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炎というのは、なぜ人のこころに訴えかけるのだろうか。
うれしいときには情熱の炎となり、悲しいときには冷たい炎となる。そして、敵意を内に秘めたときは憎しみの炎となるが、今はゆっくりと揺らめく炎にあたたかさと優しさを感じていた。
もう、夜も更けていた。空にはすっかり夜のとばりが下り、辺りを闇の中に包み込んでいる。
さらに歩を進めたヴァイクたち一行は、デューペという都市の町影がうっすらと見えるところまでたどり着いた。
ベアトリーチェの頼みで、そのさらに先にあるシュテファーニという名の神殿に寄ることになっていた。
だが、町まであともう少しというところで夜営することを余儀なくされた。
リゼロッテの体調が未だ思わしくないからだ。帝都に到着するまでの予定は、大幅に遅れていたが仕方のないことだった。
「いやあ、でもよかったよ、リゼロッテちゃんがだいぶ回復したみたいで」
美味しそうに水を飲むリゼロッテを見て、ジャンは優しく微笑んだ。
だが、そんな彼にヴァイクはやや不審げな目を向けた。
「なんでお前まで来たんだ」
「いいじゃないか、別に。食べ物とかも自分でなんとかするから」
「そういう問題じゃない」
「大神殿にかけ合うためだよ。ベアトリーチェにだけ押しつけちゃ悪いからね」
「どうだか」
ジャンは、引き留める村人と反対するヴァイクたちを押し切って、ほとんど無理やりに付いてきたのだった。表向きの理由はともかく、その真意は今のところ本人以外の誰も知らない。
「俺はまだ信用したわけじゃないからな。だいたい、お前が言う選帝会議とかいうのがちょうど帝都であるっていうのは本当なのか?」
「あ、ひどいな。どうして疑うかな。本当だよ、諸侯が宮廷に集結して会議が行われるんだ」
ベアトリーチェも、首を縦に振った。
「そうよ、ヴァイク。ジャンさんは、カセル侯に謁見するつもりなんですよね?」
「うん、ゴトフリート様もかならず来るだろうからね。村に兵を出してもらえるよう直談判するつもりなんだ。選帝会議の時期に地方の村の人間に会ってくれるかどうかはわからないけどね。でも、今も村のみんなが戦っていることを思うと、何もしないではいられないし……」
「わかります」
その点では、ベアトリーチェもまったく同じ思いであった。
今現在、苦しんでいる人が確かにいる。ならば、たとえどんなに困難な道でも立ち止まるわけにはいかなかった。
「でも、よりによってこんな時期に開催されるんですね。翼人のことも話し合われるのでしょうか」
「どうかなぁ。今のところ、あくまでカセルだけの問題だから。ゴトフリートが周りに助けを求めるならともかく、そうじゃないならたぶん議題にさえ上らないんじゃないかな」
「そうですね……」
選帝会議では各地域共通の課題が話し合われることもあるが、本来はその名のとおり次期皇帝を決めるための場である。不必要に広い範囲のことがらに言及されるはずもなかった。
「ただ、翼人の襲撃ががカセル以外の地域にまで広がれば話は別だけど」
「俺たちに人間のつくった境界線なんて関係ない」
と、ヴァイク。
「そりゃそうだ」
「移動速度が人間とは比較にならない。一日で飛べる範囲なら、どこが襲われてもおかしくないぞ」
「お、脅かさないでよ」
「脅かしてるわけじゃない、事実だ。しかし、そもそもなぜあの連中が人間の集落を襲うのかが謎なんだけどな。ジャン、お前は何か気づかなかったか?」
「何かって……」
確かに、食糧や金品を奪うわけでもなく、さらった人間を人質にするのでもない。
ただ倒した人間の遺体を運んでいくだけだった。
「そういえば――」
「なんだ?」
「村の年寄りが少し離れたところにある森で見つけたんだけど、さらわれた村人の死体がおかしなことになってたんだ」
その言葉を継いだのはベアトリーチェだった。
「心臓が、なかったんですか?」
「ど、どうしてそれを!?」
「いえ、アルスフェルトでもそういうことがあったので」
「そうか……こっちでも、遺体の左胸がきれいに切られていたんだ。僕は怖くて見てないけど」
「情けない奴だな」
「セヴェルスと同じこと言わないでよ」
「どうせ、そいつに確認させたんだろう」
「う……」
ジャンの行動はともかく、ヴァイクはそれで得心がいった。
「やっぱり、それなんだ」
「えっ、どういうこと!?」
「どうも、連中は人間の心臓を喰らっているらしい。本来は、意味がないはずなんだけどな」
衝撃のあまり、ジャンは言葉を失った。ヴァイクが言ったことの意味するところが、すぐには理解できない。
小村の長は、翼人は同族の|心臓(ジェイド)を喰らわなければ生きていけないということを知らなかった。仮に知っていたとしても、人間のそれを喰うなどということは理解の範疇を超えていただろうが。
「どうして、そんな……」
「こっちが聞きたいくらいだ。本当は翼人のジェイドでなければならないんだ、少なくとも俺たちの常識では」
しかしそれを、例の〝|極光(アウローラ)〟とかいう連中はアルスフェルトで確かにやっていた。さらにジャンの村でも同様であることを考えると、何か明確な目的があるとしか考えられなかった。
ジャンは目を見開いて驚いていたが、おそるおそる口を動かした。
「それは、その、翼人はいつも同族の……心臓を食べなきゃいけないってこと?」
「ああ、そうじゃなければやがて動けなくなる。普通の食べ物だけじゃ駄目なんだ」
「じゃあ、リゼロッテも……」
と顔を向けると、少女は悲しげに微笑んだ。
――俺はばかだ、大ばかだ。
心中で自分の頭をこれでもかと殴りつけた。こんなことは聞くべきじゃなかったと、己の迂闊さを深く呪った。
「別に隠すようなことじゃない。ちょうどいい、ジャンにも知っておいてもらったほうがいいだろう。リゼロッテの体の調子が悪いのは、それが原因なんだ。ジェイドを食べようとしない」
「で、でも、女の子がそういうものを食べられないのはしょうがないんじゃ」
「それは人間の感覚だ。翼人はジェイドを得なければ生きていけない。好き嫌いという次元で語っていいことじゃない」
「…………」
「薬とはわけが違う。薬は飲まなくても体の自己治癒能力で病気や怪我は治っていくこともあるが、ジェイドは食べなければ確実に体が動かなくなっていく。食べなくて済むのなら誰だってそうしたい」
それができないから、翼人という種は生まれたそのときから永遠に苦しみつづけている。
「俺たちは、女だろうと男だろうと翼人はジェイドを喰う。それを拒否するほうが、翼人の世界ではおかしなことなんだ」
今まで知らなかった事実に、ジャンは絶句した。
あまりにも自分の生きる世界とは違いすぎる。自分が安易に口出ししていいようなことではない気がしてきた。
黙り込んだジャンから目を離し、ヴァイクはリゼロッテのほうに向き直った。
「なあ、リゼロッテ。いい加減、教えてくれないか。どうして、そこまでジェイドを食べることを嫌がるんだ。俺には、どうしても理解できない」
皆の視線が集中する。
リゼロッテはうつむき、沈黙していた。
焚き火にくべた薪のはぜる音だけが辺りに響く。
しばらくの間、炎の揺らめき以外の動きは何もなかった。
そんな中、ベアトリーチェはふと、リゼロッテが片手で握りしめている小袋と赤いペンダントに目が行った。
「ねえ、リゼロッテ。いつも大事そうに首から提げてるけど、それには何が入ってるの?」
「これは……」
場の空気を和ませたくて気軽に声をかけたのだが、当のリゼロッテは少し驚いたようにして、さらに深く顔を伏せてしまった。
聞いちゃまずかったかな、とは思うが、もう後の祭りだった。
「これは……」
「あ、無理に答えなくていいのよ」
「ううん、みんなにも聞いてほしい。ヴァイクにも……」
リゼロッテは、同族である男の瞳を見つめた。それは、百戦錬磨の男が少し気圧されるほどにまっすぐな目であった。
「これは――これは、私のお母さんのジェイド」
そう言い、袋から中身を取り出してみせる。
リゼロッテの小さな手のひらの上に載ったのは、緑色に輝く透き通った石、|飛翔石(ジェイド)だった。
それを少女は、愛おしそうな、申し訳なさそうな複雑な表情で見つめている。
「私の部族はなくなっちゃったの、紅色の翼の人たちにやられて」
――ああ、ヴォルグ族のことだ。
ヴァイクにはすぐにわかった。やはり、連中の被害者は自分たちだけではなかった。
――あいつらはきっと、あちらこちらで無差別に暴れ回っている。
「それで、私とお母さんだけが逃げのびて……。だけど、食べるものもなくて大変で……」
それでも、母の機転で食料だけはなんとか確保できていた。
ただ、ジェイドだけはどうにもならなかった。そのうえ、他の翼人たちにいつ狙われるともしれない状況がつづいた。
そして、
「お母さんが先に動けなくなっちゃって、それで……」
リゼロッテは、母の飛翔石をぎゅっと握りしめた。その内側から、淡い光がもれる。
しばらくの沈黙。先に耐えきれなくなったのはベアトリーチェのほうだった。
「リゼロッテ。いいのよ、話さなくて」
だが、少女は首を横に振った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」
リゼロッテは意を決して語り出した。
「お母さんは――私にジェイドを差し出した」
「え? どういうこと?」
「ジャン!」
ヴァイクが鋭くたしなめた。ジャンのほうは言われてから、はっとして気づいたようだった。
リゼロッテは、消え入りそうな声で語りかける。
「お母さんは自分の剣でジェイドをえぐり――」
「もういい!」
たまらなくなって、ベアトリーチェがリゼロッテをきつく抱きしめた。彼女の胸に埋もれながら、それでも少女の独白は抑えられなかった。
「でも、わたし食べれなかった。お母さんが命をかけてくれたのに……食べれなかった」
リゼロッテの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
それは頬を伝い、顎から|滴(したた)って、ベアトリーチェのケープを濡らしていった。
それでも、一度堰を切ったように流れ出した言葉の奔流は止めようもなかった。
「ねえ、ヴァイク。私って……私って、お母さんを無駄死にさせちゃったのかな?」
それだけがずっと気がかりだった。
母は自分を救うために、文字どおり命を賭した。しかし自分は、その命の源を自身の内に取り込むことができなかった。
母はなんのために死んだといえるのだろう。そればかりが、ずっと気がかりだった。
そうした真摯すぎる視線を受けて、ヴァイクはしばらくの間黙り込んでいた。
ようやく、リゼロッテのこころの中が見えた気がする。
――なぜ、ジェイドを喰うことを拒絶するのか。
実は、その気持ちはわからないでもなかった。
生のジェイドなど、たとえ翼人であっても好きこのんで食べるようなものではけっしてない。
同族の命を喰らわなければ自身の命をつなぎえない。そんなとてつもない業を背負っているからこそ、それぞれは堪え忍んでジェイドを口にしてきた。
それを黙認するか拒絶するかは、結局のところ紙一重だ。
――つまり、自分とリゼロッテは何も変わらない。
「リゼロッテ」
「うん?」
「人は誰でも――翼人だとか人間だとか関係なく――常に選びながら生きているんだ」
「選びながら?」
「ああ。俺もまだよくはわかってない。だけど生きるってことは、たぶんいろいろある可能性の中から、自分がよかれと感じたことをひとつひとつ選び取っていくことなんだと思う」
そこで少し息をついた。
そして、今自分が告げなければならないはずのことを告げた。
「だから、俺は兄のジェイドを喰うことを選んだんだ」
迷いはもちろんあった。最初は拒絶もした。しかし、それをすることは兄の遺志を反故にしてしまうことになると思った。
自分とリゼロッテの差は大きいようでありながら、たったひとつの選択の違いでしかなかった。
あまりのことに何も言えないでいるベアトリーチェの腕からすり抜け、リゼロッテはヴァイクの前まで進んでいった。
「ヴァイク、それってどっちの選択が正しかったの……?」
「いいか、リゼロッテ。何が正しいかなんて誰にもわかりはしないんだ。だから、きっと自分が納得することが大切なんだろうな」
「納得……」
「ああ、たとえどんなに凄い奴から忠告されて選んでも、自分が納得できていなかったら意味がない気がするんだ」
逆に周りからどれだけ反対されようと、自分が納得したうえで選び取ったのなら、それは己にとっての真実となる。
最終的な結果が問題なのではない。どれだけ自分で考え、自分で決断したかが重要だった。
「じゃあ……じゃあ、私はジェイドを無理に食べなくてもいいのかな?」
「それが、お前の納得のいく結論ならな。でも、それなら――これからどうなるかはわかっているよな?」
リゼロッテはヴァイクの目を見つめ返し、そしてこくりとうなずいた。
二人はしばらく、互いの視線を離さない。真剣な空気のその中で、互いの気持ちを理解し合っていた。
やがて、ヴァイクがふっと息を抜き、大きく首肯した。
「わかった。それならもう、俺はジェイドのことを何も言わない。お前の選択を尊重する」
「ありがとう、ヴァイク」
「別に、礼を言われるようなことは何もしていない」
――そんなことないよ。
今の彼の言葉で、いったいどれほどこころが救われたことか。
ずっと、ずっと母のことが気になっていた。
自分は母の思いを無にしてしまったのではないか、その死を無意味に捨ててしまったのではないかという疑念が、ほとんど恐怖に近いような感情になって、ずっとこころを苛んでいた。
――もしかしたら、そういう思いは間違いだったのかもしれない。
確かに母の思いに反することをしてしまったが、自分で決断したことなら母はむしろ喜んでくれているのではないかという気もする。少なくとも自分の知る母はそういう人だった。
「リゼロッテ……」
ずっと黙って二人を見守っていたベアトリーチェが、もう一度リゼロッテの華奢な体を抱きしめた。
「ごめんね、リゼロッテ。私は、わかってるようで何もわかってなかった。あなたたちがどれだけの思いで毎日を生きているか……」
「お姉ちゃん……」
いつの間にか、ベアトリーチェの目からは涙がこぼれ出ていた。
選択と一言でいっても、リゼロッテのそれはとてつもなく大きな覚悟を伴っている。
はたして、自分にもそんな決断ができるだろうか。自分の命を賭してでも、他者のそれを尊重しようとすることが。
いったい、この小さな身にどれほどの思いが秘められているのだろう。どれほどの覚悟を背負っているのだろう。
その大きさと重さをわずかでも感じられて、ベアトリーチェは我知らず震えていた。
その頭にそっと手が触れられた。少し顔を上げると、リゼロッテが優しく微笑みながらこちらの頭を撫でてくれている。
もう一度、少女の体をぎゅっと抱きしめた。腕の中でじたばたしているがもう放さない。
「苦しいよ、お姉ちゃん」
言葉とは裏腹にリゼロッテも笑っていた。
だが、その一方で号泣している者もいた。
「なんで、お前が泣いてるんだ」
「だ、だって……」
ジャンがひとり泣きじゃくり、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしていた。
そんな彼を見て、全員がまた笑うのだった。
焚き火はまだ燃えている。その炎が燃え尽きるのはずっと先――のはずだった。