*
「誰だ、窓を開けっ放しにしたのは」
文句を言いながらも自分で閉める。小雨が降りはじめ、少し風が吹き込んできた。
ノイシュタット侯フェリクスは、はた目にも不機嫌なのは明らかだった。よほど悩みがあるのか、頭はくしゃくしゃで目にはうっすらと隈ができ、貴公子と呼ばれた面影はもうない。
「フェリクス様、落ち着いてください。苛立っても状況は悪化するだけで、なんの得もないですぞ」
と言うオトマルも、実際のところフェリクスと似たり寄ったりの状態だった。
諸侯からの急使が矢継ぎ早にやってきて、その対応だけでも精一杯だというのに、領内で翼人に襲われたという事実を考慮し、今後の対策まで練らなければならない。
体が、頭が、いくつあっても足りなかった。
「それにしても、オリオーンの件が噂になるのは早かったな」
「仕方がないのかもしれません。箝口令を徹底させるのが難しかったもので」
もしかしたらあの攻撃による衝撃は、やられた翼人よりも、人間側のほうが大きかったのかもしれない。
あれほど短時間のうちに、あれほど圧倒的に、あれほど多くの命が無意味に奪われる光景を見たことのある者はまったくいなかったろう。
百戦錬磨を自負するオトマルでさえ、しばらく言葉を失い、夜は悪夢にうなされることになった。
いくら関係者を黙らせようとしても、不安に駆られた兵士たちが今回参戦しなかった他の者たちに話してしまうのだった。
「だが、異様に早すぎないか? ここから一番離れたローエにまで噂が伝わっていたなんて、どう考えてもおかしいだろう」
「アルスフェルトのときと同じですな。なぜか、噂が|飛んでいく|(、、)」
「妙なのは、その伝達経路がよくわからんことだ」
密偵の報告によると、今ではもう帝都だけでなく、北東のローエ地方でさえバリスタを搭載したオリオーンの話題で持ちきりだという。
しかしなぜか、ここシュラインシュタットの近隣都市ではまだ噂にさえなっていない。どう考えてもつじつまが合わなかった。
「もうひとつある。これだけオリオーンのことが話題になってるのに、どうして翼人のことを使者たちは何も言わないんだ」
「噂すら聞いていないようです。アルスフェルトのことがあるだけにおかしいですな」
オリオーンが搭載したバリスタで一瞬のうちに敵を屠ったことはかなりくわしく知っていた。
にもかかわらず、その敵がどういう存在だったのかはまったく触れようとしない。
こうした不可解な点から導き出される結論はひとつだった。
「誰かの作為がどこかで働いているということか」
「ですな。その〝誰か〟が誰なのかは想像もつきませんが、何者かが噂を意図的に広め、しかも操作しているとしか思えません」
「気の滅入る話だ」
「最近はただでさえ懸案事項が多いですからな」
「北方の治水事業も中途で、フィズベク暴動の事後処理もまだ終わっていない。そのうえ、他領のアルスフェルトだけでなく自領でも翼人の襲撃を受けた」
「しかも、そのことに関する情報を何者かが操っている」
「どこから手を付けていいものやら」
フェリクスは大仰にため息をついた。問題はそれだけではない。
「それよりも、諸侯をどうやってごまかすかだな」
「ええ、すべての使者が具体的な説明を求めております。うやむやな返事ではまるで納得しないでしょう」
「連中はどこまで知っている?」
「オリオーンにバリスタを搭載したことと、反乱鎮圧に用いたこと。それから、その威力が圧倒的すぎたことまでですな。ただ――」
「ただ?」
「アイトルフ侯の使者だけは、なぜかバリスタの搭載数まで知っておりました」
「正確にか」
「ほとんど一致しています。舷側にどのように設置したかまで」
「どうしてよりよってアイトルフが。|あの|(、、)ヨハン殿だぞ」
「使者が言うには、たまたまそこに居合わせた人物から直接聞いたということでしたが――そんなことは有り得ませんな」
あの場に兵士以外の人間がいたはずはなく、遠目からではバリスタの数どころか、何をしているのかもよくはわからなかったはずだ。
「ということは、誰かが情報を提供したということだな」
「ええ、しかもフェリクス様を追いつめることによって得をする誰かが」
「こう言ってはなんだが、アイトルフ侯は踊らされているだけかもしれん。侯に聞いても無駄だろう」
あのアイトルフ侯になんらかの策謀を巡らせるような才知があるはずもない。
「それを言うなら、他の諸侯も同じようなものでしょう。誰も裏のことに気づいておりません」
「我々も含めて、な」
姿の見えない敵、影に潜む敵、それらがある意味もっとも厄介だった。
フェリクスは椅子に座り直し、気がかりだったことを問うた。
「ところで、ゴトフリート殿のところは?」
「来ております。ですが、さすがはゴトフリート閣下の使者ですな。オリオーンのことを問いつめるというよりも、フェリクス様の苦境を心配してくださっておりました」
そして、先日の夜会に出席できなかったことを公式に謝罪してきた。原因は予想どおり、アルスフェルトの件が予想以上に手こずったためだった。
さらに一部の都市で大雨による被害が出たせいで、それへの対処もしなければならなかったらしい。最近は、どこでも天災が増えていた。
「……アルスフェルトの件は何か聞き出せたか?」
「それが、使者の方もくわしいことは何も知らされていないそうで、自分たちとしても正直不安があるとのことでした」
「ごまかしている様子は?」
「少なくとも私の目には」
「そうか、|知らされていない|(、、)んだな」
「アルスフェルトの対策を練っているのも一部の人間だけで、実際に何をやっているのかはよく知らない、と」
フェリクスは、窓の外に目を向けた。
――ということはゴトフリート殿に、部下にさえ隠さなければならない何かがあるということではないか。
それは何を意味するのだろう。そこまで考えたとき、夜会の際にギュンターの言っていた言葉がふと思い起こされた。
〝最近のゴトフリートの奴めは何かがおかしい。とんでもないことを画策しているやもしれぬぞ〟
とんでもないこととは、なんだろうか。
この国の乗っ取り? いや、そんなものではない。
カセル侯はそういったことに意義を見出す男ではないし、そもそも次期皇帝は彼こそが最有力だ。権力は放っておいても手のうちに入ってくるのだから、みずからリスクを冒す必要などどこにもない。
ならば、何が狙いなのか。本当に彼が何かを企んでいるのか。
フェリクスが思考の深みにはまりそうになっていると、不意に扉が叩かれた。
「どうした?」
「そ、それが、そのハーレン侯の――」
近衛兵がすべてを言い終わらないうちに、扉が勢いよく開け放たれた。
「いやー、フェリクス様。お会いしたかったですよ」
その姿を見たとたん、フェリクスは頭を抱えたくなった。否、実際に抱えた。
原色系の派手な服に、意味があるのかどうかわからないたくさんの羽がついた帽子。さらに無駄なほど多いアクセサリに、何よりもそのニヤけた軽薄そうな顔。
〝|変人(オディティ)〟としてその名が通っているハーレンの|侯子(こうし)、マクシミーリアーンその人だった。
「マックス、何の用だ?」
「ははは、いま一番会いたくないのが来たという顔をしておいでですね」
「そのとおりだ」
「それはおひどい」
と言いつつもまったく応えてない顔で、マクシミーリアーンことマックスは笑っている。
だが、オトマルとしてはさすがに咎めるしかない。
「マクシミーリアーン殿下、いくらなんでもここへ直接お越しになられては困ります。使いを通していただきませんと」
「いやいやいや、それはできませんよ。いくらオトマル卿の頼みでもね」
「どうしてでございましょう?」
「これは、非公式の会見だからでございます」
おどけたように言ってフェリクスのほうを見る。しかし、その目はけっして笑ってはいなかった。
「……どういうことだ? オリオーンの件だけで来たのではないようだな」
「ええ。もちろん、バリスタ搭載の最新型飛行艇について語っていただけるのなら語っていただきたいものですけどね」
「マックス、私は回りくどいのは苦手なんだ。さっさと本題に入ってくれないか」
「では、単刀直入に申し上げましょう。我々は、ゴトフリートに対抗するための準備をしております。ノイシュタット侯もご覚悟だけはなさっておいたほうがよろしいのではないかと、ご忠告に参ったしだいです」
その場の空気が一瞬凍りついた。いや、凍りついたのはフェリクスのこころだけだった。
――まさか、ちょうどゴトフリートのことが出てくるとは。
それでも、可能なかぎり平静を取りつくろう。少し言葉に詰まってしまった時点で、すでに内心の動揺はマックスに悟られてしまっていただろうが。
「どういう意味かな?」
「おやおや、これはお察しのいいフェリクス様とも思えないお言葉。あなた様のことです。いくらゴトフリートめに傾倒なさっているとはいえ、そろそろ奴の行動に違和感を持ちはじめた頃合いでしょう?」
フェリクスはあえて答えずに、相手の目をまっすぐに見すえた。
――この男、どこまで知っている?
まさかハーレン侯が、こんなにも早く具体的な行動をとるとは思ってもみなかった。せいぜい裏で何か策謀をめぐらす程度だろうと考えていた。
しかしすでに、ゴトフリートに対抗するための準備を整えているという。慎重をもってその信念となすギュンターらしからぬ積極的な動きだった。
「先ほどから言っているように、私は回りくどいことが苦手だ。だから、単刀直入に聞かせもらう。お前たちは、どこまで知っているんだ? ゴトフリート殿と|翼人のこと|(、、)について」
マックスが目を見開いた。
「ほほう、本当に単刀直入でございますね。わたくし以上かも。いいでしょう、ならばわたくしもはっきりとお答えしましょう」
わざとらしく襟を正しながら、マックスは言った。
「ゴトフリートも翼人も、とにかく我々の敵だということです」
「はっきりというより、単純すぎる答えだな」
「ですが、事実でしょう? 正直なところ、ゴトフリートと翼人にどんな関係があるのかは測りかねます。しかし、両方とも我々に害をなそうとしているのは間違いないのです」
マックスは、得意げに人差し指を立ててみせた。
「ということは、両方とも打ち倒せばいい。両方とも敵です。そうではありませんか?」
「そうではありません、と否定する要素はないがな」
フェリクスは、あからさまに嘆息した。
――いつもこれだ。
どうもマックスは、昔から考え方が極端すぎるきらいがあった。常に、物事を善と悪の二元論でとらえようとする。
しかも、その判断基準がかなり手前勝手なものだから、端から見ているとひどく極端で|歪(いびつ)なものに思える。
本人はそれをほとんど自覚していないようだが、いつかそのことが血の雨を降らす、そんな気がしていた。
――意外にこの男、内面に激しい情念の炎を秘めているのかもしれない。
いつもいつもおどけて人の揚げ足ばかりとっているが、それは内実を隠す仮面でしかない。
物事への無関心を装ってはいるものの、本当にやる気のないローエ侯ライマルとは決定的に違う、何か生臭さのようなものを感じていた。
「あ、またわたくしのこころのうちを見透かそうとなさっておいでですね、フェリクス様」
「そうだな、何を考えているものかと思ってな」
「今申し上げたとおりです。翼人も敵、ゴトフリートも敵。それ以外、何を考える必要があるというのです?」
それこそが問題なのだが、と思ったフェリクスだったが、口に出してもしょうがないことなので黙っておいた。
――結局、マックスは物事を深く考えるということを知らない。
感情的にいい悪いを判断して、まるで疑おうとしない。
しかし、彼をそうさせる根底にあるものはなんだろう。人間に限らず、あらゆるものは基礎的なもの、核となるものの上に成り立っている。
そういった人間的な基礎が、マックスの場合どのように形成され、現在はどのようになっているのだろう。
それがまるで見えてこないところに、彼の不気味さがあるのかもしれなかった。
「ギュンター殿もお前と同じ考えか」
「……いえ、|義父(ちち)は慎重すぎるほどに慎重な人ですからね。まだ判断をつけかねているようです」
「じゃあ、今回の非公式の会見とやらはお前の独断か?」
「いえいえ、それも違います。義父からも|言伝(ことづて)がありますから」
一度言葉を切ってからマックスは告げた。
「『オリオーンをいつでも使えるようにしておけ』――だそうです。まあ、アレは翼人相手だけじゃなく人間相手にも有効ですからね」
それではこれにて失礼します、と言いたいことだけ言ってマックスはきびすを返そうとした。
「マックス」
「なんでございましょう?」
「こころの闇にのまれるなよ」
「――何をおっしゃってるのやらさっぱり」
一瞬だけ硬直したあと、はぐらかすようにして肩をすくめてから、マックスことマクシミーリアーンは部屋を出ていった。
それを見届けてから、すかさずオトマルがフェリクスに詰め寄った。
「フェリクス様、どういうことです」
「うん? マックスのことか?」
「〝|変人(オディティ) 〟のことなどどうでもいいのです。それよりも、ゴトフリート閣下のことです」
「ああ、そういえばオトマルにはまだ伝えてなかったな」
フェリクスは先日の件をかいつまんで話した。
「先日の夜会のとき、ギュンター殿に言われたのだよ。ゴトフリート殿に注意しろ、とな」
「ゴトフリート閣下に、ですか」
「ああ、ギュンター殿も確証は掴んでいないようだった。だが、こう言うんだ。『ゴトフリートが首謀者ならすべてのつじつまが合う』、とな」
フェリクス主催の宴に初めて姿を見せなかったこと。
そして、アルスフェルトが襲撃され、さらにそれへの対応が遅れたこと。
そのうえ、翼人襲撃の件がヴェストベルゲンでは噂にさえ上っていないのに、他の地域では異様なほどその情報の伝達が早かったこと。
いずれも、確かにすべてゴトフリートにかかわりがある。
「ですが、それだけでゴトフリート閣下が悪だくみをしている証拠にはならないと思いますが」
「そうなんだ。しかし、ギュンター殿は我々の知らない何かを知っているようだった。あの方が、安易に迂闊なことを口走るはずがない。何かしら確信に近いものがあるからこそ、そう言ったのだろう」
「それにしても、どうしてフェリクス様に告げたのでしょうな」
ギュンターの性格からすれば、重要なことはずっと秘密にしておいても不思議はない。否、これまでの侯の行動を考えればそうするほうがよほど自然だ。
フェリクスはゆっくりとうなずいた。
「それには、二つ理由があるだろう」
ひとつは、対策に味方が必要だと考えたことだ。ハーレンだけで対処できるレベルのことならいいが、そうでないなら他の協力を仰がなければならない。
あえて秘密を漏らしたのは、その相手を仲間に引き入れたいためだと考えるのが普通だろう。
「もうひとつは?」
「それは……歯止めだろうな」
「歯止め、ですか」
「ギュンター殿は、私とゴトフリート殿の仲を知っている。私が向こう側につくことを防ぐために事前に手を打ったのだろうよ」
見くびられたものだと思う。
たとえ相手が信愛する小父であっても、その道が間違っているのならそれに加担するつもりは毛頭ない。そんな心配をされることが、腹立たしかった。
「逆にハーレン侯のほうが〝黒〟である可能性もあるがな」
「フェリクス様は今のところ、どう考えておいでなのです?」
オトマルが核心を突いてくる。
フェリクスは少し考え込んだ。
――正直、わからない。ゴトフリートの様子がおかしいことは事実だが、これといって確証があるわけでもなく、すべて憶測にしかすぎない。
かといって、なぜかギュンターを疑う気持ちにもなれなかった。
「なんとなくだが、ギュンター殿は嘘を言っていない気がする」
「珍しいですな、フェリクス様があの狐めを信用するなんて」
「あの目が気になるんだよ、あの目がな」
ギュンターは確かに計略を用いることが多いから、無闇に信用することは危険ではある。
しかし、あの夜会のときの目は利己心のない決意に満ちたものだった。手紙などではなく直接会って話をしたからこそ、それを感じることができた。
一方、ゴトフリートとは、気がつけばもう一年近くも顔を合わせていないことになる。実のところ、今どうしているのかもよく知らない。
少なくとも、完全に白だという確信が持てなかった。
「オトマルはどう思う?」
「どう思うも何も、すべては推測の域を出ません。その状態であれこれ思案しても、たいした意味はないのでは?」
「そのとおりだ」
ただの憶測に時間を費やすくらいだったら、実際に行動に移したほうが遥かにましだ。
「よし、ゴトフリート殿に会いに行くぞ」
「そうおっしゃると思っておりました。すぐに手はずを整えます」
ゴトフリートが事態の中心にいるというなら、本人に直接会って確認すればいい。お互い知らぬ仲でもない。
ただ、もし会うことを拒絶されたらと思うと、少し怖かった。
「オトマル、念のため護衛の隊も――」
「承知しております。万が一のことを考えて護衛隊を増強し、密偵も多く潜ませておきます」
本心を言えば、恩人であり尊敬する師でもあるゴトフリートを少しでも疑うような真似はしたくなかった。
しかし、もしもの場合、何も準備をしていなかったらとんでもないことになる。領主という立場上、自分の身を守るための策を講じておく必要があった。
フェリクスは、目を閉じて両手を額に当てた。
――小父上、あなたは――
いつの間にか雨の音が聞こえなくなっていた。雲間からやわらかい日射しが差しはじめている。