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「アーデ様、そろそろお休みください」
背後からかけられた声に、窓の外をなんの気なしに眺めていた妹姫はゆっくりと振り返った。
「何よ、ユーグ」
「明日もまたいろいろな仕事があるのです。今のうちに体を休ませておきませんと、あとでつらくなりますよ」
アーデは、ノイシュタット侯の実妹としての責務だけでも数多くのものがあった。
姫とはいえ、ずっと遊んでいられるわけではない。それどころか平民の娘たちよりも、自由になる時間は圧倒的に少なかった。
そのうえ、彼女は|まったく別の仕事|(、、)もこなさなければならない。本人が選んだ道とはいえ、その負担は尋常ならざるものがあった。
しかし、アーデはけっして弱音を吐かない、文句を言わない。その芯の強さは、男であるユーグでさえ感服するほどであった。
ゆえにこそ、無理をしすぎないよう周りが気を配ってやる必要がある。
「さっさと寝てください」
「こんな時間に男が自分の部屋にいたら、どんな|淑女(レディ)だって眠れないと思うけど。それとも、私を抱いてくれるのかしら?」
「何をおっしゃっているんです。だいたい、私がここにいるのは誰のせいだと思ってるんですか」
呆れたようにユーグが首を横に振った。
本来ならば、こんな時間に姫の居室に入ることは、お付きの下女でさえ許されない。なかば無理やりにこちらを引き込んだのはアーデのほうではないか。
「しょうがないじゃない。やらなきゃいけないことが多いんだから」
「だから、早くお休みになってくださいと申し上げているのです。疲れた状態では、いい考えも浮かびません。ならば、さっさと休んで明日やったほうがいいでしょう」
「それはそうなんだけどね……」
あまり気乗りしない様子で、アーデは再び窓の外を見た。今日は曇っているせいで、空に星はほとんど見えない。
「何かこう、胸騒ぎがするのよ。何か引っかかるような、違和感があるような……」
「レベッカのことですか? それとも、例のはぐれ翼人の件?」
「そのこともそうだけど、もっと別の――うーん、自分でもうまく言えない」
その原因がはっきりとわかっているのならば、こんなにも悩むことはなかったろう。もしそうなら、初めからその解決のために行動すればいいだけだからだ。
自分は、やるべきことをやらずにただ思い悩んでいるような性格ではなかった。
「おそれながら、考えても答えが出ないことならば気にしないほうがいいのでは?」
「そうなんだけどね。でも、答えが出ないからこそ気になることもあるのよ」
妙なこころの引っかかり。指に刺さったとげが、取れそうで取れないもどかしさ。
大きく息をついて夜空を見上げると、雲の切れ間からわずかに赤みがかった星が見えた。
「赤い星、か……」
そういえば、あの子はどうしているのだろう。誰からも愛され、自分も最もかわいがっていたのに急に姿を消してしまったあの少女。
この世の中は、女がひとりで生きていけるほどには甘くない。それが翼人の娘ならば、なおいっそう厳しく――
手配していろいろと捜させてはいるものの、それにさける人員には限りがある。みんなが暇を持て余しているならともかく、実際には仕事は腐るほどあって、頭数がまったく足りていない。あの子のためだけに多くの仲間を動かすわけにはいかなかった。
「どうして出ていっちゃったのよ、ばか……」
あの子のことを思うと、胸騒ぎがなおさら強くなる。アーデは、少し湿り気を帯びた夜風をあびてその身を震わせた。
月が出ているのか、雲の一部だけが明るい。しかし、そこから一筋の光も漏れ出る気配はなかった。
何か大切なものが失われてしまうような予感。
アーデはまだ〝赤い星〟がこちらに向かっていることを知らない。