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「ノーラ様……」
――ああ、そうか。
ベアトリーチェはひとり、納得していた。
罪を負って生きていたのはアリーセだけではなかった。ノーラも同じだった。
――いや、違う、そうじゃない。
こころの中で、ベアトリーチェは自身の考えをすぐさま否定した。
きっと誰しもが、なにがしかの罪を負いながら人生という道を歩んでいる。
誰も完璧ではない、誰も間違いを犯さないことなんてない。
程度の差こそあれ、誰もが自身のうちに罪の意識を秘めている。
自分も、そして隣にいるヴァイクも。
その白翼の彼は、どこか悔しげに己の拳を見つめていた。
「どうして、人は生きるんだろうな。自分の罪にずっと苦しんでまで」
「すごいことを聞くのね。私に答えられるはずがないじゃない」
涙をぬぐうと、なぜか怒ったような顔でノーラはヴァイクを睨んた。
「生きて償いきれない罪なら死んで詫びる――それは本当にいけないことなのか?」
「そう言うと思った。これだからガキは……」
吐き捨てるように言うと、ノーラは立ち上がって男の眼前にまで迫った。
「罪が償える償えないが問題じゃないの! 償おうとすることそのものが大切なのよ。たいしてそれもしていないくせに生意気を言わない!」
やっぱりこの人はアリーセの姉だと、ベアトリーチェは妙にうれしく感じていたが、ヴァイクは一歩も引き下がらなかった。
「じゃあ、あんたは――」
キッと相手の目を見すえる。
いつも強気なノーラが一歩引いてしまうほど、その視線には迫力があった。
「あんたは、自分が生きることそのものが、他の誰かを犠牲することだというのがわかっていても、それでも生きようとするのか?」
ヴァイクは両の拳を震わせていた。
「一日一日を生きることが、ひとりひとりを犠牲にすることがわかっていても、それでもあんたは生きられるのか」
ヴァイクの瞳が揺れている。
「初めから罪を背負うことが宿命づけられているなら、無理をして生きることになんの意味がある!? 俺たちの存在のどこに意味があるというんだ!?」
ヴァイクがノーラに掴みかかった。
「なあ、自分の罪はやっぱり自分が悪いのか? それとも、この世界がおかしいのか? 自分ではどうしようもないことで罪を背負わされるこの世界なんてなくなってしまえばいい! そう考えて何が悪い!」
ノーラはたまらず叫んでいた。
「甘ったれるな!」
ぱん、と甲高い音が周囲に響いた。
右手を振り切った姿勢のまま、目の前の男を斬って捨てた。
「甘えるのもたいがいにしなさい。生きる意味? 世界の価値? そんなことは、限界までやり切った人だけが考える権利があるのよ! 死ぬ気でがんばった人だけが見えるものなのよ! たいして何もやってない奴が偉そうに語るなッ!」
その声にも、言葉にも、聞く者を圧倒する迫力があった。
しかし、ヴァイクも引き下がらなかった。
「やってきたさ! だけど、やればやるほど人を殺してしまうんだ! 同族をッ! 頑張れば頑張るほど罪を背負ってしまうのに、どうしたらいいっていうんだ……」
ヴァイクの肩の震えは、怒りによるものでも昂ぶりによるものでもない。それは、悲哀と困惑によるものであった。
そのことをわかってはいたが、あえてノーラも妥協はしなかった。
「あなたは、翼人という存在を特別視しすぎなのよ。それでかえって、物事の本質が見えなくなっている。他の命を奪って生きているのは翼人だけじゃない。私たち人間だって、ときには同族同士で殺し合うし、他の生き物の命を糧として生きていく。人間と翼人は、本当は何も変わらない」
「人間のくだらない戦争と同じにするな! 俺たちは、明日を生きるために仕方がなくやっているんだ。意味もなく殺し合う人間とは違う!」
「同じなのよ! あなた、人間はやりたくて戦争をしていると思ってるでしょう? でも、本当は誰もそんなことはやりたくないって思ってる。戦争を直接起こす権力者だって、やりたくてやる人なんてほとんどない。みんな嫌だけど、殺し合いなんてしたくないけど、やむにやまれずやっているだけなのよ」
だからこそ、戦争を止めることも、戦争を起こさないようにすることも難しい。
いろいろな思惑やいろいろな要素が複雑にからみ合って、混沌としている。戦争を起こした当事者でさえ、一度始めたそれを途中で止めることは難しかった。
止めたくても止められない、やりたくなくてもやらざるをえない。
それは根本において、翼人が抱えているジレンマと同じではないのか。
直接の目的が異なっているだけで、その苦しみやもどかしさは同一だ。
「もうひとつ、あなたは世界というものを勘違いしている。世界は、私たちとは別に独立して存在するものなんかじゃない。ひとりひとりが、ひとつひとつの要素がそれぞれにかかわり合って成り立っているものなの。わかる? その意味が」
ヴァイクが初めて口をつぐんだ。じっとノーラの言葉に耳を傾けている。
「あなたも私たちも、世界の一部なんだっていうこと。つまり、あなたが変われば世界も変わる、たとえ少しずつであっても」
世界とは、それぞれの存在を結ぶ糸が綾なすひとつの〝場〟だ。
ひとりが変われば、糸に振動が伝わり、水面に波紋が広がっていくように、それぞれに影響を与えていく。
その影響を受けた要素がまた別の要素に何かを伝えていき、結果として世界という全体がなんらかの変化を起こす。
ひとりひとりは、けっして孤立した存在ではなかった。それぞれができるかぎりのことをしてそのうえで協力し合えば、世界は変えられる。
よって『どうにもならない世界』など事実上存在しない。
「だから――」
ヴァイクの揺れる瞳をすっと見つめる。それは、鋭くもどこか優しい視線だった。
「世界に絶望するくらいなら、あなたの手で変えてみせなさい」
ノーラの声には、有無を言わせぬ迫力があった。
「自分に絶望するくらいなら、少しでも自分を変えようとしなさい。それができないのなら、世界を語る資格なんてないわ」
相手から目をそらして、ヴァイクがうつむいた。
ノーラはそんな彼の肩に、そっと手を置いた。
だが次の瞬間、ヴァイクはそれを邪険に振り払った。
「……世界を変える? 変えられるものなら、とっくの昔に変えているさ。それでも,
どうにもならないから苦しいんじゃないか!」
「本当にそう? あなたは、世界を変えるために何かをしてきたの? ジェイドが必要ではなくなるように何か努力をしてきたっていうの?」
反論の余地なく、ヴァイクが一歩、二歩と後ずさる。
それでも、ノーラは容赦しなかった。
「あなたは嘆いているばかりで何もしてこなかったんでしょう! それが甘えているというのよ。どうせ絶望するなら、思いきったことをすればいいじゃない。余計なことを考えずに、自分が変えたいと思うことに集中すればいいじゃない」
「…………」
今度こそ大きな衝撃を受けて、ヴァイクは何も言い返せなかった。
だが、こころのどこかにノーラの言葉を認めたがらない、認めてはならないと告げる何かがあった。
余計なものを打ち消すかのように、小さくかぶりを振った。
「やっぱり、あんたらには翼人の思いはわからない」
「そんなことはない!」
「あるッ! だから、あんたの妹はマクシムを裏切った!」
ノーラは、突然出てきた名前に絶句する他なかった。
「な、なぜ、彼の名前を……」
自分でさえ、一度しか妹から聞いたことのない〝翼人の彼〟の名。それは今の自分にとって、あまりにも重すぎるものであった。
ヴァイクはもうそれ以上何も言わず、ノーラたちに背を向けた。
誰も声をかけられない。すべてを拒絶する波動が、その背中から伝わってくる。
白い翼の後ろ姿が森の奥に消えても、しばらくは誰も口を利けなかった。
燦々と照っていた太陽を厚い雲が遮ろうとする頃、ようやくノーラが疲れたように腰を下ろした。
「はぁ。彼にもいろいろあるみたいね」
「すみません……」
「あなたが謝ることじゃないでしょ。きっと彼も苦しかったのよ、今まではその捌け口がなくて」
これまで胸に秘めていた思いが、こちらの言葉をきっかけに一気に噴き出した。
――これでよかったのかもしれない。
そう思う。ずっと吐き出せない思いをたくさん抱えていると、やがては堪えきれなくなっていつかは爆発してしまう。
そうなったときには、たとえ望まずとも周りを、そして自身をも傷つけていく。
「あの子、はぐれ翼人なのね」
「はい、故郷の部族は他の部族にやられてしまったそうで」
「そっか。じゃあやっぱり、これまで頼る相手も相談する相手もいなかったんだ」
「人に甘えすぎてもいけませんが、まったく甘えることができないというのも苦しいものですから……」
「そう。誰かに甘えることを知らない人は、すべてを自分ひとりで背負い込もうとして、やがては自滅していく」
ヴァイクにもそんな気配があった。一言で表するなら、素直ではない。先ほどの激昂の裏には、助けてほしい、楽にしてほしいという魂の叫びがあった。
「ベアトリーチェ、あなたは憶えておいて。自分のやれるだけのことやったなら、それ以上無理はしなくてもいいの。もう自分だけではできないって思ったら、素直に周りに頼ることも大切なことよ」
「そうですね、人がひとりでやれることなんて限られていますし」
「ヴァイクくんも、それをわきまえられるといいんだけどね」
「大丈夫ですよ」
と言ったのは、それまで沈黙を保っていたジャンであった。
「ヴァイクは、本当はすごく強い人だと思います。確かにいろんなことで悩んでいるみたいだけど、それでもあの人は折れていない。それって、芯が強いことの証じゃないですか?」
上辺だけ強そうでこころの根っこが弱い人であったなら、とっくの昔に潰れていただろう。
ヴァイクはまださまざまなことにとらわれてしまっているが、しかし決してくじけないその強靭な精神は見習うべきものがあった。
そう言ったジャンを、ノーラはまじまじと見つめた。
「あなた、見かけによらずいいこと言うわね」
「み、見かけによらずって……」
「でも、そうね。ヴァイクの心配はいらないのかもしれない。あの子だったら、きっと乗り越えられる」
まだ会ったばかりではあったが、不思議とそう確信することができた。きっかけさえあれば、彼はさらに大きく伸びるはずだ。
「――ま、こんなところでずっと話をしていてもしょうがないし、そろそろ神殿に行きましょうか」
「あ、あの」
ノーラが立ち上がったところへ、ベアトリーチェがおずおずと前に出た。
「何?」
「私は、ちょっとヴァイクの様子を見に。放っておくのも、なんだかあれですし」
「そうね、ときにはそっとしておいてあげるのも思いやりなんだけど、今は彼、かなり荒れてるみたいだから捜したほうがいいかもしれない。もし見つけたら、ごめんって謝っておいて。ちょっと言い過ぎちゃった」
「はい」
返事をするなり、すぐに駆け出そうとする――ヴァイクの姿が消えたほうへ。
そのベアトリーチェを、ノーラが呼び止めた。
「ねえ、ベアトリーチェ」
「はい」
「あの彼には、支えが必要なのかもしれない。こころの支えになってくれる人が」
ヴァイクは、確かに強さを内に秘めているのだろう。しかし、どこか不安定で危うさが感じられてならない。
「人は、基本的にひとりでは生きられないものよ。ひとりでやれることには限りがある。ヴァイクくんの自分でどうにかしようという確固とした意志が、かえって彼自身を孤独にさせてしまっている」
「そうですね……」
「たとえどんなに強がっても、人は知らず知らずのうちに誰かに支えられている。虚勢を張ってひとりで生きようとすることよりも、そうやって支えてくれている人に感謝することのほうがよほど大切なことなの」
ベアトリーチェもそのとおりだと思った。だが、否定しておかなければならない部分もあった。
「ノーラ様」
「うん?」
「支えられているのは、いつも私のほうなんですよ」
思えば出会って以来、ずっと自分はヴァイクに助けられっぱなしだ。もし彼がいなければ、今頃生きてさえいないかもしれない。
ヴァイクは、人を支えてあげられる優しさを持っているのだから、人に頼ることを憶えさえすれば、何も問題はないという確信があった。
「そっか、彼にはそれができるのね」
「はい」
「じゃあ今度は、逆にあなたが彼を支えてあげないとね」
「はい」
笑顔でベアトリーチェは駆け出していった。それを、ノーラも笑顔で見送った。
あとに残されたのは、男ひとりと女ひとりだった。
「さて、じゃあ私たちだけで神殿に戻りますか」
「あ、あのぉ」
ジャンが、おずおずと呼びかけた。
「何よ?」
「俺も一緒に行くんでしょうか」
「他に誰がいるっていうの?」
「…………」
ジャンは、シュテファーニ神殿のことを聞いたことがあった。
確か、神官はすべて女性という神殿。そこへ、男の自分が行っていいものかどうか。
「あの~、俺も一応男でして……」
「ああ、そういうこと。それなら大丈夫よ」
ノーラが断言した。
「うちには、あなたごときに襲われるようなやわな女はいないわ。それに、あなたには甲斐性がないみたいだし」
「…………」
こうやって安心されてしまうのも男としてどうなのかな、とも思う。だが、反論できるはずもなく、ジャンはとぼとぼとノーラのあとに奴隷のごとく従った。
「あー、これでやっと男手ができたわ。あなたにはじゃんじゃん働いてもらうからね、それも力仕事を」
「えええっ」
「文句を言わない! 働かざる者食うべからずよ。覚悟しときなさい」
「…………」
もはや、ぐうの音も出ないジャンであった。
その彼が罪人のごとく神殿へ強制連行されている頃、ベアトリーチェはヴァイクの姿を求めて森をさまよっていた。
しかし、あちらを捜せどこちらを捜せど、白い翼の影は見えない。
「もう、どこへ行っちゃったのよ」
我知らず、悪態をついてしまう。
土地勘のない自分が、あまり森の奥まで入り込むわけにもいかない。いくらこの辺りの治安がいいとはいえ、どんな野生の獣に遭遇するともしれない。
――それでも、ヴァイクが助けてくれるだろうけど。
翼人ゆえなのか、彼は自身や周囲への危険にとてつもなく敏感だ。ここに来るまでの間にも何度か、事前に敵となりうる存在を追い払ってくれていたように感じる。
それを本人は何も言おうとしないところが、なんとも彼らしかった。
――でも、頼ってばかりでもいけない。
どうしても『何かあればヴァイクが……』と考えてしまう。
それは、自分の甘えなのだろう。もっと自立しなければ、これからさらに彼に迷惑をかけるようになる。それだけは避けたかった。
――だけど、人それぞれ得手不得手がある。
どう足掻いたところで、自分が戦いで彼の力になれることはない。そのかわり、彼の孤独なこころのささやかな支えにはなれるような気がしていた。
それは、自分の思い違いなのかもしれない。自惚れなのかもしれない。だが、それ以外に自分にできることはないとも思えた。
そんな決意をもって捜しつづけていると、日がわずかに傾いた頃になってようやく人の気配を感じた。
――上のほう……
木々の枝葉が屋根のように覆う辺りから感じる。
ベアトリーチェが呼びかけようとしたその瞬間、そこから何かが飛び立った。
「えっ」
薄茶けた色の翼がちらりと見える。ただの鳥だったようだ。
じゃあヴァイクはどこに、と思って周囲を見回したとき、特徴的な真っ白な翼の羽を見つけた。
目的の彼は、大樹のうろのところにひとり腰かけていた。
「ここにいたの」
ようやく見つけ出した安堵と喜びに頬をゆるませながら、ベアトリーチェはヴァイクの隣に腰を下ろした。
しかし、当のヴァイクにはなんの反応もない。膝を抱えた姿勢のまま、虚ろな目で地面をじっと見つめている。
しばらくベアトリーチェは何も言わず、一緒になって森の音だけを聞いていた。
木々の葉擦れ。
鳥や獣の鳴き声。
耳を澄ませば、わずかに水の流れる音も聞こえてくる。
こうしていると、森は静かなようで本当は無音ではないことがよくわかる。いろいろな音が混ざり合い、それがひとつの曲のようになって奏でられる。
町の耳障りな喧噪とは違う心地よさが、そこにはあった。
「ねえ、ヴァイク」
「……なんだ」
声にも、いつものような元気がない。
あえてそのことには触れずに言葉をつづけた。
「人って弱い生き物なのね。人間も翼人も」
弱いから、誰かに甘えたり、悪いことをひとのせいにしたり、怒ったり、泣いたり、暴れたり、と忙しい。
この世に、本当に強い存在なんていないのだろう。誰であっても、怒りを感じることもあれば他者に依存してしまうこともある。
「きっと、自分が強いと思い込んでいる人が、実は最も弱いんだと思う」
逆に己の弱さを自覚している人は、それゆえに強くなることができる。
なぜなら弱さを克服するには、まず何が問題なのかをできるだけ正確に知らなければならないから。ある対象を改善しようとするのに、その対象について何も知らなければ話にならないのと同じように。
「でも、ヴァイクは自分ことがわかってる。だから、本当は強い人なのよ、自分が思っているよりも」
「やめてくれ」
「ヴァイク……」
「俺は強くなんかない。正論を言われて逆上して逃げるような奴が強いわけがない」
ノーラの指摘はすべて鋭かった。鋭すぎた。
耐えきれなくなって感情の炎が爆発し、逆にひどい言葉を浴びせて飛び出してきた。こんな男のどこが強いというのか。
どこも強くなんかない。ずっと弱いところだらけだ。
――ノーラ様の言ったことが正しいとはわかっているわけね……
ベアトリーチェは、そっとため息をついた。
ヴァイクの気持ちを慮る。
すべて、こころの中ではすでにわきまえていたのに、それをことさらに厳しく糾弾されて冷静さを失ってしまった。
正論は文字どおり正しいことだ。しかし、正しいことが常に正しい結果をもたらすとは限らない。
逆に、それが人を駄目にすることもある。人が生きていくうえでは、正道をあえて外れることも必要なのかもしれなかった。
――でも、それだけじゃない。
今のヴァイクを苦しめている要因が他にもあることは、わかっていた。
「ヴァイクは、いつもリゼロッテを基準に考えてしまうのね」
はっとして顔を上げ、ベアトリーチェを見たヴァイクであったが、またすぐに目を伏せた。
彼のこころの中には、常にリゼロッテがある。
それはあの子が他界したからではなく、あの純粋な思いへの憧れと、その裏返しである自己への嫌悪があるせいだ。
――きっとヴァイクは他の誰よりも、ジェイドのために同族の命を奪うしかないことに思い悩んでいる。
その彼の前に、ジェイドを得ることを拒否する少女が現れた。
結果、自身のこころと直に向き合うしかなくなった、一切のごまかしようもなく。
こころの逃げ場さえも失ったヴァイクは、リゼロッテの死によってさらに追い討ちをかけられる。
リゼロッテの意志は、それによってさらに純化されることになった。ヴァイクは、前よりもずっと自分の内面がまざまざと見えるようになって、今も悩み苦しんでいる。
しかし――
「リゼロッテはリゼロッテの生き方を選んだだけよ。ヴァイクは、自分なりの生き方をすればいいじゃない」
「そんなこと、言われなくてもわかってる」
それは吐き捨てるような物言いであったが、本音でもあった。
「だが、それでも考えてしまうし、考えなければならないんだ、俺にとっては。他の誰にも頼ることはできない、自分で結論を出すしかないんだ」
それはわかる。わかるが、そういった考え方こそベアトリーチェは疑問だった。
「あなたは、どこかで人を遠ざけているのね」
「なんだと?」
「だって、どんなに苦しくてもひとりでどうにかしようとして……」
「しなきゃいけないことだから、しようとしてるんじゃないか」
本当なら逃げ出したい、誰かに全部任せてしまいたい。だが、それができないがために孤独のうちに悩んでいる。
しかし、ベアトリーチェの返事はどこか辛辣な響きがあった。
「でも、あなたはいつも周りに助けを求めているじゃない。声に出さなくても聞こえるのよ、一緒にいると」
態度や行動、そして普段の言葉の端々からそれを感じるからこそ、どうしても気になってしまう、手助けしたいと思ってしまう。それがいけないことだとでもいうのか。
「そんなにひとりで悩みたいんだったら、こころの中で助けを期待するのはやめて。助けようとしても拒絶されるほうだってつらいんだから」
――こんなことを言うつもりじゃないのに。
しかし、一度口を突いて出た言葉は、意志に反して止まってはくれなかった。
ヴァイクは、さらに深くうつむいた。
すぐ隣にいるのに、なぜか気配を感じない。彼がすごく遠くへ行ってしまった感触に、こころが打ち震えた。
あわてて取りつくろおうとして、自然に言葉が出た。
「ヴァイク、時には素直に助けを――」
「もういい」
彼の声は、あくまで静かだった。
「もういいんだ。結局、人間は翼人の思いを理解することなんてできない」
「そんな……」
それは最後通告のようなものだった。こちらの思いを一切拒絶する響きがそこにはあった。
だからベアトリーチェも、自分でも気がつかないうちに虚勢を張ってしまっていた。
「だったら、あなたたち翼人も人間の気持ちはわからないってことじゃない」
「そうだな。種族の違う者同士が理解し合うなんて、きっとただの夢物語でしかないんだ」
ヴァイクはずっと顔を伏せたままで、その表情はうかがえない。それがいっそう、ベアトリーチェの不安をかき立てた。
何かきっかけとなる言葉を探したい。だけど見つからずに、つまらないたったひとつの単語しか出てこなかった。
「ばか」
言うなり、ベアトリーチェは駆け出していった。
足音が遠ざかり、やがて森のざわめきの中に消えていく。それでも、ヴァイクは一度として顔を上げなかった。
少し強い風が、木々の梢から数枚の葉を吹き飛ばしていった。