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今日は風の強い日だ。空には重苦しい雲が立ち込め、太陽は朝から顔を出していない。日照不足に悩む南東部の民のことが心配だった。
カセル侯ゴトフリートはヴェストベルゲンにある城のバルコニーに出て、厳しい目で南の空を見つめていた。
そこに一切の弱さはなく、ただ強さのみがある。これまでいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたからこそ勝ち得た、怜悧なまでの鋭さであり、燃えるような激しさであった。
「ゴトフリート様」
背後からの声があった。
「こんなに風の強い中、ずっと外に出られていてはお体に障ります。部屋へお戻りください」
そう呼びかけたのは、副官のルイーゼであった。言葉のとおり心配げな表情で、暴れる髪を押さえながらゴトフリートの斜め後ろに控えている。
「どうしても、今のうちにこの景色を目に焼き付けておきたくてな」
と言い、もう一度前方に視線を戻す。部屋の中へ入ろうとする気配はなかった。
「気弱なことをおっしゃらないでください。また、いつでも見られるではありませんか」
「事が成就すれば、な」
――すなわち、失敗すれば生きては帰れない。
初めからそれを意識しているわけではけっしてなかった。だが覚悟を決めるためには、どうしてもこうせずにはいられなかった。
「ゴトフリート様……」
「案ずるな、ルイーゼ。私は弱気になったわけでも、迷いが出たわけでもない。ただ、決心をさらに強めたいだけなのだ」
「はい」
「ところで、例の件はどうなった?」
そう聞かれると、ルイーゼの秀麗な眉がことさらにひそめられた。
「未だに迷っているようです。何度催促しても明確な答えが返ってきません」
「まあ、そんなところだろうな」
以前から手は打ってあったのだが、決断力に乏しいというか上に立つ人間がだらしないというか、事ここに至ってさえまだ決めかねているようだ。しかし、それも相手の組織の性質を考えれば致し方のないことなのかもしれなかった。
「初めから当てにしていたわけではないが」
「確かに、〝彼ら〟に頼っているようでは計画の成功はおぼつかないでしょう」
「ルイーゼにかかっては連中も形なしだな」
豪快に笑ってから、ゴトフリートはふと表情を引きしめた。
「いよいよだ、ルイーゼ」
「はい」
「いよいよ、我々の計画を実行に移すときが来た。ここまで長かったが、ようやく報われる。ルイーゼ、覚悟はよいか」
「元より、閣下と身命をともにする所存でございます」
ルイーゼはあくまで毅然としていた。そこに不安や弱気は微塵もなく、ひとえに主への信頼があるのみであった。
しかしそこで初めて、ゴトフリートの顔に翳りが差した。何か告げたいのだが、どの言葉を選んでいいかわからない、そんな表情だった。
「閣下?」
「――ルイーゼ、今度の戦いは文字どおり命を賭けたものになる。何が起こるかわからないだけでなく、場合によってはみずからの手を汚さねばならぬこともあるだろう」
その目は真剣そのものだった。本気で相手のことを憂えているのがわかる。
「お前は本当にそれでいいのか? 元々、これは私が勝手に始めたことだ。お前までもが、うやむやのうちに巻き込まれる必要はない」
しばらく、ルイーゼは返事をしなかった。ひたすらまっすぐにゴトフリートの瞳を見つめ、微動だにしない。
「閣下」
口を開いたときには、少しだけその目に悲しみの色を浮かべていた。
「私は、以前から閣下にすべてを捧げると決め、これまで全力を尽くしてまいりました。もしあなた様でなければ、とっくの昔にここを去っていたでしょう」
「ルイーゼ……」
「お気づかいは無用に願います。私のことは、閣下の駒として使っていただければよいのです。それこそが、わたくしの望みなのですから」
ルイーゼの言葉はひたすらに真摯で、ゴトフリートの胸に深く深く突き刺さっていった。
できれば巻き込みたくない。だが、もはや引き返せないところまで来てしまった。
これだけ真正面から一切の迷いなくぶつかってこられると、まったくごまかしが効かない。はぐらかそうとすること自体、彼女に対してあまりにも失礼に思えた。
だから、口に出して言えたのは次の言葉だけだった。
「よいのか、ルイーゼ」
「はい」
ルイーゼは、穏やかな表情でしっかりとうなずいた。
「いよいよ、引くに引けなくなったな」
「初めから引くつもりなどないでしょうに」
「それはそうだ」
ゴトフリートは、もう一度笑った。
相変わらず、空を厚く雲が覆っている。しかしその雲間から、ほんのわずかに光が差し込んできた。