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ノイシュタット侯フェリクスの妹たるアーデルハイトは、自室のベッドの上で無様にのたうち回っていた。
「お兄様が出陣なさるなんて!」
青天の霹靂もいいところだ。南方のフィズベクで反乱が起きてしまったことはともかく、まさか兄自身が軍を率いてここシュラインシュタットを発つことになろうとは、夢にも思わなかった。
「それなのに、私は何もできないなんて~!」
まるで子供のように枕を何度も叩く。
その対象が自分だったら、と背筋に冷たいものを感じながら、ユーグは嘆息した。
「他の人には見せられない姿ですね」
「当たり前じゃない! |淑女(レディ)の自室をそうそう見せられるもんですか!」
そういう意味で言ったのではないのだが、と思ったもののあえて言わないでおいた。今へたに触れると、とばっちりがこちらまで飛んできかねない。
「あぁ、お兄様に何か言えばまた怒られるのは目に見えているし……」
「難儀なものですね」
「どうして! ユーグは! いつもいつも人の気も知らずに、そんなにのほほんとしてられるの!」
ベッドから跳ね起きたアーデが、大男に掴みかかっていった。かなりの剣幕なのだが、それにも怯まないところが、ユーグのユーグたるゆえんであった。
「こういう性格なもので」
「そこが気にくわないのよ! 少しは人の気持ちを考えなさい」
「はあ」
一通り八つ当たりしたことで気が晴れたのか、アーデは窓際の椅子に腰かけてひとつ息をついた。
「真面目な話、どうしてお兄様はみずから出陣なさることに決めたのかしら」
「どうにも気になることがあるご様子です。それが何かはわかりませんが」
「フィズベク周辺で起きてるのよね、反乱というか暴動は」
「ええ、初めは一村で起こったものがあっという間に広がってしまったそうです」
「南方の守備隊が愚かだったのか、それとも――」
その疑問に答えたのはユーグだった。
「前者はないですね。他に何かあったのだと考えたほうが自然だと思います」
「どうして?」
「フィズベクの隊を任されているのは、私の師に当たる人物でして。対応が遅れて被害を大きくしてしまうような人ではありません」
「でも、その人が――」
「有り得ません」
きっぱりと言い切るユーグに、アーデは口を尖らせた。
この男、意外に融通が利かない。一度言い出したら聞かない性格だった。
自分のことを完全に棚に上げて、アーデはなかば呆れていた。
「まあ、いいわ。じゃあそうだとして、なんで実際に暴動が広がってしまったのよ?」
「それは、もちろん――」
「もちろん?」
「わかりません」
「……でしょうね」
結局、考えてわかるようなことではないのだ。わかったような気になったとしても、それはただの憶測でしかない。
それにまったく価値がないとは言わないが、今の状態で正しいと言い切れるはずもなかった。
「でも、何か嫌な予感がするの。何か、こう引っかかるような……」
こうしたときの勘は、不思議とよく当たる。それだけに、余計に気になる。
「きっと、フェリクス閣下も同じように感じたのでしょうね」
「そっか、それで自分の目で確かめるためにも出陣することにしたのね」
これで兄の行動には納得はいったが、気持ちが晴れるわけではなかった。
――私も自分で確認したい。
「また、よからぬことを考えてますね」
「よからぬことじゃないもん!」
「姫はここでおとなしく待っていてください。私が見てきます」
「……どういうこと?」
「フェリクス様がご出陣なさるからには、当然わたくしもお供します。これでも、近衛騎士の身ですから」
ガタリ、と音を立ててアーデが立ち上がった。
ユーグは、反射的に半歩片足を引いて身構えた。
「ずるいじゃない! 私の下男なのに!」
「目付役です」
「そんなことはどうでもいいわ! まったく、この男ときたらいっつもいっつも……あ」
ぶつぶつと文句を言っていたアーデの動きがふと止まった。
ユーグの嫌な予感がつのる。
「お兄様に頼んで、ユーグはここに置いてもらうわ」
「なぜ!?」
「嫌がらせよ」
さすがのユーグもこの仕打ちに、がっちりとした肩を震わせた。
騎士、特に近衛騎士にとって主君とともに戦えないというのは屈辱に等しい。それがわかっていて、この姫はやっているのだ。なんという女だろう。
「冗談はともかく、今はいろいろとあるでしょ。例の件もあるし。あなたには、私のそばにいてくれなければ困るわ」
「……はあ」
どこまで本音なのか測りかねたが、ユーグは生返事を返すしかなかった。
「じゃあ、裏山へ行くわよ。戦についていけなくても、やれることはある」
そう言って、さっさと部屋の外へ向かっていく。ユーグは内心がっかりしながら、黙々とそのあとに従った。
城の中は、やはりフェリクス出陣のこともあって慌ただしくなっている。普段は騎士団が動くときでさえも、ここまで忙しくなることはない。久しぶりのことだけに、周りの者も勝手がわからなくなっている様子だった。
「まあ、アーデ様。お散歩ですか」
「そうよ、犬の散歩」
「誰が犬ですか」
「姫、フェリクス様は我々にお任せください。かならずお守りします」
「安心してるわ、ユーグより頼りになるから」
「……この女……」
「アーデ様、お菓子を準備してますから、あとでお越しになってくださいね」
「かならず。あ、ユーグの分はいらないから」
「…………」
完全に不機嫌になった近衛騎士のことを知らぬままに、アーデが通り過ぎていくと誰もが笑顔であいさつをしてくる。
姫は、城の誰からも愛されていた。否、城だけではない。ここシュラインシュタット、引いてはノイシュタット地方のすべてで圧倒的に人気があるといっても過言ではなかった。
フェリクスもそうだが、一面では彼以上にアーデには人を惹きつける何かがあった。それをカリスマと呼ぶのは|容易(たやす)いが、そうした陳腐な言葉を超えたものが彼女にはあった。
「何怒ってるのよ」
「……このチビ」
「あ、今ひどいこと言ったでしょう!?」
「いいえ、なんの話です?」
アーデたち二人は見苦しくも罵り合いながら大回廊を抜け、城の外へ出た。そして、その裏手へと足早に向かう。
そこは、峻厳な山となっていた。自然の地形の一部を利用して防壁がわりにしているため、山はあえて放置され、荒れ放題になっている。ここを通って敵に侵入されたら困るからだ。
噂では野生の獣も多く生息し、野犬の群れもいると言われている。そんなところへアーデのような女性が入っていくとなると周りから見とがめられそうだが、ユーグが付いているせいか止めようとする者は誰もいなかった。
荒れ果てているとはいえ、道がまったくないわけでもない。獣道は存在し、アーデがひそかに部下に手入れさせている秘密の通路もあった。
そこを通って、木漏れ日が差す中を奥へ奥へと進んでいった。
「やっぱり、きついわね……」
「そうですか?」
普段から鍛えられているユーグはけろりとしているが、か弱い――少なくとも体は――アーデにとっては、急勾配の坂道は過酷以外の何ものでもなかった。
こういうときは、さすがに自分が女だということを感じてしまう。
ようよう坂を半分まで登り切ると、少し開けたところに出た。自然にできた空間に見せかけているが、そこはアーデたちがつくった〝たまり場〟であった。
「誰か、いる?」
やや声を抑えて呼びかけた。
反応はない。そこで、もう少しだけ声を大きくして呼んでみた。
上のほうでガサリと葉ずれの音がする。誰かがいることは確かなようだ。
「何よ? ――って、なんだ、小娘か」
姿は見えないが、女性には珍しいかすれた低い声が降ってくる。
とにかくむっとしたアーデは、反射的に言い返した。
「小娘じゃないわ。もう、立派な|淑女(レディ)よ」
「その言い方が小娘だって言ってんのよ」
正論にアーデがぐっと詰まった。
姫と言い争って勝てるのは彼女くらいなものではないかと、ユーグは妙なところで感心していた。
「用件は何? くだらないことだったら怒るよ」
「いちいちつっかからないでよ。そうね、くだらないと言えばくだらないかもしれないけど――」
「じゃあ、さよなら」
「ちょっと待ちなさい! はぐれ翼人がからんでるかもしれないわ、人間の反乱に」
気配で相手が反応したのがわかる。
内心ニヤリとしたアーデは、言葉をつづけた。
「アルスフェルトのことは知ってるでしょ? 最近、はぐれ翼人たちの様子がおかしいの。今回起きたフィズベクのことも、何か関係があるのかもしれない」
翼人が絡んでいるというのは半分はったりであったが、あながち間違いでもないような気もする。仮に予想が外れたとしても、相手が〝天敵〟のヴァレリアならば問題ない。
「それで、私たちに何をしてほしいの?」
「話が早いわね。あなたには、フィズベクへ行って先に様子をうかがってきてほしいの」
と言うと、あからさますぎるため息が上から聞こえてきた。
「あんたねえ、何か勘違いしてない? 私たちはあんたの召使いじゃないのよ。|あの目的|(、、)のために集まってるんだから、便利屋か何かと思われちゃ困るんだけど」
ヴァレリアの言葉は辛辣だった。
だが、そう思われても仕方がないほど、アーデは彼女たちに頼ることが多かった。これでは、いいように利用しているだけだという指摘に反論することもできない。
仲間だと思っていた人にそんなふうに思われていると知って、アーデは目に涙を浮かべて声のするほうを見上げていた。
それを見かねて助け船を出したのは、ユーグだった。
「ヴァレリア、言葉が過ぎるのでは?」
「ただの冗談だったんだけどね。これくらいで泣きそうになるなんて、やっぱりまだまだお子様ね」
「ヴァレリア許さない……」
たとえどんなに長く付き合っても、この女だけは好きになれそうにない。天敵以外の何者でもなかった。
「でも、そんなことだったら他の奴に頼みなさいよ。様子を見てくることくらいだったら、誰にだってできるでしょ」
「みんな出払ってて、ほとんど他に誰もいないの。レベッカにも別のところへ行ってもらってるし」
「ああ、あいつも使いっ走りにされてるわけね」
「ヴァレリア!」
くすくすと忍び笑いの声がもれてくる。遊ばれているとわかったアーデは、顔を紅潮させた。
「いちいち反応するのね~。ほとんど子猫と一緒ね」
「お黙りなさい! とにかく、行くの!? 行かないの!?」
「そうね、あんたのためじゃなくて私が気になるから見てくるわ。そのついでに教えてあげてもいいけど」
「まったく、ひねくれてるんだから……」
その後もまだやり合っていたが、主導権は常にヴァレリアにあった。アーデがそれに対して必死になって抵抗をつづけている。
――仲がいいんだか悪いんだか。
ユーグは二人を見て、なかば呆れ、なかば安心していた。アーデにとっては、本音でぶつかり合える相手は限られている。同性の頼りになる存在は貴重であった。
「まあ、いいわ。とりあえず行ってくる。お嬢ちゃんはおうちで待ってなさい」
「うるさい!」
いつもの捨て台詞のあと、ヴァレリアの声は聞こえなくなった。かわりに、上方で大きな羽ばたきの音が上がった。
「何よ、あの女!」
アーデは未だ怒り心頭の様子だったが、ヴァレリアもあれでけっこう楽しんでいるのではないかとユーグは思う。
不思議と、アーデはわがままを言っても周りから嫌われることがない。それは、ヴァレリアたちの間でも同様であった。
葉陰からちらりと見えた紅色の翼に思いを馳せながら、ユーグはおてんば姫をなだめすかして帰路についた。