*
だが、最悪の空中遊泳はすぐに終わることになった。
「何をしている!」
強い力に引き寄せられ、たくましい体に包まれる。気がついたときにはもう、市壁の安全なところに降ろされていた。
しなやかな筋肉に覆われた腕と濃紺の服が顔の近くから離れていく。
「大丈夫か?」
聞いたことのある声。
見たことのある肌。
そして、見まごうはずもない純白の翼。
「は、放して!」
ベアトリーチェは、男の手を無理やり振り払って後ずさりした。
離れてみて、男が困ったような驚いたような顔をしているのがわかる。
しかし、どうしてもベアトリーチェには許せなかった。
――なぜ、こんなひどいことをしたのか。
――なぜ、無実の私たちが虐げられなければならないのか。
「あなたたちが来なければ、あなたたちが|いなければ|(、、)、こんなことにはならなかったのに!」
ベアトリーチェからしてみれば、それはただ口を突いて出ただけの言葉だった。
しかし、その効果は予想以上のものがあった。男の顔から困惑の色が消え、すうっと冷めた表情へと変化していく。
「……だろうな。人間にとって翼人なんかどうでもいい存在だ。もっとも、翼人にとっても人間なんて興味ない――はずだったんだけどな」
そう言いながら、町の空のほうを見上げた。
未だ多くの翼人たちがたむろし、地上に這いつくばる人間たちを嬉々として追い回している。それを見る男の目は、どこか軽蔑の色が浮かんでいた。
しかし今のベアトリーチェに、そのことに気づく余裕などなかった。
「何を|他人事(ひとごと)みたいに! あなたたちが……翼人が、すべてを引き起こしたんじゃない! そんなに人間を狩るのが楽しの!?」
「俺はあの連中とは違う。奴らは、翼人の部族から追放された〝はぐれ翼人〟どもだ」
「え……?」
「よく見てみろ。翼の色がそれぞれが違うだろう? 本来、こんなことは有り得ないことなんだ。部族ごとに翼の色も肌の色も普通は統一されている」
たとえばヴォルグ族なら紅、クウィン族なら白と決まっている。基本的に翼人の世界では部族間の婚姻はないので、よその血が混ざることはめったになかった。
「じゃ、じゃあ、どうしてあの翼人たちは人間の町を?」
「俺にもわからん」
男の顔に初めて疲れのようなものが見えた。
「一部のとち狂った連中が人間を狩ることはあっても、はぐれ翼人の集団が人間の集落を襲うなんて聞いたこともない。それどころか、これほど大規模な集団になっていることそのものが信じがたいことだ。たいていは徒党を組んでも小規模なままで、縄張りを維持しようとする部族に殲滅されるのがおちだからな」
そうした常識が今日、完全に覆されてしまった。
「奴らはおそろしく統率が取れている。もしかしたら、普通の部族以上かもしれない。それに……」
気になるのは、炎を利用していることだ。翼人の集団戦は個々が連動して動く戦術的な面は高度に発達しているものの、基本的に剣以外の武器を使うことを極端に嫌っている。
人間のように弓で矢を射ることもなければ、|戦車(チャリオット)や馬を使うことももちろんない。そういったことを心底、姑息な手段と考えているからだ。
「だが、この町を襲っている連中はあえて火と油を巧みに使って、効率的に人間を狩っている。こんなことは、たとえはぐれ翼人でも普通は考えられないことだった」
白翼の男は、女神官のほうを振り返った。
「とにかく、ここから離れるんだ。俺にも奴らの目的がわからない。誰がいつ襲われてもおかしくはない」
――俺自身が一番危険かもしれない。
どうやら今のところは、仲間のひとりだと勘違いしてくれているようだったが、これだけ|人間的な統率|(、、)が取れているだけに気づかれるのは時間の問題だ。
「とりあえず、お前を安全なところまで連れてってやる。そのあとは、自分でどうにかするんだな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
いきなりこちらを抱え上げようとした男を、ベアトリーチェはあわてて押しとどめた。
「なんだ?」
「行かなければならないところがあるんです。親友の|家(うち)へ……。その母親が置き去りされたままかもしれないんです」
ネリーは翼人に連れ去られてしまったが、彼女がまだあそこにいたということは母が取り残されているためかもしれない。もしそうならば、せめて母のほうをネリーに代わって助け、彼女の気持ちに報いてあげたかった。
しかし、男は眉をひそめて冷たく言い放った。
「ばかなことを言うな。状況がわかってるのか? あのはぐれ翼人どもは、明らかに人間を狙っている。いくら俺でもお前を守りながらじゃ、集団で襲われたらひとたまりもない。ざっと見ただけだが、相手の中にはそれなりの手練れも混ざっている」
力量の面でも、ただのはぐれ翼人の徒党というわけではなさそうだった。
「それに、|町中(まちなか)のほうをよく見てみろ」
言われて、ベアトリーチェは周囲を見渡した。それまでネリーの姿を追ってばかりいたせいで、町が実際どんな様子になっているのかあまり把握していなかった。
「え……」
市壁の内側を見た瞬間、完全に言葉を失った。
すべてが赤く燃えていた。
炎の勢いは弱まるどころか、先ほどとは比較にならないほどに火の手が四方八方へ広がっている。
最も燃え盛っているのは人家の屋根だ。この辺りは貧しい人たちの住居が多く、費用のかかる瓦を使わず|葦(あし)で|葺(ふ)いただけのものばかりだった。そこへ炎が移れば、もはや止めようがない。
各所にある倉庫の窓や扉からは、猛烈な勢いで炎が噴き出している。
あれは、貯蔵してある食糧が燃えているのだ。乾燥した穀物は、格好の火種だった。皮肉にも、あの翼人たちが食糧に見向きもしなかったことで、それらが丸ごと残されたままになっていたのが|徒(あだ)となった。
ベアトリーチェの隣に立つ男は、冷静に言った。
「この火事さえも狙ってやったというなら、この戦術を考えた奴はおそろしく頭の切れる男だ。並の人物では、とてもここまで予測しておくことはできない」
「…………」
「わかったか? あの炎じゃ、翼人がどうこう以前に近づくことも難しい。それに炎は人間だけじゃない、翼人にとっても大敵なんだ。火のあるところには、かならず空気の乱れがあるからな」
普通、炎の周りでは上昇気流が起きる。翼人はそれにうまく乗って高くまで飛び上がるために、部族の儀式として|櫓(やぐら)を組んで大きな炎を生み出す〝火祭り〟をすることもあった。
「これだけ大きな火事になると、複数の上昇気流が混ざり合って乱気流が起きてしまっている。それは、空を飛ぶ存在にとって最悪のものなんだ。どんなに翼をはためかせても、一度それにのまれてしまったらどうしようもない。無理やりに上空まで飛ばされるか、壁や地面に叩きつけられるかのどちらかだ」
ただ、あの翼人たちはあえてそれをやった。よほどの自信があるのか、それとも翼人の禁忌を無視させるほどの目的があるのか、今のところは判断のしようがなかった。
「あきらめろ。今は自分のことを考えるんだ」
それが賢明だった。他でもない、彼女自身のために。
しかし、女神官は反駁した。
「あなたなら、あきらめられるんですか」
「なんだと?」
「あなたなら、どうしても救いたい人がもしかしたら手の届く範囲にいるかもしれないのに、自分から可能性を捨てられるんですか」
「――――」
「私がわがままを言っていることはわかっています。でも、我が身のかわいさにやるべきことを見誤るような真似だけはしたくないんです! お願いです、行かせてください。ここで行かなければ、自分で自分を許せなくなってしまいます」
お互いの視線が|絡(から)まり合う。どちらもけっして瞳を|逸(そ)らそうとはしなかった。
しばらくして、男は深く嘆息した。
「……わかった。そのかわり俺がお前の願いを聞いてやるんだから、次はお前が俺の指示に従え」
「ありがとうございます、こんな――」
「礼はいい。それより、その目的の家はどこにあるんだ?」
「ここからなら、それほど離れていません。あの中くらいの塔が見える方向……」
と指さした方角の現状を改めて見て、ベアトリーチェは息をのんだ。
辺り一帯があたかもひとつの炎に包まれているかのように火の手が強くなっている。市壁の上からならネリーの家の屋根が視認できるはずだったが、炎と煙に遮られてぼんやりとさえ見えない。
さすがに躊躇していると、男がなんのためらいもなくこちらを抱え上げた。
「え? ちょ、ちょっと……」
「動くな。下に落ちても知らんぞ」
「わ、私は自分で行きますから」
「ばかを言うな。こんなところを女ひとりで行ったら、それこそ自殺行為だ」
と言っている間に、男は飛び上がった。
完全に浮いた瞬間、ベアトリーチェのこころに一瞬恐怖がよぎったが、すぐに空を飛ぶ不思議な感覚に新鮮な驚きが走った。
――そういえば、私――
男の人にしっかりと抱きかかえられている。
異性にこんなに接近したのも初めてならば、抱き上げられたのもまったく初めての経験だ。
改めて自分の状況を確認して、頬が熱くなってきた。それは、けっして炎のせいばかりではなかった。
「お前、意外と軽いな」
「お、重さの話はいいんです!」
無神経な言葉に怒りを覚えると同時に興ざめしてしまうが、それでも顔に感じる熱はまだまだ強い。
それは、男があえてやや低い位置を飛んでいるせいでもあった。炎にあぶられて火傷しそうなほど熱く、煙にまかれて息が詰まるほど苦しく、乱気流にあおられてややもすると落下しそうになるほど激しく揺れる。
――いったん高いところまで上がって、目的地の上空まで行ってから急降下したほうがいいんだろうけどな。
男は、翼をはためかせながら周囲を見回した。
――上へ行けば行くほど、今度はあのはぐれ翼人たちに見つかりやすくなる。
幸か不幸か、その翼人たちも炎と煙のせいで低い位置まで来れないでいる。低すぎず高すぎずという中くらいの高さを飛ぶのが、いろいろな面で最も安全なはずだった。
しかし、
――苦しい。
心中で舌打ちしてしまう。炎に羽を焼かれても、煙にむせ返ってもそれほど気にはならない。
しかし、乱れた気流だけは別だ。先ほどから必死になって体勢を立て直しつつ飛んでいるものの、一向に安定しない。
自分ひとりならこれくれくらいたいした問題ではないのだが、軽い女とはいえ大人ひとりを抱えながらではかなり厳しかった。
「ベアトリーチェ、くわしい位置を教えてくれ!」
「は、はい」
言われて、急いで今どの位置まで来たのか確認しようと下のほうを見たが、ふと疑問が頭をよぎった。
「あの、どうして私の名前を?」
「あのごつい男が呼んでいただろう! それより、早く位置を!」
「わ、わかりました!」
目印となる塔が、いつの間にかすぐそこにまで迫っていた。
「この辺です! ここで降ろしてください」
言ったとたん、すっと急降下していく。
地面にぶつかると思って目をつむった瞬間、翼人の彼が翼を大きく一度、二度とはためかせ、驚くほどふわりと下に舞い降りた。
そこは奇しくも、ベアトリーチェがつい先ほど連れ去られるネリーを見つけた|通り(シュトラーセ)のところだった。さすがに炎の熱気はすさまじいが煙はそれほどでもなく、なんとか立っていられるだけの余裕はあった。
「ありがとうございました、あの……」
「ああ、ヴァイクだ。俺の名はヴァイクという」
自分の名前が好きではないのか、ややつっけんどんに男が答えた。
そのヴァイクは、なぜか翼を大きく広げたままだった。余分な熱を逃がしているのかもしれないと思い、ベアトリーチェは気にせず、すぐにネリーの自宅へ向かった。
「建物はなんとか無事みたい……」
家は一部が崩れてしまっているものの、まだ原形を留めていた。さすが、父親と兄が石工職人のことだけはある。家の造りは他のものよりも丈夫そうだ。
裏手のほうから、ちらちらと火の影が見え隠れしているが、炎の勢いは周囲の他の家屋に比べれば遥かにましだった。
しかし、予断を許さぬ状況であることに変わりはない。ベアトリーチェは、おもむろに扉を開けようとした。
「そこに入っちゃ駄目だ!」
鋭い声で一喝されたのは、まさに取っ手に触れようとしたそのときだった。
ヴァイクの声ではない。彼も、驚いた様子で通りの反対側に目を向けた。
彼のものよりも、ずっと聞き慣れた声――
「テオさん!? どうしてこんなところに!?」
「待て! 上だ!」
「え?」
その声に反応したのは驚きで足を止めたベアトリーチェではなく、ヴァイクのほうだった。
振り向きざま鞘から剣を抜き放ち、上方へ一気に斬り上げた。
剣と剣とがぶつかり合う甲高い音。次の瞬間には、ヴァイクと|鈍色(にびいろ)の剣を握った翼人の男は互いに距離をとっていた。
上空に留まったままの男が、薄い唇を開いた。
「お前、所属する隊はどこだ?」
「それを聞く前に斬りつけてくるとは、いい根性してるな」
「質問に答えろ」
「なんで、貴様に言う必要がある」
「なるほど。ということは、お前は|ただの|(、、)はぐれ翼人か」
言うなり、翼を一度だけはためかせて突進してきた。
ヴァイクはあえてその勢いに逆らわず、後方へ跳躍しながら相手の剣を受け止めた。
「〝|極光(アウローラ)〟の長の副官たるこの私を知らないとは、それだけで敵とするに十分な証拠だ!」
「副官ね……まるで人間みたいだな」
皮肉を言いながらもヴァイクは相手の力を巧みに受け流し、側面に回り込んだ。
しかし、そこは相手もたいしたもので、すぐさま体の向きを変えて正対してくる。
「それに所属、所属か。そんなもの、初めから決まってる」
「どうせだから、聞いておいてやる」
「俺の所属は――」
剣の鍔が、かちゃりと鳴った。
「誇り高きクウィン族だ!」
言うなり、猛然と突進する。先ほど見せた相手の突撃など比ではない。
しかし、対する男はそのことよりも、ヴァイクの発した言葉にこそ強い衝撃を受けた。
その一瞬の隙によって、後手に回った。
ヴァイクが次から次へと|剣撃(けんげき)を浴びせかけ、右、左、上、下、と男は防御するので手一杯になる。
「まさか、|まだ|(、、)クウィン族の生き残りがいたとはな……」
「ほとんど助からなかったさ! ヴォルグ族が卑劣な手段を使ったせいでな!」
「――お前たちも奇襲を受けたのか」
「そうだ! 奴らは掟を破り、俺たちから何もかも奪い去った!」
翼人の部族同士の戦いでは、昼間に選び抜かれた男の戦士たちによって互いの了解の上で行うことが、各部族共通の掟となっていた。
だが、ヴォルグ族の連中はあっさりとそれを破った。
――忘れるわけがない、あの日の夜のことを。
戦士と呼ぶに値しない卑怯者の集団は、我が部族に突然の襲撃を敢行した。それだけではない、集落を直接襲い、女子供を盾に取ってこちらを脅迫した。
――そのせいで部族の勇敢な戦士たちは――俺の兄さんも含めて何もできなかった。
挙げ句の果てに周囲一体に火を放って、こちらを皆殺しにしようとさえした。
あのときの光景は、今でも鮮烈さを残して目に焼きついている。周囲の匂い、音さえも、油断すれば甦り、いっかな消えてくれない。
そのことを思い起こすうちにこころの底から怒りと憎しみの炎が巻き起こり、全身に爆発的な力を与えた。
「俺は、けっして卑怯者を許さない!」
「くっ……!」
ヴァイクの力は圧倒的だった。
細かい技量では、ひょっとすると相手の男のほうが上だったかもしれない。しかし、今のヴァイクには、能力がどうこうといった理屈を超える何かがあった。
「大方、貴様らもヴォルグ族とかかわりがあるんだろう。やり口が似ているからな」
「違う! 我々は――」
男は反論しようとしたものの、もはやその余裕すらない。それほどまでに、目の前の男の技量は圧倒的であった。
――このままではいかん。
と、男は相手を突き放して強引に距離をとった。若い白翼の男も飛ばしすぎたのか、肩で息をして、無理に距離を詰めてくる気配はなかった。
「お前は勘違いしている。我々はむしろ、ヴォルグ族とは対極に位置する存在なんだ。よければ、お前も――」
「黙れ!」
言葉の途中で、何かが飛び|来(きた)った。
剣だ。
あの白い翼の男は信じがたいことに、迷うことなく己の剣を投げつけてきた。
剣は、翼人にとって自身の命と同等の伴侶である。それを投げるとは常軌を逸しているが、驚嘆すべきはその速さと正確さであった。
「!」
反射的になんとかして刀身の付け根の部分でそれを弾き返すが、すでに距離を詰めていたヴァイクは剣をすぐに受け止め、次の攻撃に移った。
――こ、この技は……
自分のよく知る人物が得意とするものだ。そして、その彼も目の前の男と同じクウィン族。
ということは、
――今は、戦うべきときではない。
そう判断した男は、上空高くへと一気に後退した。
「逃げるのか!」
「そのとおり、今回は逃げさせてもらう。だが、考えておいてほしい。本当に我々は、ヴォルグ族のような連中をこそ倒そうとしているんだ。この狂った翼人の世界を、この世界全体を、本気で変えたいと願っている」
男の目に欺瞞の色はなく、迷いのない真剣な光が宿っていた。
ヴァイクは黙るしかなかった。
「私の名はクラウス。けっして死ぬんじゃないぞ、若い翼人よ。生き残らねば、どんな理想を持っていても、すべては虚しくなるだけだ」
言いざま、男は背を向けて飛び去っていく。
「待て!」
ヴァイクは急ぎ、あとを追おうとした。
あの男をここで逃がしてはいけない、そんな強烈な予感があった。
「ヴァイクさん!」
「ベアトリーチェ……」
女の声に呼び止められて下を見ると、あの人間の女が不安げな表情でこちらを仰ぎ見ていた。
遠ざかっていくクラウスの姿を不満そうに一瞥してから、ヴァイクは彼女の前に下り立った。
「ヴァイクさん、大丈夫でしたか?」
「ああ、俺は問題ない。それより――」
心配そうに顔を覗き込んでくるベアトリーチェに答えてから、ヴァイクは助け船を出してくれた男の声がしたほうに向き直った。
「そうだ、テオさん!」
通りの反対側に走ると、そこには馬車の御者をしていたカトリーネの家の使用人、テオが倒れていた。
「よかった、ベアトリーチェさん。無事でしたか」
「どうしたんですか、テオさん!?」
「わしよりお嬢様を! どこかに倒れてるはずなんです」
「そんな!」
「市門のところで会ったんですが、どうしても町の中へ戻ると言い出されて……。ネリーさんが心配だからと一緒にここまでは来たんですが……」
「――建物が崩れたんですね」
「ええ。わしは、不覚にも気を失ってしまったようで……」
はっとしたときにはもう、近くにカトリーネの姿はなかった。
「どこに……」
ベアトリーチェは、はやるこころを抑えきれずに周囲を急いで見渡した。
しかし、カトリーネどころか人の姿はほとんどない。
「それより、おっさんも足を挟んでるじゃないか」
「――ああ、すまないな、兄ちゃん」
よく見れば、テオの右足の上には瓦礫が積み重なっていた。ベアトリーチェがカトリーネを捜している間に、ヴァイクはそれをどけてやった。
「まさか……」
その様子を見たベアトリーチェが、ふと思いついた。
「まさか、この下に……」
周囲では瓦礫がいくつも山となり、通りに面したところだけでもそれなりの数に上る。
――まさか、まさか。
ベアトリーチェは嫌な予感に突き動かされるように、一番手近にあったその山を崩しはじめた。ヴァイクと足を怪我しているテオも彼女の意図を察して、無言のままそれを手伝った。
瓦礫をどけていく作業は、それほど大変なものではなかった。この町の建物の大半が煉瓦でつくられているからだが、それだけにいったん崩れだすと脆い。
現在の町の惨状を見るにつけ、翼人に直接襲われた被害よりも、建物の倒壊によるそれのほうがよっぽどか大きいのではないかとさえ思えてくる。
この町は歴史が古く、今や伝説となっている六百年前のヴァーレンブルク戦役に名前が出てくるほどだ。老朽化した家屋が多いことが以前から問題になっており、中には土台が少なくとも三百年は経過したものさえあった。
この町は、元々沼地だったところを埋め立てて造られたから、長い間に地面が沈み込んで傾いてしまっている家も多かった。町の象徴である四つの塔も、そのうち三つがすでに傾いていると言われている。
元より、他の町よりも建物が崩れやすかった。まさか翼人の襲撃によって、それを思い知らされることになろうとは。
「待て、ベアトリーチェ」
ヴァイクの声に、ベアトリーチェとテオがぴたりと手を止めた。
「今、煉瓦が少し動いたような気がする。ここからは慎重にやるんだ」
二人はうなずき、今度はひとつずつゆっくりとどけていった。
期待と不安が交錯する。生きていてくれるのならうれしいが、この瓦礫の下にいるのでは無事では済まない。
もしカトリーネだったら、生きていたとしても大怪我を負っている。
もし違っていたら、怪我は負ってはいないかもしれないが消息がわからなくなる。
――どちらにしろ、最悪の事態は確定している。
そして、正解は前者だった。
「カトリーネ!」
瓦礫の隙間から見えたのは、彼女の顔だった。煉瓦の直撃を受けたのか、額や頬がはれてしまっているが見まごうはずもない。
さらに急いで邪魔な煉瓦を取り除いたところで、ヴァイクがゆっくりとカトリーネを引きずり出した。
「カトリーネ! カトリーネ!」
「お嬢様、申し訳ねえ……」
二人が呼びかけるが、まるで反応がない。絶望感にも似た嫌な予感が増していく。
しかし黒い予兆だけは、ヴァイクが打ち消した。
「大丈夫、まだ息はある。頭をだいぶ打ったようだがな」
「すぐにお嬢様を安全なところに運ばねえと」
「町の外へ行くのか?」
「ああ、外に別荘がある。森の中にあるから上からでも見つかりにくいし、それに――」
テオは不敵に笑った。
「あそこなら、守りを固めるのに最適だ」
「でも、どうやってそこまで行く? あんたも足が……」
「なあに、これくらい怪我のうちには入らん。戦場ではな、生きていればそれで十分なんだ」
そう言いながら、カトリーネを軽々と抱え上げてみせた。左足はやはり万全には程遠いようだが、立って歩けるのなら本人の言うとおり大きな問題はないようだった。
「じゃあ、ここでお別れだな。俺は、こっちの女を安全なところまで連れていく」
「ああ、そうしてやってくれ。さすがのわしでも、二人を守りながらでは逃げきれん」
「ちょ、ちょっと待ってください」
そこで口を挟んだのはベアトリーチェだった。
「カトリーネが今は大変な状態なんです。先にヴァイクさんに運んでもらったほうがいいんじゃ……」
「俺では、別荘とやらの位置がわからん」
「ああ、そうか……。じゃあ、隣のベルンシュタットまで一気に行くのはどうです? 町の中を逃げながら別荘へ向かうより、もしかしたら早いかもしれません」
「それも無理だ」
「どうして……?」
「俺は人間の町の位置をよく知らない。ここへ来たのも、あの連中を追ってきてたまたま着いただけだ。大まかな方向を決めただけで向かうのはいちかばちかの賭けになる。仮に運よくたどり着けたとしても、そこでどうすればいいのか俺にはわからない」
「それなら、外でいったん落ち合うというのはどうです? そうですね、神殿などで」
「ああ、それがいいかもしれねえ。別荘も、神殿と同じ東の森にあるんです」
神殿の丘の背後には、それなりに大きな森が広がっていた。ローデの森と呼ばれている。
ベアトリーチェも、いったんは神殿まで戻るつもりだったのでちょうどよかった。町の近くだから、ヴァイクにもすぐわかるはずだ。
そして、彼もその案にうなずいた。
「そうだな、歩ける奴が歩いていったほうがいい。それに、こいつのほうが軽そうだし」
「よ、余計なお世話です!」
ベアトリーチェが何を怒っているのかよくわからないが、ともかくヴァイクはテオからカトリーネを静かに受け取った。
「じゃあ、神殿とやらで会おう」
「ああ、お嬢様を頼んだぜ」
「そっちこそ、あの連中にやられてベアトリーチェを死なせるなよ」
「そんなことさせるか。わしを見くびるなよ」
憎まれ口をたたき合ってから、ヴァイクは翼を大きく広げた。
「――そうだ、ひとつ聞いておきたいことがある」
「なんだ?」
「なぜ、あのとき俺の背後の敵を教えてくれたんだ? 俺は、あんたらの敵だったかもしれないのに」
クラウスとかいう翼人に襲いかかられたとき、テオの一声がなければ間に合わなかったかもしれない。
だが、あの時点ではこちらが敵か味方かはまだわからなかったはずだ。否、むしろ背中にある翼を見て敵だと思うのが自然だろう。
「なんだ、そんなことか」
しかし、テオはあっさりと答えた。
「目を見ればわかるさ。傭兵の勘をばかにしちゃいけねえ」
その答えで満足したのか、ヴァイクは今度こそ飛び上がっていった。
ベアトリーチェは、遠くなっていく背中を不安げに見つめた。
――ヴァイクもカトリーネも無事だといいけど――
と、急に全身が熱気を感じはじめた。また火の手が強くなってきたのかと周囲を見回してみるが、むしろ炎の勢いはやや弱まりつつあった。
だったら、なぜ――と考えようとした瞬間、ふっとヴァイクの姿が思い出された。
彼は、地上に下りてからもずっと翼をたたまずにいた。自分はあまり気にしていなかったが、彼は翼を使って熱気と火の粉からこちらを守ってくれていたのではないか。
「どうして、そこまで……」
どうしても、あとで理由を聞いてみたかった。
彼の厚意を無にしないためにも、自分は自分のやるべきことをやらなければならない。それは、すぐにテオと一緒に自分たちも神殿へ向かうことだ。
ただ、その前にやっておくべきことがあった。そもそもここへは、ネリーの母を助け出すために来た。
「待ちなさい、ベアトリーチェさん!」
歩きだしたベアトリーチェを鋭く止める声があった。
「テオさん……?」
「ネリーさんの家なら、もう手遅れだ。あきらめたほうがいい」
「どうしてですか!?」
「もう、わしらが確認したんですよ。わしとお嬢様が瓦礫の下敷きになったのは、それで帰ろうとしたときのことだったんです。お嬢様もベアトリーチェさんと同じように、ネリーさんとそのご母堂のことを案じてらっしゃったんです。わしは反対したんですが、どうしてもと言うんでここまで一緒に来たんですが……」
「――――」
「あすこの家に近づこうとしたとき、扉がひとりでに開いて、とんでもねえ炎が噴き出してきたんです」
幸い、すぐ手前で炎の舌が消えたからよかったものの、あやうく二人ともが凶悪な火の精霊にのみ込まれて命を落とすところだった。
「実際には炎に触れていないのに、お嬢様の髪が焦げてしまうくらいに熱気がすごかった。わしも、そのときに左足をやられちまったんです」
よく見ると、テオの足首の当たりが真っ黒に焼けている。彼は瓦礫で怪我をしたのではなく、すでに火傷を負っていたのだ。
「残念だがわしたちが来た時点で、中に誰かいたとしてももう助からなかったでしょう」
「そんな……」
「でも、ベアトリーチェさんらが来てくれたおかげで、わしとお嬢様は助かったんです。わしひとりでは、瓦礫をどけられなかった。自力で立ち上がることも無理だったかもしれない」
「無駄ではなかった、と……?」
「ええ。ベアトリーチェさんは、またお嬢様を救ったんですよ」
改めてカトリーネが埋まっていた瓦礫の山を見て、背筋が凍りつきそうになる。
ネリーのことは悔やんでも悔やみきれないが、この混乱した状況下でやれるだけのことはやった。そう思いたかった。
――でも、それは私の力じゃない。彼がいたから。
すべて、ヴァイクというひとりの翼人のおかげだった。彼がいなければ、市壁の上から落ちそうになった時点で自分はもうこの世にはいなかっただろう。仮にそこで助かったとしても、この炎の中、ここまで無事に来られたとはとても思えなかった。
まだ、翼人という種族に対する不信感は消えていない。
しかし、彼だけは信頼できる。
そうした思いを秘めながら、東の赤く焼けた空を見つめるベアトリーチェであった。