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が、アセルスタンの動きはそこで止まった。
昏い炎が宿った瞳に困惑の色をのせ、ベアトリーチェを――否、その真後ろにいる小さな姿に視線を向けている。
「なんだ……その子は」
朱色の翼をした翼人の子供が、大きめの外套の上に寝かされている。顔の血色はひどく悪く、粘性の汗をびっしょりとかいている。
アセルスタンはすぐに気がついた。この様子は――
背後をすぐさま振り返り、キッと睨みつけた。そこには、ようやく追いついてきたヴァイクが顔をしかめたまま突っ立っていた。
「貴様! なぜ、ジェイドを喰わせてやらない!?」
ヴァイクの胸ぐらを掴んで問い詰める。
あれは間違いなく、ジェイドが不足しているときの症状だ。翼人の子供がひとりでいるのならともかく、なぜそばに戦士がいながら必要なジェイドを与えてやらないのか。
「リゼ……その子がジェイドはいらないというんだ。もう仕方がない……」
アセルスタンとは目を合わせずに、まるで懺悔でもするかのような声でヴァイクが答えた。
その彼を突き飛ばすようにして離し、アセルスタンは少女のほうに向き直った。
「なぜだ? 喰えないというわけではあるまい」
その問いに答えたのはベアトリーチェだった。
「この子はジェイドを食べないというよりも、人を犠牲にして自分が生きることを拒んだんです。ジェイドを得るということは、他の誰かの死を意味するから――」
と、勇気を振り絞って語った。まだこの翼人に対する恐怖心は抜けきってはいなかったが、この人にはきちんと伝えなければならない。なぜか、そんな確信があった。
「――――」
まるで戦いの際に致命的な一撃でも喰らったかのように、アセルスタンは衝撃を受けて立ち尽くした。
「……それでいいというのか、この子は。他人を犠牲にしないために、自分を犠牲にするというのか」
「自分を犠牲にしようとしているわけではないんです。ただ、人を傷つけたくない、他の誰かを大切にしたいから、けじめをつけただけなんです、自分自身で」
そのうえで、リゼロッテは自分のできる範囲内で精一杯に生きてきた。けっして、すべてをあきらめたわけではなかった。
「そんな……」
もう一度つぶやいたきり、アセルスタンは黙り込んだ。
――自分は、これまで何をやっていたのか。
ヴォルグ族の戦士として生まれ、子供の頃からのちに族長となるメイヴに見出され、鍛えられた。
着実に力をつけた自分は、途中、ばかな実姉が出奔してしまうという騒ぎもあったが、なるべくして部族の頂点に達しようとしていた。
何不自由ない生活、毎日のようにつづく戦い。
それが当たり前だと思ってきた。そのことを疑うことさえなかった。
だが、どうだろう。それは、ただ周りの環境に自分が甘えていただけではなかったか。何も疑うことなく、ただ無邪気に生きていただけではなかったか。
ジェイドを喰うという行為が、他の誰かの命を奪うことだということはわかっていたつもりだった。
しかし、本当の意味でわかっていたといえるのか。自分はこれまで、ジェイドを得るということに対してほとんど無頓着だった。
しかし、目の前にいる少女は違うという。この歳にしてすでに、なんのために生き、誰のために進むべきなのかを考えている。
自分が情けない? 卑小だ?
そんな次元の問題ではない。それは、人としての品格の違いなのかもしれなかった。
「この子の名は――」
今このときの思いを忘れたくない。せめて名前を聞こうと思ったそのとき、ちょうど少女がうっすらと目を開けた。
「ヴァイク……?」
「ここだ、リゼロッテ!」
アセルスタンを押しのけて、ヴァイクが駆け寄った。少女のかたわらにひざまづき、その小さな手を握りしめた。
――冷たい。しかも、寒気を感じているのか小刻みに震えている。
「ヴァイク、どうしたの……? 翼を怪我して……」
「これくらいなんでもない。傷口がまた少し開いてしまっただけだ」
こんなときまで、自分よりも人の心配をしている。そんなリゼロッテが、いじらしくて仕方がなかった。
呼吸は浅く、かなり速くなっている。その様子を見るだけでも、尋常ならざる苦しみがはっきりと伝わってきた。
なぜ、この少女はここまで耐えることができるのだろう。ジェイドを喰えば、その苦痛から解放されるというのに。
「なあ、リゼロッテ。本当に、本当にこれでいいのか? 今なら……まだ間に合うんだぞ」
その問いがこちらの傲慢だということはわかっていたが、どうしてもこのままでは見ていられなかった。まだ助かる術があるというなら、それにすがりたかった。
しかし、リゼロッテは虚ろな表情のまま、それでもはっきりと|頭(かぶり)を振った。
「ヴァイク、私は短かったかもしれないけど精一杯に生きてきたんだよ? 後悔なんて――ない」
「リゼロッテ……」
少女は優しく微笑んでいる。
「だから、そんな顔はしないで。私は……みんなが笑ってる顔のほうが好き」
震える手を、すっとヴァイクの頬に持っていく。
その少女の顔が苦笑に変わる。
「泣かないでよ、ヴァイク」
「え……?」
言われて初めて気づく。
両の|眼(まなこ)からあふれ出た涙が頬をぬらし、そしてリゼロッテの幼い手に届いていた。
戸惑いで言葉を失う。
こんなもの、兄を失ったときに泣き枯らしたはずだった。あのとき以来、涙を流すことはおろか、こころに何かが響くことさえなかった。
それが、どうしたことだろう。自分でも気がつかないうちに涙があふれていたなんて。
しかし、ベアトリーチェと出会い、アリーセを看取り、そしてリゼロッテとともに歩んできたことで内側が変わりはじめているのかもしれなかった。
アリーセの最期に立ち会ったとき、自分のこころの中に何かが芽生えた、何かが戻ってきた気がする。
しかし、リゼロッテは無邪気なものだった。
「ヴァイク、かっこ悪いよ」
「うるさいな」
強引に頬をぬらしたそれを二の腕でぐいと拭う。リゼロッテの顔には、子供らしい笑みがこぼれていた。
「私はね、ヴァイク……」
夕焼けに夜の闇が混ざりはじめた空を見つめて言う。
「幸せだったよ。部族にいた頃は毎日が楽しかったし、お母さんと一緒に旅ができたこともうれしかったな……。それに――」
ヴァイクやベアトリーチェ、そしてジャンたちの顔を見渡す。
「みんなと出会えたことも。今まで本当に楽しかったし、うれしかった」
「そんな言い方をするな。これからも一緒に行くんだ」
リゼロッテは力なくうなずいた。
「行きたいな……ずっと……」
空にぽつりと浮かぶ雲を見つめ、少女は何を思うのか。
荒かった呼吸が少しずつ弱くなっていく。いつの間にか、あれだけかいていた汗も引きはじめていた。
――もう時間がない。
「リゼロッテ……」
ベアトリーチェは少女の手を握りしめ、優しくゆっくりと頬をなでた。何か声をかけてあげたい。しかし、なんと言ってあげればいいのかがわからない。こういったときに気の利いた言葉を思いつかない自分が歯がゆくて仕方がなかった。
見る間に、リゼロッテの命の炎は消えかかってゆく。それは、もはや風前の灯火であった。
「みんな……さよならは、言わないよ……。だって、またすぐに会えるような気がするから……」
ゆっくりと、ゆっくりとまぶたが閉じられようとしている。
「リゼロッテ!」
「ありがとう……本当に――」
すっと静かに目が閉じられた。
「リゼロッテ……リゼロッテ!」
「落ち着け、まだ息はある」
取り乱しそうになるベアトリーチェを、ヴァイクがなだめた。
とはいえ、もうほとんど時間が残されていないであろうことは明白であった。もう一度意識が戻るかどうかは、かなり怪しい。
――それにしてもリゼロッテ、お前は本当にすごい子だ。
最後に己の願望でも怯えでも、ましてや恨み節でもなく、感謝の言葉を|遺(のこ)そうとするなんて。
本当の強者はここにいた。真に強いということは、リゼロッテのようにこころの強さを持つこと、そして優しいことだ。
他者への優しさこそが、本物の強さであった。
ヴァイクは、このときになってあることに思い至った。
翼人の間に伝えられている〝王ならぬ王〟――〝黒翼の大鴉〟とは、もしかしてリゼロッテのような人物のことではなかったのか。けっして、腕力が強かったという意味ではなく、その黒翼の王はこころが強かったのではないか。
実際、王に関する武勇伝はほとんど残っていない。逆に有名なのは、機知や優しさによって多くの人々を救った逸話だ。
だんだんと、ヴァイクは確信しつつあった。
――リゼロッテは、これからの時代を救う〝何か〟を持っている。黒翼の王に通ずる何かがある。
でなくば、どうしてこの幼さで自身が生きることと真正面から向き合えよう。どうして、これほどまでに他者への優しさを持つことができよう。
――ここで死なせてはならない。
その思いは確信に変わりつつあった。翼人のためにも人間のためにも、かならずこれから必要とされる人物だ。
――まだやれることがある。
何度も何度も自身のうちに問いかける。どうしたらいい、リゼロッテを救うには何をしたらいい。
悔しいが、なかなか答えは出てこない。しかしひとつだけ、たったひとつだけ思いつくことはあった。
それは、リゼロッテの純粋な意志を反故にすることであった。
――わかってる。だが、それでもリゼロッテを失いたくはなかった、失ってはならなかった。
ヴァイクがすっと立ち上がって、みずからの剣を強く握りしめた。
明らかにどこかへ行こうとしている様子の彼に向かって、ベアトリーチェは目に涙をためたままあわてて呼びかけた。
「ヴァイク!?」
「……|心臓(ジェイド)をとってくる。お前たちはリゼロッテのそばにいてやってくれ」
その声は震えていた。そうすることが、リゼロッテの思いを汚すことになることを痛いくらいに知っているからだ。
しかし、その罪をすべてひとりで背負い込むつもりだった。
「リゼロッテには生きてもらわなければ困る、一緒にいてくれなければ嫌なんだ!」
翼人のため? 人間のため?
――違う。そんなことよりも、結局は自分がリゼロッテを失うことが嫌だった。
自分が悲しい思いを、寂しい思いをするのが嫌だった。
だから、リゼロッテに無理やりジェイドを食わせようとすることは、ただの自分のわがままでしかない。恨まれてもいい、卑怯者と罵られてもいい、それでもリゼロッテには生きていてほしかった。翼人としての生をまっとうしてほしかった。
「行ってくる。もしものときは、ジャン、よろしく頼むぞ」
言われたジャンが、真剣な面持ちでうなずいた。
ヴァイクは返答を待つことなく、すぐに飛び立とうとした。
翼の怪我などかまってはいられない。今は文字どおり、一刻を争う状況だった。
しかし、そこへ意外なところから声がかかった。
「待て」
驚いてヴァイクが振り返ると、声の主はあのアセルスタンであった。
しかもつづけて彼が告げた言葉は、ヴァイクだけでなくベアトリーチェたちをも驚愕させた。
「|心臓(ジェイド)ならここにある」
「なんだと?」
「俺のジェイドをくれてやる。今、どうしても必要なんだろう?」
アセルスタンは、自分の左胸を指さしていた。
あまりのことに一同は言葉が出ない。
よりにもよって、ついさっきまで自分たちの命を奪おうとしていた男が、リゼロッテのために自分のジェイドを――すなわち、自分の命を捧げると言っている。
「どうして……?」
「俺は、自分の身の小ささをようやく知ることができた。この子供のおかげで、な」
「――――」
「今にして思えば、昔の俺はあまりに愚かであまりにわがままだった。今までずっと、何か大切なものを見落としてきた気がする。この子はそれを気づかせてくれた」
「しかし、それじゃあお前が――」
「俺のことはいい。俺はどうせ翼を失った不具者だ。部族からも見放された。どうせ、そのうち他の翼人の餌食になる。だったら、俺も自分の納得する形で死にたい」
アセルスタンは、どこか不思議と落ち着いている。
「俺なんか、生きていてもたいした意味はないからな」
しかし、その一言がある人物を激昂させた。
渇いた虚しい音が、辺りに響き渡った。
アセルスタンは、目の前に立った女性を呆然と見つめている。
ベアトリーチェは、振り切った手を強く握りしめた。
「あなたは今まで何を聞いていたのですか! そんな……そんな言葉をこの子の前で言うことは、けっして許しません!」
「…………」
「|生きていてもたいした意味はない|(、、)? そうした考えこそが、リゼロッテの思いを|貶(おとし)めるということがなぜわからないんですか! リゼロッテは、自分から生きることをやめたわけでも、何かをあきらめたわけでもないんです」
「…………」
「この子は選んだだけ。いくつもある道の中から自分が納得するものを選択して生きてきた。それだけなんです」
それなのに、自分の命がいらないから投げ出すなどというのは、まったくリゼロッテの意志を理解していないということに他ならないではないか。
そんな人にリゼロッテのことを語ってほしくなかった。
「まだ生きられるなら、生きる意志があるなら、最後の最後まであきらめないでください。最後まであがいてください。そうすることがリゼロッテの――この子の思いを、本当の意味で生かすことになるはずなんです」
ベアトリーチェは、相手の深い青色をした瞳を見つめている。
アセルスタンはその揺れる瞳で、じっとそれを見返した。
一瞬の静寂を打ち破ったのは、ヴァイクの落ち着いた声音だった。
「アセルスタンとかいったな。お前は自分でもっと考えたほうがいい」
「俺は間違っていたのか……?」
「誰が間違っていて誰が正しいかなんて誰にも言えない。だから、結局は自分がどう思うかなんだ。自分で考えて、その結論に納得がいったなら信じて進む。少なくとも、俺にはそれしか思いつかない」
自分だって、迷いながら生きつづけている。誰もが、確信をもって自身の道を進めるわけではない。
迷い、惑い、恐れながら、いつも何かを模索している。
「たぶん、それが〝生きる〟ということなんだ。迷うことそのものが生きている証なんだ」
だから、それを怖がる必要はないのかもしれない。拒否する必要はないのかもしれなかった。
「俺も、今自分のしていることが正しいのかどうかは全然わからない。けど、それをやるべきなんだ、したいって思う。だから――わがままかもしれないが、俺はリゼロッテにこれからも生きてもらう」
そう言って、ヴァイクが飛び上がろうとしたときだった、南の空に黒い点が見えたのは。
「あれは……」
目には自信のあるアセルスタンがまず最初に気がついた。
その影は徐々に大きくなってきて、こちらにまっすぐ向かっているのがわかる。
大きく羽ばたかせている一対の翼。大きさからして鳥ではない。
「ジェイドをとりにいく手間が省けたみたいだな」
ヴァイクは覚悟を決めた顔で、剣を構えようとした。
「ヴァイク……」
「すまん、ベアトリーチェ。俺にはもう、これしか思いつかないんだ」
ヴァイクの顔を見ると、ベアトリーチェは二の句が継げなくなった。
確かに、リゼロッテ自身の思いを裏切ることになってしまう。しかし、あの子にまだまだ生きつづけてほしいという思いはベアトリーチェも、もちろん同じだった。
だが、そうすることは他の翼人の死を意味する。
一同が息をのんで見つめる中、遠い空にいた翼人は、ベアトリーチェらも目視できるところまで近づいてきた。
その相手を見て、ヴァイクがあからさまに顔をしかめた。
「女か……」
初めは髪が短いから男かと思ったのだが、どうやら女性のようだった。沈みかかった夕陽に照らされ、翼は火が出そうなほどに赤く見える。
「ヴァイク、待って……」
「仕方がないんだ、ベアトリーチェ。相手が女だというのは気が引けるが……俺はこういう生き方しかできない」
あえてベアトリーチェのほうは見なかった。
――今の自分の目を、ベアトリーチェに見られたくない。
意を決すると、ヴァイクは上空へ飛び上がった。
アセルスタンは何も言わずにそれを見届け、万が一のときは加勢するつもりなのか、ヴァイクが捨て置いた自身の剣を取りにいった。
片翼の男を眼下に、ヴァイクは音が軋むほどに歯を食いしばった。
――きつい。だが、まだ飛べるだけましか。
右の翼からほぼ全身へ激痛が走り、あまりの痛みに吐き気さえ覚える。しかし、そんなことなど構ってはいられない。
なぜか、愛剣レア・シルヴィアがいつもより、なおいっそう重く感じられる。
まるで兄が自分を止めようとしているかのように。
――いいんだ、これでいいはずなんだ。兄さんだってわかってくれる。
そう自分に言い聞かせ、それでもその声が空虚なこころの中で乾いたように響く。
相手はまだ若い女だった。しかし、二の腕や太股の筋肉の付き方からして相当に鍛えられていることが見て取れる。一筋縄ではいきそうになかった。
すでに剣を構え、しかも翼から血を流しているこちらを見て、相手は明らかに困惑した様子だった。
「待ってほしい。私には争う気はないんだ」
「そっちにはなくても、こっちにはあるんだ。悪いがその命、もらい受ける」
ヴァイクにあからさまな殺意を向けられても、女は落ち着いた様子で、しかし下方を気にしながら言った。
「あんたはヴァイクという人ではないのか? テオに教えられて追いかけてきたんだが」
この場、この時に出るはずのない名前を聞いたことで、ヴァイクは今度こそなけなしの闘争心を完全に失ってしまった。
「なんだって!? なぜ、テオのことを知っている?」
「その話はあとだ。とにかく、まずは下へ降りよう。このままでは、あんたの傷口が広がってしまう」
女戦士が、顎で下方を指し示した。
気がつけば、右の翼はそのなかばまでもが赤く染まっていた。
言われるまま、ヴァイクはすぐに地上へと降り立った。もうすでに、戦意は微塵も残ってはいなかった。
そのとき、|何か異質なものを見た|(、、)。
何がおかしいんだろう。
そうだ、ベアトリーチェが泣き崩れている。
ジャンが顔を覆っている。
アセルスタンは、剣を天へ差し出していた。
――戦士の魂に、幸あれ。
「な、何をしている……?」
問うても翼人の男から返答はない。ただ、剣の先を空に向け、目を伏せたまま微動だにしない。
「やめろッ! リゼロッテは、リゼロッテはまだ……」
アセルスタンに掴みかかったが、そんなことをしている場合ではないとはたと気づき、こけつまろびつリゼロッテのもとへ駆け寄った。
ジャンはむせび泣き、何も話せそうにない。ベアトリーチェは、リゼロッテに覆い被さるように伏せっていた。
「リゼロッテが、リゼロッテが……」
ベアトリーチェの声も言葉にならなかった。ヴァイクは崩れるようにして膝をつき、震える手をそっと少女の白すぎる頬に寄せた。
息を、していなかった。
ニアヴ族の少女、リゼロッテはその生を終えた。
「う……そだろう? なあ、ジャン! これは嘘だろう!」
どんなに揺さぶっても、ジャンは答えてくれない。木を背にして、ただ崩れ落ちていった。
――リゼロッテが死んだ? 俺はそのとき何をしていた!
よりによって、リゼロッテの思いを裏切ってまで翼人の命を奪いにいこうとしたせいで、最期のときにそばにいてやることさえできなかった。
――俺は何をしてきた! あの子に何をしてやれたんだ。
結局、何もしてやれなかった。ひとりの少女を見殺しにしただけではないか!
――俺には、誰も救えないのか。
兄も自分のせいで死んだ。部族が壊滅するとき、自分は何もできなかった。そして、これまで己が生きるために多くの命を奪ってきた。
――ああ、そうか。自分は死神なのか。
死神が人を救えるはずがないではないか。それを悟ったら、妙に笑いが込み上げてきた。
なんという愚か者なのか、ヴァイクという男は。人の命を奪う者が、人を救うなどとは笑い話にもならない。
大笑いしたい気分だった。しかし、笑いは起きなかった。喉の奥からもれ出たのは、嗚咽の声だけであった。
「何も……してやれなかった……」
これが本当にリゼロッテの望んだ結末だったのだろうか。
あの子は確かに、ジェイドを得ることは拒否した。しかし、けっして生きることそのものを捨てたわけではなかった。
今になってやっと気づく。もしかしたら、ジェイドを喰う以外にも翼人が生きのびる道はあったのかもしれない。
ならば、どうしてそれを模索しようとしなかったのか。どうして、ジェイドを喰わないのならしょうがないとあきらめてしまったのか。
責めて責めて責めて、悔やんで悔やんで悔やんでも、旅立った魂は帰ってこない。
すべては、すでに終わってしまった。
その自責の念、慚愧の念はベアトリーチェにしてみても同様であった。
「リゼロッテ、ごめんね……」
完全に冷たくなった手を握りしめても、もうなんの反応もない。
自分はリゼロッテに何かをしてあげるどころか、常に与えてもらってばかりだった。
あの明るい笑顔、無邪気なこころに幾度となく救われてきた。あの子の世話をしているつもりだったが、反対にいつも助けられていたのは、その実、こちらのほうだった。
このいたいけな子の命がなぜ犠牲にならなければならないのかと、理不尽な思いがこころの中を駆けめぐる。
悲しみ、怒り、憎しみ。
もしこの世に神がいるのなら――
――いけない。
今しがた自分が考えようとしたことに身を震わせる。
神への疑念、神への怒り。
そんなものはこれまで感じたことのないものであった。しかしリゼロッテを失ったことは、それらを考えるにあまりにも十分すぎた。
あの子の死でさえも神の思し召しというなら、その存在のどこに価値があるというのか。
――もういい。今はリゼロッテのことだけを考えさせて。
自身の内側で声にならない声で叫び、ベアトリーチェは思考を閉じた。
それぞれがそれぞれに後悔を抱える三人の間に、先ほどの赤い翼の女が割って入った。
「何を……」
ベアトリーチェらの目の前で、女はそっとリゼロッテを抱き上げた。ヴァイクが思わず相手の腕を掴んで問うた。
「なんのつもりだ!?」
「この子は、私と同じニアヴ族だ。あとのことは、どうか私に委ねてほしい」
言われてから、はっとして気づく。
赤々と燃える夕焼けと薄暗がりのせいでよくわからなかったが、目の前のたくましい女性はリゼロッテと同じ色の翼をしている。
それは、互いが同部族であることの何よりの証であった。
「――同族の生き残りがいたなら、どうしてこの子をひとりにしたんだ」
そんなことを自分が言う資格はないことはわかっていた。だが、どうしても口にせずにはいられなかった。
「すまない……ヴォルグ族に襲撃されたあともごたごたがあったんだ。それで、リゼロッテを見失ってしまった」
ヴォルグという名が出てきたときに、紅の翼のアセルスタンはわずかに身を震わせた。
女はあえてそれに気づかない振りをして、ヴァイクのほうに向き直った。
「この子に代わって礼を言わせてもらう。ありがとう、あなたたちが面倒を見てくれていなければ、もしかしたらもっと早く――」
「……いや、礼を言われるようなことは何もしてない。俺はリゼロッテに何もしてやれなかった」
「でも、あなたはさっきも、リゼロッテのためにジェイドを得ようとしたのだろう? 自分の手を汚してまで」
そして、翼の傷という怪我を押してまで。
女はすぐに悟った。
彼らと出会ってから、リゼロッテは幸せだったろう。少し言葉を交わしただけだが、ヴァイクという男の誠実さがわかる。それは、彼の目を見れば明らかだった。
「だが、それはリゼロッテの思いを……」
「そうかもしれない。けれど、あなたはこの子のことを思っていたからこそ決断したんじゃないのか?」
「…………」
「そして、初対面の私の言うことも信じてくれようとしている。なぜこの子があなたたちと一緒にいたのか、よくわかる気がする」
しかし、ヴァイクはかぶりを振った。
「よしてくれ。俺は何もしてない、できなかったんだ。俺たちと出会わないほうが、この子にとっては幸せだったかもしれない」
「そうじゃない――」
「そうなんだ! 現に、今こうして……」
あくまで意固地なヴァイクに、女はやれやれといった様子で小さくため息をついた。
「あなたは自分のことがわかってない。自分を軽んじすぎるから、大切なものが見えなくなっている。そして、周りをも苦しめてしまうんだ」
うっと|唸(うな)ったヴァイクは、返す言葉もない。
――実際、そうなのかもしれない。自分を大切にできない者が他者を大切にできるはずもなかった。
あまりに鋭い指摘にヴァイクが恨みがましく相手の目を睨みつけると、女は肩を揺らしていた。
笑っている。
女は、初めて微笑んでいた。それは、母が愛しいわが子を見るような優しげな笑みであった。
「そんなあなただから、私は感謝しているんだがな」
言いざま、女はすっと飛び上がった。
「どこへ行く!?」
「悪いが、くわしいことは今は話せない。だが、あなたたちにだったら、いつかは伝えられるかもしれない。もしよければ西のノイシュタット侯領、その都シュラインシュタットの城の裏側にある山のところへ来てほしい。そのとき、すべてを話そう」
女は大きく翼をはためかせて、さらに高くへと舞い上がっていく。
「私の名はレベッカ。この子のことは――」
いったん、血の気のないリゼロッテの顔を見つめる。そして、瞳に決意の色を浮かべた。
「この子のことは、私に任せてほしい。けっして、あなたたちを失望させるような真似はしない」
そう告げると、今度こそレベッカという名の翼人は飛び去っていった。
その小さくなっていく背中がリゼロッテのあの小さな背中と重なって、これが永遠の別れになりそうな予感をいやがおうにも強めていく。
しばらく、誰も口を開こうとはしなかった。開けなかった。それほどまでに、リゼロッテを失った衝撃は大きすぎた。
夕陽がほとんど沈んだ薄闇の中、西の空をいつまでも見つづけている。
――リゼロッテ。
まさか本当に最後の別れまで、レベッカという女のせいでこんなにも唐突なものになるとは思ってもみなかった。
あまりに突然の死、あまりに突然の別れ。まともに最後の挨拶をすることも叶わなかったことに、それぞれは言い知れぬ喪失感を覚えていた。
人間も翼人も、あまりにも大きなことが起きると思考が停止してしまうものなのだと、まざまざと実感させられていた。誰も彼もが放心したかのように、呆然と立ち尽くしている。
空には気の早い星々が、ぽつりぽつりと瞬いている。しかし、なぜか月の光は見えない。
ヴァイクの足元には、あの少女の小袋と赤いペンダントが落ちていた。