第四章 さよならの言葉
自分のこころの内を象徴するかのように、空はどんよりと曇っている。
ベアトリーチェは歩を進めながらも、その目は周囲の景色を見てはいなかった。
――どうしても、神殿の対応のことが気になる。
なぜ、神官が真っ先に逃げたのか。
なぜ、聖堂騎士団を動かさないのか。
ここに来るまでいろいろな人たちに話を聞いたが、神殿が翼人の対応のために動いたという噂はついぞ耳にしなかった。
――アルスフェルトやジャンの村以外にも、翼人の被害に遭っているところはかなりあるというのに。
余計に、神殿がなんの反応も示さない理由がわからなくなってきた。
セヴェルスの言葉が思い起こされる。
〝結局、役人も神官も自分たちのことしか考えてないってことだ。都合が悪くなれば、それ以外のものを平気で切り捨てる〟
本当にそうなのだろうか。仮にそうだとしても、神殿側の〝自分たちのこと〟とはなんだろう。
「どうした?」
ひたすらにうつむいて歩くベアトリーチェを心配して、ヴァイクが声をかけた。
「いえ、神殿のことで……」
「まだ気にしてるのか。だいたい、今考えたってどうしようもないことだろう?」
「そうだけど……」
「お前は、それを確かめるために帝都とやらの大神殿を目指しているはずだ」
「うん……」
それでも考えずにはいられなかった。そうせざるをえない理由があった。
――自分はこれまで、レラーティア教を深く信仰してきた。
物心ついたときからずっと神殿で育ち、それこそレラーティア教こそが自分の礎とさえいえた。
――神殿に対して疑念を持ってしまうことがつらい。
それはあたかも、自分自身に対する疑いでもあるかのように。
「神殿がこんな不可解なことをするはずがない。それなのに――」
「はずがない、か。どんなことにだって例外はあると思うけどな」
「でも……」
「この世界に完璧な存在なんていないはずだ。そうだろう?」
「…………」
「だったら、神殿とやらだって間違いを犯すことはあるはずじゃないか」
「けど」
レラーティア教において、神は絶対的な存在なのだ。その神が降臨するとされる神殿は、まさしく神の意志を体現する場所であった。
間違いないなど起こりえない。神殿の意志は神の意志そのものでもあるのだから。
ただ、
「神殿は何を考えているのか……」
ヴァイクはあからさまに嘆息した。
「『神殿は』じゃなくて『神殿にいる人間たちは』の間違いじゃないのか?」
ベアトリーチェは息を呑んだ。
「じ、じゃあ、神官たちが神の意志に反しているとでも?」
「神の意志ってなんだ?」
「それは――」
「人間が勝手につくり出した幻想じゃないのか」
ヴァイクの指摘に、頭の奥を殴られたかのような衝撃を覚える。
――神の意志とは何?
教典にある。しかし、それを書き記し、編纂したのはまぎれもなく人間ではないか。
そもそも、神とは何か。
どこにいて、何を思い、人間とどう関わっているのか。
――それよりも、神は本当に存在するのか。
「やめて……」
「俺にはわからないな、なんで人間が神を崇めるのか。実際にいるのかどうかもわかない相手になぜ依存する? なぜ、その存在を信じられる? お前たち人間は不思議な生き物だよ。妙なことで互いに殺し合うかと思えば、妙なものを信じ込んだりして――」
「やめてッ!」
ベアトリーチェの悲痛な叫び声が周囲にこだました。
「やめて……神を冒瀆するのはやめて……」
消え入りそうな声で懇願するかのように言うベアトリーチェに、ヴァイクはそっとため息をついた。
――神を冒瀆したわけじゃなくて、お前たち人間のことを言ってみただけなんだけどな。
翼人は、万物に霊が存在することは信じている。しかし、それを絶対視したり、ましてや救いを求めて寄りかかるようなこともしない。
〝すべてはすべからく等しい〟
それが翼人の根本的な考え方だった。特定の存在だけをありがたがるのは、異常以外の何ものでもない。
――だが、人間は違う。
すべての存在に序列をつけ、神をその頂点に置いてあらゆるものを支配させる。
しかし、その神はいるかどうかわからないという。何を考えているのかも、人間の想像でしかないという。
なのに、なぜそれを強く信じられるのか。
なぜ、絶対化しようとするのか。
翼人の側からすれば、まったく理解のできないことであった。
しかも、その一方で実在の王を頂点とした別の階層まで存在するのだから、さらに意味不明なことになっている。
呆れて天を仰ぐヴァイクと、思い悩んで下を向くベアトリーチェの間の空気がおかしくなったのを見て、ジャンが初めて口を挟んだ。
「ヴァイク、人間っていうのは弱い生き物なんだよ。誰かに頼らないと、誰かが支えてくれないと生きていけないんだ」
「なんとなくはわかる。お前たちが精神的に未熟だってことはな。そこが、俺たち翼人との決定的な差かもしれない」
「――――」
「翼人は同族を殺して、その心臓を喰わなければならないという業を背負ってきた。古代から〝生きることの意味〟をずっと模索してきた」
ヴァイクは、吐き捨てるように|嗤(わら)った。
「そんなことより、現実問題として精神的にも強くならなければ生き残れなかったんだがな」
「ヴァイク……」
人間と翼人には大きな違いがある。
片方は翼をもつが、片方は何もない。
片方は同族の命を必要とするが、片方は何もいらない。
しかし、そういったこと以上に、物事を考えるうえでの根幹からしてまったく異なっているのかもしれなかった。
――ベアトリーチェも、結局俺には遠い存在か。
その思いはどこか寂しく、何か言いようもない喪失感を覚えさせるものであった。
「リゼロッテでさえ生きる意味を自分で考え、自分で決めたのに、人間は大人でも教義とやらにおんぶに抱っこか」
皮肉とも受け取れるその言葉に、ベアトリーチェがはっとして顔を上げた。しかし、けっして言われたことに反応したわけではなかった。
「リゼロッテ、大丈夫? つらくない?」
それまで手を握って歩いていた少女から伝わってくる感触が異様に冷たいことにようやく気づいた。伏せた顔を覗き込むと、ねっとりとした汗をかいて荒く息をしている。
ヴァイクもその少女の頬に手を触れて、表情を曇らせた。
「まずいな……。どこかで休ませよう」
「ちょ、ちょっと俺が先に行って場所を探してくる!」
いても立ってもいられず、ジャンが飛び出していった。
「ごめんね、リゼロッテ……。私、自分のことしか考えてなかった……」
ベアトリーチェは目に涙を浮かべながら、リゼロッテをそっと抱きしめた。
日が傾きかけていた。黄昏の時は近い。