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後ろ姿が人混みに消えて見えなくなってから、アーデはのほほんとしている長身の男をキッと睨みつけた。
「なんで邪魔をしたの、ユーグ!」
「これはおひどい。アイトルフ侯が本当にずっと捜しておられたので、それを伝えにきただけなのですが」
「あの男はアルスフェルトの件をくわしく知っていたのよ! もっと情報を引き出せたかもしれないのに」
「姫」
ユーグの口調が変わる。
「ヴェルンハルト殿下に向かって〝あの男〟とは何ごとですか。口を慎んでください」
「だって……」
ユーグの言い分は正しい。腹立たしいが今のところ反論のしようがなかった。
「まあ、いいわ。ところでユーグ、アルスフェルトを襲った翼人についていろいろとわかったわよ」
「ええ、聞いておりました」
「は?」
「ほとんど最初からお二方の後ろにおりましたので」
アーデはかちんと来た。
「だったら、どうしてもう少し話をさせなかったのよ!」
「立ち聞きしているのが他の方にばれそうでしたので」
この|飄々(ひょうひょう)とした態度が無性に腹立たしい。
ただ、それなら話が早くて助かる。
「じゃあ、どう思うの?」
「どうと言われましても、結局わかったことと言えばアルスフェルトの件がただの噂ではなく事実だったことと、襲撃した集団が複数の部族の翼人による混成だったことだけじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね。じゃあ、人間の心臓を喰らっていたことに関しては?」
「それは……」
さすがに言葉に詰まった。
「ジェイドでなければ意味がないはずだったのでは?」
「そうなのよ、私もそう聞いていた。だけど――」
「はい」
「人間の心臓の中にもジェイドがあるって聞いたことない?」
「……はい?」
面食らったように、ユーグは眉根を寄せた。しかし、妹姫に冗談を言っている様子はない。
「ジェイドってはっきりしてるわけじゃないけど、まれに人間の心臓の内部に青く輝く半透明の物体が入っていることがあるって」
「まったく聞いたことがありませんが」
「どこかで聞いたような……本で見かけたんだったか……」
「アーデ様は博識すぎますからね。頭の中の情報が多すぎて混乱しているんでしょう」
「嫌みを言ってるの? でも、人間の偉大な人物ほど心臓の部分に結晶があったって、確か――」
「ああ、その話ですか」
「何!?」
ぽん、と手を叩いたユーグに、凄まじいまでの勢いでアーデが詰め寄った。姫のたいして大きくもない胸が、男の鍛え上げられた肉体に当たるほどに。
「ちょ、ちょっと離れてください」
「こんなに魅惑的な|淑女(レディ)が迫ってるのに、何を嫌がってるの!」
「魅惑的というか、どうにも怖くて……」
「ユーグ」
「冗談です。英雄や天才と呼ばれた人の棺を開けてみると、なぜか白骨化した胸の部分に青い宝石が置かれていることでしょう?」
「そう、それよ! あのリヒター帝の墓所にもあったっていう」
ノルトファリア建国の父であり、初代皇帝でもあるリヒター。その墓をより立派なものへ移す際、その棺の中で神官らが発見したと正史にもある。
「でも、あれは埋葬する際に入れられた宝石だったという話ですよ。実際、歴史に名を残す人物の棺に高価なものを副葬するのは普通のことでしょう」
「じゃあ、なんの宝石だったの?」
「それは……」
「リヒターのような真に偉大な人物の棺にあったっていうのに、学者も神官も調べなかったというの?」
「言われてみれば変ですね」
「単純よ」
アーデは大男から離れて、手すりに両手をついた。
「調べても、何かわからなかった。だから、記録に残しようがなかった」
「アーデ様」
ユーグが、男にしては細い眉をひそめた。
「まさか、人間にもジェイドがあると言いたいのですか?」
「わからない。けど、もしアルスフェルトの襲撃者の行為に意味があるのなら――」
「調べてみる必要がありそうですね」
「ええ、あとでレベッカたちにも聞いてみないと」
「いや、それは無意味でしょう」
長身の騎士は、きっぱりと言い切った。
「なんで?」
「これは人間側のことですから、我々ですら知らないのに翼人が知っているはずがありません」
「それもそうか。翼人には確かにジェイドがあるし、それが結晶化するのも当たり前……」
「だけど、わからないのは心臓のことだけではありませんよ」
「そうね。なぜ、よりにもよって人間の大都市を襲ったか」
「心臓を得るためだけでは、わざわざ都市を襲撃する理由になりません。余計なリスクを避けるために、小規模の集落を断続的に狙えばよかったはずです」
ユーグの言い分は正しい。結局、連中の目的はまだうっすらとさえ見えてこない。
アーデは欄干の上で両手を組み、その上に顎をのせた。兄に見られたらどやされる格好だが、何か考え事をするときのいつもの癖だった。
「……考えても、まだ答えは出そうにないけど」
「今はそれよりも、フェリクス閣下のことを心配したほうがいいかもしれません」
アーデは、目だけユーグのほうへ向けた。
「厳しいの?」
「危うい連合だと感じます」
ノルトファリア帝国は七人の選帝侯によって分割統治されているが、かつてはそれぞれが独立した小王国だった。
しかも、元は十二の王国が存在し、ひとつが異民族との争いの中で消滅し、四つはそれぞれ統廃合される中で他の国に吸収されていった。
そして今から約二五〇年前、七王国すべてを巻き込む〝ハルヴァー戦役〟が起き、そのすべてが疲弊しきってしまった。
折り悪しく、周辺諸国は交易や農業の豊作によって富み、七王国の隙を虎視眈々と狙っていた。
このままでは互いに滅ぼし合うか、周辺諸国のどれかに支配されてしまうという危機感を持った七王国は、互いの連携を模索するようになる。数々のすったもんだの挙げ句、妥協的に締結されたのが現在にまでつづく〝アルスフェルトの十二の約定〟、通称アルスフェルト条約だった。
これにより、名目上はノルトファリアというひとつの帝国になった七地域は安定し、反対に周辺諸国のいくつかをその支配下に置くまでになった。
だが、それも結局は妥協でしかなかったのだ。皇帝の選出では毎回ひどくもめるし、領地の境界線や関税のことであからさまに対立している地域もある。
腹の探り合い、足の引っぱり合いは日常茶飯事であり、本当の意味で互いに協調しようなどという気はさらさらなかった。
「前よりひどくなってるの?」
「ええ、確実に。皇帝不在が響いていますね」
諸々の事情で現在は皇帝がいない。七選帝侯の中から次期皇帝を選ばなければならないのだが、そのことが状況をさらに難しくしていた。
「フェリクス閣下は警戒されてしまっているのです。このノイシュタットがうまくいきすぎているために」
「今は、どこの地域も厳しい」
「アイトルフにいたっては末期的です」
「ユーグの言葉のほうがよほど失礼に聞こえるけど」
「しかし、それが現実です」
「逆に、ノイシュタットはあらゆる面で好調、と」
「諸侯が神経をとがらせているのも、無理はありません」
「ただの妬みもあるけどね」
「しかし、中にはゴトフリート閣下のような方もおられます」
「それはわかってるわ。選帝侯の中には狐のような奴が多いけど、信頼の置ける人物もいる。今日はいらっしゃってないようだけど」
「そうですね」
カセル侯ゴトフリートは、フェリクスの後見とも呼べる人物であった。
清廉潔白にして実直。
互いのことを牽制し合う七選帝侯の中にあっても、彼だけは誰からも一目置かれていた。
そのゴトフリートは、フェリクスを子供の頃から買っていた。まだ若い彼が曲者の多い帝国の中でそれなりの立場が維持できているのも、ゴトフリートの後ろ盾があればこそであった。
だが今回に限って、なぜかそのゴトフリートは来ていない。よりによって、フェリクス主催のパーティに。
そのことは、諸侯の間に波紋を投げかけていた。
ノイシュタット侯はカセル侯の支持を失ったのではないかと。
「やっぱり、アルスフェルトのことがあったからかしら?」
「でしょうね。アルスフェルトほどの都市が壊滅したとなれば、カセル全体にとってもただでは済みますまい」
「対応に追われているのでしょうね。もし似たようなことがここで起きたら――」
「怖いことをおっしゃらないでください。そんなことは〝我々〟がさせません」
「期待しているわ、勇敢な騎士様」
窓から漏れる薄明かりの中でも輝くような微笑を、隣にいる男に優しく向けた。
――おとなしくしていれば美人なのだが。
と思うユーグであったが、口に出しては何も言わなかった。身が危険だからだ。
「私たちのことはともかく、お兄様も心配でしょうね」
「ええ。ですが、カセル侯のことを信頼なさっているでしょう。今は、それよりも諸侯の不満をそらすことです」
「周りが結託するとでもいうの?」
「最悪。もしそうなれば、いくらノイシュタットでも持ちこたえられません」
「じゃあ、嫌でも諸侯の顔色をうかがうしかないのか」
「さっそく、アイトルフ侯に支援を約束しておいででしたよ。閣下の苦労が思いやられます」
「はぁ、お兄様も大変なのね」
思わず突っ伏してしまう。
こういった政治的駆け引きは好きになれない。兄に言われなくとも、かかわり合いになどなりたくなかった。
「でも、私たちだって大変よ。翼人の世界が大きく動き出している気がする。きっとこのままカセルだけの問題では終わらない」
「そうですね。場合によっては、我々が直接行動に出なければならない状況になるかもしれません」
「今のうちから準備しておきましょう」
「はい」
二人はうなずき合った。お互いの色の違う目には、同じ強い決意の色がうかがえた。
三日月に薄雲がかかる。さらに暗くなった二人の姿を、ヴェルンハルトは遠くから見つめていた。