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空気が張りつめているのに、どこか弛緩していた。
袋にたっぷりと水は入っているのに、どこかの小さな穴から大切な水が流れ出てしまっているような虚しさ。その穴を塞ぎたくとも、その手段がない。
そのジレンマ、その苦悩。耐えがたいほどの焦燥がそれぞれの内側を蝕んでいく。
リゼロッテは動けなくなった。
みずからの足で立ち上がることができないだけでなく、もう意識があるのかどうかも疑わしい状態だ。
もう少し進んだところに、かつてロシー族が住んでいたらしい洞穴がある。当初の予定ではそこで休むつもりだったのだが、リゼロッテを無理に動かすことができなくなった今となっては、もうこの木陰で様子を見るしかなかった。
「リゼロッテ……」
ベアトリーチェは目にうっすらと涙を浮かべながら、少女にあげたはずのスカーフで顔を拭いてやっていた。
なぜ、もっと早くに気づいてやれなかったのだろう。
気丈にも一言も弱音を吐こうとはしなかったリゼロッテだが、本当は苦しくて仕方がなかったはずだ。言うに言えない彼女の気持ちを察して、こちらが気づかってやるべきだった。
いつかこうなるときが来てしまうことはわかっていた。これは、リゼロッテが幼いながらも自分で選んだ道だった。
それでも、自分に何かできることはあったのではないか。どうしても、そう考えてしまう。
リゼロッテは荒い息をして、かなりの汗をかいている。しかし、体の温度は悲しいくらいに冷えきっていた。
ジェイドが完全に不足しているのが原因だ。このままでは長く持たない。ヴァイクは、もうすぐすべての終焉が訪れてしまう予感に、身を震わせていた。
「なあ、ジャン」
「何?」
「俺たちは本当にこれでよかったのか? リゼロッテをこのままにして……」
「そ、そんなこと言ったって……」
ジャンは答えに窮した。ヴァイクのほうも、元より返事がほしくて言ったわけではない。どうしても、誰かに問わずにはいられなかった。
目の前で、今まさに小さな命の炎が消えゆこうとしている。
それを前にして何もできない無力感、何もしようがない虚無感。
戦いに負けたときとは比較にならないほどに、自分の弱さを痛感していた。
――今度こそ最後かもしれない。
前の〝発作〟は、なんとかしのぐことができた。しかし、あのときよりも確実に状態は悪化している。
ヴァイクはこれまで、体が衰弱してジェイドが食べられなくなり、そのまま意識を失って旅立っていった翼人たちを何人も見てきた。
今のリゼロッテは、まさに末期の症状を呈している。もう幾ばくも、時間は残されていないはずだった。
翼人のことをあまり知らないベアトリーチェにも、それは痛いほどよくわかった。
「ヴァイク、どうしよう。リゼロッテの手がどんどん冷たくなってる……」
「…………」
ずっと迷いがあった。
前にリゼロッテの意思を尊重することを決めはしたものの、こうして幼い命が実際に失われようとしているのを目の当たりにすると、本当にこれでいいのかとこころの中の疑問がひたすらにふくれ上がっていく。
今ならまだ間に合うかもしれない。無理やりにでもジェイドを食べさせ、生き延びさせたほうがいいのではないか。
それは自分の傲慢なのかもしれない。リゼロッテはそれを望んでいない。わかっている。しかし、このまま最後まで見届けるのはあまりに忍びなかった。
とりあえずジェイドを狩ってくるか――そう思いはじめたとき、すぐ隣にいたジャンが悲鳴のような声を上げた。
「ヴァ、ヴァイク!」
その声に尋常ならざるものを感じたヴァイクが急いでジャンのほうに向き直ると、彼は青ざめた表情で森の奥のほうを指さしていた。
――なんだ?
初め、|それ|(、、)が何なのかよくわからなかった。
黒い影が、ひたり、ひたりとにじり寄ってくる。
それは薄汚れたボロの服をまとい、あちらこちらに赤黒い染みを付けている。その右手に持つ剣は、まるで生き物であるかのように夕陽の弱々しい光を浴びて怪しく揺らめいていた。
薄闇の中でも目につくのは、その|紅(くれない)色した翼と渇望の炎を宿した両の|眼(まなこ)だった。
「アセルスタン……?」
確か、そんな名前だったはずだ。かつて、いきなり襲いかかってきたヴォルグ族の男。戦いの末に片方の翼を切り落とし、それで決着はついたはずだった。
――まだ生きていたのか。
不具者は、部族の者から冷遇される。それが男ともなればなおのこと。翼人の男はあくまで戦士としての責務を担っているから、戦えない者はごみも同然に扱われる。
場合によっては、部族から追放されることもあった。おそらく、ヴォルグ族もそうなのだろうから、てっきりもうすでにこの世にはいないものと思っていた。
しかし、奴は生きていた。
しかもその姿からして、もうすでにいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたであろうことは間違いない。
以前にはあった慢心による隙がまるで見えなかった。それどころか、寒気を覚えるほどの激しい殺気をまとっている。
――これは難しい戦いになる。
と、ヴァイクは悟りながら、みずからも剣を抜いた。
「ヴァイク!?」
「お前たちは絶対にここを動くな。奴の相手は俺がする」
ベアトリーチェらにそう告げながら、ヴァイクは一気に駆け出した。
あの男の相手は自分がしなければならない。自分しかいない。たとえ仕方がなかったこととはいえ、翼人の命ともいえる翼を奪ったのはこの俺なのだ。
自分がここでけりをつけねばならない。つけてやらねばならなかった。
「ああああァァァァ!」
悲鳴とも雄叫びともとれない奇声を発しながら、アセルスタンも剣を構えて走り出した。
翼人は脚力も強い。あっという間に互いに距離を詰めると、すぐさま剣を打ち合わせた。
金属がぶつかり合う甲高い音とともに、尋常ならざる衝撃が|柄(つか)を通して伝わってくる。
「ああッ!」
アセルスタンは、前回と同じように力任せに無茶苦茶な攻撃をしかけてきた。
ただ決定的に異なるのは、まったく反撃を恐れていないことだ。稽古ではないのだから、攻撃を失敗すればかならず反撃を受ける。それを危惧して、どうしても攻撃を躊躇して中途半端になってしまうことがどんな猛者にも多かれ少なかれあるものだ。
しかし、今のアセルスタンにはそれがまったくない。
〝攻撃してくれ!〟と呼び込んでいるようにさえ見える。それが|見せかけ(フェイント)なのか|本気|(、、)なのかがわからないから、対峙する側としてはこれほど厄介なことはなかった。
結果、相手のペースにはまり込んでしまい、反撃の機会をうかがうことさえ難しくなる。いつの間にか、じりじりと後退させられていた。
――ちくしょう!
こころの中で罵声を上げる。まったく調子が出ない。相手の勢いは圧倒的で、後手後手に回るしかなかった。
――それに、右の翼の傷がどうしても気になる。
翼人は地上に立っているときでもバランスを取るときなどに翼を使う。
怪我をしていても動くたび無意識のうちに翼も使ってしまい、そのたびに激痛が走る。それが結果的に集中力にも影響し、いらいらがつのってさらに動きが雑になる。
相手も翼を使えないのは同じだ。しかし、アセルスタンにはもう翼そのものがない。
こちらはなまじ翼があって、しかもそれをある程度は動かせてしまうがために、かえって不利な面があった。
アセルスタンは片翼の分、体のバランスが悪いはずなのだが、それをまったく感じさせないくらいに動きが切れていた。
否、バランスは確かに崩れている。崩れてはいるのだが、完全に隙ができそうになるところを力で強引にねじ伏せ、無理やりに体勢を立て直して次の動作へと移っていく。
――こんな戦い方もあるのか。
ヴァイクは剣戟の最中にあっても、こころのどこかで相手の戦いぶりに感嘆していた。
今まで見てきた戦士たちは誰も、技に優れた剣士ばかりだった。中には力を重視した者もいるにはいたが、そういった者たちも技とうまく組み合わせていた。
しかし、目の前の男はまったく違う。ひたすらに無骨で荒削りで、相手に反撃されることなどまったく意に介さない。たとえ技でうまくいなされても、力だけで相手を追い込んでいく。
敵とはいえ、いっそ|清々(すがすが)しかった。ここまで徹底的に力任せの戦い方を実行できる奴はそうそういない。
――感心してる場合じゃないがな……
相手は捨て身の攻撃をくり返し、こちらは調子が出ない。その状態が長くつづけば、いつかは追い込まれることは必然だった。
「くっ」
アセルスタンの大きく振りかぶった一撃に、わずかに体勢が崩された。それを立て直すこともままならず、気がつけば追撃の剣が迫ってきた。
急ぎ、剣の付け根でそれを受け止めようとする。
しかし、それは完全に間違った選択だった。
剣を打ち合わせた瞬間の衝撃が、もろに体に伝わってきた。ただでさえバランスを失っていた体躯は、受身をとることさえできずに投げ出された。
重いものが倒れる鈍い音とともに、金属の乾いた音が周囲に響いた。
「ヴァイク!」
ベアトリーチェが思わず叫んだ。
目の前の光景が信じられない。あのヴァイクが、ほとんど何もできずに倒されてしまった。
しかし、彼女たちよりもずっと深い衝撃を受けている男がいた。
「ふざけるなよ……」
相手の無様な姿に、どうしようもない失望と激しい怒りが込み上げてくる。
――こんな弱い奴に俺の翼はもがれたというのか!
納得のいかない理不尽さと、そんな相手に敗れた自分自身に対する怒気に身を震わす。
許せない。弱いこいつも、弱い俺も。
「ふざけるなッ! 俺はお遊びに来たんじゃない。弱い奴に負けたんでもない。その体たらくはなんだ! 俺を失望させるなッ!」
こいつなら、この苦しみの道を断ち切ってくれると思った。そう期待していた。
しかし、この情けない姿はなんだ。この弱さはなんだというのだ。
前に戦ったときとは別人のようだった。
あのときは、熱くなる戦いの中でもけっして冷静さを失わない、鋭利な刃のような怜悧さがあった。剣を打ち合わせながら、認めたくはない畏怖を感じたことさえあった。
それだけに裏切られた思いは強い。
――よりによって自分の人生をめちゃくちゃにした仇が、こんなにも堕落してしまっていたとは!
そう考えれば考えるほど、また新たな怒りが込み上げてくる。
許しがたい。罰を下すべきだ。
「そうだ、貴様の翼ももいでやろうか? そうすれば、少しは必死になるだろう?」
アセルスタンの目は本気だ。
別に躊躇する理由などない。自分の翼を奪った男の翼を奪う。それのどこに問題があるというのか。
ヴァイクは唇を噛んで、片翼の男の怒りに満ちた瞳を見返していた。
まったく戦いに集中できない。どうしても背後のことが気になってしまう。
――リゼロッテは大丈夫なのか。
あの様子では、いつ最期のときが訪れても不思議はない。
こんなことをしている場合ではないのだ。少女のために何かまだやれることがあるのかもしれないのに!
「……何に気を取られているんだ、貴様は」
アセルスタンの冷たい声がヴァイクに浴びせられた。そしてすぐ、少し離れたところにいるベアトリーチェらの存在に気がついた。
「そうか、そういうことか……」
妙に合点がいった様子で、急にきびすを返した。
その視線の先は――ベアトリーチェ。
相手の意図するところを察し、ヴァイクは思わず叫んだ。
「よせ! あいつらは関係ない、戦えるような力は持ってないんだ」
「勘違いするなよ。俺はヴォルグ族だ。相手が女子供だろうと容赦はしない」
ヴァイクは歯がみする思いだった。
――そうだった。こいつは、誰彼かまわず惨殺する、最低最悪のヴォルグ族の出身だ。
その相手に戦士としての心得を説いたところでまったくの無意味だった。
「さて、どうしてやろうか」
アセルスタンは狂気に彩られた目で、ひとりの女神官を見すえている。
そこに言い知れぬ根源的な恐怖を感じ、ベアトリーチェは思わず後ずさっていた。
しかし、それ以上引くわけにはいかない。
なぜなら、そこには今も激しい苦しみに耐える少女がいるからだ。
――このままではリゼロッテまで……
「やめろ、ばか野郎!」
ヴァイクは飛び起き、烈火のごとく相手に追いすがった。
今度は、からだの重さも剣の重さも感じない。まさしく飛ぶように相手に襲いかかっていった。
それに対し、アセルスタンは振り向きざまに剣を横に振る。
もう一度、剣と剣とが火花を散らしてぶつかり合った。
「そうだ、それなんだよ。俺が待っていたのはその勢いなんだ」
見る者に寒気を覚えさせる薄い笑みを浮かべながら、アセルスタンは嬉々としてヴァイクに迫った。
今度は、相手から確かな手応えを感じる。これならば、こちらを満足させてくれそうだった。
しかし、その思いはすぐに裏切られることになった。
何度打ち合っても手応えが感じられない。やがて、先ほどと同じように形勢がはっきりとしてきた。
白翼の戦士が倒されるのは時間の問題だった。
剣の素人であるベアトリーチェが見ても、その動きが極端に鈍いことがよくわかる。あの真の強さを体現していた彼の姿とは程遠かった。
そのことに最も失望したのは他ならぬ、ヴァイクを追いつめているアセルスタン自身であった。
――どうしてこの程度なのか!
「そこまでだらしがないのなら、もういい。あの女ども|諸(もろ)とも、俺が消し去ってやる」
ヴァイクをあっさりと押しやって距離をとると、アセルスタンは憎悪に満ちた目で弱い相手と周りを睨みやった。
「貴様はこころにぶれが出ると、まともに戦えなくなるみたいだからな。俺がそのしがらみを断ち切ってやる」
「やめろと言っている!」
「俺に命令するなッ! 弱い奴が俺に語るなッ!」
アセルスタンの剣が、奔流のようにヴァイクにぶつかっていく。
――なす術がない。
何かの覚悟を決めた人間というのは、ここまで強くなれるものなのか。アセルスタンは、確かに進むべき方向を間違えているのかもしれない。
しかし余計なものを一切捨て、最後の戦いにすべてをかけているがゆえに、この圧倒的な力を発揮できるのではないかと思えた。
ひるがえって、自分はどうなのか。
常に迷いつづけ、今もリゼロッテのことで思い悩んでいる。こころが揺れている者が確固とした覚悟をもつ相手とまともに対峙しようというのは、どだい無理な話だった。
気がつけば、防戦一方になっていた。アセルスタンの剣撃についていけず、後手後手に回っていく。
その行き着く先はひとつだ。
「ぐああッ!」
アセルスタンの剣がヴァイクの右の翼を貫いていた――ちょうど傷があったところに。
それまで剣をあからさまに大振りしていたアセルスタンが、急に〝突き〟へとその動きを変えた。
守るので精一杯だったヴァイクはまったく対応することができず、背後にあった木にそのまま打ち付けられた。
逆に、相手には余裕があったのだろう。わざとまだ癒えていない傷をもう一度狙ってきた。
「ここで見ているんだな、己の無力さを痛感しながら」
突き立てた剣をそのままに、アセルスタンはベアトリーチェらのいるほうへ向かった。
あまりに激しい痛みに、ヴァイクは声を上げることさえできない。
剣を抜くのにもたついている間に、相手はベアトリーチェのすぐ前にまで迫っていた。
「人間の女か……。なぜ、翼人と一緒にいる?」
アセルスタンに問われても、ベアトリーチェはすぐに返事をすることができなかった。
先ほどまでの戦いぶり、そして狂気に満ちた瞳を見て、本能的な恐怖にこころを支配されてしまっていた。
「まあ、いい。聞いたところですぐに終わる命だ。意味がないだろうからな」
薄い笑みを浮かべて、腰にあった短剣を抜く。
「貴様にも翼人と同じ苦しみを味わわせてやる。生きながら心臓をえぐり出される苦しみをな」
男の目は本気だった。もはや、泣くことも悲鳴を上げることもできない。
すぐ近くにいるジャンも、まったく動けない。今ほど恐怖と、そして自分の弱さを痛烈に感じたことはなかった。
何かしなければ――でも怖い、このままではベアトリーチェが――でも動けない。
ベアトリーチェとジャンが呆然と振り上げられたその短剣を見つめ、剣を引き抜いたヴァイクが痛みに顔を歪めながら必死に追いかけてくる。
「――――」