*
つ、疲れる……
フェリクスはこころの中で何度も何度もため息をついた。
自分が今回の夜会の主催者なのだから仕方がないとはいえ、次から次へとあいさつに訪れる客人の応対をするのは尋常ではないほどの苦労があった。
中でも他の七選帝侯の連中はいろいろな探りを入れてきたり、あからさまな嫌みを言ってきたりする。
気を使うやら、腹立たしいやらでフェリクスは逃げ出したい衝動を抑えるのに必死だった。
――それにしても。
と思う。
他の地域が、これほどまでに疲弊しているとは正直思わなかった。正常な状態にあるところはもはやないといっていい。
諸侯だけでなくその付き人らにも探りを入れてみたが、状況は想像するよりも遥かに深刻であった。
それなのに、ひとつの地域だけがうまくいっている。さらに、次期皇帝を決める選帝会議の時期が重なってしまったのだから、他の諸侯がぴりぴりするのも無理はなかった。
これからどうしたものかと思案していると、横合いから声をかけられた。
「フェリクス閣下」
「――おお、ヴェルンハルト殿下か。妹と同じで、あっという間に大きくなられたな」
温厚そうな美青年が近づいてくる。
「我が領地に支援していただけるそうで、感謝の念に堪えません」
「なに、それくらいなんでもない。あれほど異民族に苦しめれているところは他にないのだから、同じ国の民として互いに助け合うのは当然のこと」
それは、けっして気休めや社交辞令だけではなかった。
アイトルフの領地には、帝国の中で最も多くのロシー族が住んでいる。というより領土の一部が事実上、すでに彼らの支配下にあった。
領主であるヨハンの対応に問題があることは事実だが、自分が同じ立場であっても抜本的な解決は難しいだろう。
「ところで、妹のアーデルハイトには会ったかな?」
「はい、先ほどお話しさせていただきました」
「君から見てどう思う?」
「ど、どう思うと言われましても……」
きれいな顔をして頬を赤らめる姿は、男でもこころが動かされそうなものがある。
――だが、なぜか周りに女性の気配がないんだが。
それはともかく、フェリクスは以前から、アーデの結婚相手はヴェルンハルトでもいいのではないかと考えていた。
最愛の妹を政略の道具には使いたくない。かといって妹姫という立場上、名もない男に渡すわけにもいかない。
結果、そこそこの家柄のそこそこの人物のところへさっさと嫁がせてしまうに限る。さすがに、既婚の女性にまで政略結婚の話は来ない。
国内だけでなく周辺諸国も含めて、どうもアーデのことで騒がしくなっているようなので急いだほうがよさそうだった。
――しかし、な。
ヴェルンハルトについて気になることがあった。
彼は優しすぎる。
周りを無理やりにでも引っぱっていくような覇気に欠けるところがあり、将来性に不安があった。
アイトルフ侯の第一子であるからには、ほぼ確実に領地を引き継ぐことになるのだろうが、おそらく異民族問題を抱えたかの地の運営は、この青年には厳しすぎるだろう。
――そうなれば、嫁いだアーデが苦しむことになる。
万が一にも城が攻め込まれるようなことにでもなれば、命の危険にさらされる可能性さえあった。兄として、妹を危地へ送るような真似だけはしたくなかった。
「変な質問をしてしまったな、忘れてくれ。妹は知ってのとおり、わがままで強情で気が強い。しかも、自由闊達にすぎて手がつけられない。好青年の君とは釣り合わないだろう」
「いえ、けっしてそんなことはありません!」
強く否定するヴェルンハルトを見て、フェリクスは微笑んだ。
いい男なのだが、おそらく――いや、十中八九、あのおてんば姫を御しきれないだろう。
その後、また別の機会にここへ訪問してもらうことを約束してからヴェルンハルトとは別れた。
ちょうどそこへ、副官のオトマルがやってきた。
「フェリクス様、よろしいですか?」
「ああ、構わないよ」
オトマルはさっそく切り出した。
「例の密偵の一部が、つい先ほど帰還いたしました」
「それで?」
「やはり、町は壊滅状態。しかも、翼人の襲撃が未だつづいております」
フェリクスはあからさまに顔をしかめたが、夜会の途中だったことを思い出してすぐに平静を装った。
「ほとんどが事実だったということか」
「ええ。しかし、さらにひどいことも。翼人の狙いは――」
それを聞いたフェリクスは、今度こそこらえきれなくなった。
「なんだと!?」
鋭い声に、近くにいた給仕係たちが驚いた様子で振り返った。
幸いにも、来客には気づかれなかったことにほっとしつつ、それでも激情を抑えきれないまま声だけ抑えてオトマルに問うた。
「どうして、そんなことをするのだ! 翼人は狂っているのか!?」
「わかりませぬ。ただ今のところ、それしか目的は見えないのです。他のものには一切手をつけていないようでして」
「まあ、いい。考えるだけで腹が立ってきた。他には?」
「ゴトフリート閣下ですが――」
「どうした? やはり、対応に追われているのか?」
少し言いよどんでから、オトマルは答えた。
「それが少し妙なのです」
「妙って?」
「騎士団の動きが異様に遅いそうです。襲撃から三日経っても動かず、ようやく四日目になって城を|発(た)ったそうですが、アルスフェルトに着いたときにはもう、町は手遅れだったとか」
「――――」
フェリクスは考えた。
途中、不測の事態が起きて遅れるならまだしも、出立が大幅に遅延する理由は何があるのか。
「領内に厄介事がまだあるということか?」
「どうでしょう。ただ、迅速をもって誇りとするカセル騎士団らしくないことは確かですな」
〝疾風怒濤〟と称されるほどの彼らがなぜ遅れたのか。オトマルも、他の何よりもそのことが気にかかっていた。
「それから、もうひとつ」
「なんだ?」
「こちらも奇妙といえば奇妙なのですが、城のあるヴェストベルゲンではアルスフェルトが襲撃されたことは噂にさえ上っていないそうです」
「おかしいじゃないか。ここでは誰もが知っているくらいなのに」
「ええ、ですから奇妙なのです」
「どう考えても、アルスフェルトからここシュラインシュタットよりも、ヴェストベルゲンのほうが距離的に近い」
「そうです。自然に噂が広まっていったのなら、ヴェストベルゲンで先に知られるようになったはずです」
「だが、現実は逆だった」
これは何を意味するのか。
「混乱を防ぐために箝口令を敷いたのか」
「常に堅実なゴトフリート閣下ならば、それは十二分に考えられます。ただ、それならばなぜ騎士団を動かすのが遅れたのかが余計にわからなくなります」
「確かにな……」
箝口令を敷く暇があったのなら、騎士団に指示を出す余裕ももちろんあったはずだ。
治政に優れたゴトフリートが、そんなちぐはぐなことをするはずがない。未だ今夜の宴を辞去する知らせも来ていないことも含めて、どうにも不可解なことが多かった。
「――フェリクス様」
「うん?」
「ギュンター閣下が」
言われて顔を上げると、前方から白髪の老人が近づいてきた。顔にはくっきりと皺が刻まれており、その年輪の深さを思わせる。
ハーレン侯ギュンター。
七選帝侯の中でも最高齢である彼は、帝国の生き字引とまで言われるほど豊富な知識を有している。
現在の混乱した状況の中でも領内の統治を、苦しいながらもきちんと一定の水準を保って行っていることは、周囲から高く評価されていた。
「フェリクス殿、よいかな?」
「ええ、もちろん」
と答えると、オトマルは一礼して去っていった。
それを見届けてから、ギュンターはおもむろに口を開いた。
「つかぬことをうかがうが、アルスフェルトのことはご存じか」
いきなり核心を突かれてドキリとする。しかしそのことは表情に出さず、うまく話に合わせた。
「そうはもう。町のほうも、その噂で持ちきりですから」
こちらの言葉を聞いているのかいないのか、ギュンターはさりげなく周囲を見渡していた。
「もし、あの襲撃にカセル侯がなんらかの形で関わっているとしたらどうする?」
「は!?」
まったく予想していなかった指摘に、思わず唖然としてしまう。
しかし、ギュンターに冗談を言っている様子はまるでなく、その目はむしろ真剣そのものだった。
「正直、翼人との関係はわからん。だが、最近のゴトフリートの奴めは何かがおかしい。とんでもないことを画策しておるやもしれぬぞ」
フェリクスは口をつぐんだ。
このハーレン侯ギュンターとカセル侯ゴトフリートが不仲なのは、以前から有名なことだ。前者のほうは、それをはっきりと認めている節さえある。
――こんなことを言うギュンターの意図はなんだ。
ゴトフリートがアルスフェルトの襲撃にかかわっているだって?
――そんなばかな。アルスフェルトはカセルの重要な都市ではないか。なぜ、よりによってそこをみずから滅ぼす必要がある。
「ばかげている、という顔をしておるな」
「……正直、貴公のおっしゃっていることの意味を測りかねます」
「無理もない。そなたは、子供の頃からゴトフリートを信頼してきたわけだからな」
酒を一杯あおってから、得心したようにうなずき、笑っている。だがそこには、いつもの嫌みな雰囲気はなかった。
が、とたんに鋭い目になってフェリクスを射抜いた。
「だが現実を見るのだ、ノイシュタット侯よ。お前さんのことだ、もうアルスフェルトのことは可能なかぎり調べておるのだろう? そこに不自然さは感じなかったか? なぜ、騎士団の動きが遅れたのか。なぜ、ヴェストベルゲンの民は襲撃のことを知らないのか。なぜ、ゴトフリートはここにいないのか――」
フェリクスは絶句した。
ギュンターは、別にこちらを責めようとしているわけではない。だが、その指摘があまりにも鋭いために圧倒され、言葉を失ってしまう。
このギュンターも、アルスフェルトのことを真っ先に調べていた。そして、自分たちと同じ疑問を抱いている。
「フェリクスよ、これら不可解なことをうまく説明する唯一の方法がある」
「…………」
「ゴトフリートが首謀者だということだ。それならば、わざと騎士団の出立を遅らせたことも、カセル地方だけ噂が広まらないようにしたことも、そしてこの夜会に来ないこともすべて説明がつく」
あまり考えたくはない可能性ではあったが、ギュンターのこの考え方は一理ある。
だが同時に、大きな欠陥もあった。
「ですが、ギュンター殿。それでは、わざわざ自分の領地であるアルスフェルトを襲ったことの説明になりませんし、矛盾しています」
「それを言うと思っておったよ」
ギュンターは苦笑した。
確かに、あえて自領の主要都市を襲撃して壊滅させることの理由が見えない。それはあまりにも突飛な考えにすぎた。
しかし――
「アルスフェルトを襲撃する理由があったとしたらどうする?」
「それはなんです?」
「もちろん、くわしいことはわからないさ。アルスフェルトを襲ったのが、反徒でも蛮族でもなく、翼人だったというところに答えがあるのかもしれんな」
言うなり、話はこれで終わりだとばかりにギュンターは背を向けた。その背中越しに、もう一度だけフェリクスに対して言葉を放った。
「あまりゴトフリートを盲信するな、フェリクス。まだ若いお前さんは知らぬだろうが、あの男はこころの闇を抱えておる。抱えざるをえない過去が、あの男にはあったのだ」
ギュンターが歩きはじめた。
「お前の知っているゴトフリートがすべてではない。そのことだけは憶えておけ」
そして、杯を手にしたまま廊下のほうへ消えていった。
フェリクスは、自分の手元にあった銀杯の葡萄酒を見やった。
――ハーレン侯があんなことを言い出した意図はどこにある?
これさえも、ギュンター流の揺さぶりだとでもいうのだろうか。
――だが、何かが違う。
ゴトフリートの様子がいつもと異なるように、ギュンターも普段の皮肉げな態度とはどこか違っていた。
彼は、こちらが知らない何かをすでに知っているのではないか。それなら、そのことを自分にわざわざ匂わせた理由はなんなのか。
ゴトフリートもそうだが、ギュンターの意図しているところもよく見えなかった。
フェリクスは余計な迷いを振り切るように、杯の葡萄酒を一気に飲み干した。
考えても仕方がないことなら、考えないに限る。ゴトフリートのことは確かに気がかりだったが、現状ではわかっていないことのほうが圧倒的に多い。自分はまだ彼を信じたかった。
貴族だけが盛り上がる夜会は、その主の憂鬱も知らぬまままにつづいてく。雲の後ろから月が顔を出すが、信頼する男の使者は未だ訪れない。