*
今日の姫は、朝からずっとそわそわしっぱなしであった。
自分の部屋にいても、広間にいても、そして大好きな中庭にいるときでさえ、こころここにあらずといった様子で何かを思い悩んでいた。
あの、いつも明るく闊達なアーデがおかしくなってしまった。その噂はたちまちのうちに広がり、今では城内全体が異様な空気に包まれていた。
誰かが話しかけてもほとんど上の空で、『うん』とか『そうね』といったおざなりな返事しかかえってこない。やがて、誰も姫に近づくことさえできなくなってしまった。
こうなったら、あの男に期待するしかない。この城で、フェリクスを除いて唯一アーデと対等に渡り合える、あの騎士に。
いい加減に疲れたらしく、自身の居室でベッドに倒れ伏しているアーデのもとに、とうとうユーグが現れた。
「どうだった!?」
がばっと跳ね起きたアーデに、ユーグはあからさまにため息をついた。
「なんなんでしょう、このみっともない姿は」
「男が細かいことを気にしない! そんなことより、お兄様はどうなったの!?」
「なんとか無事だったようです。ただ、ここまで無理に戻ってくるのは危険だと判断したようで、オスターベルク近くにあるイレーネ湖に着艇したそうです」
オスターベルクは、ここシュラインシュタットから東、やや南寄りに離れたところにある町の名だ。ノイシュタット侯領の内側にある都市なので、安全の面でも問題ない。
アーデは文字どおり安堵のため息をつくと、今度はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「よかっ……た……」
「|淑女(レディ)を名乗るなら、もっとご自身の格好に気をつかってください」
「だって、ほっとしたら力が抜けちゃったんだもん!」
その割には声に力があるなと思ったユーグではあったが、もうあえて何も触れないでおいた。無駄だからだ。
「しかし真面目な話、間に合ってよかったですね。|我々|(、、)の援護がなければ、フィデースは危うかったかもしれません」
「ええ、翼人相手に空で戦うことは、地上で戦うよりずっと大変なことだから」
その経験がまったくないのならば、さらに困難の度合いは増す。
空は翼人の領域。だから、本当は人間が踏み込んではいけない世界。
ましてや、飛行艇が翼人の〝命の結晶〟を糧にしているというなら、彼らの怒りは想像するに有り余るものがあった。
「それにしても、どうして噂として伝わってきたのかしら、『はぐれ翼人の集団が飛行艇を狙っているらしい』なんて」
仲間に確認を取ろうとしたのだが、結局、最初に誰がその噂を耳にしたのかはわからずじまいだった。
そうこうしているうちに兄のフェリクスが、飛行艇でカセルへ向かうと言い出した。万が一のことを考え、仲間にこっそり護衛についてもらったのだが、それが功を奏したようだった。
「確かに、最近不可解なことが多すぎます。アルスフェルトが翼人に襲撃されたり、フィズベクに翼人の集団が現れたり――」
そして今回のことだ。カセル侯ゴトフリートの様子がおかしいことも含めて、どうにも不穏な空気の流れが感じられてしかたがなかった。
「ユーグがそう言うのなら相当なのね」
「生まれてこの方、今ほど危険な匂いを感じたことはありません。しかも、この国全体に」
これまでもロシー族による大規模な暴動や宮廷軍の反乱など、国を揺るがすような大きな事件はあった。
しかし、現在のように、世の中全体をこもったような空気が覆ったことなど一度としてない。原因はなんなのか、どこにあるのかがはっきりとしないことが、さらに不安を煽る。
「整理して考えてみましょう。要点はどこにあるの?」
「あのはぐれ翼人たちの実態と目的、それからカセル侯の動向」
「そうよね、つまりはあの翼人たちがよくわからないのよね」
なぜ、アルスフェルトを襲撃したのか。
フィズベクで襲ってきた翼人たちと同じ集団に属しているのか。
飛行艇の一件との関連は。
そして、なぜ人間の心臓を喰らったのか。
――はぐれ翼人という要素だけでも、これだけの謎があった。
「おまけに、カセル侯と関連があるのかもしれない」
「それだけではありません。今は人間の世界だけでも、選帝会議やロシー族の問題がからんでしまっています」
さらに間の悪いことに、各地ではさまざまな自然災害が立てつづけに起きていた。
|沼湖(しょうこ)沿岸部での漁獲高の極端な減少、東部での干魃、そしてここノイシュタットでも北方の河川流域で洪水による被害は深刻だった。
「そうか、そのそれぞれが複雑にからみ合ってしまっているのね」
結果として、実態がよく見えなくなる。
複数の糸がこんがらがった毛糸玉のように、どれがどれにつながっているのかまるでわからない。
「もし――」
「はい?」
「もし、すべてがつながっていたとしたらどうなるの?」
ユーグの端正な眉が、ぐっとひそめられた。
ああ、自分はかなり鋭いことを言ったんだな、とアーデにはそれでわかった。
「……大変なことになるでしょうね」
「でしょうね。具体的にはどうなるの?」
「実際に何が起きるのかは測りかねますが、それぞれの要素が全部つながっているとしたら、個々の問題を解決していっても意味がないということです」
「どういうことよ?」
「そうですね、この問題は毛糸玉というより球根のようなものだと考えてください。今は、いくつかの根がその球根から伸びた状態にあります。それらを逐一切り落としていったところで、球根が無事ならば、また根っこが次から次へと生えてきます」
「問題の核をどうにかしなければ、また別の問題が出てくるってことね」
「そのとおりです。核があるからいろんな問題が出てくるのか、いろんな問題が核を作ったのかはわかりませんが、いずれにせよ根本にあるものをどうにかしないかぎり、本当の解決は難しいでしょう」
核となる球根の根がこの国を覆い尽くしたとき、もしかするとノルトファリア帝国は大きな転換を迫られるのかもしれない。
「時代が動く、か……。私たちは、これからどうなるんだろう」
「わかりません」
「はっきり言ってくれるわね」
「わかりませんが、ひとつだけわかっていることはあります」
「何?」
「つまるところ、自分たちが正しいと信じたことを、その都度やれるかぎりやっていくしかないということです」
未来のことをどんなに憂えても、何もしなければ何も起きない。結果がどうなろうと、それぞれが信じた道を進む他、方法なかった。
それを聞いて、アーデは『はぁ』とあからさまにため息をついた。
「――ユーグは嫌い」
「どうしてです?」
「正論ばっかり」
ぐっと詰まったユーグの様子を見て、アーデは屈託なく笑った。
しかし、こころの中の雲は晴れない。まるで、自分の中に何かの〝球根〟が埋まっているかのように。