第五章 真実
辺りはすっかり暗くなり、どれほどの時間が経ったのか、遠くのほうから梟の鳴く間抜けな声が聞こえてくる。
ヴァイクたちはあれから、そこを一歩も動くことができなかった。体に力が入らず、考える気力もない。
それほどまでにリゼロッテを失った悲しみ、そして衝撃は大きかった。
あの子はただの子供ではなかった。皆のこころの支えだった。
それはもう、完全に失われてしまった。永遠に帰ってくることはない。その喪失感が、どうしようもなくそれぞれのこころを|苛(さいな)んでいた。
――このままではいけない。リゼロッテの分も一生懸命に生きなきゃいけない。
理性がそう訴えかける。しかし、理性以外のすべてがそれを拒絶していた。
ヴァイクは、月明かりに半分照らされた自分の手を見つめていた。
――この手。この手はいったいなんだろう。
自分のために動いてきた手。
多くの命を奪ってきた手。
そして、ひとりの少女を救えなかった手。
この手がいろんな非道を行ってきた。兄の生きたままの心臓を掴んだのもこの手だ。
ヴァイクはたまらず、ぎゅっとそれを握りしめた。長く伸びていた爪が皮膚を突き破り、指の間から黒い血を|滴(したた)らせる。
この両の手を切り落としてしまいたくなる衝動に駆られた。最後まで何もできなかったこんな手にどんな価値があるというのか。この手は、がらくた以上に意味のないものだ。
――俺はばかだ。
前からわかっていたつもりだったが、本当のところを理解していなかった。周りを犠牲にするばかりで何もできない、どうしようもない愚か者だった。
――その俺が人を救う? そんなの笑い話にしかならない。
己の分というものをわきまえろ。お前は小さい男なのだ。夢を見るな。
「ヴァイク……何をしてるの!?」
気づいたベアトリーチェが、悲鳴じみた声を上げて彼の元へ駆け寄った。なかば無理やり彼の手をとり、力を入れすぎて硬くなっているそれを両手でどうにかして開かせた。
爪が深く食い込んだ手のひらは案の定、血まみれになっていた。懐から布を取り出して手をしばり、とりあえず止血する。
「もう……すべてがどうでもよくなってきたな……」
「ヴァイク……」
月明かりにうっすらと浮かぶヴァイクの顔は、まるで死人のようだった。生気がなく、覇気は微塵も感じられない。
ベアトリーチェはその姿を見て、かえって自分自身は正気に返ることができた。ついさっきまではまさしくヴァイクと同じ状態だったのかもしれないが、今の彼の様子に自分もこのままでいけないとはっきりと悟った。
気持ちを改めて、ベアトリーチェはヴァイクと向き合った。
「ヴァイク、もう休みましょう。きっと疲れていると思うの、みんな。だから、余計なことまで考えようとしてしまうのよ」
「休みなんて必要ない」
「でも、また明日からは歩かないと」
自分たちには北の帝都へ向かうという目的がある。たとえ何が起ころうと、その歩みを止めるわけにはいかなかった。
しかし、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「俺はもういい。行きたいならジャンと行ってくれ」
そう言われた当のジャンがおろおろする中、ベアトリーチェはむしろ毅然としてヴァイクの目をじっと見つめた。
「ヴァイク」
「――――」
「あなたはここで逃げるつもりなの?」
「……なんだと?」
「あなたにも目的があったから、翼人なのに私と一緒に北を目指したんでしょう。ここであきらめて逃げて、あなたはそれでいいの?」
ヴァイクがさっと目をそらした。その彼の顔を両手でしっかりと掴み、強引に自分にほうに向かせる。
「リゼロッテは……ただ死んだんじゃない。あの子は、最後の最後まで自分らしく生きた」
けっして不慮の事故でも無駄死にでもない。リゼロッテは自分で選んで、その道を終わりまでまっすぐに進みつづけた。
「だから、もしリゼロッテの死を言い訳にあなたがすべてを捨てるというなら、それは――あの子への冒瀆よ」
ベアトリーチェの声は、いつにない力強さを感じさせるほどの迫力があった。
しかし、その目から涙があふれ出る。
悲しいのではない。
悔しくて仕方がなかった。
なぜこの人は、リゼロッテの純粋な思いを汲み取ってあげられないのだろう。
この人こそが、ヴァイクこそが同じ翼人として、同じ苦悩を抱える者として理解してあげなければならいというのに。
ヴァイクは震える唇を噛みしめ、強く握った拳を震わせた。ベアトリーチェの細い腕を振り払ったのは、しばらくしてからのことだった。
「――わかった。行けばいいんだろう。帝都だろうとどこだろうと行ってやるさ。どの道、俺が帰るところなんてもうないんだ」
「ヴァイク……」
自分の思いは伝わらなかったのか。リゼロッテの遺志は彼の中で消えてしまったのか。
どうしたものかと途方に暮れるベアトリーチェの横に、男の気配があった。
その男の意外に太い腕が拳を振り下ろし、ヴァイクの頭を頂点から思いきりごつんと叩いた。
「|痛(いつ)っ……何をする!?」
「子供じゃあるまいし、駄々をこねちゃだめだよ、ヴァイク」
それはジャンだった。怒ったような顔で、座り込んでいるヴァイクを睨みやった。
「そうだ、俺たちを育ててくれた婆ちゃんの話をしようか」
「そんなことはどうでもいい」
相当に痛かったのか、頭をさすりながら顔をしかめるヴァイクが不機嫌そうに拒絶したが、ジャンはかまわず話をつづけた。
「いいから聞いてよ。婆ちゃんは爺ちゃんが死んだときに、嘆いているみんなに向かってこう言ったんだ」
いったん切って、ジャンが上を向いた。
風に揺れる木々が、月明かりに照らされてきらめいている。
「死は死者にとって意味をもたない。死は生者にとってこそ意味をもつ」
「……どういう意味だ?」
「俺も、最初はよくわからなかったんだ。当たり前だけど死んだのは死んだその人なんだし、生者はまだ生きているんだから死とは関係ないじゃないかって」
ヴァイクがジャンの目を見ると、そこには驚くほどの意志の強さが秘められていた。ベアトリーチェと同等か、もしかするとそれ以上かもしれない。
「だけど、今やっとわかったよ。死者はもうこの世にはいないんだから、その死んだ人自身が死について考えたって意味はない。どうしようもないからね、もう死んじゃってるんだから。だけど、死者についての記憶は生きている人に残る。つまり、死んだ人や死そのものについてどう思うかは、生きてこの世界にいる人たち、要するに俺たちしだいなんだ」
ある人の死が他の死者に影響を与えることはない。その対象は常に生者だ。
ある人の死をきっかけとして絶望する人もいれば、逆に奮起する人もいるだろう。しかし、死者自身が嘆いたり希望を持ったりするわけではない。
「リゼロッテちゃんの死は死なんだ。それをどう受け取るかは、俺たちしだいってことなんだよ」
あの子が永遠にいなくなったことで、すべてを捨て去るのもひとつの受け取り方かもしれない。
しかし、それではあまりにも悲しいではないか。誰も救われないではないか――リゼロッテの魂さえも。
「だから、ヴァイク。あの子の死をいいほうに汲み取ってあげようよ。俺たちが、あの子の死を価値あるものにしてあげようよ。それができたとき、きっとリゼロッテちゃんの魂が救われるんだと思う」
ジャンの目にも、いつの間にか涙が浮かんでいた。自分で話しているうちに込み上げてくるものがあった。
ヴァイクも、ベアトリーチェも、そしてアセルスタンでさえも、彼の言葉に感ずるものがあった。全員がひどく驚いた様子でジャンを見つめている。
「ジャン、お前……」
「あ、あれ? 俺、変なこと言ったかな?」
「本当にお前はすごいんだか、だらしないんだかよくわからないな」
「なんだよ、それ」
口をとがらせるジャンに、ヴァイクは微笑んでいた。それはまだ力のない笑みではあったが、幾ばくかの希望を感じさせるものでもあった。
ヴァイクはもう大丈夫、そう思えた。
「ベアトリーチェ」
「何?」
「俺は生きていていいのか? リゼロッテはあんなに幼かったのに、あんなに高潔な死を選んだ。だけど、俺は……」
ベアトリーチェは首を横に振った。
「その答えは、もうあなたの中にあるでしょう?」
「俺の中に?」
「前に言ってたじゃない、人生っていうのは選択することなんだって。私もそう思う」
リゼロッテは、ジェイドを食べないという選択を自分でして、自分でそれを最後までまっとうした。
「人の生き方は人それぞれじゃない? リゼロッテがどうこうじゃなくて、ヴァイク、あなたはあなたの生を選ばなきゃ」
「――そうか、そうだな」
ヴァイクが大きくうなずいた。その瞳には、いくぶん生気が戻っていた。
――ヴァイク、生きて。あなたが抱えきれないものは私が引き受ける。
これからも、ずっと、ずっと。
「生きるってのはつらいもんだな、ジャン」
「そうかな? 面白いものも美味しいものもたくさんあると思うけど」
今度こそヴァイクは噴き出した。
「本当にお前は幸せ者だな」
「どういう意味だよ?」
再び不満げに唇をとがらせたジャンから視線を外すと、それまで大樹に背を預けていた男がゆっくりとこちらへ近づいてくるところだった。
「ヴァイク、だったか」
「なんだ?」
その男とは、あの片翼の戦士であった。
憑きものの落ちたようなすっきりとした顔で、しかしどこか悲壮感を漂わせながら、左手に持った剣をすっと差し出した。
「俺の名はアセルスタンという。今このときの思いを忘れたくない。お前と剣を交換したい」
ヴァイクは驚いて、その無骨な剣に目を向けた。
翼人の間では、互いを認め合った戦士が、たとえ部族が違う者同士でも剣を取り交わし、それぞれの武勇を讃え合う〝|剣違(つるぎたが)え〟という習慣があった。
翼人にとって、剣は命と同等の価値を持ち、女でもかならず一本は自分だけの剣を所持してそれを肌身離さず持ち歩く。
それを交換するということは、生涯に渡って互いを尊重し合うことを意味していた。
しかし翼人である以上、部族間の戦いは宿命づけられている。つまり部族が違えば、たとえ剣を取り交わした盟友であっても再び命をかけて戦うことも有り得る。
それが、翼人の定めであった。
「この剣は……」
自分の剣を見て、兄と、そしてマクシムのことを思い起こす。
二人も剣違えをしていた。だから今ここにある剣は、元はマクシムのものだった。
と同時に、兄の形見でもある。さすがに、これを手放していいものかどうか迷った。
「ヴァイク、いいんじゃないかな」
「ジャン……」
「どんなに大切なものでも、本当に大事なのはその物じゃなくて、そこに込められている思いなんだよ。物が自分の手から離れたとしても、その思いはきっと消えない。そんな気がするんだ」
ヴァイクははっとして、もう一度愛剣レア・シルヴィアを見た。
兄がこれを自分に渡したとき、いったいどんな思いを込めていたのだろうか。
――兄さんは、この剣にこだわることを望んだのではない。
そうではなく、自分らしく生き、正しい道を進むことを願っていたはずだ。
ならば、剣に執着することは兄の遺志に反することになる。ここは、アセルスタンの思いをこそ大切にするべきだと思えた。
「ジャンは偉人なのかばかなのか、本当にわからないな」
「ええ~、さっきからなんだよ」
ジャンの不満げな声にヴァイクは笑いながら、左手で剣を鞘ごと差し出した――アセルスタンに向かって。
「これはレア・シルヴィアという。二人の兄が俺に残してくれた、南方から伝えられた剣だ」
「奇遇だな。このリベルタスも南方でつくられたという。これも何かの縁かもしれん」
リベルタスを相手から受け取ると、その重さに剣先が下へ落ちそうになる。
――こんなに重い剣を使ってたのか。
あれだけの力だからこそ、当たり前のように軽々と扱えていたのだ。自分に使いこなせるかどうか、少しだけ不安があった。
一方のアセルスタンは、逆の感想を持ったようだった。見た目よりも軽いレア・シルヴィアを不思議そうに片手で振っている。
まあ、なんとかなるだろう――それが、二人の共通した感触だった。
「俺たちは北へ向かうが、お前はどうするんだ?」
アセルスタンはかぶりを振った。
「……まだわからない。だが、俺もあちらこちらへ行ってみるつもりだ。今まで世間を知らなすぎた」
無知が驕りと愚かさを招いてしまっていた。それだけが原因ではないのだろうが、見聞を広めるためにもいろいろなところへ行ってみるべきだと今は考えていた。
それに、もう帰るべきところもない。
「ヴァイク、お前はいい仲間に恵まれたようだ」
「そうかもしれない」
ベアトリーチェやジャン、そしてリゼロッテと出会えなかったら、今頃自分がどうなっていたかもわからない。それを思うと、少しぞっとするくらいだった。
「アセルスタン、お前は西へ行ってみたらどうだ? あの――レベッカとかいう女がなんとかしてくれるかもしれん」
「いつかな」
そっけなく答えると、アセルスタンは剣を腰に収めてヴァイクらに改めて向き直った。
「いつかまた会うかもしれないし、会わないかもしれない。俺もどこまで持つかわからないが、これはそれまで大切に使わせてもらう」
レア・シルヴィアの柄頭を軽く叩くと、アセルスタンはヴァイクたちに背を向けた。そして静かに、森の闇の中へと消えていく。
ヴァイクたちは、何も言わずにそれを見送った。
梟の鳴き声も消え、すっかり周囲が静寂に包まれてひとりの少女がいなくなったことの寂しさを三人が実感しはじめたとき、おもむろにベアトリーチェが口を開いた。
「どんな人でも、いろんな悩みを抱えて生きているものなのね」
「悩みのない奴なんて、翼人にも人間にもいないだろう」
「じゃあ、やっぱり人間と翼人にたいした差はないのかもしれない。ほとんど同じなのかもね」
「そうだな」
究極的には、ほとんど何も変わらないのかもしれなかった。翼人は人間を、人間は翼人を意識しすぎ、その結果としていたずらに差別する意識を持ってしまった。
お互いを偏見なく理解するには、お互いのことをよく知る必要があるのは事実だ。
だがその一方で、知れば知るほど相手のことが嫌になることもあるし、どんなにお互いに対する知識を深めても、たいして効果がないこともある。
まったく反対に、双方がたとえ初対面であったとしてもわかり合えることもある。
翼人の世界をよく知らなくても翼人を尊重する人間もいれば、人間の世界をよく知らなくても人間を尊重する翼人もいる。
今この出会いの大切さ、今という永遠を敬うこと。
互いを〝知る〟ではなく、それぞれがどんな他者であっても敬うことのできる、本当のこころの強さを持つこと。
それさえあれば、互いへの知識などなくとも、人は人を受け入れられる。
「この世界に差別があるってことは、誰もがまだ未熟ってことなのかな」
ヴァイクは剣の柄を握りしめながら、夜空を見上げた。
そこではのんきなジャンよろしく、まん丸の月がようやく雲間から完全に顔を出していた。