第七章 胎動
いよいよ帝都が近づいてきた。これからいくつかの丘を越え、二つの森を抜けると、そこからはもうリヒテンベルクの威容が見えるはずであった。
ここまで歩いてきたおかげで、ヴァイクの翼の傷もだいぶ癒えた。激しく動かすとまだ痛みはあるものの、普通に飛ぶ分には問題のないほどに回復していた。
問題はベアトリーチェのほうだ。女の足ではさすがにこの道程は厳しかったらしく、疲れがたまってきたのか、進めば進むほど口数が少なくなっていった。
ヴァイクも元より、よくしゃべるほうではない。ジャンもこれといって話すことがなく、一行はただ淡々と歩を進めることになった。
それが不意に止められたのは、丘の谷間を埋めるように広がる森の中へと入ったときのことであった。
「ヴァイク、あれ――」
「うん?」
最初に気がついたのはジャンだ。
言われてヴァイクが前方を見やると、道を塞ぐようにして立つ木の幹に何か違和感があった。
よく見ると、短剣で紙のようなものが打ち付けられている。
それは、蠟でかたく封をされた手紙のようだった。
「なんだ?」
警戒しつつも、慎重にそれを手に取って見てみる。最初にヴァイクの気を引いたのは、手紙ではなく短剣のほうだった。
「これは……」
柄の部分に、不規則なようで一定の法則があるようにも感じられる、複雑な意匠が刻み込まれている。
そして刀身のほうは驚くほどの輝きを放ち、刃は触れるだけで切れそうなくらいに薄く鋭い。
「どうしたの?」
ジャンが手元を覗き込んでくると、ヴァイクはあわてて短剣を近くに落ちていた鞘に収め、腰に差した。そして、何かをごまかすように手紙を急いで開けていく。
それを広げて書かれていることを読んだとき、二人の表情が怪訝なものになった。
そこには、次のように書かれていた。
そのまま帝都に向かえ。
奴は、かならずそこに現れる。
「どういう意味だろう?」
ジャンが腕を組んで首をかしげた。あまりにも漠然としているわりには、何か明確な意図のようなものも感じさせる。
「…………」
一方のヴァイクは、文面を睨んだまま微動だにしなかった。
かわりに、それまで黙っていたベアトリーチェが口を開いた。
「私たちに向けたものかしら」
「どうかな。でも、可能性は高いと思うよ。帝都へ向かう人は、普通ここを通らないからね」
「じゃあ、ヴァイクが翼人だと知っている人が――」
「そうなる。本当に俺たちの先回りをして仕掛けておいたならね。けど、それよりも問題は誰がやったかってことだよ。俺たちがヴァイクと一緒に帝都へ向かっていることを知ってる人は限られてる。しかも、こういうやり方をするってことは、こちらの動きはお見通しってことだよ」
それが可能な存在は少ない。そのことは、三人ともがよくわかっていた。
「翼人、なのかしら」
「うーん、密偵の経験がある人だとか盗賊なら、人間でも可能だろうけどね。どっちみち、相手の目的もその書かれてる内容もよくわからないよ。実際は、他の人に宛てた可能性もあるし」
「そうですね……」
考え込む二人の横で、唐突に紙の裂ける音が響いた。
驚いてそちらを見やると、ヴァイクが件の手紙を粉々にちぎっているところだった。
「ヴァイク?」
「俺にも、ここに書いてあることの意味はよくわからない。だが、こういうものはへたに残しておかないほうがいいだろう」
「確かに、いつどこで誰に見られるかわかったものじゃないからね」
――けどさ。
ジャンは、内心怪訝に思っていた。
――まだあの手紙が、自分たちに向けられてものだって確定したわけじゃないのに、どうして?
あえて破り捨てたのは、そこに書かれていることになにがしかの心当たりがあったからではないのか。
――でも、それでさえ俺の憶測か。
ヴァイクが話そうとしないことを無理に聞き出すわけにもいかず、ジャンはとりあえず黙っておくことにした。
「とにかく帝都へ向かおう。そこへ行けば、書かれていたことの意味もわかるはずだ」
「そうだね。元からそうするしかない」
再び歩を進めていく。その歩みは、明らかに今までより速い。
――どうもヴァイクは、すぐにでも飛んでいきたいらしい。
疑念は増すが、それでも彼が自分たちに合わせて我慢して歩きつづけているのがわかるから、何も言えなかった。
が、そんな思いが持続したのはわずかな間だけであった。
「ちょ、ちょっと」
「なんだ、ジャン?」
「ヴァイクは疲れてないの? ここまでずっと歩き詰めだったのに」
「疲れる? なんでこの程度で。だいたい口が利けるなら、まだ元気が残ってる証拠だ」
「…………」
――翼人は長距離を歩くことには慣れていないはずなのに、なんて奴……
「って、感心してる場合じゃない。俺はともかく、ベアトリーチェのことを考えてやってよ」
「ジャンさん……」
限界に近づきつつあったベアトリーチェが顔を上げた。
アルスフェルトから帝都までの道程は、女性にとってけっして簡単なものではない。ましてやずっと街道を外れて進んできたのだから、その労苦は尋常ならざるものがあったろう。
「そうか――」
振り返ったヴァイクは、しかしベアトリーチェのほうを向いていなかった。
「自分が楽をするために、いい言い訳を考えたな」
「ヴァイク! それはないよ!」
「お前の本音はともかく、ちゃんとわかってる。休憩をとるのは向こうでいいだろう」
「え……?」
ヴァイクの指さす先、そこには二本の大木があった。
いや、違う。その隙間の向こうに見えるのは、白く巨大な壁であった。
「リヒテンベルク……やっと着いた……」
そのことを認識すると同時に力が抜け、思わずその場に座り込んでしまった。
前方には、帝都を象徴する白く巨大な壁が屹立していた。表面を磨き抜かれた白大理石で覆われたそれは、春の陽光を浴びて神々しいまでに輝いている。
「帝都というのは、こんなに大きいんだな」
初めて見るリヒテンベルクの光景に、ヴァイクは目をむいて驚いた。
壁の端から端までの長さは、いったいどれくらいあるのだろう。まだここからは少し距離があるのだが、それでも想像を絶する巨大さであることが容易に見て取れた。
「でも、思ったほど高さのある建物はないんだな。奥のほうに大きい建物が見えるだけだ」
「あれは宮殿の建物だよ。帝都では、それより高いものや大きいものを建ててはいけないことになってるんだ」
「じゃあ、あっちの尖ったのはなんだ?」
「ああ、向こうが大神殿の塔の先端だね。まあ、宮殿に対するちょっとした対抗意識でしょ」
「対抗意識?」
「そう、大神殿と宮殿は昔から仲が悪いんだ。だから、何かと対立しちゃってるんだよ」
「人間の世界はいろいろ面倒らしい」
と、ヴァイクはあまり気にしなかった。
だが、背後で顔を曇らせているベアトリーチェに気づくべきだったかもしれない。
「あの、ヴァイク――」
「まあ、ともかく俺はここまでだ」
「ヴァイク?」
はっとしてベアトリーチェが目を見開いた。そこには、すでに悲しみの色が浮かんでいる。
「そんな顔をするな。翼人の俺が、これ以上一緒に行くわけにはいかないだろう」
「それはそうだけど……」
「安心しろ。とりあえず一通りのことにけりが着くまで、ここで待っててやる。そうだな、あの森の入り口のところで落ち合おうことにしよう」
ジャンが首肯した。
「そうだね、ベアトリーチェさんの用も俺の用もそう長くかかるものでもないし、何かあったらあそこに集まろう」
「ヴァイクはどうするの?」
何か、ここで彼と離れてはいけないような強い予感があった。
不安な気持ちがそうした思いを呼び起こしているのかもしれないが、これが永遠の別れにつながってしまうような思いが、どうしても拭いきれない。
だが、そんなベアトリーチェのこころの揺らぎにも気づかない様子で、ヴァイクは周囲をゆっくりと見渡していた。
「俺はしばらく、ここの周辺を調べてみる。何かがわかるかもしれない」
西のほうに視点を置くと、ヴァイクは心当たりでもあるかのように、そちらをじっと見つめた。
「ベアトリーチェには、ジャン、お前が付いていってやってくれ」
「ああ、わかったよ」
「じゃあ、またあとで会おう」
「あっ」
名残惜しい様子もなんら見せることもなく、ヴァイクはあっさりと飛んでいってしまった。
あまりに唐突なことに、ベアトリーチェらは彼の背中が小さくなっていくのをただ見送ることしかできなかった。
――本当にこれでよかったの?
心中に疑問が残る。
いくらかの後悔があった。
もう少し話をしておくべきだったのではないか、なんらかの方法で彼と一緒にいるべきだったのではないか。
考えても仕方のないことだとは承知しつつも、こころに靄のようなものがかかって帝都への到着を喜ぶ気分には到底なれなかった。
「行っちゃったね」
「もう、せっかちなんだから」
「仕方がないよ。あれがヴァイクだ」
「まあ、そうなんですけど」
ジャンがその太い指で、帝都の南大門のほうを指し示した。
「じゃあ、さっそく行こうか。できれば、今日のうちにいろいろ済ませてしまいたいからね」
「そうですね、ここにずっといても仕方がないですし」
二人は、正面やや左に見える門に向かって再び歩きはじめた。
今日は休日ということもあってか、帝都への人の流れはまばらだった。
平日ならば帝都に用のある人でひっきりなしに人々が出入りするのだが、休日はみんなが休んでしまっているから、いつもこんなものだった。
ヴァイクと離れてからは主要な街道に戻れたこともあって、それなりに残っていた帝都までの道程もあっという間に歩ききることができた。
目的地がはっきりと見えたこともあったのだろう、それまでの疲れもいくぶん忘れて、予想より早く門にたどり着けた。
「相変わらず、すごいですね、帝都の門は」
「うん、さすがにこれだけでかいものは他にないよ」
帝都には周りに堀がないため、その大門は両開きの扉のようになっている。
しかし、その大きさが尋常ではない。
門だけでも、アルスフェルトの神殿ほどの高さと幅がある。扉の部分は木製なのだが、厚い板を何枚も重ねてあって、見るからに堅く重厚であるのがわかる。しかも、それが内と外の二重の扉になっていた。
二人とも以前に帝都にやってきた経験はあったのだが、改めてその巨大さに圧倒された。それだけで少し畏まった気持ちになりながら、ゆっくりと門をくぐっていく。
と同時に、帝都の内側の様子に、二人ともが驚きを禁じ得なかった。
「これは……」
ジャンたちの目の前には、外からは想像のつかない光景が広がっていた。
通りは人々でごった返し、あちらこちらで露店を建てたり、台を作ったりする金槌の音が響いている。既存の建物も色とりどりの布や花で飾られ、町全体が活気に満ちあふれていた。
「ああ、そうか。もうすぐ〝春の大祭〟なんだ」
「いつもこんなにすごいんですか?」
「いや、今年は選帝会議の時期が重なったせいもあると思うよ。そのときは、いつも帝都全体がお祭り騒ぎみたいになるんだ」
「そうでした、次の皇帝を決める会議も……」
つまり、大祭と選帝会議が合わさった結果、この空前絶後の盛り上がりを生み出したということだ。
ただ、それは自分たちにとって、少し問題があるかもしれなかった。
「今からこれだけの盛り上がりだと、神殿や宮殿のほうはかなり大変なことになっているかもしれませんね」
「そうだね、お互い謁見まで時間がかかるだろうね……」
これだけ人が多いとなると、宮殿などへの訪問者の数も相当数に上るだろう。そうなれば、許可が下りたとしても待ち時間が大変なものになりそうだった。
紹介状を二つも持っているベアトリーチェはまだいい。しかし、ジャンはなんの伝もないまま乗り込まなければならない。どうにも先が思いやられた。
「だけど、町外れでこの状態となると中央のほうではどうなってるんだか……」
「〝フライヤ〟の広場には近づかないほうがいいでしょうね」
「うん、そうかも」
町の中央には、女神の名を冠された大きな広場がある。そこは日常でも市がよく開かれる、帝都の中でも特に普段から人でごった返している場所だ。
おそらく、そちらのほうはさらに大変なことになっているはずだった。
「にしても、ちょっと心配だな」
「何がですか?」
「大祭のときは、毎回暴動のようなことが起きてしまっているんだ。今からこれだけ賑やかだと、騒ぎも大きくなっちゃうんじゃないかと思って」
「ああ、それで衛兵の人たちがすごく多いんですね」
通りのあちらこちらに、兜をかぶった衛兵たちがいる。どこか尊大なその態度は、前に訪れたときとは何かが違っているように思えた。
「確かに、いつもの大祭のときよりも多いみたいだね。でも、衛兵だけじゃないよ。宮廷軍の兵士もいるみたいだ」
兵士の中には、羽根飾りの付いた赤い兜を身に着けている者もいる。
それは、この帝都を守護する独自の存在、宮廷軍に属していることの証であった。
「ああ、選帝会議があるから」
「でも、変だな。いつもの選帝会議のときでも、こんなにあからさまに宮廷軍が動くことはなかったと思うけど」
諸侯の護衛も、普通なら衛兵だけで十分だ。宮廷軍はやや特殊な存在だけに、民からも諸侯からもあからさまに動くことは疎まれていた。
「やっぱり、大祭と選帝会議が重なったせいなんでしょうか」
「うーん、きっとそうだろうけどね」
それ以外に、これといって理由を思いつかなかった。
どこか不穏なものを感じはしたが、気にしてもしょうがないことなので、ジャンは意識的にそのことを頭の隅に追いやった。
だが、神殿へ向かって歩いていくうちに、ベアトリーチェはあることに気がついた。
「――あの、こういったときに聖堂騎士団も警備に当たるものなんでしょうか」
「ええ? いや、そんなはずはないけど……」
しかしよく見ると、要所要所に白銀色の鎧と純白のマントを羽織った騎士たちの姿が見える。少し物々しい様子で互いに何やら話し込んでいた。
「おかしいな、聖堂騎士団が普通のことで出てくるわけがないのに」
「彼らも微妙な立場ですからね」
「えっ、神官の人でもそう思うの?」
「はい……どんなに理由を取りつくろっても、武力組織であることは事実ですし、私たちにとっても、ちょっと遠い存在なんです」
「そうか、うちの村の神官が言ってた『会ったことがない』っていうのは本当だったのか」
宮廷軍と同じく大神殿の聖堂騎士団も、その特殊性ゆえに周りから警戒心を持たれてしまっている。
それを神殿側もわかっているから、よほどのことがないかぎり表に出すことはないはずだった。
ベアトリーチェの胸を、黒い予感がよぎる。
「ひょっとして、宮廷軍が動いたことに反応したんでしょうか」
「一部の連中が先走ったのかもね。もし両方がぶつかったら、六十年前の再来だよ」
「怖いことを言わないでください」
実際に、両者が正面から衝突してしまったことがあった。
皇帝と大神官長の対立に、諸侯の思惑や大商人の利害がからんで起きた最悪の事態。
しかしその被害があまりに大きかったがために、以後は互いに大きな行動を自粛するようになり、それぞれの領域に踏み入ることはなくなっていた。
ジャンは過去に読んだ文献の内容を思い起こし、眉をひそめた。
「まさか、よりにもよって帝都の町中で両者を同時に見ることになるなんてね」
「聖堂騎士団がジャンさんの村などへ派遣されないことと関係があるのでしょうか」
「どうかな。もし何か厄介ごとを抱えているのなら、考えられなくはないけど、全部憶測でしかないよ。それを確かめるためにも、大神殿へ急がないと」
「はい」
町の無邪気な賑やかさを感じつつも、ジャンとベアトリーチェはどこかに引っかかりを覚えていた。
といっても、二人も祭りが嫌いなわけではけっしてない。道をどんどんと進んでいくうちに、ばか騒ぎに何度も遭遇し、いつの間にかこころはお祭り気分に満たされていた。
そのせいで少し寄り道をしてしまって予定より遅れたが、どうにかして大神殿まで到着することができた。
「いつ来てもすごいなぁ」
「レラーティア教の中心ですからね」
大神殿の建物は、十二本の尖塔をもつ巨大な複合施設であった。
大きく分けて正面にある〝祭壇の間〟、東にある〝使徒の間〟、西の〝大地の間〟、北東の〝瞑想の間〟、北西の〝天空の間〟、さらにそれらに取り囲まれるようにしてある中心の〝伝承の間〟の五つがある。
それぞれ機能や役割ごとに分けられており、尖塔はかつて実際に存在した十二人の聖者を表していた。
純粋な大きさでは宮殿にかなわないものの、その美しさと荘厳さにかけては比較にならないほど大神殿のほうが上だというのが、世間でのもっぱらの評判だった。
「ここは、南向きに建てられているんだね」
「ええ、普通は東向きなんですが、ここだけは中心だからということで」
そのおかげで日中は常に陽光が当たり、建物を覆う大理石が幻想的なまでに輝いている。
ただ、ジャンにはどうしても違和感を覚えてしまうことがあった。
「やっぱり、町中に神殿があると不思議な感じがするな」
「そうですね、普通は領主館と一緒で町の外にありますから」
「都市と神殿は相容れない、か」
そして、領主と神殿、領主と都市も相容れない。
それが、この地域での常識であった。ただ、ここ帝都リヒテンベルクは他の町と似ている面もあるが、まったく異なる面もあった。
それは、この帝都が皇帝のためにつくられたまったく新しい都市だということだ。
建国当初は、皇帝となった者の領地をそのまま都としたらどうかという意見もあったが、それでは諸侯同士の力の均衡が保たれなくなるという懸念もあった。
それで紆余曲折を経て、帝国のちょうど中心の位置にあった何もない荒れ野に現在のリヒテンベルクを新たに造ったのであった。
だから他の都市で見られるような、自治組織である参事会とその地を治める領主との対立といったものもなければ、神殿側との駆け引きというものもない。
結果として初めから都市の内部に領主の館、すなわち宮殿と、レラーティア教の大本、すなわち大神殿を組み入れることになった。
ただしそれゆえに、今度は宮殿と神殿があからさまに対立することになってしまった。その火は以前からくすぶってはいたのだが、同じ都市から疎外されたもの同士だったのが、逆に帝都内の有力者同士になったことで、それまで潜んでいた諸々の問題が表面化することになった。
それでもどうにか折り合いをつけてやってきたのが、この帝都の歴史でもあった。
「なんだかここの周りにも聖堂騎士が多いような気がするけど、とりあえず中に入ろうか」
「そうですね」
今は一般の信徒が参拝できる時間のため、正面にある祭壇の間の大扉は開け放たれている。
しかし、ベアトリーチェらはそちらではなく、西の大地の間のほうへ向かった。
その隅のほうにある小さな扉をくぐり抜けると、狭い部屋にずらりと長椅子が並べられ、その奥に大きめの台のある部屋があった。
ここは、礼拝以外の目的で大神殿に用のある者がその目的を伝えるための場所だった。
正面の台の奥にいるのは、その受付だ。大神殿への陳情から喜捨の申し出まで、さまざまな案件がここに集まってくる。
ベアトリーチェらが入ったときにはもう、嫌になるほどの人いきれだった。すでに長椅子の大半が埋まっており、受付の台の前にはそれなりの行列ができている。
「これは……今日中に済むかな?」
「どうでしょう。いつもは、こんなに混んでないはずだと思うのですが」
「大祭が近い影響かな?」
ジャンはベアトリーチェとともに大神官に拝謁し、故郷の村の窮状を訴え、可能ならば聖堂騎士団を動かしてもらうよう陳情するつもりだった。
「できれば、日が暮れる前にカセル侯の側にも接触したいんだけど……」
「この様子だと……」
ジャンは、無闇に伸びた髪をかきむしるようにして頭を抱えた。
「早くしないと、またセヴェルスにどやされるよ」
「セヴェルスさんは、ジャンさんには厳しいんですね」
「まあ、そうなんだけど……いつもは、あんなにぴりぴりしてるわけじゃないんだ」
「やっぱり、助けが来ないことが……」
「うん。でも、それだけでもない」
「え?」
ジャンは、前を向いたまま答えた。
「実は昔、兄と慕っていた人が翼人に殺されたらしくてね。翼人の反乱が激しいアイトルフに行ったのが運の尽きだった」
「そう、だったんですか」
「それ以来、ずっと翼人を目の敵にしてるんだ。弓の腕を磨いたのも、半分はそのためらしい。ああいう性格だから、自分からは言わないけどね」
厳しい表情だったジャンが、ふっと笑みを浮かべた。
「でも、ヴァイクに出会って、たぶん何かが変わったんじゃないかって思うよ。彼の助太刀に、明らかに戸惑ってたみたいだし」
「素直な人なんですね」
「うん、嘘をつけないんだ。ま、それだけまっすぐで融通が利かないんだけど……」
すぐに戻らないと本当にやばいかもな、とジャンは眉間のしわをさらに深くした。