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気分を変えたかった。
そこでバルコニーへ出て仕事を執り行おうとしたのだが、これは完全に裏目に出てしまった。
あまりにも天気がよすぎる。
抜けるような青い空と風に揺れる緑豊かな木々を見ていると、自分はなぜこんなにもくだらない執務にとらわれているのかと、さらに憂鬱な気分にさせられる。
「また愚痴が出そうですな」
「先手を打たないでくれ」
他人事のようにオトマルが笑っている。もっとも仕事の量だけを比べれば、彼のほうが多いくらいなのだが。
「そんなに気分転換したいのなら、例の弓兵隊の訓練でもご視察なさいますか」
フェリクスの瞳がぎらりと輝いた。
「どこでやってるんだ? どこまで進んでいる?」
「西の平原です。新しく徴兵した分も|交(ま)ざっているのでまだまだですが、それなりの形は出来上がりつつあります」
「|訓練の交代制|(、、)を導入したんだったな」
「一般の兵士たちは、普段それぞれ自分の仕事を抱えております。一度にすべての兵のすべての訓練を行うのは困難なので、朝・昼・夕の三交代制にしたのです」
「兵士たちの生活を考慮しつつ、全体として訓練の量を増やすことができるわけか」
「それだけではありませぬ。一度に長時間の訓練をすることがないので、兵士たちも集中力を維持しやすいのです。フェリクス様もおわかりでしょう?」
「確かに長い間椅子に座っていては、嫌にもなるというものだ」
――しまった、余計なことを言ったか。
と、オトマルが顔をしかめている前で、フェリクスは肘掛けに手をかけた。
「じゃあ、さっそく行こう。いや、行かなければならん。非常事態になるやもしれぬのだ。こんなところに座っている場合ではない」
「はあ」
こじつけくさい理由をつけてフェリクスは椅子から立ち上がり、すぐさま獲物を見つけた狼のような目で小走りに駆けていく。
「閣下、領主たるもの――」
「下の者を不安がらせないようにあわてた様子を見せるな、だろう? そんなことは言われなくてもわかっている。第一、私は急いでなどいない」
「なら、なぜ走っているのです?」
「鍛錬のためだ!」
吐き捨てるように言って、城の外へ飛び出した。
こうなることを予測していたのか、都合よく準備されていた馬に飛び乗り、城下へ駆け出していった。
「まったく、無茶をなさる」
疲れた様子も見せずオトマルも馬に乗り、従者を引き連れてあとに従った。
フェリクスは、けっして無謀なことをするような男ではない。特に配下の者や民衆のことに関しては、ときに慎重すぎるほどだ。誰かを犠牲にするやり方とは縁遠かった。
――だが、こと自分のこととなるとまるで顧みなくなる。
本当に領主としての自覚があるのかと疑いたくなる。
――無茶をするというより、みずからのことを軽視しすぎているのやもしれぬな。
そんなことを考えているうちに、当のフェリクスの姿がどんどんと小さくなっていく。
「これはいかん」
フェリクスの乗馬の腕はたいしたものではない。
しかし時おり、馬との息がぴったりと合うときがあるらしく、異様な速さで駆けていくことがある。今がまさにそれであった。
オトマルらがようやく追いつけたのは、西の草原に着いてフェリクスが馬を止めてからのことであった。
「なるほど、|櫓(やぐら)もできてきたようだな」
「はい、|大弩弓(バリスタ)も工房で多くが完成しつつあります。まあ、これらが役に立たないほうがいいのですが」
「兵が動くとなれば、かならずいくらかの犠牲がともなう。武器を使うとなれば、かならずそれで傷つく者がいる」
「軍など動かさないですむのなら、それにこしたことはありません。財政的な影響も大きいですし」
「それにしても、妙に活気があるな」
訓練を行う兵士たちの顔を見ると、そのそれぞれが活き活きとしているのがわかる。定期的な訓練の際に見せる気の抜けたような表情とは程遠かった。
「以前から弓を扱ってみたいと思っていた者が多いようです。兵の大半は、剣や槍ばかりですからな」
「弓矢を使うのは面白いというわけか。まあ、気持ちはわからんでもない」
「それならまだしも、どうも弓なら怖さがないと感じている者が多いようです」
「相手と正面切って剣を交える必要がないからか」
「嘆かわしいことです。民兵といえど、以前はもっと――」
「そう言ってやるな。誰だって戦は怖い。戦いをこそ生きがいとする騎士の論理を、民に押しつけてはいけない」
「……ごもっとも」
フェリクスは、腕を組んで全体を見やった。
「翼人のことはともかく、これからは弓兵を増やしたほうがいいのかもしれん」
「そうですな、最近は戦術も複雑になってきました。年寄りには厳しいことです」
「戦術、といえばローエ侯か」
「未だに話題になっていますな。先日の夜会でもその話がよく聞かれました」
「本来は守りの戦いだったんだがな」
「ええ」
帝國の北東にあるローエの領主が、隣国の侵略からの防衛戦の際にとった戦術が、国内外に衝撃を与えていた。
「普通は、騎馬隊なら騎馬隊、槍兵なら槍兵と単純に同じ部隊ごとに分ける」
「しかし、ローエ侯はそのやり方を排除しました」
「ひとつひとつの隊に個別の役割を与えて、それに応じて隊の編成を変える、か。理屈としてはわかるんだが」
さらにその隊を、ローエ侯を頂点とする階層的な命令系統のもとに置くのではなく、それぞれをさらに並列的な中規模の隊に取りまとめ、さらにさらにその中隊をまた並列的につなげ合うことで全体として大きな隊となす。
侯は基本的にそれを見守るだけで、問題が起きた場合のみ命令を発して軍を維持するという方法であった。
「思いつくこととそれを実行することとは次元が違います」
「少なくとも、互いにうまく連携できなければ移動することすらままならん」
そのため、ローエ侯の軍は、各種情報の伝達をすばやく行うための信号体系を高度に発達させていた。
剣や槍、旗などを使った動作、そして煙や|鏑矢(かぶらや)の利用によって、迅速な意思の疎通を実現している。
「そうしたことを訓練によって徹底させているので、軍の完成度はおそろしく高いそうですぞ」
「それをやったのが、あの〝放蕩侯〟だというのだから驚かされる」
現在のローエ侯ライマルは、いったんは国を出奔し、その後、なかば無理やり連れ戻されて選帝侯の地位に就けさせられたという、異色の経歴を持つ領主であった。
子供の頃から『冒険者になりたい』などと宣い、自身が領主となることをはっきりと拒絶していた。
しかし結局は、その運命から脱することはできなかった。
常に従者という名の監視役が付けられ、ほとんど監禁状態にあるといわれているだけに、先の戦いでのローエ侯軍の戦いぶりは周囲に十分すぎるほどの衝撃を与えていた。
「背後に誰かいると思うか?」
「でしょうな。そうでなければ説明がつきません。現在のローエ侯は、これまで軍の動かし方や政についてほとんど学んでこなかったそうです。それが、いきなりあのような高質な軍をつくれるはずがありません」
「詩歌や楽器の演奏、それからあらゆる罠の外し方はうまいらしいがな」
「領主がそんなものばかり学んでどうするのです。領主の子は領主となるべくして生まれてきたのです。そのために必要なことをまず身につけることのほうが先決でしょう」
フェリクスは肩をすくめた。
――確かに、領主の子は領主となることを運命づけられている。
だからこそ、さまざまな特権が子供の頃から認められ、逆にそれゆえの義務もあった。
――私自身は、そのことに不満はなかったが。
なぜなら、父である前ノイシュタット侯ジークヴァルトと、先々侯ディートリントを尊敬しているからだ。
自分も父たちのようになりたいと願い、そのために努力をつづけてきた。それが、結果的に領主となる道に通じていたというだけの話だ。
――だが、ライマルはそうではなかった。
幼い頃からの夢は、危険だが自由な冒険者になることで、そこへと至る道は領主のそれとは対極に位置していた。しかも、父は厳格で有名な前ローエ侯ダーフィット。必然、周囲への反発は強まっていく。
――思えば、ライマルも犠牲者なのかもしれん。もし領主の子として生まれなければ、自由に自分の夢を追い求めることもできたろうに。
現状からの逃避を無責任だと非難することは簡単だが、彼の気持ちを思うとフェリクスは口をつぐむしかなかった。
だが、ことこの件に関しては、オトマルはどこか冷淡だった。
「放蕩侯がどうこうよりも、背後でその侯を動かしているのが誰かということのほうが問題です」
「それもそうだ」
「背後にいるはずの影が見えないのは、不気味さがあります」
「オトマルは、ローエのことは何も知らないのか?」
「ええ、地理的に離れておりますし、特にディートリント様とダーフィット様の仲があまりよろしくなかったもので。少なくともわたくしが知っているかぎりでは、ローエ侯の家臣にあれほどの戦術家はひとりとしておりませんが」
ならば、誰が侯に策を授けているのか。その目的はなんなのか。
「本物は姿を現わさず、か」
「だからこそ、本物ともいえますな」
「ということは、あの戦であえて大勝してみせたのも、選帝会議を有利に運ぶためかもしれん」
「可能性はあります。ローエ侯を皇帝にするのは絶対に無理でしょうが、会議で主導権を握ることで自分たちに有利な条件を引き出すことを狙っているのやもしれませぬ」
「あのライマルが会議で発言するとは思えんが」
フェリクスは苦笑した。
はっきり言って、ライマルは領主としての仕事をする気が|完全にない|(、、)。宴に出席してもひとりでいることが多く、ましてや会議で積極的に話をするはずもなかった。
その都度、古株のギュンターやゴトフリートに苦言を呈されているが、本人はどこ吹く風。それはある意味、すごいことでもあった。
――私はそんなライマルが嫌いではないし、少しうらやましい。
同世代ということもあり、昔からよく話し相手になっていた。領主になる前は、よからぬことを一緒にしでかしてしまったこともあった。
真面目な自分と不真面目なライマルの仲がいいことを〝ノルトファリアの七不思議のひとつ〟などと揶揄する声もあるが、そんなものはまったく気にならなかった。
「ライマル閣下は相変わらずのはず、ということですか」
「ああ。案外、あの戦術もライマルが考え出したのかもしれないぞ。あれなら、総大将は楽ができる」
「かもしれませんな」
二人が笑い合っていると、そこへ馬蹄の音が響いてきた。
オトマルがすっと目を細める。フェリクスにも緊張が走った。
馬の鞍に赤い布が結びつけてある。それは、一部の者のみが知る急使の証だった。
「フェリクス様」
「ああ」
馬上の使者は飛び降りるようにして馬から離れ、硬い表情でこちらへ向かってきた。
「特使でございます。ここでご報告申し上げてよろしいでしょうか?」
「構わん」
使者は周りをはばかりながら、それでもはっきりと口を開いた。
「ノイシュタットの南の果て、フィズベクにて反乱が起きました」
フェリクスの頬がわずかに引きつった。しかし、あえて何も言わずに先を促した。
「最初は、とある一村で起こった|騒擾(そうじょう)が飛び火、周辺の村々や一部の都市までも巻き込んで比較的大規模な反乱となっています。現地の各屯所が、シュラインシュタットからの援軍を請うております」
――そうか。
フェリクスはゆっくりと目を閉じた。
前々から、南方の民の不満がたまっていることは知っていた。ここ数年、天候に恵まれないこともあってノイシュタットの他の地域より不作に苦しんでいる。
かといって、領主が空をどうこうできるはずもなく、また元からそれほど重要な地域でもないがために、これまで後回しにしてきてしまった。
しかも、北方の洪水が重なったことがいけなかった。
結果、南の地域はほとんど放置されるような状態になっていたから、そこの住民の不満はつのりにつのっていた。
――しかし、まさか暴動や反乱につながるとは……
見通しが甘かったのかもしれない。今になって、たまりにたまったつけが一気に噴出したということだ。
それにしても、
「途中でどうにかして食い止められなかったのか! 対応が遅れて、周辺地域の暴動を誘うなど愚の骨頂ではないか!」
かわりにオトマルが一喝した。
暴動が起きた際に最も重要なのは、それ自体をすぐに鎮圧することよりも、まずはそれが伝播しないようにその地域を封鎖することだ。
――火事と同じだ。炎が小さいうちは消すのは容易だが、いったん燃え広がってしまうと手が付けられなくなる。
たかが一村での騒乱を地域全体の大規模な反乱に拡大させてしまうことは、対応としては最悪の部類に入ることであった。
「それが、予想以上に暴動が拡大するのが早く、朝方起きた騒動が昼頃にはすでに周辺地域一帯にまで広がってしまっていたとか。南方の守備隊が封鎖を行うより早く、暴徒の側が動いたとしか考えられません」
フェリクスとオトマルは顔を見合わせた。
「では、あらかじめ各集落や都市が反乱の準備をしていたということか?」
その問いを否定したのは使者だった。
「いえ、それは考えられません。暴動は広がってしまったものの、ほとんどの地域では人々が無秩序に暴れているだけで、とても統率されているとはいえません。無計画と評していいかと存じます」
――ならば、なぜ。
それでは、暴動の火が一気に広がったことの説明がつかない。
ただ、そういうことなら反乱の鎮圧が難しいということはないはずだった。組織化されていないのなら、たいした抵抗はできない。
「ということは、反乱者側に対応できないから援軍が欲しいということより、できるだけ早くそれらを鎮圧するため、ということだな?」
「はい。鎮圧は東側から順調に進んでいるのですが、いかんせん暴徒の数が多すぎます。このままでは双方の被害が大きくなりかねないため、援軍を請うている次第です」
フェリクスはオトマルのほうに向き直った。
「オトマル、どう思う?」
「すぐに援軍をできうるかぎり出しましょう。例の翼人の件もありますから、弓兵は多く残し、騎兵と槍兵を中心に編成したほうがよいかと」
「それはそうだが、私が聞きたいのは裏に何かあるのかということだ」
「裏に、ですか? それは考えすぎでしょう。反徒どもは無秩序に動いているだけのようですし、この暴動をわざと起こしたところで得をする人物がいるとは思えません」
「では、なぜ異様なまでに広がりが早かったのだ?」
「それは……」
――確かに、偶然で片付けるにはできすぎている。
それにアルスフェルトで翼人騒ぎがあり、選帝会議が迫っているというこの時期に起きたのは、何かを示唆するような気がした。
「ですが、アルスフェルトの件と同じではありませぬか。今は、へたに推測するより行動です」
「そうだな」
「では、さっそく派遣軍を編成しましょう。先ほど申し上げたとおりのものでよろしいですか?」
返事はすぐには来なかった。
オトマルが|訝(いぶか)っていると、思いもかけない言葉がフェリクスから返ってきた。
「私も行こう」
「は?」
我が耳を疑う。
我が主はなんと言ったのか。
「私が直接、派遣軍を率いる。そのつもりで準備してくれ」
「何をおっしゃっているのです?」
有り得ないことだった。
大規模な戦だというならともかく、たかが一地方の暴動になぜノイシュタットの首長たるフェリクスがみずから出張る必要があるというのか。
いたずらに領主が出陣すると民がかえって不安がってしまう、何かとんでもないことが起きたのではないかと。それがわからぬフェリクスでもあるまい。
だが、彼の態度は変わらなかった。
「オトマル、お前の言いたいことはわかる。だが、私にも考えがあるんだ。今はそのために準備をしてくれ」
一度こうなると、フェリクスは|梃子(てこ)でも動かない。もはや、何を言っても無駄であった。
ため息をつきつつ、オトマルは深くうなずくしかなかった。
「わかりました。何か考えがあるというのなら仕方がないでしょう。フェリクス様がなさりたいようになさいませ」
「さすがはオトマル。話がわかるではないか」
――本当はわかりたくなんかないのだが。
言っても聞かないのだから仕方がない。強情なところはまったく父親譲りだと思う。
にわかに城下が騒がしくなりはじめた。反乱の事実、そしてフェリクス出陣の報が驚くべき早さで伝わっていく。
時が変わりはじめた。
しかし、準備を急ぐ二人は、未だ使者のわずかな笑みに気づかない。