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空を飛ぶというのは、いろいろと不安になるものだ。
足の下に〝何か〟はあるのだが、そのさらに下には何もない。それが頭でわかってしまっているから、余計に落ち着かなかった。
艦橋を強い風が吹き抜けていく。髪がそれに揺さぶられ、後ろへとなびいている。
飛行艇フィデースは、進路を南東にとって空の上を進んでいた。
オリオーンはもちろん使えない。|大弩弓(バリスタ)を搭載しているのが完全にばれると、後々さらに厄介なことになるからというのもあるが、実はさらなる強化・改良を施しているためだった。
「ギュンター殿の忠告にのったというわけではないがな」
「オリオーンのことですか」
「ああ。どうも、これから何か大きなことが起きそうな気がするんだ」
少なくとも、準備だけは抜かりなくしておきたかった。あとでああすればよかった、こうすればよかったと後悔するようなことだけは避けたい。
オリオーンの武装を強化することが、その準備になるのかどうかはまだわからない。
あれはもう、武器を載せた飛行艇というより、それ自体がひとつの巨大な兵器となってしまった。
それを利用することが果たして本当に正しいことなのかどうか判断しかねる部分もあったが、今のところその強化以外にやるべきことを思いつかなかった。
「ゴトフリート殿はどう思っているのだろうな、オリオーンのことを」
使者は気にしていない様子ではあった。それどころか、いつものようにこちらを気遣ってさえくれた。
しかし、オリオーンの凄まじい威力の話を聞けば、誰もが少なからず脅威を感じるはずだ。それが、自領を守らなければならない立場にある者ならば、なおさらに。
自分自身、もし他の領主や国が同じようなことをしたら、最大の警戒心をもって注視することになったはずだ。
それくらい、領地などの安全を考えるうえでは、オリオーンのような兵器はあまりにも危険な存在であった。
「残念ながら、侯も快くは思っていないでしょうな」
「だろうな。本当は先日の夜会のときに、内々に伝えておこうかとも思ったのだが……」
ゴトフリートは現れなかった。すでにその理由は使者より聞いているが、こころのどこかに釈然としないものが残っていた。
「今はそれよりも、渡航の許可が未だに下りていないことのほうが大問題でしょう」
「それはそうだ」
また憂鬱な気分になる。
飛行艇は細かい制動が利くわけではないので、着陸の際に大きな衝撃をともなうことが多い。
その性質上、地面へ降りることは難しく、それなりの深さのある川や湖を利用しなければならない。
各地での防衛面の問題もあって、飛行艇で他領へ渡る際には移動先の許可が必要だった。
しかし今回、渡航先のカセル側、すなわちゴトフリートからは許可の求めに対する返答が未だ届いていなかった。
「フェリクス様、少し先走りすぎたのでは?」
「そんなことを言っても仕方がないだろう。どうしても、選帝会議が始まる前に会っておきたかったんだ」
それがいったん開始されてからでは、すべてが急激に推移していくような確信めいた予感があった。
「今なんだ。今、なんとしてもゴトフリート殿と会って話をしておかなければならない」
そんな思いに駆られ、使者の帰りを待つことなく、早めに出航することにした。使者には、航路上で定期的に狼煙を焚くように言ってある。それがあれば、許可は下りたということだ。
しかし、航程もそのなかばに差しかかったというのに、狼煙はまだない。
「本来、渡航の認可にこんなに時間がかかるはずはないのですが」
「ああ。使者に何かがあったのか、それともカセルの側に……」
いろいろと理由は考えられるものの、こうしたことは今までにまったくなかったということだけは、はっきりとしていた。
――ゴトフリート殿、何を考えておられるのです。
恩師とも呼ぶべき人を疑うような真似はしたくない。しかし、こうも不可解なことがつづくと、どうしても悪い方向に思考が傾いてしまう。
ゴトフリートの狙いはなんなのか。
ギュンターの指摘は正しいのか。
そして、自分はどう判断すべきなのか。
もし相手がゴトフリートでさえなければ、もっと素直に判断できていた。
しかし過去の思い出があり、彼の人柄を知ってしまっているだけに、どうしても最後まで彼を信じたいという気持ち強かった。
「閣下」
「どうした? 狼煙が見えたか?」
オトマルの鋭い声に、フェリクスが期待のこもった眼差しで副官を見た。
だが、オトマルは反対に眉をひそめている。
見張り台にいる兵士からの合図、それは――接近者の存在だった。
「接近者? 別の飛行艇が飛んでいるとでもいうのか」
「まだわかりませぬ。ただ警戒はしておきましょう」
見張りの者は軍のなかで一番遠目が利くとはいえ、ずっと先まで見通せるわけではない。対象がある程度のところまで近づいてこなければ、目視は難しかった。
だがその数瞬後、見張りの大声が艦橋に響き渡った。
「接近者は複数! いや、多数! あれは、あれは……」
「どうした!?」
「よ、翼人です! 武器を持った翼人の集団がこちらに向かっています!」
一同に戦慄が走る。
よもや、空中で翼人たちの襲撃を受けることになろうとは予想だにしなかった。
しかも、この飛行艇はフィデース。オリオーンのような兵装は何もない。
「私の見通しが甘かった……!」
フェリクスは、艦橋の手すりに拳を叩きつけた。
アルスフェルトの襲撃。
そして、先日のフィズベクでの反乱。
それらのことを踏まえれば、飛行艇に対する襲撃があってもおかしくはないと予想できたはずだった。
しかも空は本来、彼らの領域だ。もしかすると地上で戦う以上に、相手には利があるかもしれなかった。
それなのに、こころのどこかで飛行艇が狙われるはずがないという安易な思い込みがあった。
根拠がなかったわけではない。翼人と人間の小競り合いの歴史は長いが、これまで飛行艇が襲われたことなど一度としてなかった。
しかし、過去になかったことがこれからも起こらないなどという保証はどこにもない。
「嘆いている場合ではありませぬ。早く対策を練りませんと」
「ああ。武器を持っている者はすぐに抜け! そして、できるだけ甲板の中央で一塊になるんだ!」
総員が受け持ったところから離れ、剣や槍を構えながら甲板に集まる。
しかし、その数は少ない。通常の飛行艇に、それほど多くの人員を乗せられるわけではなかった。ましてや、弓兵らを連れてきているはずもない。
しかも、飛行艇には個人用の武器さえ載せてはならないという暗黙の了解があるから、本当に兵士それぞれの手持ちの武器がすべてであった。
「槍兵はもちろん前だぞ! 剣を持っている者は、上空に気をつけろ!」
焼け石に水かもしれないが、何もやらないよりはましだ。なけなしの人員を用いて、陣形を整えていく。
そうこうしているうちに、相手はかなりのところまで接近してきた。今ではもう、その姿がはっきりと視認できる。
手に剣を持ち、敵意をむき出しにしてこちらへ向かってくる。
「とても話し合いができる雰囲気ではないな」
「そもそも、翼人と話し合えるかどうかわかりませんが」
オトマルは肩をすくめると、真剣な眼差しをフェリクスへまっすぐに向けた。ここ最近では見たことのない、真剣さと覚悟の宿った目だ。
「そろそろ、我々も陣形に加わりましょう。ここに突っ立っていても、相手にいいようにやられてしまうだけです」
「そうだな。少しでも望みのあるほうを選択すべきだ」
場所を変えながら、オトマルはフェリクスに言った。
「申し訳ありません、フェリクス様。わたくしが付いていながら、このような窮地に陥らせてしまい……」
「何を言っている。謝らなければならないのは私のほうだ。ノイシュタット侯という地位にありながら、正しい判断を下せなかった。その結果がこれだ」
不甲斐ないのは、大切な部下たちを危険にさらしてしまったことだ。
もう少しだけ注意深さがあれば、他にいかようにも対策をとることができたろう。今回のようなことを招いたのは、ひとえにみずからの至らなさのゆえであった。
「いえ、フェリクス様。わたくしどものことはいいのです。我々こそがあなた様をお守りしなければならなかった。それが申し訳ないのです」
「オトマル……」
「しかしあきらめませぬぞ、最後の最後まで。元よりこの老いぼれ、命を惜しんだことなど一度としてありませぬ。たとえ肉片のひとつになり果てようと戦いつづけましょう」
オトマルの横顔は、もはや気のいい副官のものではない。それは、ひとりの激しい戦士の顔であった。
フェリクスも剣の柄を固く握りしめ、己の覚悟を決めた。
目の前に迫ってくる翼人の数は、明らかにこちらより多い。だが、少しでも生き延びる可能性があるのなら最後まであがきたかった。
――可能性をみずから捨てるのは愚か者のすることだ。
そう自身に言い聞かせ、味方を鼓舞しながら敵の襲来を待つ。
兵士たちはフェリクスが自分の近くに来てくれたことで心強さを感じたのか、その目から戸惑いの色が消え、かわりに覚悟と闘志が全身にみなぎっていった。
目前に翼人たちが迫る。相手はこちらに弓矢がないのを見て取り、以前とは違って迷うことなく突っ込んできた。
剣と槍とがぶつかり合う。そこからなだれ込むようにして、敵の集団がこちらに押し寄せてきた。
「少ない槍兵だけでは勢いを止め切れませんでしたな!」
「仕方がないさ!」
早くも陣形の中心にまで敵の数人が来た。フェリクスとオトマルも、みずから剣を振るうしかない。
相手の勢いは圧倒的だった。数で勝っているということもあるのだろうが、驚くべきはその速さだ。
飛行艇は、基本的に風にのって飛んでいる。すなわち、その正面から仕掛けるということは完全に逆風のはずだった。
にもかかわらず、相手の勢いが衰える気配はない。
――空は翼人の領域ということか。
風にうまく乗るのではなく、|風を操っている|(、、)かのような印象すらある。普段は地べたを這いずり回っている人間が空で翼人と争おうとするなんて、どだい無理な話だった。
ただ幸いだったのは、甲板がそれほど揺れないことだ。
飛行艇は風に逆らうことがないせいだが、それでも時おり急に風向きが変わったりすると艇が傾くことがある。しかし、今日は風が安定していてその心配だけは必要なかった。
床にしっかりと足をつけて戦えば地上と同じようにやれる、はずだった。
だが、ここは空高くに位置し、落ちたらおしまいだという意識が、兵士たちの足を確実にすくませる。それへの対策もあって甲板の中央に集めさせたのだが、効果はいまひとつのようだった。
「敵も一塊になって攻めてきますな」
「ああ、分散してくれると助かったんだが」
それも、前回の戦いとは違うところで、今回は敵が拡散していない。
まるで人間のように陣形を組んで、そのうえで襲いかかってくる。人数に勝ることを理由にばらばらに仕掛けてくれたほうが、こちらとしては各個撃破のチャンスがまだあったのだが。
しかも、相手はまとまったまま攻撃しては離れ、また攻撃をしては離れという一撃離脱の戦法をくり返してくる。
――まるで隙がない。
有効な策が打てないでいる間に、味方の兵士たちはひとり、またひとりと確実に倒されていく。このままでは、全滅させられるのは時間の問題であった。
「閣下」
「どうした!? さすがの〝百戦錬磨〟も怖じ気づいたか!」
気持ちを鼓舞するためにわざと焚きつけるようなことを言ったが、オトマルの表情は硬いままだった。
「閣下、万が一のときには飛翔石を持ってお逃げください」
「……何を言っている?」
「小型の飛行艇のことをすでにご存じでしょう。このフィデースにも搭載してあります」
「私が知っていることに気づいていたのか」
オトマルが有事の際のことを考え、通常の飛行艇に載せられる小型の艇を密かに開発させていたことは、ユーグを通じて聞き及んでいた。
あえてこれまで黙っておいたのだが、まさか今回それを使わざるをえない事態に陥る羽目になろうとは。
「あれは操縦が難しいそうですが、すでに専門の者を付けてあります。ここも持たなくなったら迷わず逃げるのです。いいですね?」
それは諭すというよりも命令に近い。自分が信じたことは頑として譲らないのは、オトマルのいいところでもあり悪いところでもあった。
いったい、この調子で今まで何度怒られたことだろう。ふとそんなことを思い出し、場違いとは知りつつもフェリクスは穏やかな気分になっていた。
しかし、今回ばかりは〝はい〟と素直に聞くわけにはいかなかった。
「オトマル、気づかいはありがたいが、私はあきらめが悪いたちなんだよ。お前と一緒でな」
「閣下……」
「私も領主だ。最後は、自分がどうすべきかはわかっている。だが、本当にぎりぎりのところまで決してあきらめたくはない。ほんの少しでも望みがあるかぎり、私は剣を捨てない」
その言葉には確固とした信念が込められていた。フェリクスも、オトマルと同等かそれ以上に頑固な男であった。
やれやれと、オトマルはため息をつきつつ首肯した。
「わかりました。そういうことならば、わたくしも最後までお供いたしましょう」
「当然だ。我が副官にいなくなってもらっては困る」
二人は不敵に笑うと、四度目の攻撃を仕掛けようとしている敵に真正面から向き合った。
と、そこで初めてフェリクスがある違和感に気づいた。
「――相手の数が減ってないか?」
最初に敵の集団を見たときよりも、人数が少ないように思えてならない。密集しているからそう感じるというわけでもあるまい。
「オトマル、どうだ?」
「わたくしにはわかりませぬが……」
「おい、お前はどう思う?」
と、たまたま横にいた兵士のひとりに問いかけた。
「は、はい。確かに、わずかではありますが数が減っているような気はします」
「やはり、そうか」
何人か倒したから、というのは考えにくい。こちらがずっと防戦一方で、おそらくひとりとして叩き落とせてはいない。
ならば、消えた翼人たちはどこへ何をしにいったのか。
相手のほうが優勢なのだから、応援を呼びにいったのでもないはずだ。
ちょうど目の前の翼人たちがまた急降下を開始しようとした刹那、足下の床から断続的に振動が伝わってきた。
――なんだ?
と思ったのも束の間、すぐにその答えが頭に閃いた。
「まさか……」
その戦慄する解答を周囲に告げる前に、翼の塊が眼前にまで迫った。
こちらの陣形の一部がなぎ倒され、ごっそりと味方を失う。
フェリクスは必死に防御したものの、あえて刀身の短い剣を使っている翼人の一撃が、左の二の腕を深くえぐっていった。
「フェリクス様!」
「私は大丈夫だ。それよりも、船底に誰か行かせろ! 奴ら、飛翔石を奪ってこの船ごと我々を落とすつもりだぞ!」
翼人の襲撃に戦々恐々としていた兵士たちも、それの意味するところを悟って怖がっている場合ではないことを思い知った。