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暗夜の中、アーデはすっかりあわてていた。それはもう、彼女を知る者からすれば驚愕するほどに。
「は、早くお兄様に報告を! ユーグ! ユーグ! 何をしているの!」
「落ち着いてください、姫」
ここまで取り乱すアーデも珍しい。とにかく、尋常ではないほどに冷静さを失っていた。
「ここまで来ると、哀れというより無惨ね」
「うるさいわね! 大変なんだからしょうがないじゃない」
窓のほうから聞こえてきた声に、アーデがあからさまにくってかかった。窓際に腰かけているのか、薄暗がりの中、女性のなまめかしい足だけが明かりに照らされて見える。
夜もすっかり更けていた。騎士団の一部が出払っているせいか城内はいつもよりも静かで、どこか不気味な雰囲気さえあった。
フェリクスが出立してから、すでに三日が経っている。公式の使者が城に前線の報告をするよりも早く、ヴァレリアがすでにフィズベクの様子を見て帰ってきたのだった。
「〝お兄様〟とやらのこととなると、あんたでもそこまで取り乱すのね」
「悪い!? だって、たったひとりの家族なんだもん!」
「別に悪かないわ。家族を大切に思う気持ちはわかるし。たとえ、どんなに出来の悪い弟でもね」
「弟じゃなくて兄! それに、お兄様は出来が悪くなんかないわ」
そういう意味ではなかったのだがいちいち訂正するのも阿呆らしく、ヴァレリアは何も言わずに黙っておいた。
「こんなこと悠長に話してる場合じゃなかった。ユーグ、どうにかしてお兄様に〝さっきのこと〟伝えられない?」
「無理でしょうね」
「また、そんなあっさり……」
「今すぐ早馬を出したとしてもそれが着く頃には、本隊はとっくにフィズベクに到着してしまっています。それに、飛行艇は修理中。彼女たちに飛んでもらいでもしないかぎり、どう足掻いても間に合いません」
「それは無理……よね?」
アーデは窓のほうに向かって問いかけた。呆れたのだろう、ため息の音が聞こえてくる。
「やれるなら、やっておいたわよ。でも、私たちがあんたのお兄さんたちの前に出たら、それこそ敵が現れたって思われちゃうじゃない」
「あ、それでよかったのかも。そうしたら、お兄様たちも警戒して進むだろうし」
「あのねえ」
また始まりそうな不毛な口喧嘩を初期の段階で止めておくべく、ユーグが割って入った。
「二人とも落ち着いてください。そもそも、フェリクス閣下に伝える必要はないはずですから」
「どういうこと?」
ヴァレリアと睨み合っていたアーデが振り返った。
「閣下のことです。おそらく、事前に察していたでしょう」
「でも、万が一ということがあったら……」
「それも考えられません。フェリクス閣下が率いていった隊の編成を思い出してください。もし予測していなかったのなら、あんな|歪(いびつ)な形にはしなかったはずです」
「あ」
ユーグに言われて、アーデもようやく合点がいった。
確かに、城の上から見たときにも幾ばくかの違和感を覚えていたが、それは勘違いではなくきちんとした理由あってのことだったのだ。
「よかった、さすがはお兄様。準備万端ってわけね」
「フェリクス閣下は、おそらく自身で確認したいことがあったのでしょう」
非常に楽天的な二人に、ヴァレリアは二度目の盛大なため息をついた。
「お気楽な連中ね。たとえ予測していたのだとしても、いいわけないでしょ」
「何がよ? うちの騎士団は百戦錬磨なんだから」
「人間に対して、ね」
「あっ」
思わず声を上げてしまっていた。ヴァレリアの言わんとしていることがようやくわかった。
ノイシュタット騎士団は、カセルのそれほどではないが帝国中にその勇名を轟かせている。
フェリクスが侯の座に就いた際、さまざまな混乱があったせいで実戦経験も十分で、しかもオトマルのずば抜けた管理能力もあって訓練が隅々まで行き届いている。二流の騎士団が束になってもかなわないほど、その強さは圧倒的であった。
しかし、それはあくまで|人間同士|(、、)の場合だ。カセル騎士団じゃあるまいし、〝彼ら〟との戦いの経験があるはずもなかった。
「ようやく気づいたようね。はっきり言って、人間と私たちとじゃ戦い方がまるで違うわ。それに、人間はいろんな武器を使えるけど、たぶん戦術面ではこっちのほうが遥かに上。私たちからすれば、どの騎士団の戦い方も子供だましよ」
「ほう、たいした自信ですね」
むっとしたユーグが、珍しく口を挟んできた。
しかし、それでもヴァレリアは淡々とつづけた。
「自信じゃなくて事実。あんたたちの戦い方は型にはまりすぎてるの。どんなことでも、一流は型をもって型を抜く――つまり、融通無碍になる。それは、〝剣聖〟の孫であるあなたならわかることじゃないかしら」
「剣聖? 何それ」
どきりとしたユーグをよそに、アーデはだんだんと話に付いていけず、きょとんとしていた。
「……どうしてそれを」
「まあ、そのことは今はいいでしょ。それよりあんたたちの戦い方は、私たちからすればまだ初歩の段階でしかないってこと。個と個が状況に応じて生き物のごとく連動して初めて――って、言ってもわかんないか」
そこで、我慢しきれなくなったアーデが声を上げた。
「ああ、もう! 要するにどういうことよ!?」
「負けはしないけど、苦戦は必至ってことよ。あそこに潜んでいた連中はたいした数じゃなかったけど、〝上〟を常に取られて、しかも高速で縦横無尽に動く相手と戦うのはたぶん、地上にいるしかない人間にとっては最も厄介なことでしょうね」
「ユーグもそう思うの?」
「――はい、残念ながら」
珍しく感情の揺らぎが見えた声を隠すように、ユーグはすぐに言葉を継いだ。
「逆に考えれば、いい経験になるかもしれません。これから、おそらく何か大きなことが起きるでしょう。そのための準備にはもってこいです」
「そうね、うん、確かにそうかも」
急に真面目な表情になって、アーデは言った。
「でも、本当に翼人と人間が争うときが来てしまうなんて……。これだけは避けたかった、これだけは」
ヴァレリアも、今ばかりは反論しない。ユーグも、思いは同じだった。
冷たい予感に、三人は言葉を失った。
遠くのほうで梟の声がする。風にランプの炎が揺らめき、アーデの影を波立たせた。
「最悪の時代が来るのかもしれない、今までとは比較にならないくらいの。だけど、予感があったからこそ私たちは準備をしてきた」
「そう、これからは予測のつかないことがどんどん増えていくと思うけど、今までやってきたことは絶対に無駄にならない。そして、これからも」
ヴァレリアはうなずいた。
志を同じくする仲間も増えてきた。後は具体的な行動を起こすのみ、という段階だったが、悔しいけれど状況の変化のほうが先だった。
後手に回ってしまった感はあるものの、勝負はまだまだこれからだった。
「そのとおりよ、ヴァレリアもたまにはいいこと言うじゃない」
「私は、いつもいいこと言ってるの。鈍感なあんたが気づいてないだけ」
「なんですって?」
「何よ?」
また始まった不毛すぎる言い合いに、ユーグは背を向けて窓から星空を眺めた。今日は空気が澄んでいるのか、怖いくらいに数多くの星が瞬いている。
南の方角も雲ひとつない。現況はどうなっているのか。連中とすでに接触したのか。
帰りの遅いレベッカのことも気にかけながら、ユーグは仲間たちの無事を祈るしかなかった。