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ヴァイクは首を横に振った。
「そんなことは、どちらの世界でも有り得ないことだ。周りから認められるはずがない」
「そうね。実際、二人のことがばれてしまってからは、アリーセは家族から猛反対されていたわ。あの頃は、私もまだ未熟だったのね。他の家族と一緒になってあの子を説得しようとしていた」
――自分のばかさ加減と、あの子の純粋な思いも知らずに。
アリーセは当然、反発した。それも、当時はおとなしかったあの子からは想像もできないほどに。それだけアリーセの思いは強く、かつ真摯なものだったのだろう。
だが、そのことに周りの誰もが気づいてやれなかった――自分も含めて。
「私はどうせすぐに熱が冷めるだろうと思って、前から予定されていた神殿に入ってしまった」
アリーセの思いは、未知への存在の憧れと好奇心が生んだ一過性のものにすぎない、ただの思い込みだろうと考えていた。
だから、妹の意見を真剣に聞くこともなく、自分はさっさと神殿へ行ってしまった――自分のために。
しかし、あとになってそれが大きな間違いだったとことに気づく。
「それでも、アリーセの思いは変わらなかった。いいえ、むしろ前より強くなっていったみたい。障害の多い恋のほうが燃えるということかしら」
疲れたように笑うと、組んだ両手を額に当てた。
「しかも、うちの家族もどこかで冷静さを失っていたのね。このままじゃ、いつか家を飛び出すんじゃないかって、あの子を部屋に監禁するようなことをしたの」
「そんな……」
あまりにもひどい。ベアトリーチェからすれば、同じ家族がそんなことをするなんて信じられなかった。
「でも、本人たちに罪悪感はなかった。それどころか、そうすることがアリーセのためになると思い込んでいた。自分たちのしていることが本当に正しいのか疑うことさえなかった」
それはある意味、最もたちの悪いことであった。
世の中、本人がよかれと思ってやったことであっても、かならずしもよい結果をもたらすとは限らない。逆に、悪いことを引き起こす場合もある。
すなわち、〝善意の悪〟である。
たとえ完全な善意でやることであってもけっして謙虚さを忘れてはならないのだが、当時の家族は自分を含めてあまりにも独りよがりになってしまっていた。
「やっぱり、相手の気持ちをわきまえない行為には罰が下るものなのね。アリーセは監禁されたせいで、翼人の男と落ち合う場所に行けなくなってしまった。約束の日が過ぎてしまったあとのあの子の落ち込みようは、尋常なものではなかったらしいわ」
落ち込むというよりも、ほとんど発狂せんばかりであったという。
それほどまでにアリーセの嘆きは凄まじく、食べ物は喉を通らないため急激に痩せていき、ほとんど元の面影がなくなってしまうほどになった。
それまで勝手なことをしていた家族も、これにはさすがに罪悪感を覚えはじめた。
だが、それからがまたいけなかった。
「本当は、あの子を慰めるつもりだったのでしょうね。今度は結婚話を進めはじめたのよ。もちろん、人間の男とのね」
「無茶苦茶だな。たとえ家族であろうと兄妹であろうと、本人の意志をねじ曲げて勝手なことをする権利なんかない。翼人の世界だったら、それは明確な罪だ」
「そう、罪なのよ。家族も私も、今も背負っている大きな罪なの」
自分もまったく同罪だった。
神殿に入っていろんな活動に夢中になっていた自分は、本音を言えば、ほとんど実家のこと、妹のアリーセのことを忘れていた。まさか家でそんなことが進められていようとは知るよしもなかったし、また知ろうともしなかった。
それが、結果的に悲劇を招いた。一連の出来事には、自分にも十分すぎるほどの責任があった。
「きっとあの子も力が抜けてしまっていたというか、自分なんてもうどうにでもなれって思っていたんでしょう。家族に促されるまま、とんとん拍子で話が進んでしまったの」
軟禁状態からは解放されてはいたものの、結局、翼人の男とは会えずじまいだったらしい。
アリーセの性格からすれば自分が捨てられたことよりも、相手がこちらに裏切られたのだと絶望し、苦しんでいることにこそ、思い悩んでいたであろうことは想像に難くない。
「それで、結婚してしまったのか?」
「ええ、相手の男が乗り気だったこともあって、そのまま夫婦になってしまった」
「信じられない。それこそ、相手の男を裏切ることになるんじゃないのか?」
真に相手のことを思っているのなら、他の男と結婚するはずがないではないか。
そこで、すかさずベアトリーチェが口を出した。
「ヴァイク、アリーセ様を責めないで。きっと、何も考えられなくてそうなってしまったんだと思う。結婚したいとかしたくないとか、そういうことじゃなくて、水に流されるみたいに……」
「そうでしょうね。だけど、意外だったのは時間が経つうちに結婚生活はうまくいきはじめたのよ。初めはさすがにぎくしゃくしてたみたいだけど、時間があの子のこころを癒してくれたのね」
しかも、夫になった人物が驚くほど誠実な人だった。彼の献身的な態度が、凝り固まったアリーセのこころの氷を溶かし、やがて二人はそれなりに夫婦らしい間柄となることができた。
だが、ヴァイクは眉をひそめた。
「でも、それじゃあ翼人の男が一方的につらい思いをしただけじゃないか」
「ヴァイクくんの言うとおりね。たぶんアリーセのこころの中にも、そのことがずっとしこりになって残っていたんだと思う」
だから、けっして子供をつくろうとはしなかった。そのことを夫の側がどう思っていたのかは、今となってはもうわからない。
なぜなら、また先の悲劇を超えることが起きてしまったからだ。
「ここで話が終われば、あの子もまだまともな人生を送れたんだけど。神様っていたずら好きなのね、とんでもないことが起きてしまった」
それは、ちょうどアリーセが落ち着きはじめた頃に翼人の男が再び現れたことだった。
「どうして……」
「相手にも大きな未練があったんでしょう。まったく偶然ってことも考えられるけど」
ともかくも、二人はまた出会ってしまった。
そして、それまで秘めていた思いが爆発した二人は、今度は周囲に知られないように密会を重ねるようになっていく。
おそらくアリーセには、それまでを超える葛藤があっただろう。しかし、自身の素直な気持ちには逆らえなかった。
だが、大きな矛盾を抱えた関係が長つづきするはずもない。
「やっぱり、どんな秘密でも漏れてしまうもの。定期的にいなくなるアリーセの行動に不信をもった人が、二人を見つけてしまったの」
「それは……?」
「あの子の旦那さんだった」
一同は絶句した。
「しかもその旦那さんはね、翼人に対してすごく強い偏見を持っていた」
「〝反翼派〟……ですか」
それまでずっと黙っていたジャンが、顔をしかめながら口を開いた。
「ええ、差別主義者の愚か者の集団よ。私があとで調べたかぎりでは、そのノイシュタット支局長だった」
「し、支局長!? 反翼派の支局長って行ったら、レラーティア教の神殿長クラスの影響力があるとか」
「ジャン、どういうことだ?」
「あ、ああ、人間の中には極端に翼人を敵視する人たちがいるんだ」
「それも相当数」
と、ノーラ。
「ええ。彼らはその……」
「構わん。はっきり言ってくれ」
「――翼人を憎んでいる。一方では、畑を荒らし、家畜を襲う害獣のように見ている人たちがいて、もう一方ではその存在自体が悪だと……」
あからさまにため息をついたのはノーラだった。
「結局、翼人がうらやましいのよ。強くて、勇ましくて、空を飛べる彼らが。その気持ちを素直に認められなくて〝相手が悪い〟って叫んでるだけのおばかさん集団よ」
「しかし、ひどい話だな。俺からすれば、人間のほうがよほど野蛮に見えるが」
「同感ね。人間は、弱いくせにその弱さを認めようとしない。それに、いろんな面で自然の法則から離れすぎている。私からすれば、野生の動物以下の存在よ」
野生の生き物は基本的に自然から必要以上に奪いすぎることもなければ、同族同士で互いに殺し合うこともしない。
しかし、人間はまさにそれをする。ということは、すべてではなくとも部分的には他の生物に劣る面もあるということだ。
だが、大半の人間がそれを認めたがらない。それこそが人間の傲慢さであり、愚かさであり、真の弱さであるのかもしれなかった。
「その旦那さんも、たぶんこころのどこかに弱い部分を持っていたんだと思う。だから、よりによって自分の妻が翼人と密通していたことに耐えられなかった」
「反翼派支局長の立場もあったんでしょうね……」
ジャンの冷静な指摘に、ノーラは首肯した。
「ええ。今思えば、彼も相当に悩んだのかもしれない」
「それで、どうなったんですか……?」
おそるおそるベアトリーチェが問うた。
聞きたいような聞きたくないような感覚。耳を閉じたい衝動に駆られたが、それでも自分が聞かなければならないことだとみずからを奮い立たせた。
わずかに間を置いてから、ノーラが答えた。彼女もそれを口にするのに、いくらかの勇気が必要なようだった。
「アリーセを……自分の妻を殺そうとした」
「!」
「それを止めたのが、翼人の男だった。もちろんその彼は、相手がアリーセの夫だなんてまったく知らない様子だった」
奇しくもそのとき、実家に帰っていた自分はその現場を直に見ていた。胸を串刺しにされた夫、そしてそれをただ呆然と見つめているアリーセ。
妹はそのときもそのあとも、以前のように取り乱すことはまったくなかった。
だがしばらくの間、何も語らず何も行動しようとはしなくなった。翼人の男とも、会ってはいないようだった。
「ねえ、ベアトリーチェ」
「はい」
「あの子、いつも長袖を着ていたでしょう? なんでかわかる?」
「いえ」
「実はね、あれは手首の傷を隠すためなの」
「手首……って、まさか――」
「そのまさかよ」
もはや、自分の人生に絶望したアリーセは何度も自殺を試みようとした。そのたびに周りがぎりぎりのところで押しとどめ、事なきを得ていた。
しかし、初めから手首の傷は浅かった。死にたくても死にきれない何かがアリーセにはあった。
「翼人の男のことか」
「ええ。あの子から直接あとで聞いたことなんだけど、その人は自分の部族を抜けてまで自分をを選んでくれたって。それは、翼人の世界では大変なことなんでしょう?」
「大変というか、考えられん」
ヴァイクはかぶりを振った。
はぐれ翼人が単独で生きていくのは、困難を極める。特別な事情でもないかぎり、部族をみずから抜けるなどというのは、自分が生きていくために普通は考えられないことであった。
「でも、あの子は選べなかった。夫が遺した家に留まるか、それとも翼人の彼と一緒に行くか――悩んだあげくに決めきれなくて、それで逃げるようにして神殿に入ったの」
相手の翼人の男もたいした人物だったのだろう。妹がそれを告げても一切文句をいわずに、ただ静かに去っていった。
しかし、翼人がひとりでは生きていけないらしいことを、アリーセはあとで神殿にあった書物から知った。それゆえの罪悪感、後悔がなおのこと彼女のこころを苦しめてしまっていた。
「その後のことは、もう説明するまでもないでしょう。ベアトリーチェのほうがくわしいでしょうからね」
ノーラが話し終えてもしばらくの間は誰も口を開けず、沈黙が辺りを支配していた。
近くにある木の梢の先で鳥が鳴きはじめた頃、ノーラは天を仰いた。
「本当に不憫な子……結局、最後の最後まで苦しんで、その死に方まで苦しいものを選んで」
今思えば、すべては自分と家族が招いたことだった。初めから素直にあの子の思いを認めてあげていたら、誰も苦しまず、誰も犠牲にはならなかったはずなのに。
だから――
「あの子の罪じゃない、私たちの罪だったのに……」
ノーラの目に光るものがあった。
悔い、悲しみ、そして過去の自分に対する激しい怒りが、そこには込められていた。
最も身近にいながら、最も妹のことを理解していなかった。
姉らしいことを何もしてやれなかった。
家族であればこそ互いに助け合うべきなのに、自分たちはあの子に枷を付けるようなことしかしてこなかった。
家族こそがアリーセの最大の敵だった。
きっとあの子にとって身内とは、悪漢よりも厄介な最悪なものでしかなかっただろう。
――でも、アリーセは一度として家族を責めるようなことはしなかった。
責めてくれたほうが、気は楽だったのに。それすら、こちらのわがままでしかないことはわかりきっていたが。