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もう二度と来るまいと思っていたこの場所。ひょんなことからたまたまここの上空を通りかかり、気がついたら降りてしまっていた。
――なぜ、自分はここにいるのだろう。
後悔なのか、未練なのか。自分でもよくわからなかったが、今こうしてここにいるということは、何か引かれるものがあったのだろう。
確かに好きな場所ではあった。見晴らしがよく、適度に風が吹く気持ちのいいところ。
すぐ近くが崖になっているから、彼女はいつも怖いと言っていた。そのたびに、わざと落としてやろうとしたものだった。
――俺も、あの頃のことを懐かしいと思えるようになったのか。
彼女が離れていったあの日からずっと、彼女自身のことも、その思い出もけっして考えないようにしてきた。
耐えられなかった。かつてを思い起こすたびに、憂いと怒りとあの失望が込み上げてくる。
――だが、俺は変わった。
こころの傷は時間が癒してくれるというのは本当だった。
いつの間にか、それらをひっくるめて〝過去のこと〟と思うようになった自分がいた。彼女と完全に別れ、荒れていたあの頃の自分からすれば信じられないことだった。
ここに来ることができたのもそのせいだと思えた。以前は無意識のうちにも、この辺に近づかないようにしていた。
一度再会し、けれど結局たもとを分かった彼女のその後のことは、本当に何も知らない。
くわしい理由は、最後まで聞かなかった。
自分が一緒にいることが彼女を苦しめることになるのを、わかりすぎるほどにわかってしまったから、何も言わずに別れるしかなかった。
翼人と、人間。
翼のある者と、ない者。
ジェイドが必要な者と、そうでない者。
同じようで違い、違うようで同じ。両者は、互いが最も近いようで最も遠い存在なのかもしれない。
――自分ではどうにもできなかった。
そう、何もできなかった。やりたくても不可能だったこともあるし、どうしてもやるわけにはいかなかったこともある。
しかし、それもただの言い訳にしかすぎなかった。今にして思えば、どうにかできた気もする。
あの頃の自分に対する正直な思いはなんだろう。
やはり、後悔だろうか。
しかしどこかで、無邪気で幸せだった昔の〝彼〟に憧れる気持ちもあった。愚かではあったが、何か大切なものをまだ残していた。
――今の俺の行動は、過去の自分と彼女に対する罪滅ぼしなのかもな。
どんなにあがいたところで、失われた過去は戻ってこない。
そんなことはわかっている。それでも、過去への思いが現在の自分を突き動かしていた。
――女々しいんだ、俺は。
すべてを忘れたようでいて、どうにもならない過去にこだわりつづけている。
彼女を、もう一度手に入れたいと願っている。
もはやどうにもならない、そしてどうすることもできないことだというのに。
そう考えると、すべてがばかばかしいことに思えてきた。
そう、自分自身の存在さえも。
その存在感の稀薄さをごまかすために、あれこれと忙しく行動している。
――だとしたら、自分に振り回されている者たちは哀れなものだ。
と、そんな無責任な感慨を覚えた。
ふと気がつくと、少し雲が出てきて風が強くなりはじめていた。早くここから立ち去れと急かしているのだろうか。背中を誰かに押されている気分だった。
ちょうどそのとき、上空に気配を感じた。
振り仰げば、そこには見知った顔の男がいた。相手もこちらに気づいたらしく、すぐに近くへと降りてきた。
「ここにいたのか」
副官のクラウスは、少し疲れた様子だった。マクシムに向けるその目には、恨めしげなものが込められている。
「どうだった?」
「どうだったじゃない。自分だけ休んでやがって。あれだけの準備をするほうの身にもなってみろ」
「そう怒るな。一応は手伝ったじゃないか」
「まったく……。まあ、あんたは、本番のために力を蓄えておいてくれればいいんだがな」
「準備はできたんだな?」
「ああ、問題ない。各地に散っていた隊も帝都に集結するよう手はずを整えておいた。あとは、我々本隊が動くだけだ」
「そうか」
マクシムは一度クラウスから視線を外すと、もう一度眼下に広がる光景に目を移した。
遠くを川が流れ、その水面がゆっくりときらめいている。その上を、数羽の鳥が飛んでいるようだった。
「――あんたでも、感傷にひたることがあるんだな」
「そう見えるか?」
クラウスは、はっきりと首を縦に振った。
「初めて弱い存在に見えた」
「弱い、か……そうなのかもしれん」
今までの自分は、みんなの前で強い人を演じていただけだった。
表面を取りつくろおうとしていただけだった。
きっと体の奥底にある中身はたいしたことはないのだろうと、自分でもそう思う。
「それでも、仲間たちはあんたに付いてきている。それはわかってるな?」
「ああ、彼らの命を無駄にするようなことは絶対にしない。たとえどんなことがあろうと、俺たちの目的を成就してみせるさ」
それは決意というより、確信に近いものであった。
『成功させる』ではない、『成功する』のだ。
また、そうでなければこれほど思いきった戦略を採ることはなかっただろう。失敗すれば、文字どおりすべてが終わる。そして、多くの命が散ってしまうことになりかねない。
マクシムは、ゆっくりとクラウスのほうに向き直った。
「俺よりも、お前のほうこそどうなんだ。初めは、人間と手を結ぶことを反対してたじゃないか」
「今だって人間なんて信用ならないと思ってる。だが、目標を達成するためには、時には自分の主観を捨てなければならない。そうじゃないか?」
「そうだな、そのとおりだ」
つまらない感傷にひたっている場合ではなかった。やるべきことがはっきりとしているのなら、余計なことは考えずにただ邁進すればいい。
「お前も前に言ってただろう。我々は、一度死んだはずの身なんだ。恐れるものは何もないし、嫌なことを避ける理由もない」
クラウスは、そう言い切った。
一切の余分な感情を排して突き進むだけだ。その先に何が待ち受けているのかはわからない。
明るい光ならばいいが、場合によっては暗い闇が待っていることもあるだろう。
だが、どうなるのか判然としない以上、自分が信じた道をひたすらに進むしかないではないか。
そうしておけば、たとえどんな結果になろうと後悔だけはせずに済む。
反対に、迷ったあげくに何もしないで、そのことをあとで悔やむようなことだけはしたくなかった。
「よくも悪くも、我々は引き返せないところまで来てしまったんだ」
「ああ。だったら、終わりが見えるまで飛びつづけるだけだ」
マクシムはにやりと笑った。
「そのほうが俺たちらしい」
「そうだな」
川の上にいた鳥が、見る間にそこから離れていく。どうやら、獲物を捕らえたらしかった。
残った一羽は何を思うのだろう。