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バルコニーで受ける夜の風は冷たく、酒で少し火照った体には心地よかった。後ろの広間では、未だに夜会が行われている。
――みんな元気ね。
アーデルハイトは盛大にため息をつくと、手に持っていた銀杯を精巧な彫刻の施された欄干の上に置いた。
どうにも、こうした場の空気には馴染めない。
ノイシュタット侯の妹として立場上逃げるわけにもいかず、付き合いで出てはいるが、いつもこうして周りの注意がそれた時機を見計らっては、人気の少ないところへ逃げ込んでいた。
――お兄様は大変ね。
兄フェリクスは、このノルトファリア帝国を治める各地の諸侯をみずから接待していた。きっと、自分とは比較にならないくらいに気苦労が多いことだろう。
この国の有力者は、よくこうして持ち回りで夜会を開く。招いたほうは最大限のもてなしをしなければならず、招かれたほうもよほどの事情がないかぎり、かならず出席しなければならない。
――無駄なことを。
と思わないでもないが、かならずしもすべてが無意味というわけでもなかった。
表向きには、諸侯の友好をはかるという目的もある。
このノルトファリア帝国は、各地がゆるやかにつながり合った連邦国家だ。誰かが独立や他の領土の支配を目論んだら、それだけで帝国全体が混乱に陥ることになる。
それを防ぐために互いのことをよく知り、親交を深め合う場が確かに必要ではあった。
――本当の親交には程遠いけど。
裏には、相手の状況を探るという意味合いも多分にあった。当の領土へ行けば、その領主が何をしているのかおおよそのところは誰でもわかる。
だが、あからさまに他の地域のことを調べようとすると、かえってよからぬことを企んでいるのではないかと勘ぐられてしまうことになりかねない。
その点、夜会という理由があれば堂々と相手の領地へ入っていけるわけだ。しかもこうした会合は持ち回り制だから、変に疑われたくなければ各領地で余計なことはしないに限る。
この夜会はいわば、互いを牽制するための場でもあった。
各地を統べる諸侯クラスともなると、執務の忙しさもあってなかなか直接会う機会がない。逆に、会えば会ったで、両者が結託して何か悪だくみをしているのではないかと疑われてしまう。
こうした公式の場で、それぞれの意見や情報を交換できるのは貴重なことだった。
――もっとも、大半がただの腹の探り合いで、自分の手の内を見せるようなことはしないのだけれど。
だから、アーデは諸侯主催のパーティが全然好きになれなかった。こんなものに出るくらいなら、自分の部屋で寝ていたほうが遥かにましだ。
今回はここノイシュタットでの開催だから仕方なく出席してはいるものの、普段は好きこのんで兄に付いていくようなことはけっしてなかった。
アーデはもう一度大きく嘆息すると、欄干の上に置いてあった銀杯に手を伸ばした。
背後から声をかけられたのは、そのときだった。
「アーデルハイト殿下」
振り返ると、今、最も見たくない人物がそこに立っていた。
見事に着こなされた衣装、男の割に妙に白い肌、端正な顔立ち、青い瞳。
アイトルフ侯ヨハンの総領息子、ヴェルンハルトだ。
――しまった、捕まっちゃった。
アーデは、こころの中で舌打ちした。
実をいうと、誰もが振り向くであろうこの美青年を少々苦手としていた。
男のわりに美しすぎ、どうにも力強さに欠ける。事実、ヴェルンハルトは細身で剣や馬の扱いは苦手としていると聞く。
性格的にも優しすぎ、まるで覇気というものが感じられない。男に力強さを求める自分としては、どうにも好きになれなかった。
「ああ、ヴェルンハルト様。夜会をお楽しみになられていますか?」
そんな内心の思いはおくびにも出さず、つくった笑顔とつくった声で応対する。我ながらいい根性をしていると思うが、気にしない。
「ええ、ありがとうございます。やはり、このノイシュタットの地はすばらしいところですね」
外を眺めながら、ヴェルンハルトが言う。
「緑は豊かだし、町は発展しているし、畑を見るかぎり農も順調のようですね。ここに来るたび、尊敬の念がますます強くなります」
苦手な男ではあるが、この故郷を褒められると悪い気はしない。知らず知らずのうちにアーデの顔はにやけ、なぜか胸を張っていた。
「それもこれも、兄君のフェリクス閣下の手腕なのでしょうね。純粋に憧れます。すばらしいご兄弟がおられるアーデルハイト殿下がうらやましい」
兄を褒められるのは、自分を褒められること以上にうれしかった。
――この男はそんなに嫌うほどじゃないのかもしれない。
などと、げんきんに思うアーデであった。
――実際、悪い男ではないのよね。
それどころか、今どき純朴すぎるほどに純朴な青年だ。
自分より他人のことを先に思い、誰にでも優しく、常に周囲のことに気を配っている。彼ほど周りから尊敬を集めている人物を、同世代では他に知らない。
兄が勝手に、将来は妹の婿にと考えているのも故なきことではなかった。
――でも、弱い。
そこが引っかかっている。力が弱いだけではない、こころもどこか脆さを抱えている。
他者のことを思うがあまりみずからを犠牲にし、みずからを傷つける。
誰にでも優しいのはいいが、それがために自分ひとりでいろいろなことを背負ってしまう。
結果、自分の負担が最も大きくなり、やがて自滅していく。
噂だが、ヴェルンハルトはかつてこころの病にかかってしまったという話を聞いたことがあった。
――人間、ときにはしたたかに生きることも必要なんだけど。
と、自分を例に思う。
力に限りある人という存在が、万事すべてをこなそうとしてもこなしきれるものではない。
だからこそ、仲間を必要とする。
ひとりで行いえないものであっても、みんなでやればどうにかなることも多い。自分のできるかぎりのことをしたなら、ときには周りに頼ることも大切だ。
――そう、ヴェルンハルトにはそれができない。
彼は人のことを思う、誰にでも優しい――確かに。
その一方で誰にも頼ろうとしないのは、こころのどこかに自分以外の他者への不信があるせいではないのか。
逆説的だが、他人のことを思いながら、その他人のことを信頼しきれていないようなところが、彼からは感じられた。
「あ、あの……」
「はい?」
「私の顔に何か?」
気がつくと、当のヴェルンハルトが苦笑していた。
――しまった、思わず見つめちゃってた。
「あ、いえ、なんでも……。あ、やっぱり気になることが」
「なんでしょう?」
「ヴェルンハルト殿下、だいぶお疲れなのでは? 以前に比べて、顔色が優れないような気がします。お付きの方からも、体調があまりよろしくないと伺いました」
「確かに、少し旅の疲れが出たのかもしれません。それに、ここと違って我が領地ではいろいろとありますから……」
ヴェルンハルトはくわしいことを語ろうとしない。しかし、アーデはそのいくつかを知っていた。
――地方での反乱、か。
カセルのように翼人とあからさまに対立しているわけではないが、北西に広がる森林地帯に住んでいる異民族との領土問題が、同地に暗い影を落としていた。
ロシーと呼ばれる彼らのほうがこの地域の先住民であり、自分たちヴィスト人はあとから来た新参者にすぎない。
ただそれも、かれこれ一千年以上も過去の話なのだが、未だにロシーとヴィストの対立はつづいていた。
その紛争がもっともひどいのが、アイトルフだ。度重なるロシーの反乱と周辺都市への略奪行為によって、アイトルフは疲弊しきっている。
――しかも、暴れているのはロシー族だけじゃない。
翼人も、だ。民に動揺が走り、他国に隙を見せないために表向きは伏せられているが、翼人が人間の軍に襲いかかることは一度や二度ではなかった。
そのうえ、河川の少ない同地域では土地が元からやせていて、農地の高い収穫も見込めない。
今、この帝国の中でもっとも困難を極めている地域といってよかった。
ゆえにこそ、ヴェルンハルトのことが心配になる。それらの問題でさえ、もしかしたら父である現アイトルフ侯以上に思い悩んでいるのかもしれない。
「殿下、ときには休まれてはいかがです? 自身が限界に達したときには周囲の力を素直に借りることも、生きていくうえで大切な知恵だと存じます」
ヴェルンハルトが、はっとして顔を上げた。
「……やはり、アーデルハイト殿下は鋭いのですね」
「いえ、差し出がましいことを申し上げました」
彼自身、自分の欠点と限界を知りすぎるほどに知っているのだろう。それでも、周りに頼るわけにはいかない何かが彼にはあるようだった。
それが、端整な顔立ちに影を落としてしまっている。これだけの男でありながら浮いた話のひとつも聞かないのは、大半の女性が彼のこころの闇に薄々気づいているからではないのか。
女の勘は鋭い。特に、男のことになればなおさらに。
「――ああ、ところで翼人についての噂をご存じですか?」
「翼人、ですか?」
ヴェルンハルトが、なかば強引に話題を変えてきた。彼の気持ちがわかるので、まだ言い足りないことはあったが、アーデはあえてその話に乗ることにした。
「ええ、殿下は翼人のことに興味がおありのようなので」
確かに、自分は翼人のことになると饒舌になる。たとえ、気に入らない男の前でも。
「もしかして、翼人が人間の町を襲ったという話でしょうか?」
「ああ、やはりご存じでしたか。そう、カセルのアルスフェルトが壊滅してしまったのです」
アーデは眉をひそめた。
――ヴェルンハルトは断言している……?
「噂、ではないのですか?」
「あ、これはうっかりしてたな、本来は秘密にすべきだったんだが……。まあ、アーデルハイト殿下ならばいいでしょう。我が領土に直接かかわることでもありませんし」
ヴェルンハルトはいたずらを見つかった少年のような表情で頭をかいていたが、すぐに開き直った。
「実は、ちょうどわたくしどもの使者をカセル侯の元へ派遣していたのです。その使者が、ついでにアルスフェルトの知人のところへ寄ってから帰ろうとしたのですが……」
「翼人の襲撃に遭ったと?」
「ええ、直接その使者から聞いたのですが、|町中(まちなか)はこの世の地獄のような光景だったそうです。女性のアーデルハイト殿下の前ではとても申し上げられないほどの」
「いえ、構いません。教えてください」
「え? でも……」
「いいのです。私は、そういったことに強いほうですので」
面食らったような表情をしていたヴェルンハルトであったが、うなずいて言葉をつづけた。
「わ、わかりました。それがその……翼人たちは人間を集中的に襲っていて、それで……」
「なんです?」
「人間の……人間の心臓を、剣でえぐり出して喰らっていたそうです」
アーデは、目をむいて固まった。
驚きの声を上げたいのだが、喉の奥で詰まってしまって出てこない。
やっとのことで一言だけ絞り出した。
「なぜ……そんなことを……」
「わかりません。不思議なのは、翼人たちは食糧や宝石などにはまるで興味を示さずに、人間ばかりを狙っていたことなんです」
使者は、最初に逃げ込んだ市壁の内部にずっと隠れていた。幸いだったのは、翼人が市壁の中に空洞があることを知らなかったのか、そこには見向きもしなかったことだ。
そのおかげで、暗くなって翼人の姿が見えなくなってから、命からがらアルスフェルトから逃げ出せたのだという。
動揺の収まらないアーデだったが、質問を重ねた。
意外にもヴェルンハルトは重要な情報を持っていた。利用するようで悪いが、ここで引き出せるだけ引き出したい。
「他には、どんなことがわかっているのですか?」
「そうですね……ああ、そうそう。珍しい色の翼をした翼人が多かったそうです」
「珍しい色?」
「ええ、黄色だとか|浅葱(あさぎ)色だとか、さまざまな色の翼をした翼人が多く集まっていたそうです」
「じゃあ、ひとつの色に統一されていなかったということですか?」
「ええ、そのようです」
――なるほど。
これで、ひとつはっきりした。
アルスフェルトを襲ったのは翼人の単一部族ではなく、はぐれ翼人の集団か複数の部族の集合体ということだ。
後者は翼人の文化からして考えにくい。ということは、はぐれ翼人の徒党が何かのきっかけで巨大化したということだろうか。
いずれにせよ、未だその集団の目的が見えてこなかった。
それに、
――人間の心臓を喰う?
翼人は同族の心臓、すなわちジェイドでなければ摂取する意味がないはずだ。
では、なんのために人間の町を襲い、なんのために人間の心臓を喰らったのか。わからないことが多すぎた。
「あの――」
「ヴェルンハルト殿下」
アーデの声を遮って、後方から声がかけられた。
背後を振り返ると、そこに立っていたのは長身の近衛騎士、ユーグだった。
「お話の途中、申し訳ありません。お父上のヨハン閣下がお捜しになっておられますが」
「ああ、わかった。これからすぐに行く。――殿下、それでは」
名残惜しそうにアーデに別れの言葉を告げると、ヴェルンハルトは広間のほうへ向かっていった。
が、その途中で立ち止まって思い出したかのように語りはじめた。
「そうそう。言い忘れていましたが、その翼人の集団、おそろしく統率が取れていたようで、アルスフェルトの衛兵団は、あっという間に壊滅してしまったそうです」
その言葉を残して、ヴェルンハルトは今度こそ去っていった。