「そういうことでしたか。でしたら、ここではなく東の〝使徒の間〟に来てくださればよかったのに」
「え? よろしいのですか?」
使徒の間は、ここ大神殿に属する神官のためにある施設のはずだ。部外者が入ることは基本的にできないと聞いていたが。
「構わないんですよ。よく他の神殿の方も来られていますし。次から遠慮なさらずにいらっしゃってください」
そう言って、若い神官はベアトリーチェから紹介状をすっと受け取った。
「ええと、どちらもライナー様へのものですね。確かにお預かりしました。かならず届けておきますので、しばらくここでお待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
前から順番に待っている人もいることはわかっていた。周りからの視線も気になったが、今回ばかりは自分たちも急を要している。この機会をありがたく利用させてもらうことにした。
神官の姿が扉の向こうへ消えるのを見届けてから、ジャンと一緒に空いている席に座った。
「――――」
ベアトリーチェはなんの気なしに、周囲の喧噪に耳を傾けた。ただの雑談から苦しい生活に対する嘆きまで、さまざまな声が聞こえてくる。
そんな中、やはり各地で翼人が暴れているという話もちらほらとあった。思いのほか、あちらこちらで被害が出ているようだった。
「本当にジャンさんの村だけではないみたいですね」
「うん、もしかしたら俺たちと同じで、ここにいる人たちも聖堂騎士団に助けてもらうために陳情に来たのかも」
「あんたらのとこも、翼人どもにやられたのかね?」
声は、突然横合いからかけられた。
ジャンがそちらを向くと、隣の長椅子に年老いた夫婦が並んで座っていた。
「はい、そうなんですが……そう言うあなた方も?」
「ああ、そうだ。少し前から急に翼人どもがうちの町を襲いはじめてな。南の外れにあるから知らんとは思うが、レーデンというところなんだが」
「まあ、レーデンから!」
声を上げて驚いたのはベアトリーチェだった。
「レーデンを知っているのかね?」
「ええ、実際に行ったことはないのですが、友人がそこの出身でして」
レーデンは、帝国の本当に南の端にある小さな山里の町だ。諸国との交易でそれなりに潤ってはいるものの、とにかく帝都からは遠い。旅慣れた者でさえ、ここまでの道のりはあまりにも長すぎるはずだった。
「お二人でずっと来られたのですか?」
「レーデンは大変なことになっておってな。若い連中は町を守るので手一杯なんだ」
それで力では役に立てないわしらが行くことになったんだ、とその老人はため息混じりに言った。
「でも、大変だったでしょう。こんなところまでお歳を召した方がいらっしゃるなんて」
「いやいや、それがずっと馬車で来たんだよ」
「それでも、やはりお疲れになったのでは?」
「疲れたというより、途中厄介なことに巻き込まれたのが大変だったな」
「何があったんです?」
ジャンが問うた。
「実は、アルスフェルトのだいぶ手前のところで賊どもに襲われてな。幸い、なんとか事なきを得たんだが」
「とんでもない目に遭われたんですね」
「ああ、危なかった。それにしても、今の世の中は、人間も翼人もどうなってしまっておるんだか……」
と、老人は額に手を当てた。
「でも、不思議なことがあったんです」
そこで初めて、老婦人のほうが口を開いた。
「私は怖くてずっと馬車の中に隠れていたんですが、賊たちの様子がおかしくなったときに空に翼人を見たような気がするんですよ」
「翼人ですか」
「ええ、薄い赤色をしたきれいな翼の女性でした。もしかして、彼女が――」
「だから、それは見間違いだと言っとるだろう!」
妻の言葉を完全に遮って、夫が叫ぶようにして否定した。
「翼人どもが助けてくれるはずなどない! 賊は、守備隊の人たちが来てくれたから逃げていっただけだ」
「あの方たちが来たのは、賊がいなくなったずっとあとのことじゃないですか。あなたこそ、何を言ってるんです」
「し、しかし、それではつじつまが……」
「あの」
と、ジャンが間に割って入った。
「翼人の中にもいろんな人がいるんです。俺の村も確かに翼人の集団に襲われていますが、でも、それを助けてくれたのもまた翼人だったんです」
「なんだと? どういうことだ?」
「簡単です。人間の世界と同じということですよ、おじいさん。いい人もいれば悪い人もいる。ただそれだけのことです」
納得したのかしていないのか、老人は『ううむ』と唸ったきり、黙りこくってしまった。
「ところで守備隊で思い出したんですが、確かレーデンの近くにはかなり大きな屯所がありましたよね? そこの兵士たちは助けてくれないんですか?」
レーデンの辺りは南のトゥルリア王国と境を接しているため、防衛上の理由で多くの兵士が配されているはずだ。
彼らが総動員されれば、よほどのことがないかぎり町ひとつくらいは守れるはずだったが。
ジャンが答えを待っていると、老人は意外な言葉を返してきた。
「もちろん、助けてくれておる。しかし、数が足りんのだ」
「えっ、数が足りない?」
「ああ。なんでも、ちょうど隊のほとんどが他の地へ派遣されてしまっているそうでな。残ったわずかな兵士とうちの若い衆で、なんとか持ちこたえているところなんだ」
しかし、それも長くは持ちそうにない。それで聖堂騎士団の助力を乞うことにしたのだと、老人は説明した。
ジャンは内心、疑問を抱いていた。
――守備隊の大半が他の地へ派遣だって? そんなことをしたら、そもそも守備隊の意味がないじゃないか。
「ジャンさん、もしかしてアルスフェルトの救助に行ったのでは?」
「ああ、そうか。それならわからなくもないけど」
だが正直、不信感はまだ消えなかった。
――ベアトリーチェは故郷に救援が向かったはずだという希望的観測からそう言ったんだろうけど、レーデンからアルスフェルトまでは距離がありすぎる。
それとも、レーデンの守備隊を動かさなければならないほどあちらこちらで翼人の襲撃が起きていて、カセル侯軍が困窮しているとでもいうのだろうか。
それならばまだ納得できるが、仮にもしそうなら、カセル侯領は予想以上にひどい状態にあるということになってしまう。
――どっちにしろ、とんでもないことだ。
「そういえば、あんたたちのことは聞いてなかったな。どこから来なすったんだね? そこはまだ大丈夫なのか?」
「俺のところはすばらしい戦士がいるので大丈夫なんですが、彼女の故郷は――」
「どうした?」
意を決して、ベアトリーチェが告げた。
「アルスフェルトなんです。だから、大変なことになっていまして……」
「アルスフェルトだって!?」
老人の年不相応に大きい声が部屋中に響き渡った。しかし、ほとんどすべての人々の気を引いたのは、その大音声よりもアルスフェルトという名のほうであった。
「あ、あんたはあのアルスフェルトの生き残りなのか……?」
「はい……あの町は衛兵の大半がやられてしまって、しかもカセル侯軍が派遣されてくる様子もないので、こうして大神殿を頼みに参ったしだいなんです」
気がつけば、部屋は静まり返っていた。周囲の視線を、ベアトリーチェが一身に受けている。
老人は白髪に覆われた頭をゆっくりと振りながら、声を絞り出すようにして言った。
「そうだったのか。それは本当に大変だったな」
「いえ、私はいいんです。今こうして無事にいられるのですから」
――本当に大変なのは、現在もアルスフェルトに残って尽力している人たち。
たとえ援軍がすでに到着していたとしても、まだまだ困窮の極みにあるだろう。自分が一刻も早く、援助をしてもらうべく大神殿とかけ合わなければならなかった。
ベアトリーチェが決意を固めていると、老夫婦のほうへひとりの神官が歩み寄っていった。
「ジムゾンさんですね?」
「ああ、そうだが」
「お待たせしまた。席のご用意ができましたので、こちらへどうぞ」
「おお、ついにか」
喜色を浮かべて、老人が立ち上がった。老婦人がそれにつづく。
ジャンが、その二人に声をかけた。
「よかったですね」
「ああ、三日も待ったかいがあった。これでようやくお願いができるよ」
何かの聞き間違いか、と一瞬思う。
しかし、その意味するところを悟ったとき、ジャンは悲鳴のような声を上げていた。
「ええっ、三日もですか!?」
「そうだ。ここにおる人たちの大半が、日をまたいでずっと待っておるんだよ。それくらい時間がかかるんだ」
――ってことは、椅子に座っている人たちは今日の分だけじゃないってことか!
おそらく、長く待たされることを見越して、いったん外へ出ている人もいるだろうから、実際にはこの何倍もの人々が列をつくっていると考えられる。
「いったい、どれだけかかるんだよ……」
「まあ、焦る気持ちはわかるが、こころを落ち着けて気長に待つことだ。あんたらの幸運を祈っておるよ」
「ああ、はい。ありがとうございます。そちらも、お願いを大神殿が聞き入れてくれるといいですね」
老夫婦は別れの挨拶をして、神殿の奥へと去っていった。周りにいる人々が、その背中をうらやましげに見送っている。
「はあ」
と、ジャンは思いきりため息をついてしまった。
「まさか、そんなに長く待たなきゃいけないとは思わなかったな」
「ええ、三日もなんて……」
今日中に済ませてしまおうなどという考えは、あまりにも甘かった。もう正午を過ぎているから、最悪四日以上かかったとしても不思議はない。
「神殿は、いつもこんな感じなの?」
「ここのことはわかりませんが、普通はどんどん話を聞いていくものなんですが」
「だよね、うちの村の神殿もそうだった」
「神殿に相談に来る人の大半は陳情だけが目的ですから、神殿の側としてもとりあえず話の内容だけ聞いておいて、対応はあとで考えるという場合が多いんです。もちろん、深刻な問題はその場で話し合いに応じますが、そういったことはまれなので」
「ということは、それだけ大神殿に用のある人が異常なほど多いってことか。やっぱり、待っているのはここにいる人たちだけじゃないだろうね」
「そうですね。変な話ですが、予約のようなものを取っている人もいるでしょうし」
ジャンは、三度頭を抱えた。
「ああ、なんてこった……故郷の村もアルスフェルトも、今まさに危機にさらされているのに! それなのに、三日も四日も遅れてしまうのは本当に致命的だよ。たとえ大神官に謁見できたとしても、相手がすぐに動いてくれるかどうかはわからない、仮に聖堂騎士団の派遣が決定したとしても、最悪一週間後ということも有り得る」
「ジャンさん……」
しかも、ジャンとしてはカセル侯の側にも話を通しておく必要がある。
彼の焦り、彼の苦悩がわかりすぎるほどにわかるから、逆にベアトリーチェはなんと声をかければいいのかわからなかった。
深くうつむいてしまった彼を見つめることしかできないでいると、ひとりの年若い神官が受付の台のほうから歩み寄ってきた。
「神官さま、同胞よ、あなたはアルスフェルトから来られたのですか?」
「あ、はい。そうですが」
「あの、いろいろとお尋ねしたいことがあるのですが」
「なんでしょう?」
「ここへも多くの噂が届いております。あのアルスフェルトが翼人の集団に襲われたと聞きました。本当なのでしょうか?」
少し間を置いてからベアトリーチェは答えた。
「……はい、本当です」
「では、アルスフェルトの神殿は?」
その問いには、さすがにすぐには答えられなかった。
うつむき、大きく息をついてから意を決して言った。
「――壊滅しました。アリーセ神殿長も他の同胞も、建物もろとも消えていきました」
想像していたよりもひどい現実に強い衝撃を受け、その男の神官は言葉を失った。
「仲間はみんな、最後まで神官としての使命をまっとうしたのに、私はこうして生き恥をさらしております」
「そんな! けっしてあなたは悪くありません。あくまで、すべての責任は翼人どもにあるのですから、ご自分をお責めになるのはおやめください」
「いえ、それは――」
かならずしもそうではない。
翼人の側にも事情があるのかもしれないし、もしかしたら自分たちが知らないうちに彼らに対して罪を犯していたのかもしれない。
ベアトリーチェはそう伝えようとしたのだが、別の人物によってそれを遮られてしまった。
「ベアトリーチェ様にジャン様でございますね?」
神官の斜め後方から声をかけてきたのは、少し硬い雰囲気をまとった中年の男だった。あまり聖職にある者という印象はないが、ローブをまとったその格好からして彼も神官なのだろう。
若い男のほうはまだ何か言いたげではあったが、一礼して去っていった。それを見届けてから、あとから来た神官は言葉をつづけた。
「ライナー大神官より言伝を賜っております」
「はい」
「紹介状は確かに受け取りましたとのこと。ただ、残念ながら今日は立て込んでいるので、話は明日にしてほしいとのことです」
「そう……ですか」
紹介状が二通もあるのだから、なんとかなるのではないかと考えていた淡い希望は、もろくも崩れ去った。
ただ、中には先ほどの老夫婦のように三日以上も待ちつづけている人もいる。明日の謁見を確約してくれたのなら、まだいいほうだった。
「お二人にはお部屋をご用意いたしました。今夜はそこにお泊まりください」
「はい、ありがとうございます」
神官は休みたくなったら東の使徒の間に来てほしい旨を告げると、形式ばった礼をしてさっさと行ってしまった。
ジャンは、ベアトリーチェの肩をぽんぽんと叩くと立ち上がった。
「ま、取りあえずこれでよしとしないとね」
「そうですね」
「俺はいったんヴァイクに伝えてくるよ。そのあと、今度は宮殿に行くつもりだから、ベアトリーチェは好きにしてていいよ」
「あっ」
言うなり、ジャンはさっさと外へ出ていってしまった。自分も一緒に行くと言おうとしたベアトリーチェであったが、呼び止める暇さえなかった。
相変わらず、大地の間は中途半端な喧噪に包まれているというのに、なぜかベアトリーチェは孤独感を強く感じはじめていた。
部屋は異様な活気に満ちている。それは、今の世界の象徴なのかもしれない。