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つばさ  作者: takasho
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 すべてが茜色に染まっていく。

 結局、岩場で亡くなっていた男の埋葬が終わったのは、日が完全に傾いてからのことだった。

 翼人の彼と別れたあと、テオの馬車で遺体を運ぶわけにもいかず、いったん神殿に戻ってから棺をここまで運んだ。

 それに亡骸を入れてからまた神殿に戻り、やっとのことで共同墓地に葬ることができたのだった。しかもその間、衛兵による検分もあったので余計に時間がかかってしまった。

 彼らも心臓がないことと、切り口があまりに見事なことに驚いていた。いろいろと調べていたようだが、残念ながら男の身元もまったくわからず、犯人やその目的のめどがつくはずもなかった。

「ふう……」

 右腕に巻いておいた大事なスカーフを縛り直しながら、周囲を振り仰いだ。

 まだ数人が作業をつづけている。神殿の仲間たちに手伝ってもらったものの、ただでさえ気が滅入る作業だ。気がつかないうちに、体だけでなくこころまで重たくなっていた。

「ベアトリーチェ、ご苦労さま」

 額にうっすらと浮かんだ汗を拭いながら振り返ると、そこには白いケープを羽織った、|三十路(みそじ)にかかろうかという女性が立っていた。

「アリーセ様」

 彼女がこの神殿の長であり、子供の頃からここにいる自分のような者にとっては母親代わりの存在でもあるアリーセであった。

 誰よりも優しくあたたかく、そしてときには厳しいけれど、いつもどこかで支えてくれているまさしく聖母のような人だ。

「大変だったわね、買い出しに行ったはずがこんなことになるなんて」

「いえ、これも神官の務めですから」

「ふふ、相変わらず生真面目ね。どこかで息抜きしなきゃ駄目よ」

「はい、お母様」

 自分の身を心配してくれることは純粋にうれしい。アリーセの笑顔にこちらも笑顔で答えた。

「ところで」

 と、急に真剣な顔になって聞いてくる。

「あの場所で他に何かあったの? 奉仕の最中にも、考えごとをしているみたいだったけれど」

 ぎくり、とする。やはり鋭い。

 この人に隠しごとはできない。すべて正直に話すことにした。

「実は、あの場所で翼人の男の方と会ったのです」

「翼人、と?」

「え、ええ」

 アリーセの表情がさっと変わった。目に映る真剣味の色合いがいっそう濃くなり、ベアトリーチェは少し気圧された。

「あの亡骸のそばに立っていて。初めは、さすがにびっくりしたんですけど、話してみると意外に普通の方で」

「どんなことを話したの?」

「えっと、早く埋葬してあげたほうがいいということと、傷口が荒れてないから手慣れた人間がやったのだろうと」

「そんなことを言ったの? 翼人が?」

「ええ、そうですが……」

「そんなことが……本当に……」

 ひどく驚いた様子で三度確認してくるが、ベアトリーチェはうなずく他なかった。

「その人はどんな様子だったの? 血はついてなかった? 不自然なところはなかった?」

「いえ、まったく変なところはありませんでした。返り血を浴びてもいなかったし、落ち着いていましたし、きれいなものでした」

 ――そう、本当にきれいだった。

 あの純白の翼と青い瞳は、今でも忘れられない。あんなに美しく怜悧な雰囲気を湛えた人が、あんなにひどい殺人を犯すはずがなかった。

「そのことを衛兵の方々には?」

「いえ、実は伝えてありません。あの人が悪いことをしたとはとても思えなかったですし、翼人と会ったなんて言ったら変に騒ぎになってしまうような気がして。翼人の方に偏見を持たないでほしかったんです」

「そう……」

 アリーセはしばらく黙ってじっと考えてから、ゆっくりと大きくうなずいた。

「それなら、自分の感性を信じなさい。私も、あなたの判断が正しかったと信じているわ」

「はい」

 ベアトリーチェに笑顔が戻ると、アリーセもいつものように微笑んだ。

 と同時に、他意のこもった視線を向けてきた。

「そんなにいい男だったの?」

「へ?」

「相当に〝ぞっこん〟のようじゃない。翼人の男に惚れると、あとが大変よ」

「そ、そんなんじゃありません!」

 そりゃあ確かに人間の男性でもめったにいないような魅力をもった人だったが、特別な意味で惹かれているわけではけっしてない。

 ――でも、なぜか気になる。

 この気持ちの理由は、自分でもうまく説明できない。

「……アリーセ様は、この手の話が好きですね」

 旦那さんには早くに先立たれてしまったそうだが、恋に対する情熱は衰えていないらしい。

「私のことに話を振ってごまかそうとしなくてもいいのよ。誰だって、誰かを好きになることはあるんだから」

「違います!」

「まあ、いいわ。ベアトリーチェもそういう年頃になったということにことにしておきましょう」

「もう!」

「さあ、そろそろ夕餉の仕度をしないと。ベアトリーチェ、疲れているでしょうけどきちんと働いてもらいますよ」

「はあ」

 アリーセのせいで余計にやる気が失せたが、疲れているのは埋葬を手伝ってくれた同僚たちも同じだ。自分だけが贅沢を言うわけにもいかなかった。

 前をゆくアリーセが突然立ち止まって振り返ったのは、神殿の裏口の扉にまさに手をかけた瞬間だった。

「ねえ、ベアトリーチェ」

「はい?」

 少し言いよどんでから、それでもアリーセは再び口を開いた。

「もし、いつかあなたが翼人とかかわることがあったら――」

 アリーセの目はいつになく真剣だったが、その瞳はすぐに別の方向へ向けられた。

「え……?」

「はい?」

 こちらの背後の空を見上げて呆然となっている彼女につられて、ベアトリーチェも同じように後方へ目を向けた。

「あれは……?」

 暮れなずむアルスフェルトの上空に、無数の黒い点がわだかまっている。それらは互いにゆっくりと円を描くようにして動き、その数をだんだんと増していく。

 徐々に徐々に、その動きが速まってきた。それらが最高潮に達したかと思われたとき、ひとつの点が町へ急降下していった。

 ぱっと、町の一角から炎が上がる。直後、距離のあるここにまで人々の悲鳴が聞こえはじめた。

 呆然としているアリーセとベアトリーチェをよそに、黒点が次から次へと町へ舞い下りていく。そのたびに立ちのぼる炎と煙の数が確実に増え、怒号のごとく響く恐怖の声が周囲を圧倒した。

「いったい何が……」

 はっと我に返って考えてみるが、答えが出るはずもない。

 だが、それは意外なところからやってきた。

「翼人……」

「え?」

 アリーセが、少し恐怖におののいたように答えた。

「翼人よ、あれは」

 ――翼人。

 言われてすぐさま目をこらしてみると、今ではすべての黒点が空の低い位置まで移動していた。何かが飛んでいるのはわかるが、それが何かまでは判然としない。

 ただひとつはっきりとしているのは、あの黒い存在がアルスフェルトの町を襲っているということだ。

 今では、町のほぼ全域から炎か煙のいずれかが大きく舞い上がっている。あまりにも多くの悲鳴が渾然一体となり、もはや地鳴りを思わせる轟きを辺りに響かせていた。

 ――どうしたら、私はどうしたら。

 ベアトリーチェはいても立ってもいられなくなった。

 何が起きているのかわからないことへの苛立ちと不安、そして翼人への不可解な思いが彼女を無理やり突き動かした。

 ――行かなきゃ……あそこへ私が行かなきゃ。

 今とんでもないことが町で起こっていることはわかる。だからこそ、神官である自分が助けに行かなければならない、と己のこころを強引に納得させた。

 目に見えない力に背中を押されるようにして、ベアトリーチェは走りだした。

 いったん動き出したら、もう止まらない。保身も恐怖心も何もかも振り払い、一目散に町へと向かう。

「ベアトリーチェ、おやめなさい!」

「アリーセ様、ごめんなさい! すぐに戻ってきますから!」

 体を半身にして母でもある神殿長に答えるが、足はけっして止めなかった。

 運動は苦手なほうだが、できるかぎり全力で町の門へ向かう。

 息が切れ切れになり、もう限界だと思いはじめた頃、|市門(しもん)の前までようやく来ることができた。

 そこで、改めて町の中の様子をうかがおうとして愕然とした。

 門が閉まっていく。

 まだ日は没していないというのに堀に渡された跳ね橋が上がり、町の景色が一方的に閉ざされていく。

 ベアトリーチェがあわてて堀のそばまで駆け寄ったときにはもう、橋につながる巨大な鎖は七割方すでに巻き上げられていた。

「そんな……」

 いきなり壁にぶつかってしまった。しかし、これからどうするか考えるより先に、問答無用に耳朶を激しく打つ悲鳴に、正気を徐々に奪われていく。

 市壁を越えて漂ってくる黒煙は、外にいるのにむせ返るほどだ。

 立っているのがやっとの状況の中、上空に漂っていたのは――

「本当に翼人……」

 町を襲っているのはまぎれもなく翼を持った人、翼人であった。それぞれ異なった羽の色をした彼らが片手に武器を持ち、上昇と下降を機械のようにくり返している。

 認めたくなかった現実を目の当たりにした失望感とやまない異音から、焦りがつのりにつのっていく。なかば呆然となってその場に座り込んでしまいそうになる。

 ――いけない。こんなんじゃ、ここまで来た意味がない。

 頭を振って雑念を排し、無理を承知でこころを落ち着かせる。

 ――ここにいてもしょうがない。なんとかして町の中へ入らないと。

 できるだけ論理的に考える。西門が駄目なら、南門へ行けばいい。そうだ、そちらへ向かうべきだ。

 ベアトリーチェは、再び走りだした。

 ――そういえば、カトリーネとネリーはどうしたのだろう。

 今さらだが、ほんの少しだけ冷静を取り戻したこともあって、急に不安が込み上げてきた。

 二人とも町の中に住んでいる。カトリーネの自宅である館は比較的外側にあるが、これだけの混乱だ、巻き込まれた可能性は高い。今、どうしているだろうか。無事でいるだろうか。

 ネリーのことも心配だ。急いで堀沿いにひたすらに南へ向かった。

 ――それにしても、暑い。

 町の外側では火の手が上がっているわけではないのに、ひどく暑い。

 ぶ厚い壁を隔てていても、その内側から熱気が確実に伝わってくる。ここでもこんな状態なのだから、中は一体どれほどのことになっているのだろうと想像すると、背筋に悪寒が走った。

 ――翼人……

 上空を飛び回る彼らを改めて見て、思う。

 自分は結局、翼人という種族のことを何も知らなかった。それをひとりの男に出会っただけで、勝手に勘違いして都合のいい|心象(イメージ)を自分の中でつくり上げた。

 ――自分は、ばかだった。

 あの翼人のことを衛兵にきちんと伝えていたなら、もしかするとこの襲撃を未然に防げていたかもしれない。そう思うと、激しい|慚愧(ざんき)の念で狂いそうになる。

 こころのなかで自分を責めているうちに、南門が見えるところまでやってきた。

 ――よかった、跳ね橋は下りてる。

 それはよかったのだが、いいことはそれだけだった。

 状況は、向こうよりさらにひどい。

 逃げ惑う人々が押し合いへし合いしながら、大混乱のうちに橋を渡って外へ逃れ出ようとしている。

 次から次へと人々が倒れ、踏みつぶされ、橋から堀へ転げ落ちていく。

 たとえ橋を渡りきったとしても安全には程遠い。翼人の集団が喜々として襲いかかり、あっさりとその剣の餌食としていく。

 ほとんど見るに堪えない光景だった。しかし炎と煙がない分、おそらく町の中よりはこれでも幾分ましなのだろうと思えた。

 といっても、この世の地獄と化しているあの門に近づくだけでも足がすくんでしまう。

 ――でも、行かなきゃ。

 ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 ベアトリーチェはくじけそうになるこころを叱咤しながら、足を一歩踏み出した。

 相変わらず橋の上はひどい状況だが、外に出ても翼人の餌食になるということがわかったのか、いくぶん人の流れがやわらいできた。それでも、逆向きに町へ入ろうとするのは容易なことではない。

 しかし、翼人は何かの指示を受けたのか、いっせいに|市壁(しへき)を飛び越えて町の中へ戻っていった。

 ――今しかない。

 意を決して橋へ突っ込んだ。

「え……!?」

 が、あっという間に人の流れに翻弄されてしまった。それはもう流れなどという生やさしいものではない。

 激流だった。

 最初のうちがあまりにも酷かっただけで、今でも十分に混乱し、人ひとりの力ではどうすることもできない。

 考えが甘かった自分に対して舌打ちしながらも、人をかき分けかき分け、どうにかして橋を渡りきるしかない。

 一歩進もうとしても、勢いに押されて三歩下がってしまう。それでも、なかば這うようにしながら前へ向かった。

 だが、元から力の弱い自分がこんなことをするなんて、どだい無理な話だった。

「あっ」

 大柄な男が持った荷物にもろにぶち当たり、尻もちをついて倒れ込んでしまった。

 運悪く、そこへ一塊になった集団が突っ込んでくるのが目に見える。

 ――踏みつぶされる。

 というそのときに、横からの強い力によって無理やり引き起こされた。

「ベアトリーチェ! 何をしてるの!」

 顔を起こすと、そこには見知った顔があった。髪はほつれ、頬は煤で汚れてはいるが、見まごうはずもない。

「カトリーネ……」

「早く逃げるわよ! ほら、こっち!」

 彼女に強く腕を引っぱられ、堀の外へ連れてこられる。

 ちょうど十歩ほど離れたところに放置されていた馬車の陰に隠れ、ようやく息をつくことができた。

「何をしてたの、あんなところで!?」

「町の中へ行こうと思って……」

「ばかなこと言わないで! あの中がどれだけひどいことになってると思ってるの!」

 カトリーネが怒るのも無理はなかった。状況は最悪だということは、自分も嫌というほどわかっていた。

「私は、テオが逃がしてくれたからここまで来れたけど……中のほとんどの人はもう……」

「ネリーは!? ネリーはどうしたんです!?」

 はっとして、うつむいたカトリーネの肩を揺さぶった。

「わからない……途中までは一緒にいたんだけど。もしかしたら、家に戻ったのかもしれない」

「まさか、お母様のところへ……」

 ネリーには病弱な母がいる。体の強い父と兄は自力で脱出できるかもしれないが、母親だけはそうもいかない。この時間は彼女以外は働きに出ているから、自宅には誰もいないはずだった。

「――やっぱり、私は中へ行ってきます」

「やめなさい! あなたが行っても、翼人の餌食になるだけよ! あいつらは、人間ばかりを襲ってるんだから!」

「でも」

「翼人どもの目的がわからないのよ。あっちこっちの倉庫も金持ちの館も狙ってない」

「略奪が目的じゃない、と?」

 カトリーネは、荒く息をつきながら首肯した。

「奴らは、とにかく人間を襲っているだけ。きっと――」

「…………」

「きっと〝人間狩り〟を楽しんでる」

 カトリーネははっきりと見ていた、喜々として人間を串刺しにしていく連中の醜い顔を。あれは、まぎれもなく|遊戯(ゲーム)を楽しんでいる者の表情だった。

 自分たち人間は、狩りの獲物にされている。

「そんな……」

「今行っても、奴らの餌食になるだけなのよ。ここは逃げましょう! 衛兵も頑張ってくれているみたいだし、これだけの騒ぎが起きればかならず領主様が、カセル侯が動いてくれる。もう少しの辛抱よ」

「でも、ネリーが! それに、まだ他にも……」

「駄目よ、ベアトリーチェ! 悔しいけど、翼人たちの強さは尋常じゃないの! あのテオだって勝負にならなかった。私たちが行ったって何もできないの! まずは自分のことを考えて、お願いだから!」

「…………」

 カトリーネは自分が助かりたいからではない、こちらのことを本当に心配しているからこそ、そう言ってくれている。その気持ちは、痛いほど強く伝わってきた。

 しかし、自分の正直な気持ちはごまかしようもなかった。

「ごめんなさい。私はそれでも――」

「ベアトリーチェ!」

 意を決して馬車の陰から飛び出した。親友の悲痛な叫びを背後に聞きながら、今度は迷わず橋に駆け込んでいった。

 多くの人がすでにやられてしまったのか、それとも他の逃げ道を見つけたのか、この短時間に驚くほど跳ね橋の上をゆく人の流れは減っていた。

 そのことにかえって強い不安を覚えつつも、割とすんなり橋を渡りきり、ベアトリーチェはついに市門をくぐった。

 と同時に、焦燥が消えて絶望がこころを覆った。

「嘘……」

 目の前に広がっていた光景は、廃墟の世界だった。

 ところどころに倒れている人よりも、無惨にも崩れ去った建物の山のほうが圧倒的に目を引く。

 ――そうか、火事で。

 カトリーネは、翼人は人間を襲っているだけだと言っていたが、そうではなかった。

 よく見ると、彼らは町のあちらこちらに|松明(たいまつ)と油を使って火を放っている。それによって、建物の中に隠れた人々をあぶり出しているのだ。

 しかも、その炎の熱気のせいで建物の材がもろくなり、結果としてちょっとした衝撃でも崩れやすくなってしまったのだろう。目につくかぎり、ある程度無事なのは町の中央にある領主館と参事会議事堂だけであった。

 ――嘘でしょう。嘘だと思いたい。

 まさに想像を絶する光景に、自分の身の危険も忘れてベアトリーチェは立ちすくんでしまった。

 しかし、それもわずかな間のことだった。

「子供の……声?」

 どこからともなく、甲高い鳴き声が聞こえてくる。

 それになかば導かれるようにして、ベアトリーチェは動かない体を引きずりながら再び歩きはじめた。

「どこ? どこなの?」

 いくつもの叫声が重なった狂騒の響きのせいで、肝心の子供の声は途切れ途切れにしか聞こえない。それでも、なんとかそれを拾いながら、町の奥のほうへと向かった。

 徐々に、泣き声がはっきりと耳に届くようになってきた。やがて、半分がた崩れかかった建物のところで、ベアトリーチェは足を止めた。

 ――ここだ。

 声は、その中から聞こえる。家が傾いたせいで外に出られなくなってしまったのだろうか。

 おそるおそる外れかかった扉を開け、中をうかがった。

「お母さん……お母さん……」

「よかった、大丈夫そうね」

 悪い予感は外れてくれた。男の子は、無事な様子で扉のすぐそばにいた。

 ほっとしながら、その子の近くに歩み寄った。かがみ込んでよく見ても、これといって怪我はないようだった。

「さ、ここから逃げましょう。ここにいては危ないわ」

 なんとか原形を留めてはいるものの、素人目にもわかる、この建物はいつ崩れたとしてもおかしくはない。

 ――それに、すぐ翼人がやってくるかもしれない。

 早く町の外へ逃げたほうがいい。

 そう思ったのだが、子供は抵抗した。

「お母さんは? お母さんといっしょじゃなきゃイヤ」

「お母さんは……」

 ――ああ。

 ふと顔を上げた瞬間に、見たくはなかったものが危険なまでの鮮明さをもって己の目に飛び込んできた。

 瓦礫の隙間から人の右手が出ている。それはもう青白くなり、血の気がまったく感じられない。女性の手であることと位置からして、おそらくは――

「――お母さんは先に逃げたんだと思うよ、きっと」

「でも、さっきまでお母さんいたの」

「そうね……でも、大変なことが起きたから、お母さんは誰かを助けにいったんじゃないかな。きっとどこかで待ってるよ」

「……うん」

 苦しい説明だったが、子供はなんとか納得してくれたようだった。瓦礫の中の手が見えないように自分が壁になりながら、その子を外へ導いた。

 何がなんでも、この子だけは市壁の外まで連れていかなければならない。崩れた建物の陰に身を潜めながら、門の外へ向かった。

 町の中における人の流れは明らかに弱くなっていたが、それは、もうすでに生きている存在が数少ないということを如実に表わしていた。

 跳ね橋の上も、あの混乱が嘘だったかのように人の姿はまばらだった。

 裏を返せば、人込みにまぎれることができず、ひとりひとりが目立ってしまう。姿を隠す建物もなく、おそらく上空から見下ろせばこちらの動向をはっきりと把握できるはずだ。

 ――急がないと。

 一縷の臨みに賭けて、あの壊れた馬車のところへ向かった。

「やっぱり、いないか……」

 失望感がどっと押し寄せる。

 その周囲には誰もいなかった。

 考えてみれば、カトリーネの制止を振り切って自分の独断で一方的に飛び出していった。それなのに、彼女がここにいてくれることを期待するというのは、あまりにも身勝手な話だった。

 しかし幸いにも、ここから神殿へとつづく道には、もはやなんの障害もなかった。そちらの方角の見える範囲には、翼人の姿もまったくない。

 翼人が信心深いというわけでもないだろうが、神殿が無事であることにほっと胸を撫で下ろした。

「ぼく、神殿の位置はわかるかな?」

 子供は戸惑いながらも、はっきりとうなずいた。

「じゃあ、そこへひとりで行ける? お姉ちゃん、どうしてもやらなきゃいけないことがあるの」

 さすがに不安そうではあったが、男の子は健気にも、覚束ない足取りで神殿のある丘の道をゆっくりと登っていった。

「ごめんね……」

 またしても自分の身勝手で行動しているのではないかという罪悪感を覚えつつも、ベアトリーチェはきびすを返して再び町の中へと向かった。

 ――ネリー、大丈夫かしら……

 逃げようにも、病弱な母親と一緒ではそうそう遠くまで動けるはずがない。ネリー自身も、けっして体が強いというわけではなかった。

 いくつもの家屋が倒壊したことで町の様子がすっかり変わってしまい、方向感覚を失いやすい。それでも記憶をたぐり寄せてなんとか道を見つけ出し、ネリーの実家があるはずの区画へ急いだ。

 途中、崩れた壁の瓦礫などで道が塞がれ、かなりの遠回りをしなければならないところもあった。しかも、翼人に上空から見つからないように気を使う。いつの間にか、想像以上に時間がかかってしまっていた。

 ――ここを曲がれば――

 ネリーの家がもう見えるはずだった。

 しかし、角を曲がった瞬間に目に映った光景は、予想の範疇を遥かに超えたものだった。

「ネリー!」

 ベアトリーチェは思わず、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 親友のネリーが今まさに翼人の男に抱え上げられ、連れ去られていく。

「ネリー! ネリーッ!」

 彼女の名を連呼しつつすぐに駆け寄るものの、銀色の髪をした大男はこちらのことなどまるで意に介した様子もなく、そのまま飛び上がった。

「待って! ネリーを……その|娘(こ)をどうするつもりなの!?」

 男は一顧だにしない。その腕の中の親友はあまりのことに耐えられなかったのか、気を失っていた。

 その姿に、あの岩場で事切れていた男の姿が重なる。

 あの心臓をえぐられた無惨な姿が。

「返してッ! ネリーを返して!」

 足元に転がっていた瓦礫の小石を必死になって投げつけるが届くはずもない。

 狂いそうになるこころをぎりぎりのところで押さえつけながら、ベアトリーチェはこけつまろびつ上空の男のあとを追った。

 それもすぐに市壁に遮られてしまうが、なぜか開け放たれたままになっていた扉を通って市壁の内部に入り、屋上への階段を息を詰まらせながらも駆け上がった。

 中にいた他の人を無理やり押しのけ、暗い夕陽に照らされた市壁の上へと出る。ネリーを抱えた翼人の姿は、すでに小さくなりはじめていた。

 ――そんな……そんな……

 親友の姿が遠くなっていく。ベアトリーチェは銃眼の上にさえ登ってそれを摑もうとするが、手は虚しく空を切るだけであった。

 ――白い翼……

 赤黒く染まった男の背にある一対の翼が目に焼きつく。

 白い翼。

 思えば、あの西の岩場で翼人の男と出会ったのがすべての異変の始まりだった。あのとき、一瞬でも相手に好意を抱いてしまった自分が今となっては恨めしい。

 ネリーの救出は間に合わなかった。彼女はみずから働きながら家事をし、病弱な母を看病しつづけてきた。しかも子供の頃の記憶がないと、以前に一度だけ打ち明けてくれた。

 ――なぜネリーばかり。なぜつらいことばかり。

 理不尽な仕打ちに怒りが込み上げてくるものの、その彼女は狂った存在に連れ去られてしまったという現実に、全身から力が抜け、ベアトリーチェは膝から崩れるようにしてその場に腰を落とした。

「え?」

 と、一瞬だけ体が揺れるのを感じた。次の瞬間には、体が大きく前に傾きはじめた。

 襲撃の影響なのかそれとも老朽化していたためか、市壁の銃眼の部分がもろくなっていた。

 とっさに体を引き起こし、左腕を精一杯に伸ばして無事な部分に摑まろうとする。

 しかしまさにそのとき、あの大事にしていた青いペンダントが首からずり落ちそうになった。無意識のうちにそれを押さえようとしてさらに態勢を崩した。

 ――しまった――

 と思ったときにはもう遅い。体を支えきれなくなった左手が銃眼の一部から離れ、全身が完全に宙に浮いた。

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