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雨が少し降ったせいか、少しひんやりとした心地のよい風が吹きすぎてゆく。草原の草花は雫に濡れ、かすかな陽光にきらめいている。
アーデとユーグは、城の西にある平原を訪れていた。しばしば軍の訓練に使われている場所だ。よく見ると、あちらこちらに矢柄が落ちているが気にしないことにした。
「やっぱり、乗馬は気持ちがいいな」
アーデは、栗毛の馬に乗って悦に入っている。
その隣で、ユーグは憮然とした表情をしていた。
「相変わらず、殿下はお元気ですね」
「相変わらず、ユーグは不景気な顔してるわね」
ちょっぴり皮肉を込めて姫に言ってやったのだが、まったく通用しなかったようだ。アーデが涼しい顔で返してきた。
まったく、この華奢な体のどこに無尽蔵とも思える体力が潜んでいるのかと思う。ノイシュタット侯の妹姫とはいえ意外にやるべきことが多く、ほとんど時間的な余裕はない。
にもかかわらず、疲れた様子は微塵も見せずにこうしてあっちこっちへ動き回っている。元気なのは結構なことだが、それに付き合わされるほうはたまったものではない。
「大体、どうして雨が降る中、乗馬をする必要があるんです?」
「もう|止(や)んだんだから、いいじゃない。細かいことを気にするのね、ユーグは」
ユーグは肩をすくめてみせた。
「本当に細かいことでしょうか。何か意図があって外へ来たのではないのですか、この見通しのいいところへ」
「――本当に鋭いのね、ユーグは」
少し感心したように、アーデが目を見開いた。
いつも飄々としてはいるが、やはり見るべきところは見ているし、感じるべきところは感じている。精鋭中の精鋭である近衛騎士に若くして叙任されたのはだてではないということか。
「最近ね、気になることがあるのよ」
「何がです?」
「〝仲間〟に離反者が出てるみたい」
アーデはさらりと言ってのけたが、それは看過できることではなかった。
「まさか、例の襲撃者の側についたということですか?」
「一発で核心を突くのね、ユーグは。そんなことしていると、女の子に嫌われるわよ」
「……どういう意味でしょう?」
「でも、実際そのとおりなのよ」
「私が女の子に嫌われることがですか」
「そうじゃなくて、例の連中の側に寝返ったことが。どうも翼人の世界でも、アルスフェルトの件が噂になってるらしいのよね」
「……大問題ではないですか」
「そうね。だけど、無理には止められない。止めても無駄だろうし、私たちはみずからの意志で集まっているんだから、何も強制はできない」
たとえ強引に止めたとしても、それはむしろ今後の火種となりかねない。今のところは、基本的に放っておくしかなかった。
「それにしても、恩知らずなものですね。のたれ死にしそうになっていたところを助けて、これまでいろいろと支援してやったのは誰だと思っているのか」
「仕方がないわ。誰だって、同族が恋しいもの」
「ですが、我々の中にも翼人はいるでしょう」
「でも、人間もいる。だから〝新部族〟は厳しいのよ。変なわがままは許されないし、他人に寄りかかることも許されない。全体として大きな志をもっているから、ひとりひとりが目標のために自発的に行動しなきゃいけない」
アーデはそこで一度言葉を切った。
「それは口で言うほど簡単なことじゃないでしょ。誰だって楽をしたいと思うし、誰だって他の誰かに甘えたい。世の中にはね、自分に厳しく、自分のやるべきことをきちんとできる人のほうが圧倒的に少ないものなのよ」
どんなに優れた人物でも、結局は自分のことしか考えていないことも多い。
自己をみずから統御し、そのうえで他者のために行動できる人は、この広い世界の中でもほんのわずかにしか存在しなかった。
「みんな|儚(はかな)い存在よね。どこかで妥協してしまって、他の誰かじゃなく自分を駄目にしていく」
世の中にうまくいかないことが多いのも、たいていはそれぞれの利己心が邪魔をしていた。
「それは翼人も人間も変わらない。どちらも不完全なのね」
「不完全だからこそ助け合う――ですか」
「そう、ひとりひとりが不完全なら、それぞれが足りないものを補い合って全体としてより完全に近づけばいい。それに逆もあるでしょ?」
「ええ、わかります。反対にいい部分は相乗効果でさらによくすることができる」
「それなのよ。だから組織とか団体っていうのは、かならずしも互いに依存し合うなんていう腐敗の温床なんかじゃない。本当は、お互いに助け合ってお互いに高め合うためのものなの」
しかし、それは縄張り意識やそれぞれの甘えによって、すぐに腐敗化しはじめる危険性をはらんだものでもあった。残念ながら、大半の組織はすでにその罠に陥っている。
「この国でも、まともに領地の運営がなされているところは、ここノイシュタットだけですからね」
「どうしてかな……やっぱり、人は弱い生き物なのかな」
「弱いから寄り集まる。でも、弱い存在が集まってるだけなら、その集団が弱いままでも不思議はない――」
「それが最悪の場合ね。単純に弱いままならまだしも、弱さが弱さを呼んでさらにひどいことになったら大変なことになる」
互いの弱さを補い合うのではなく、互いの弱さを当然視する、もしくは弱さを|無視する|(、、)という馴れ合いの関係になってしまったとき、最低の悪循環がはじまる。
弱さを克服してよりよい方向に進むのではなく、やればやるほど弱さがひどくなっていく。
私は弱い、あなたも弱い、だから弱いままでいいじゃないか。いや、弱くなんかない。少なくとも、あなたと私の間では同等なのだから――
そうした弱さを弱さとして認めようとしないぬるま湯のような馴れ合いの関係に、一人、二人と仲間が増えていく。
それが大規模な集団となったとき、社会的な大混乱が起こるのかもしれない。
「例の襲撃者の連中もそうだと?」
「そこまでは言ってないわ。あの翼人たちの構成も目的も何もわかってないんだし。もし私たちと同じ志を抱いているのなら、協力したいくらい」
「疑わしきを悪としたら、すべてを拒絶することになる」
「けれど、あの悪辣なやり口からしてとても相容れそうにないけど」
例のアルスフェルト襲撃からしばらく経ったこともあって、そのくわしい内容が伝わるようになってきた。
町の惨状や翼人たちの非道、そして人々の心臓を喰らうという人間からすると異常極まりない信じがたい行為などについて、いろいろなところから耳に入ってくる。
「なんのためにあそこまでしたのかが、わからないのよね……」
都市丸ごとひとつを壊滅させるなんて、その労力だけでも莫大なものがかかる。ちょっとした遊び気分でやれるようなものではないことはもちろんだった。
にもかかわらず、これといってはっきりとした目的が未だ見えないことが、どこか不気味でもあった。
「ですが、あれでも連中にとっては小手調べでしかなかったとしたらどうでしょうか」
「――今、なんて言った?」
「いえ、もしさらに大規模なことをやろうとしているのなら、都市ひとつを襲撃するくらいは、むしろ当然だろうと思いまして」
それだ。
アーデは|閃(ひらめ)いた。国家間の大きな戦争が起きたときに、ひとつの町が消滅することなどはたいした問題ではなくなってしまうように、大事の前の小事はほとんど考えるに値しない。そもそも、大きい小さいということは相対的なものでしかないのだから。
「ユーグの指摘が正しかったとしら――」
「やはり、世界が動きだそうとしているのでしょうね」
自分たちはその流れの中に巻き込まれつつある。その中で何ができるのだろう。
それは、おそらく誰にもわからない。
――きっと何ができるかではなく、何をしたいか、何をする意志があるかのほうが大切なんだ。
先のことは誰にも読めない。ならば、結局は今やれるかぎりのことを精一杯やるしかないのだった。
「できるだけの準備はしておきましょう、ユーグ。そうしておけば、少なくとも後悔だけはしなくて済む」
「同感です」
ただアーデには、気になることがもうひとつだけあった。
「アルスフェルトで思い出したけど、レベッカ遅いわね……」
「遅すぎます。何かあったのでしょうか」
アルスフェルトの第一報が伝えられてからすぐに出発したレベッカが未だに帰ってこない。その後、遅れて派遣した密偵がすでに戻ってきているというのに、だ。
何かしら不測の事態があったのだろうが、何者かの襲撃を受けたからだとは考えられなかった。
レベッカは強い。仮に複数の相手に囲まれたのだとしても、彼女にはそれを突破して逃げ切れるだけの力量は確実にあった。
「それだけに、理由がよくわからないのよね」
言うまでもなく、約束を反故にするような人でもなく、律儀すぎるくらいに律儀な女だった。
「妙なことに首を突っ込んでなければいいけど」
「確かに、そちらのほうが心配ですね」
二人は、顔を見合わせて肩をすくめた。