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馬での行軍は久しぶりだった。しかし、まるで違和感はない。
ようやく日々の雑務から解放された喜びとともに、外の新鮮な空気と騎士団の中にいる程よい緊張感を味わっていた。
軍は、もうすでにフィズベク地方に入ろうとしているところだ。周辺にいた南方守備隊とも合流し、これから本格的な暴動鎮圧が始まろうとしていた。
「オトマル、もしかしたらそろそろかもしれん」
「ですな。今回の件は妙なところがありますから、そこら辺の森に伏兵が潜んでいるやもしれませぬ」
まるで世間話でも交わすかのような雰囲気で、二人が確認し合う。
「それにしても、ユーグが城に残ったのはもったいなかったですな」
「そうでもないさ、今回は、このノイシュタットの未来を左右するような戦いにはならないはずだ。城でアーデのお守りをしてくれていれば十分だ」
「ですが、できれば実戦を経験させておきたかったのです。あの男は、極端に戦を嫌っているところがありますから」
「それは何より。戦なんて、しないで済むのならそれに越したことはない」
百害あって一利なし。戦など両者を疲弊させるだけで、実際のところ何も得るものはない。
「それでも、戦は起きてしまうものなのです。騎士はそのために存在するのですから、戦場の現実をユーグに見せたかったのですが」
「無理して見なくてもいい現実もある」
「閣下……」
「冗談だよ。ただ、ユーグには戦よりも政務のほうで役立ってほしいと思っているんだ。あの男の鋭さは尋常じゃない」
それは、普段口にする言葉の端々からもうかがえた。
おそらく、彼は本来なら領主としてもやっていけるくらいの力量があるはずだ。零落した騎士の家の出だから未だ出世のペースが遅いが、間違いなくこの地を支える柱となれる逸材であった。
「それをいうなら剣の腕を捨てるのも、あまりにもったいのうございます」
「そんなに凄いのか?」
「ご存じなかったのですか?」
両方がそれぞれ別の理由で驚いた。
フェリクスはユーグの力量がなかなかのものだとは聞いていたが、オトマルが絶賛するほどであるとは思ってもみなかった。
一方のオトマルは、ユーグの剣の腕前が常軌を逸していることを、てっきりフェリクスは知っているものと思っていた。
「私としては彼を剣の道に進ませ、後進の模範となるようにしたいのですが」
「ううん、私は反対の意見だな。あくまで戦は非常時のものであって、平時のほうが圧倒的に長い。将来のためには、その平時に役立つ人材を大切にしたいのだがな」
「まったくの平行線ですな」
「ああ」
二人は笑い合った。こういう意見の相違は日常茶飯事だ。それを互いに認め合えるだけの信頼が、両者の間にはあった。
異変が起きたのは、少し気持ちを引きしめようかとフェリクスが手綱を握り直したときのことだった。
それまで順調に進んでいた行軍が急に止まった。
「どうした?」
前方に呼びかけると、ひとりの兵士が馬を駆って近づいてきた。
「閣下」
「何があった?」
「いえ、具体的にどうこうということではないのですが、どうも先陣の馬の様子がおかしいようなのです」
「おかしい?」
「はい。森に入るなり軍馬に落ち着きがなくなって、怯えているような警戒しているような|嘶(いなな)きをしはじめました」
フェリクスはオトマルのほうに目配せした。頼りになる副官はその意図を察し、首肯した。
「いよいよのようですな」
「そうだな。このまま進むのは相手の思うつぼだ。いったん引いて、少し開けたところで陣を張ろう」
その|命(めい)がすぐに伝達される。こうした命令系統が非常に高い次元で整備されていることも、ノイシュタット侯軍が強さを継続的に維持しえていることの秘訣のひとつであった。
軍は反転し森から出て、丈の短い草が生えている比較的広い草原へ移動した。
突然の方向転換に一部の兵士からは戸惑いの声がもれていたようだが、特に混乱もなく陣形を整えることができた。
全員が落ち着きを取り戻してから、フェリクスはおもむろに声を張り上げた。
「諸君! 我々はフィズベクの暴動を可及的速やかに鎮圧するためにここに来た。だが、我々の敵は暴徒だけではないかもしれない」
フェリクスの突然の言葉に、さすがのノイシュタット騎士団にもどよめきの声が上がる。
しかし、それを制してフェリクスはつづけた。
「おそらく、諸君らの想像を超えた敵が現れるだろう。しかし、あわてないでほしい。我々ならば、どんな相手だろうと対等以上に戦える」
ここで一度言葉を切った。そして全体をゆっくりと見渡してから、再び口を開いた。
「だから、落ち着いてそれぞれ己の責務を果たせ。以上だ」
しばらくは沈黙がつづいたが、それはフェリクスが馬首を巡らせたことで堰を切ったように打ち破られた。
あちらこちらで声を押し殺した会話が交わされ、不安げな表情をしている兵士もちらほらと見える。だいぶ騒がしくなったが、フェリクスはあえてそれを止めずに放っておいた。
「〝対等以上〟ですか。うまく言ったものですな」
「嘘ではないだろう? 今の我が軍は強い。最強とは言わないが、どこと戦っても一定以上の成果は上げられるはずだ」
「確かに。ただ、ローエ騎士団を除けばですが」
「そうなんだ。あの軍だけは異質だ。オトマルはどう思う? もし、我が軍とローエの軍がぶつかったとしたら」
「難しいことをお尋ねになるのですね」
オトマルは、少し考えてから答えた。
「たぶん、こちらの守りは機能すると思います。ただし、問題は攻撃のほうでしょう」
「やはりそう思うか」
守りはどれだけ相手が予測不能な行動をしようと、きちんと陣形を固めてさえいれば余程のことがないかぎり崩されることはない。
しかし攻撃は、目標とする相手を正確に把握できなければ効果的に行うことは難しい。的がはっきりと見えないのに射撃を行うようなものだからだ。
まったく予測のつかない動きをするローエ侯軍をつかまえるのは、容易ならざることであった。
「ですが、ローエ騎士団はまだましなほうだと言えるでしょう。同じ人間が相手で、同じ地上で戦うのですから」
「……そうだな」
だがこれから、そうではない敵と対峙しなければならない。それは、内容も結果もすべて予測不可能なことであった。
その後、フェリクスもオトマルも口をつぐみ、状況に変化が起きるのを待った。騎士や兵士たちも戦いの気配を察したのか、徐々に静まり返ってゆく。
どれほどの時間が経ったろう。中天にあった日がだいぶ傾いたとき、前方の森がにわかにざわめき立った。
風は――ない。
「来たか」
フェリクスは、音もなくすっと剣を抜いた。兵らも命令を受けるまでもなく、すでに武器を構えている。
「焦れて出てきたようですな」
「相手はあまり洗練されていないようだ――たとえ翼人でもな」
木々の間から無数の影が飛び出してきた。その手には剣、その背には翼。
翼人だ。
さすがに、兵たちの間から驚きとも怯えともつかない声が上がる。
しかし、事前に予想外の事態を匂わせておいたのが功を奏したのか、それが恐慌へと至ることはなく、一定の冷静さを保持したまま戦いに臨むことができた。
「いいか! 陣列をけっして崩すなよ!」
想定外の敵と対峙した際に最も怖いのは、闇雲に動くことで隊形が崩れてしまうことだ。
そして、いったんそうなってしまえば、戦いの中でそれを立て直すことは不可能に近い。結果、ほとんどの場合に敗戦が確実になる。
幸い、空を飛ぶ異人の姿を見ても、兵士たちが余計なことをすることはなかった。
逆に、あくまで落ち着きを保っている人間たちを見て、相手のほうが驚きを隠せないでいる。
――今しかない。
「弓兵、構えよ!」
フェリクスが剣を振り上げると、弓を持った兵士たちがいっせいに矢をつがえて狙いを定めた。
それを見た翼人らは、怒りと恐怖がない交ぜになった顔で、すぐに距離をとろうとする。
しかし、ノイシュタット侯軍のほうが早かった。
「撃てーッ!」
弓鳴りの音が、突風の轟音のように辺りに響き渡る。
無数の矢が、空を飛ぶ者たちへ虫の大群のように襲いかかっていった。
翼人たちは、より高い位置へと飛んでいく。逃げ遅れた一部の者は必死になって剣を振り、どうにかして矢の嵐から逃れようとする。
――初撃はこの程度か。
ある程度は相手を射落とすことができたが、たいして数は減っていなかった。
それでも、次から次へと矢を射かけることで翼人を近づけさせない。
「しかし、このままではまずいですぞ、フェリクス様」
「ああ、わかっている。撃ち方、やめ! 槍兵、前へ出ろ!」
今度は、歩兵用の長い槍を携えた一隊が準備を始めた。急降下してくるであろう翼人らを迎え撃つべく、槍を斜め上に向かって構えた。
「やはり、空を飛ぶ翼人に弓矢は有効だったな」
「ですが、矢の数には限りがあります」
「無駄撃ちだけは駄目だ。そのためにこれまで訓練してきた」
弓矢は、この勝負を決する重要な要素になる。二人が同じことを確信した目の前で、すぐに変化は起きた。
「来る――」
矢の攻撃がやんだのを見て、翼人の側が一気に反転して仕掛けてきた。最初の印象と異なり、思ったよりも統率がとれている。
「弓兵は狙いどころだぞ! 槍兵は、けっして逃げるな!」
いつもなら、いちいち指示を出さなくても動いてくれる。しかし、今回は相手が相手だ。活を入れるためにもみずから声を張り上げた。
翼人は勢いを殺すことなく突っ込んでくる。今度は弓矢による攻撃にも怯まない。
――なかなかやるな。
躊躇してくれたなら、こちらの狙いどおりだった。動きがゆるくなった翼人は格好の的になる。しかし、そんな都合のいい願いが通用するほどやわな相手ではなかった。
――だが、優位なのはこちらだ。
どんなに早く飛ぼうと、無数に舞う矢のすべてをかわせるわけではない。
いくつかは肩口に刺さり、いくつかは翼をかすめていく。
それでも、ひとりとして堕ちていく者はない。翼人らの闘争心の強さは間違いなく本物であった。
遠く上空にいた翼人の姿が目前にまで迫る。未知の敵にさすがの兵士たちも緊張を隠せないでいるが、対応は間違っていない――はずだった。
「なんだと!?」
フェリクスは目をむいて驚いた。
槍兵が動き出す、槍を突き出す、そこまでは予定どおりだ。
しかし、そのあとに予想外のことが起きた。
針のむしろのような数多くの槍の中を、翼人たちがそれを縫うようにして飛んでいく。どんなに兵が狙おうと、そのことごとくが見事というしかないほど、きれいにかわされていた。
「ばかな……空中であんなに細かい動きができるものなのか?」
「フェリクス様、空中だからこそやもしれませぬぞ」
「どういうことだ?」
「彼らは我らのように地に足をつけておりません。それだけ動きを束縛されるものがないのです」
「かえって自由に動けるということか……」
地を走る獣よりも空を飛ぶ鷹のほうが動きは滑らかで無駄がない。それと同じで、人間よりも翼人のほうが機動性は遥かに優れている。
そんな言葉を交わしている間にも、翼人らが兵士たちに次々と襲いかかっていった。
――まずい。
フェリクスは、心中うめいた。
槍は間合いの長さが特長の武器だが、その一方でいったん間合いの内側に入られると、今度はとたんにそのもろさを露呈することになる。
しかも、相手の武器は剣。初撃をかわされたことで、圧倒的に不利な状況になってしまった。
あちらこちらから悲鳴や驚愕の叫びが上がる。水中の獲物を捕らえる海鳥よろしく、槍兵隊の中へ飛び込んだ翼人たちは、剣を縦横に振るって暴れ回っている。
「フェリクス様、これでは矢を撃てません」
「わかっている」
敵を安易に近づけさせてしまったのは大きなあやまちだったかもしれない。
矢を温存するのが目的であったが、相手にこちらの陣形の内側に入られた以上、もはや闇雲に弓矢を撃つこともできなかった。
「仕方がない。弓兵はいったん引け! かわって騎馬隊が出るぞ!」
フェリクスの号令が迅速に伝えられていく。
弓を持った兵士らはまだ上空にいる翼人に対して射かけつつもじりじりと後退し、それまで待機していた騎馬隊が動きはじめた。
――槍兵隊がやや乱れている。これは賭けだ。
混戦の中に騎馬を突っ込ませれば、最悪、状況がさらにひどくなって同士討ちが出てしまう可能性もある。
――だが、ここで動かなければ戦いの趨勢が決まってしまう。
フェリクスが|忸怩(じくじ)たる思いを抱えて見つめる中、騎馬隊が槍兵を押しのけて、前へと出ていく。しかし、馬の足元にいるのが敵ならともかく、味方を踏みつけて無理に進むわけにもいかない。自然、進軍の速度は落ちるしかなかった。
「もどかしいな……」
「初めから翼人相手の戦いが難しいことはわかっていたはず。今は耐えるときですぞ」
「わかっている。だから、じっと我慢しているではないか」
と言いつつ、内面の苛立ちを表すかのように、指先で鎧をコツコツと叩いている。
「ほとんど|轡(くつわ)が外れかかった馬のように見えますが」
「ひどい言われようだ」
――できるものなら、すぐにでも飛び出したい。
自分の剣の腕はたいしたことはない。それでも、部下を苦戦必死の戦場へ送るくらいなら、みずから剣を振るいたかった。
フェリクスが我知らず歯を食いしばった頃になって、騎馬隊がようやく主戦場にまでたどり着いた。
槍兵と入れ替わり、翼人と剣を交えようとする。
「なんだと?」
しかし、そのときになって、今度は翼人の側が離脱しはじめた。その幾人かは騎兵の刃の餌食となったが、大多数はまんまと上空へ逃げおおせた。
ノイシュタット侯軍はすっかり後手に回ってしまった。こちらが仕掛ければ逃げられる。そうして突撃の勢いが弱まれば、再び攻められる。完全な悪循環だ。
「ええい、ままならぬな」
すべては、翼人の速さに想像を超えたものがあるせいだった。
――空を飛べるということがここまで有利だったとは。
相手は、自由かつ高速に動き回る。たとえ地上で百戦錬磨であっても、彼らをとらえきれないのは、もはや仕方がなかった。
「閣下、お気づきですか?」
「なんのことだ?」
「あの翼人ども、それぞれが好き勝手に動いているように見えて、その実、かなり連動しているようですぞ」
言われて、個々の翼人ではなく全体の流れに意識を向けてみた。
ざっと確認したところ、指揮官らしき存在は見当たらない。そのためか、ひとりひとりがてんでバラバラに動き回って、翼人の間でもかなり錯綜しているように見える。
だが、その割には全体として効果をきちんと現わしている。けっしていい加減に動いているのではなかった。
「あれが〝形なき形〟かもしれませんな」
「あれが、か……」
伝承では、太古の時代に人間と翼人とが共存していた時代があったという。
そのときにすべてを治めていた伝説の〝王ならぬ王〟――黒翼の大鴉が〝形なき形〟と呼ばれる軍を率いていた。
「あたかもひとつの生命体のように、それぞれがそれぞれの役割を果たしつつも全体としてひとつにまとまる……」
「生き物のように不可思議で、しかし究極の合理性をもつ存在……」
今、目の前で戦っている翼人たちは、まさに人間の感覚では把握できないが、それでもうまく機能しているということの実例であった。
「私たちは、伝説を目の当たりにしているわけか」
「感心している場合ではございません。もし本当に翼人どもが伝説の継承者であるなら、今後、我々人間は、翼人相手に劣勢の戦いをつづけねばならないということなのですぞ」
「いや、そうでもないさ」
「閣下?」
「人間だって退化してきたわけではない。我々は我々なりのやり方で進歩してきたはずなんだ」
とは言うものの、二人の目の前でノイシュタット侯軍の劣勢は止まらない。
騎馬隊は宙を舞う相手によく持ちこたえていたが、ひとり、またひとりと馬上から落ちていく。
槍兵は槍兵で近づいてきた翼人をどうにかして突こうとするものの、槍の直線的な動きは相手に読まれやすいようで、かすらせることさえできない。
「弓兵隊も機能していませんな」
「急造なのだから仕方がない。これだけ乱戦になってしまうと、よほどの手練れでないかぎり怖くて撃てないだろう」
矢を射かけることを躊躇している兵も多かった。単に狙いを外すだけならまだしも、もしその外れた矢が味方に当たろうものなら、とんでもないことになる。
軍としての損失もそうだが、撃ったほう当たったほう双方に与える精神的な打撃も大きかった。
「――――」
今や、ノイシュタット侯軍はほとんど手詰まりの状態であった。
人間の世界にも数々の戦術は存在するが、それらはすべて|地上で戦う相手|(、、)、すなわち同じ人間を想定して生み出されたものだ。思えば、それが空中を飛ぶ相手にまともに通用するはずもなかった。
「ここまで苦戦することになるとはな……」
「相手が高い位置を常に確保できることよりも、あの動きの速さと柔軟性のほうが問題でしたな」
「あの戦術と言っていいかわからない戦術もな」
ほぼすべてが想定外のことばかりだ。こころのどこかで弓矢で対処すればどうにかなると甘く考えていた自分が歯がゆい。
「だが、これで翼人との戦いがどんなものかはおおよそわかった。それだけは収穫だ」
「そうですな。しかし閣下、そろそろ決断しなければならないときかもしれませぬぞ」
状況は最悪。
見れば、比較的少ない人数の翼人相手に中規模の編成で臨んでいるノイシュタット侯軍が完全に翻弄されてしまっている。
未だなんとか戦列は維持しているものの、いつ崩壊が始まってもおかしくはなかった。
「閣下――」
「わかっている。だが、もう少しの辛抱なんだ」
フェリクスは北の空を見上げた。
雲の流れは遅い。時おりゆるやかな風は吹くが、木々の梢を揺らす程度だった。
「おそれながら、閣下。状況の変化を待つ余裕は、もはや我々には……」
「ああ、無論だ。私も、それを無邪気に待っているわけではない。それでも、今を耐えきればかならず勝機はやってくる」
オトマルには、フェリクスがどこに勝算を見出しているのかがわからなかった。
どんなに確信があろうと、現実に味方は大変な苦境に陥ってしまっている。被害を最小限に食い止めるためには、間違いなく今が引き際だった。
フェリクスも焦っているのだろう。兵をひとりたりとも失いたくないという思いは、将たる者、誰でも同じだ。しかし、それでも兵を引かせない何かがあるようだった。
その二人の目の前で、騎馬隊の一部が崩れはじめた。陣形が乱れ、ますます劣勢になっていく。
軍全体が崩壊するのは、もはや時間の問題であった。
「閣下!」
さすがに焦燥に駆られるオトマルの横で、フェリクスがにやりとほくそ笑んだ。
「――やっと来たな。待ったかいがあったというものだ」
周囲からざわめきが上がる。今日は雲が少ないというのに、辺りはすっかり濃い影に覆われていた。
オトマルは、はっとして上空を見上げた。
北の方角から巨大な船体が、その底をさらけ出してやってきた。
翼人たちもそれに気づき、唖然としている。
それは空をゆく船、飛行艇であった。
「フェリクス様、これは……」
「見てのとおりだ。敵に上空をとられるというなら、我々はそのさらに上をゆけばいい。それだけのことだよ」
「わたくしにまで内密にするとはおひどい」
「敵を騙すにはまず――と言うだろう?」
本来、ノイシュタットの飛行艇〝オリオーン〟はまだ修理中のはずだった。オトマルも飛行艇の利用は考えないでもなかったが、いかんせんその方法が思いつかなかった。
今のところ、飛行艇の移動は風まかせだ。上からの攻撃方法もこれといってない。
「これで敵を威嚇することはできましたが、オリオーンを使ってどうなさるおつもりなのです。まさか、本当に威嚇だけで終わるつもりではありますまい」
「当然だ。まあ、見ていればわかる」
そして、フェリクスは号令を発した。
「全員、引け! いったん後退して、場所を空けるんだ!」
まだ一部の兵は飛行艇に気を取られているが、待ってましたとばかりに全体が後退を始めた。最前線で戦っている兵士たちが最も自分たちの苦境をよくわかっていた。
翼人らは、どうしても自分たちよりさらに上にいる飛行艇が気になるのか、追い討ちはかけてこない。深追いを避けた面もあるのだろうが、これはノイシュタット侯軍にとっては幸運だった。
戦の場において、相手と戦いつつ退却することほど難しいことはない。機動力が人間とは比較にならない翼人という未知の敵を相手にしているのなら、なおさらに。
地上を占めていた騎馬隊と槍兵隊が引いたことで、弓兵らが射かけられるようになる。それによって、ますます翼人らは追撃ができなくなっていった。
「今だ――火矢を放て!」
そばに控えさせておいた弓兵のひとりにすぐさま命じる。あらかじめ用意しておいた、鏃に油を染み込ませた布を巻きつけた矢に火を|点(とも)し、それを空に向かって打ち上げた。
炎をなびかせながら、矢が青いベールを背景にして飛んでいく。翼人の側はそれを不審げに見やっているが、その直後、飛行艇の側に動きがあった。
遠目にも、舷側から何かの物体が突き出されたのがわかる。
「あ、あれはまさか……」
老いたりとはいえまだまだ目のいいオトマルが、その正体に最初に気づいた。
「ああ、そうだ。|大弩弓(バリスタ)だよ」
次の瞬間、無数のバリスタから無情の矢が放たれた。
弦がしなり、矢がこすれる音が辺り一帯に鳴り響く。
直後に聞こえてきたのは、翼人たちのくぐもった悲鳴だった。
文字どおり、矢の雨が降りそそぐ。ただでさえ威力のある|太矢(ボウルト)が、落下の勢いも手伝ってさらに加速する。
狂気の刃が、逃げ場を失った翼人たちを問答無用に刺し貫いていった。
ある者は胸に穴を空け、またある者は翼の付け根をえぐられて地面へと落ちていく。
それは凄惨な光景だった。
誰かと誰かが剣を交えることもなく、ただただ翼を持った者たちだけが打たれ、|嬲(なぶ)られ、屠られていく。
一方的すぎる戦いに、味方の兵士たちでさえ息を呑む。
これはもう戦いではない。ただの殺戮であった。
犠牲になった翼人たちから血しぶきが上がり、血の雨を降らせて大地を赤く染め上げていく。
そこに人間らしい感情が入る余地は一切なく、機械的な無機質さがあるだけであった。
飛行艇からのバリスタによる攻撃はあまりにも圧倒的だ。矢を積めるだけ積み込んだ艇から際限なく発射される|太矢(ボウルト)は、情け容赦なく対象を次々にとらえていく。
それを放ったのは間違いなく人間であった。
いくら非情であろうと、機械的であろうと、生きた人間が考え、生み出し、実際に行ったことだ。それが感情のない冷酷さを感じさせるものならば、人間自身も同じなのかもしれない。
「――――」
文字通りほとんどあっという間に、戦いの趨勢は決してしまった。大半の翼人は地に落ち、生き残ったわずかな翼人もほうほうの体でなんとか森に逃げ込むのがやっとだった。
しかし、そのうちのひとりが叫びながらノイシュタット侯軍に突っ込んでいった。
「ノイシュタット侯! これが貴様のやり方なのか! これが貴様の正義なのか!」
フェリクスの肩が震える。
しかし、返答する間もなくその翼人は槍に刺し貫かれ、剣に叩き落とされた。
気がつけば、目の前に動く翼人はもういなかった。草原にその凄惨な死体をさらし、大地をその血で汚している。
ノイシュタット侯軍の劣勢からこの状態に至るまで、ほとんど時間はかからなかった。それほどまでに、飛行艇からの攻撃は圧倒的だった。圧倒的すぎた。
結果だけ見れば、ノイシュタット侯軍の勝利だとはいえる。しかし、喜びに浸るどころか勝利を実感する者さえいない。
そこにあるのは、虚しさと罪悪感だけだった。
「|惨(むご)い……ことになってしまいましたな」
声をしぼり出すようにして、オトマルがぽつりとつぶやいた。
フェリクスは返事をできなかった。
みずからが考え出したこととはいえ、あまりにも威力がありすぎた。飛行艇を利用した攻撃がこれほどのものになろうとは、まったく予想だにしなかった。
――技術の差が、これほど悲惨な結果を招くものなのか……
翼人には、空を飛ぶ翼を持つという人間にはない絶対的な利点がある。
しかしその一方で、人間には知恵とそれによる技術がある。そして、それこそが人間最大の武器なのだと思っていた。
その武器は強力すぎたのかもしれない。人間の手によって生み出されたものが、人間の手に余ることになってしまった。
沈黙が、辺り一帯を支配していた。誰も声を発しようとしない。草原に倒れ伏す翼人の亡骸を見つめ、その背に突き立つ鋭い巨大な矢に戦慄する。
――これから。
フェリクスはふと、これからのことに思いを馳せた。なぜかはわからないがこれから先、間違いなく人間と翼人との戦いは増えていき、その激しさも強まっていくような予感があった。
今回は、比較的小規模な戦いでもこうなった。かといって、もし飛行艇を利用しなければ反対に大きな被害をこうむっていたのはこちらのほうだったろう。
――どちらが勝つにせよ、今以上の凄惨さと残酷さと無情さが混在した戦いが、これからもっと繰り広げられる。
そうなれば、双方ともただでは済まないであろうことは明白だった。
いったい、この世界はどうなっていくのだろう。どうなってしまうのだろう。
「……これからのことをもっともっと考えないとな」
「ええ。それに、飛行艇に据え置きの大型武器を搭載したのは、後々厄介なことになるかもしれません」
「そうだな、仕方がなかったこととはいえ……」
諸侯の間では、飛行艇を戦闘目的に利用しないという暗黙の了解があった。実際に使ってしまうと、いったいどれほどの被害が出るのか予想もつかないからだ。
飛行艇を建造する費用は莫大なものがある。もし、戦で互いの飛行艇を壊し合うような事態になったとしたら、それぞれの領地の財政はあっさりと破綻するだろう。
飛行艇は今や交易を行ううえで必須の存在だ。単に建造や修理に金がかかるということよりも、交易ができなくなることの損失のほうが遥かに大きいほどであった。
それを戦いに利用し、しかもバリスタを複数配置したとなると、他の諸侯からの糾弾は避けられそうにない。
――しかも、これだけの威力を発揮したとなれば――
「大変なことになるかもしれんな」
「他の諸侯にばれるのは時間の問題と見ていいでしょう」
フェリクスは有能ゆえに、周りから警戒されるという定めも負っていた。
常に他領が放った間者の目があるものと考えたほうがいい。今回も、これだけの軍を率いてみずから出陣したとなれば、ほぼ間違いなくその〝目〟も一緒に付いてきたはずだ。一部の噂では、すでに軍の中にまぎれ込んでいる者も複数いるという。
「ですが、その間者もまさかここまでとは思っていなかったでしょうな」
「そうだな。こころの底では見たくなかったと思ってるはずだ、この光景を……」
赤く濡れた大地を、湿気を帯びた生ぬるい風が吹き過ぎてゆく。
ノイシュタット侯軍は未だ動けず、その場に立ち尽くしていた。