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つばさ  作者: takasho
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 夜明け前の森の空気はどうしてこう憂鬱なのだろう。

 昇らない太陽、差さない光。

 すべてがどこかぼやけていて、何もかもが重くたれ込めている。

 ――なぜ、ここにいるのだろう。

 と、素直な疑問がわき起こってくる。

 ――ああ、そうだ。ベアトリーチェたちと別れたんだった。

 今頃、神殿で休んでいるはずだ。どう考えても、自分たちは住む世界が違う。

 周りからは何も音がしない。風もないせいで、驚くほどの静寂に辺りは包まれていた。

 ――こんなときに限って静かになりやがる。

 今は、少しだけ騒がしくしてほしかった。こんなに何も音がしないと、自分のこころの声がはっきりと聞こえてきてしまう。

 耳を塞いでも、大声で叫んでも聞こえてくる内面のこだま。それを受け止められるほどには、自分のこころは準備ができていなかった。

 ――結局、あの女の言っていることはすべて正しかった。

 偉そうなことを遠慮会釈なくまっすぐにぶつけてきた女。

 あれだけ強く反発したのは、全部図星だったからだ。

 ――かっこ悪い。

 自分に都合の悪いことを指摘されて逆上するなんて、子供と同じではないか。それでも、ノーラの言葉は正論すぎてあまりにも痛かった。

 すべてが反論の余地のないほどに鋭かった。

 甘えている? だらしがない? そのとおりだ。

 あらゆることの元凶にあるのは自分の弱さ、愚かさだった。それをわかっていたようで、こころのどこかでけっして認めようとしなかった、認めたくなかった。

〝世界に絶望するくらいなら、あなたの手で変えてみせなさい〟

 胸に刻み込まれた短い言葉。それはこころの奥深くまで打ち込まれ、おそらく永遠に消えてくれそうにない。

 自分は、この世界が大嫌いだ。

 同族同士での殺し合いを宿命づけられ、生きていくために他者の心臓を喰らわなければならない。

 翼人だけが業を背負う、こんな理不尽で狂った世界はいっそのこと壊してしまいたかった。

 だが、本当に壊そうとしたことがあっただろうか。

 古い秩序を破壊し、新しいものを打ち立てようとしたことが一度でもあっただろうか。

〝あなたは嘆いているばかりで何もしてこなかったんでしょう!〟

 そうなんだ。結局、何もしていないから、これまでなんの変化もなくここまで来てしまった。その結果、この世界だけでなく自分自身にも絶望することになった。

 もし、失敗してもいいから何かをしようとしたなら、今ほど自分が嫌いになることはなかっただろう。

 ふと、同じ白い翼をした大きい背中の男のことを思い起こした。

 ――もしかして、マクシムは……

 変えようとしているのだろうか。この世界を、自分自身を。

 彼がなぜ、はぐれ翼人の集団を率いているのかは未だにわからない。

 だが、昔から豪放磊落(らいらく)な性格のように見えて、その実、かなり思慮深い男だった彼が、たいした目的もなくあんなことをするとはとても思えない。

 どこか遠くから、その彼の声が聞こえてきたような気がした。

〝生き延びろ、ヴァイク〟

 ――生き延びろ、か。

 そうか、何かを変えたかったら意地でも生きつづけなくてはならない。

 死んだら何も変えられない。本気で世界を変えようというなら、どんなに汚いことをしてでも、どんなに誇りを捨て去ってでも生き延びなければならない。

 マクシムは、その覚悟を決めたのかもしれない。それをできるだけの強さが、もうひとりの〝兄〟にはあった。

 ――じゃあ、俺はどうする?

 最終的には、そこに行き着く。

 他人の意見はわかった。では、自分はどうするのだ。同じ道を進むのか、それとも別の道を模索するのか。

 ――逃げるという手もあるな。

 駄目だ! 来た道は戻ることはできない。あさっての方向に走り出しても、いつかは転んでくたばるのがおちだ。

 ――自分で新しい道をつくるという手もある。

 これなのか? マクシムのあとを追うのでもなく他の道を探すのでもなく、自分でまったく新しい道をつくってしまう。

 それは困難を極めるだろう、多くの苦難が待ち受けているだろう。

 しかし、他のどんなことよりも、やりがいを感じるはずだ。

 他のどんな道よりも、自分で納得して進めるはずだ。

 苦労が多ければ多いほど、その道がいつか何かしらの目標に到達したとき、そこには大きな希望と喜びがあるはずだった。

 これなのかもしれない。否、そうとしか考えられない。

 自分は自分の道をつくるしかない。

 ――なぜなら、自分が理想とする新しい世界は、まだ他の誰も実現したことのないものだからだ。

 道がないというなら、己で切り開くしかない。

 途中まで誰かの道を利用させてもらうのもいいだろう。だが、いつかかならず自分の道をつくらねばならない。

 ただし、一度そうした道をつくってしまえば、誰かがそこを通ってきてくれるかもしれない。

 そしてその道を広げてくれたり、場合によっては道を進ませるのを手伝ってくれたりすることもあるかもしれない。

 そうした〝仲間〟が一人、二人と増え、やがて大きなひとつの流れとなれば、道をより早く、より広くつくることができるようになる。

 その流れは、ひとつではなくてもいい。樹木が幹から無数の枝を伸ばし、そこからさらに枝分かれしていくように、たとえ途中で道が分かれたとしてもそれはそれで意味がある。

 少しでも他の人に自分の道を活用してもらえるのなら、それで本望というものだ。

 仮に、道が間違っていたとしても恐れる必要はない。

 なぜなら、間違っていたということがわかったこと自体、ひとつの収穫だからだ。それを理解したならば、方向を変えるかまた新しい道をつくればいい。

 こころの中が、少しずつすっきりとしてきた。それと同時に森を包んでいた朝靄が薄らぎはじめ、日の出が間近になる。

 自分のなすべきことが、おぼろげながら見えてきた。

 ――といっても、なかなか決心はつかないんだけどな。

 俺は、やっぱり弱い男だ。

 情けなくて笑いが込み上げてくる。しかし、悔しいがノーラという女のおかげで自分は一歩か二歩、先へ進めたのだという感触がある。

 いい加減少し眠ろうかと思ったそのとき、森の奥に何かが動く気配があった。それは、均等な感覚で足音を立てながら近づいてくる。

 ――野生の獣じゃないな。

 ということは、翼人か人間だ。歩いているということは、後者の可能性が高い。

 内心、ベアトリーチェに来てほしいと思う。できるだけ早く謝っておきたかった。

 しかし現れたのは、今はあまり顔を見たくない人物だった。

「なんだ、あんたか」

「なんだとは何よ?」

 相手が、不機嫌そうに眉をひそめている。

 現れたのはノーラだった。手には大きめのかごを持っていた。

「まったく、男のくせに冴えない顔をしてるわね。でも、少しはましになったかな?」

「うるさい」

 ヴァイクが座っている枝の下のところまで来て、好き勝手なことをのたまう。せっかくこころのけじめが付いたところだというのに、不愉快なことこの上なかった。

「食べ物もってきたけど、いる?」

「いや、いい。翼人は、自分で食べる分くらいは自分でどうにかする」

 人間のようにいつも誰かに頼りっぱなしというわけではない、という言外の意味を込める。

 ノーラの眉間のしわがさらに深くなった。彼女が怨嗟の言葉を吐く前に、ヴァイクが先手を打った。

「そんな顔をしてると、しわが増えるぞ」

「なんですって?」

 昨日の仕返しのつもりなのか、いちいち突っかかってくるが、その言葉にはなぜか険がなかった。

「こいつめ、好き勝手に言ってくれちゃって。だいたいね、昨日私が言ったことは全部正しいでしょう?」

「正しすぎるから反発したくなることもあるんだ」

「ああ、そう」

 つっけんどんに返したノーラであったが、すぐに吹き出した。

「まあ、気持ちはわからなくもないけどね。昔、大神殿にいたことがあったんだけど、そこに自己主張ばっかりする奴がいて……しかも、なまじ言ってることが正しいもんだから、余計に腹が立った」

「あんたらしい」

「うるさい。まあ、それで大神殿を飛び出して、こんな辺鄙なところにある神殿に来たんだから、確かに私も物好きだけど。ただ、今にして思えば、彼は私のためを思って言ってくれてたのに、肝心の私が一番気づいてなかった。他の同僚の何人かはわかってたのに」

 それでも、ここシュテファーニへ来たことはけっして間違いではなかった。

 このすばらしい自然と素敵な仲間たちに出会えたおかげで、自分は内側から変わることができたと心底思う。今では、この神殿での出会いが自分にとってかけがえのない財産になっている。

「じゃあ、あんたが俺に偉そうに説教する権利なんてないってことじゃないか」

「あなたも言うわね」

 再びむっとしたノーラではあったが、もはやあえて反論することはしなかった。

「とにかく、ちょっと降りてきなさい。話があるから」

「なんなんだ、いったい……」

 文句を言いつつも、根は素直なヴァイクは枝からあっさりと飛び降りた。着地の瞬間、翼をうまく使って衝撃をやわらげる。

 待ちかまえていたノーラはヴァイクの目をじっと見つめ、次の瞬間、彼の顔をがしっと両手で掴まえた。

「目が真っ赤じゃない。寝てないんでしょう? ばかな子ね」

「ばかは余計だ。それに、お互い様だろう」

 未だに憎まれ口を叩くヴァイクを、充血した目のノーラは今度こそ叩く――振りをして、ぎゅっと抱きしめた。

「悩んでいいのよ、ヴァイク」

「…………」

「どうせなら、思いっきり悩んでしまいなさい。人は誰でも、悩みながら生きていくものなんだから」

 もしかしたら、悩んでいることこそが生きていることの証でもあるのかもしれない。

 思い悩むことを否定したところでどうにもならないし、なんの悩みもなく生きている人なんて存在しない。

 誰もが迷い、答えを求めて模索している。

「でも、すぐに答えを出そうとしなくてもいいの。――いいえ、むしろけっして急いでは駄目。本当に自分が納得するまでじっくりと考えなさい。安易に出した答えなんて、だいたい考えが浅いか、どこかずれてたりする。本人がわかった気になっていても、本当に何もわかってないことが多い」

「だが、俺は今すぐに明確な答えがほしい」

「でしょうね。誰だってそう。でも、考えてみなさいヴァイク」

 ノーラは、たくましい男の体を抱きしめる腕にさらに力を込めた。

「実際には、この世にはっきりとした答えが用意されている問題なんてほとんどないのよ。すべてのことが複雑で、すべてのことが根深い。だから表面上のことを知るだけじゃ、本当の答えには近づけないの。どんなことも、根気よくとことんまでやり込むしかない」

「――――」

「ヴァイク、あなたは自分が思っている以上に強い子だと思う」

「そんなことない」

「あるのよ。大半の人が単純な答えで満足したり、答えを求めるのをやめたりしてしまうのに、あなたはそれから逃げていない。それは、本当の強さがないとけっしてできないことよ」

 ノーラが顔を起こし、ヴァイクの目を見た。少し揺れているその瞳の奥に、ほのかだが美しい意志の光を感じたような気がした。

「ま、とにかくこれからも頑張りなさいってこと。あなたは自分の脚で立つことのできる人なんだから、いらいらしたからって女の子に当たるようなことをしては駄目よ」

「う、うるさいな」

 笑ってヴァイクの腕をぽんぽんと二度叩くと、ノーラはきびすを返した。

「さあ、ベアトリーチェたちが待ってるわよ。もう戻らないと」

「起きてるのか?」

「当然よ、あなたたちには行くべきところがあるんでしょう?」

 振り返りもせずそう言ったノーラのあとに従って、ヴァイクも神殿へ戻る道を急いだ。といっても、獣道のようなところだから、必然その歩みは遅いものとなる。

 悪路に苦労するノーラを見て、ヴァイクは意を決した。

「こっちのほうが早い」

「あっ」

 ノーラが気がついたときには、もう空へ舞い上がっていた。ヴァイクに抱きかかえられ、みるみるうちに高みへと昇っていく。

 あっという間に、さっきまで近くにあった大樹が点のように小さくなった。

「す、すごい……これが空を飛ぶということなのね」

 頬の横を強い風が横切り、長い髪を(なぶ)っていく。空をゆく雲が近くに感じられ、遠くデューペの町まではっきりと見渡せた。

 東の丘の向こうから、ちょうど朝日が顔を出そうとしていた。そこから広がる光の帯が、薄闇の中に沈んでいた周囲をいっせいに照らし出してゆく。

 その光景は、新たな生命の誕生を思わせた。この太陽、それに照らされる大地がそれぞれひとつの生命なのだと。

 しばらく、言葉もなかった。

 高空から見渡す、これまで知っていたようで知らなかった〝世界〟に、ただただ見とれていた。

「あんた、怖くないのか?」

「これだけ高いと、かえって大丈夫みたいね」

「たいしたもんだな」

 そのときになって、ノーラは肝心なことを思い出した。

「あ――あなた、そういえば翼の傷は大丈夫なの?」

 確か、右の翼を怪我していたはずだ。ベアトリーチェもそのようなことを言っていた。

 だが、ヴァイクは平然としたものだった。

「これくらいの距離なら問題ない」

 ノーラが見ると、実際に傷口はすでに完全に塞がっているようだった。さすがに羽は完全には再生していないようだが、それでも飛ぶには支障ないのだろう。

 それだったら、ということで、ノーラはこの思わぬ空の旅を満喫することにした。こんなことを経験できる人間はめったにいないはずだ。以前乗った飛行艇とも違う、不思議な体験だった。

 ――アリーセも、この光景を見たのかしら。

 きっと見たのだろう。そして、今の自分なんかが想像もできないほどの幸せを感じていたに違いない。相手の男と同じものを見て、同じことを感じていたはずだ。

「ねえ、ヴァイク。マクシムってどんな人?」

「身勝手な男だ」

「あなたが言うのなら相当なのね」

「どういう意味だ?」

 ノーラは笑うだけで、あえて何も答えない。ヴァイクは、いつもの憮然とした表情になった。

 しかし、ふとノーラが真面目な顔になって独り言のようにつぶやいた。

「妹が好きになった男なんだから、間違いがあるはずがなかったんだけど」

 アリーセは元々、奥手すぎるほどに奥手な子だった。それだけに、よりにもよってついに彼女が選んだ相手が翼人であったことに、家族である自分たちは尋常ではない驚きを覚えたものだ。

 しかし、それゆえにこそ妹の判断を信じてあげるべきだった。一時の気の迷いなどと決めつけることだけは、けっしてすべきではなかった。

 それもこれも、もう後の祭りだ。もはや、失われた人と失われた時間が帰ってくることはない。

「ヴァイク、あなたたちはかならず幸せになってね。たとえ、どんな障害があったとしても」

「なんのことだ?」

 さっぱり意味がのみ込めないといった様子で、ヴァイクがとぼけた表情をしている。

 ――これは、ベアトリーチェも苦労しそうね。

 内心、ノーラは苦笑した。

 空での移動は驚くほど早い。すぐにシュテファーニ神殿の上まで来て、ヴァイクは近くの空き地へと降りていった。

 ノーラは名残惜しい気が猛烈にしたが、彼の翼がまだ万全でないことを思えば無理を言うわけにもいかなかった。

 地に足をつけても、どこかふわふわとした感触が残っている。空を舞うことは、それくらい人間にとっては異質なものであった。

 その奇妙な感覚をひとり楽しんでいると、斜め前からベアトリーチェとジャンが現れた。二人とも、空にいたこちらのことに気づいていたようだ。

「ノーラ様」

「ああ、ベアトリーチェ。見てた?」

「ええ、すごく気持ちよさそうでした」

 うらやましげな目をノーラを向けている。

 ノーラは小首をかしげた。

「でも、あなたはいつも空へ連れてってもらってるんじゃないの?」

「いいえ、私は一度しかありませんけど」

「あら、そうなの」

 と言って、二人がヴァイクのほうを見る。すると、彼はあからさまに顔をしかめた。

「俺は乗り物なんかじゃない。そうそう連れていけるか」

 つっけんどんに答える。しかし、もう少し言葉を選ぶべきだったのかもしれない。

 ノーラとベアトリーチェは女性特有の同調性を発揮して、不遜なことを言う男を共通の敵として認識したようだった。

「難しくて(かた)い男なのね」

「その男をここまで連れて戻ってきたノーラ様もすごいと思います」

「ふふ、自慢していいのかしら」

 かなり好き勝手なことを言ってくれている。ジャンは笑っているが、ヴァイクは反論の余地すら与えてもらえなかった。

「さて」

 一度伸びをしてから、ノーラが表情を改めた。

「そろそろ出発しないとね。できるだけ早く帝都に着いたほうがいいんでしょう?」

「ええ、そうですね……」

 そう返事をするものの、ベアトリーチェの顔は冴えなかった。

 その理由は、ノーラにはわかっていた。昨日の夜、すでに相談を受けていた。

「今は、とにかく迷わずに進みなさい。余計なことを考えている暇はないはずよ」

「――はい」

「帝都に着いてから先のことを考えたってしょうがないじゃない。なるようにしかならないんだから」

 それでも気になってしまうのだが、ノーラの言うとおりでもあった。

 悩んでどうにかなることならば大いに悩めばいいが、そうでないのなら自身をいたずらに苦しめてしまうだけだ。そんなことに時間と労力を費やすより、やるべきことに集中したほうがよほど有意義であった。

「あの書状は持ってきた?」

「はい、しっかりと」

「あの書状?」

 なんのことかわからず、ヴァイクが二人に問うた。

「ああ、大神殿への紹介状のことよ。オイゲーンという方もそこに知り合いがいるみたいだけど、私が紹介すればより確実だと思って」

「そういえば、大神殿にいたことがあるとか言ってたな」

「そうなんですか?」

 ベアトリーチェの問いに、ノーラは首を縦に振った。

「一時期だけどね。でも、いろいろと嫌なことがあって飛び出してきちゃった」

 その口ぶりはレラーティアの神殿長のものというよりも、まるでいたずらを見つかった少女のようだった。

「まあ、誰にだっていろいろあるってことよ。悩んでるのは自分だけって思わないこと。ねえ、ジャン」

「え!? ええ、はい。そうですね」

 突然呼びかけられて驚いたジャンが、おざなりな返事をする。

 そんな彼を、ノーラは白い目で見た。

「あなたは悩みがなさそうだけどね」

「そんなぁ」

「冗談よ」

 ノーラが闊達に笑った。

 ジャンよりもノーラのほうがよほど悩みがないように見えるが、と思ったヴァイクではあったが、今は何も言わないでおいた。

「じゃあ、ノーラ様。そろそろ」

「そうね。いつまでも話し込んでいたら、どんどん名残惜しくなっちゃう。気をつけていってらっしゃい」

「はい、ノーラ様もお元気で」

 一度抱きしめ合ってから、ゆっくりと背を向けた。

 もう振り返らない。そうすると、どうしてもまたノーラに甘えてしまいそうな気がするから。

「ああ、そうそう。ヴァイクくんは、もっと周りに気を使うように。悩んで自分の殻にこもらないこと」

「最後までうるさい女だな……」

「何か言った!?」

「い、いや」

 思わずこころの内の声をつぶやいてしまったヴァイクが、そそくさと逃げるようにして去っていく。そのあとを、二人が笑いながら追った。

 その姿が見えなくなるまで、ノーラはずっと見送った。

 ――あんなにすばらしい三人が悩まなくてはならない世の中なんて。

 世の理不尽さと、現状のおかしさを思う。

 彼らのような人々が苦しみ、俗物が得をするような世界なら、確かにヴァイクの言うとおり、いっそのこと壊してしまったほうがいいのかもしれない。

 ――ばかね、私は。

 また昔のようなことを考えていた自分に失笑する。どうもこの過激な性格は、一生直りそうもない。

 ――大丈夫、あの子たちだったら。

 そのそれぞれが、常人とは異なる何か重いものを背負っているようではあったが、なぜか彼らなら、それがもたらすであろう大きな壁を乗り越えられるような確信もあった。

 もしかしたら、ひとりでは無理かもしれない。だが、それぞれが力を合わせれば、かならずいつか克服できる。そんないい予感もあった。

「レラーティアの神々よ、どうか彼らに恵みと祝福を」

 ノーラが祈る。レラーティア教への信仰と同時に、彼らの可能性をも信じて。

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