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足下から伝わってくる振動は、船底の外壁部分を破壊しようとしているものだっだ。そこに穴を空けてしまえば、飛翔石のあるところまではすぐだ。
「しかし、閣下。ここをこれ以上減らしたら、もうさすがに持ちません」
「だったら、全員で船底に行くんだ。ここで耐えていても、飛翔石を奪われたら元も子もない。それに、艇の中のほうが――」
フェリクスは、こころの中で自身の頭を殴りつけた。
――そうだ、初めからそうすればよかったのだ。
甲板の上では、空を飛べる相手にいいようにやられてしまう。
しかし、艇の中に入ってしまえば通路が狭いので、数の多寡があまり関係なくなるうえに、相手は翼が使えない。こちらとしては、これ以上ない形に持ち込めるはずだった。
――もっと早くにそのことに気づくべきだった。そうしておけば、いたずらに兵の命を犠牲にせずともよかったものを……
しかし、今は後悔している|暇(いとま)さえない。フェリクスは、全員に向かって声を張り上げた。
「陣形を組んだまま下がるぞ! いったん艇内に入るんだ!」
よく訓練された近衛騎士と飛行艇兵団は言われたとおり、隊列を崩さないようにしてじりじりと後退を始めた。
ノイシュタット側の意図を察した翼人たちは急いで次の攻撃に移ろうとする。だが、艇内へ何がなんでも戻ると覚悟を決めた兵士たちはこれまで以上に頑強になり、ほとんど穴がなかった。
敵が逡巡しているうちに、陣形の後ろのほうから艇内への階段を駆け下りていく。フェリクスらもそれにつづき、最後まで残っていた槍兵もぎりぎりのところで逃げ込んだ。
それぞれは、一目散に船底を目指した。
飛翔石だけではない、それを加熱する機関も守らなければならない。
あとで有利になるであろう狭い通路が、今は恨めしい。兵士たちは肩をぶつけ合いながら、それでも走る速度を落とさず船底へ向かった。
先頭の兵士が到着したのと、翼人がそこに穴を空けたのは、ほぼ同時だった。
「何をしている! すぐに討ち取れ!」
「は、はい!」
予想していたとはいえ相手の行動に面食らっていた兵士らを、フェリクスが叱咤する。
剣を持った騎士たちが、穴から入り込もうとする翼人たちに斬りかかっていった。
最初の二、三人は簡単に倒すことができた。しかし、船底の床が壊されて穴が広がっていくにつれ、次々と艇内に入り込まれてしまった。
幸い、通路のほうから翼人たちがやってくる気配はない。挟み撃ちされる心配はないようだ。
一方、艇内の翼人は味方がそろうのを待つことなく、剣を持つ兵士を標的にして襲いかかった。
――持ちこたえられるか。
不安を感じるフェリクスの眼前で、しかし、予想外のことが起きた。
次から次へと倒れていくのは味方の兵ではなく、翼人たちのほうであった。
フェリクスが、得心がいったとばかりに大きくうなずいた。
「思ったよりも、狭い空間では動きが制約されるようだな」
「ええ、相手の動きは勢いもないですし、小回りも利かなくなっているようです」
「よし、さっきと同じように一箇所に固まれ! 相手は自由に飛べない。もう恐れることはないぞ!」
実際に手応えを掴んだ兵士たちは、先ほどよりも俊敏に陣形を組んでいく。頭数が足りないことはいかんともしがたいが、これでわずかながらに勝機が見えてきた。
相手もこのままではまずいと察したか、攻撃するのを控えている。
だが、そこそこの人数がそろうと先ほどと同じように集団で突っ込んできた。
互いが正面からぶつかり合う。
散ったのは翼人たちのほうであった。それぞれがあっさりと弾き飛ばされ、剣や槍の餌食となっていく。
なんとか体勢を立て直そうとする者も翼を壁にぶつけたり、剣を梁に引っかけたりして、かえってみずから下へと落ちていった。
――これはいけるか。
とノイシュタット側が希望を持ちはじめたとき、大きな衝撃とともに船底の床の一部がごっそりと抜け落ちていった。
翼人たちが壊しつづけてきたせいもあるが、穴が空いたことで全体のバランスが崩れ、自壊が始まってしまった。
しかも、そこから次から次へと新たな翼人が入り込んでくる。ぎりぎりとのところで均衡を保っていた戦いも、このままでは人間の側が不利になるのは目に見えていた。
――これ以上はまずい。
それは嫌というほどわかるのだが、手の打ちようがなかった。今さら穴を塞げるはずもなく、ましてやこちらの人員を増やせるわけでもない。
予想どおり艇内に入ってくる翼人の数は増え、反対にそれと対峙する兵士の数は減っていく。いくら相手の動きが鈍いとはいえ、数に勝る相手を倒すのは容易ならざることであった。
同じ危機感をもったオトマルが、影の差した表情で呼びかけてきた。
「フェリクス様、よいですな。もう少ししたら、かならず小型飛行艇のところへお向かいください。閣下が逃げるための時間くらいは、我々が稼いでみせます」
「…………」
――そこまで追い込まれたのか。
しかし、自分が逃げては実質的に仲間を見捨てることになる。
そして、その性格からして、オトマルは間違いなくここに最後まで残るだろう。それは、親代わりともいえる存在との終の別れを意味していた。
オトマルは、自分が生まれたときからずっと面倒を見てくれた。親や兄妹よりも一緒に過ごした時間が長いほどだった。
早くに両親を失った自分にとっては、まさしく身近な親代わりと呼びうる存在だった。
物心つくまではとかく厳しく、ときには理不尽な恨みを抱いたこともあった。
しかし、自分が自立するようになるにつれ、こちらの意見を尊重してくれるようになり、やがて親代わりからこれ以上ない有能な副官となってくれた。
今の自分は、オトマルなしには有り得なかった。その彼に対する思いは、感謝という言葉で表されるものを遥かに超えていた。
――その彼を見捨てていけというのか。そんなことはできない、したくない。
しかし、もしここで駄々をこねたら、それこそオトマルを心底嘆かせることになる。
育て方を誤ったのか、領主としての自覚を持たせられなかったのかと、自身を責めてしまうに違いない。
フェリクスが逡巡している間にも、状況は刻々と変化していく。
その変化はすべて、人間の側に不利なものであった。
「閣下、ご決断ください」
「待て……」
「閣下!」
「いや、待つんだ。何か様子がおかしいぞ」
突然、船底の穴から入ってくる翼人たちの流れが止まった。
一部の兵士は相手ももう打ち止めなのかと喜色を浮かべているが、一方の翼人たちは戸惑いの色をその顔にありありと浮かべている。
「――おかしいですな、敵の数はまだまだ残っているはずですが」
「それで、翼人の側も驚いているんだろう」
様子を探るためか、その何人かが外へと出ていった。
しかし、いつまで経ってもその者たちが帰ってくることはなかった。不審感を強めた翼人の側が一時攻撃を控え、戦いは膠着状態に陥った。
そのとき、あることに気がついたのはオトマルだった。
「フェリクス様、外から何か物音が……」
「これは――剣戟の音か? 誰かが外で戦っているのか」
初めははっきりとはわからなかったそれも、今では|鬨(とき)の声とともにしっかりと聞こえてくる。
それは兵士たちにとっても同様だったようで、あちらこちらから驚きの声や状況をうかがう声がフェリクスらの耳に届く。
しかし、翼人の側の動揺はそれとは比較にならなかった。自分たちのほうが絶対的に有利だと思い込んでいたのに、突然不測の事態が発生した。
しかも、ここは空中。人間の側に援軍があるはずがないというのに。
あわてた様子で話し合っていた翼人たちはしばらくすると、ひとり、またひとりと外へ出ていく。やがて艇内に残る、翼ある者の姿はすっかりなくなっていた。
兵士たちの間から、安堵の声が漏れる。だが、フェリクスはあえて叱咤した。
「まだ油断するな! 状況がわからない。もしかしたら、新たな敵が現れたかもしれないのだ。何が起きているのかはっきりするまでは警戒を怠るな」
つづけて、手近にいた兵士の幾人かに声をかける。
「何人かは私に付いてこい。甲板のほうへ行って状況を確認してくる」
「フェリクス様、それは他の者に任せたほうが」
「いや、自分の目で見る」
今回の戦いの趨勢だけではない、何か今後の行く末を暗示するようなことが外で起こっているのではないか――そんな確信めいた予感があった。
フェリクスは腕の痛みをこらえながらも、オトマル他、数人を引き連れて駆け足で甲板へと向かった。
いつどこで敵が待ち伏せているか知れない。死角になる曲がり角などではいつも以上に慎重に進まなければならず、それがもどかしくて|苛立(いらだ)ちをつのらせた。
甲板へとつづく階段のところまで来た。さすがに先頭で行くことは押しとどめられ、オトマルが入れ替わり、警戒しながら外へと出た。
その上空でくり広げられていた光景に、一同は唖然となった。
「翼人同士で戦っている……?」
そうなのだ、翼人が剣を交えている相手は、まぎれもなく同じ翼人であった。色とりどりの翼をした者同士が、互いに斬り合い押し合いして、一進一退の攻防をつづけていた。
「仲間割れしているのか?」
「いえ、閣下。よく見ると、片方の側がまとまった動きをしていますぞ」
確かに、優勢になりつつある側は統率された動きをとっているのが見てとれる。
しかし、それはけっして画一的な動きをしているという意味ではなく、それぞれが自由に動き回っているように見えながら、どこか全体として連動しているのがわかるという独特のものであった。
そのとき、フェリクスはあることにはっと気づいた。
「もしかして、ローエ軍の臨機応変な動きというのはこういうものなのか?」
「かもしれません。これは、我々人間の戦術を超えております」
オトマルはそれを見て、場違いとは知りつつひとりの騎士として感動を覚えていた。これは人間にとって、まったく未知の新しい戦い方であり、考え方であった。
これまで翼人に対してどちらかというと野蛮人というような印象を持っていたが、それを改めなければならないのかもしれない。
――彼らは、人間を超えるものさえ持っている。尊敬するに値する種族のようだ。
少しでも戦を知っている者ならば、戦いの趨勢がどちらに傾いているのかは、もはや明らかであった。
連動性が低い側はあっという間に劣勢に立たされ、散り散りになっていく。そして、なおさら味方との連係が難しくなっていった。
やがて、次々と離脱を始めた。
格が違いすぎる。
かなわない相手からはさっさと逃げるという判断は臆病でも卑怯でもなく、まったくもって正当な賢い判断であった。
勝利を収めた側も、無理に追いかけることはしない。これもまた賢明である。
むやみに深追いすると、ろくでもない事態に陥ることが多い。罠が待ちかまえているかもしれないし、どこかに敵の伏兵が潜んでいるかもしれない。そういったものがなくとも、窮地に立たされた相手が決死の覚悟で思わぬ反撃を仕掛けてくることもある。
それらをわきまえているということは、どちらも戦う集団として質が高いということを示していた。
――どちらが敵に回ったとしても、かなり厄介なことになる。
「はてさて、あの勝った側が我々の敵ではないことを願うばかりだが」
その軽い口調とは裏腹に、フェリクスは緊張感を高めていた。敵の敵が味方であるとは限らない。敵の敵がまた新たな敵ということも十分有り得る。
もしそうであるなら、今度こそこちらはもう持たない。負けた側の翼人相手にさえ極めて劣勢に立たされていたくらいなのだから、あの洗練された動きをする勝った側にかなうはずもない。
フェリクスだけでなく他の面々も同じ思いだった。
一同が緊張の中相手を見つめていると、その中のひとり、紅色の翼をした黒髪の女性が彼らのほうを見下ろした。
「うん?」
その視線の先にはフェリクスがいた。
驚く彼に、女はいたずらっぽく微笑みながら片目を閉じると、他の翼人を率いてあっという間に去っていった。
「……フェリクス様は、翼人にも好かれているのですな」
「変なことを言わないでくれ」
オトマルの物言いにフェリクスは不満そうだが、そんな二人の周囲からは笑い声が上がっていた。それは、助かったことに対する安堵の笑みでもあった。
――あの翼人たちが助けてくれたのか、それともたまたま自分たちの敵が相手にとっても敵だっただけなのか。
その辺のことは、フェリクスには判断のしようがなかった。
いずれにせよ、この飛行艇フィデースは無事だった。船底をはじめいくつかの箇所は壊されてしまっているが、まだどうにか飛べるだけの体裁は整っていた。
「よし、まずは負傷者の手当てからだ。それから、艇の直せるところはすぐに直せ。他の手の空いている者は降りられそうなところを探すんだ。〝風読み〟は逆向きの風を探せ」
これから反転してノイシュタット侯領まで戻るとなると、相当な時間がかかる。今は大丈夫でも、いつまでこの飛行艇が持つかはわからない。できればどこかに着艇して、そこから陸路で帰ったほうがいい。
生き残ったことで希望が湧いてきたのだろう、それぞれがてきぱきと自分の役割をこなしていく。その姿に頼もしさを感じながら、自身も空の航路図を見に行こうとした。
それを止めたのは、副官のオトマルだった。有無を言わせず主君の腕をとり、浅くはない傷に布をあてがった。
「フェリクス様、なんとかなりましたな」
「ああ、偶然に助けられた気もするが、あの洗練された翼人たちに感謝しなければな」
「彼らはいったい何者だったのでしょう?」
「わからん。だが、嫌な感じはしなかっただろう? 最初に襲ってきた連中は、狂ったような秒な雰囲気があったがな」
「そういえば、あの襲撃者も謎ですな。なぜ、我々の飛行艇を襲ってきたのか」
「ただの気まぐれかもしれん」
「本当にそうお思いですか?」
フェリクスは肩をすくめた。顔をしかめたのは、傷のせいばかりではない。
あの襲撃が偶然、ということはまず有り得ない。これまで翼人が飛行艇を襲ったなどということは、見たこともなければ聞いたこともない。
――そもそも、相手の目的が見えないのが不気味だ。
乗員を倒し、飛行艇を落とすことで彼らに得るものがあるとは思えないのだが。
「我々はカセルへ向かっておりました。これはもしや……」
オトマルの指摘に、フェリクスは返事をしなかった。否、できなかった。考えたくはない可能性ではあったが、もはや考えるしかないのかもしれない。
――ゴトフリート殿は、よほど私と会いたくないとみえる。
飛行艇フィデースが転進を始めた。カセル侯領の都ヴェストベルゲンへの航路から徐々にそれていく。
上空には、はぐれ雲がひとつ、ぽつりと浮かんでいた。それは、急速に東へと流れていった。