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今日は、何か空気がおかしい。
空は晴れ渡っているのだが、雰囲気がどんよりと重い気がする。それというのも、ヴァイクとリゼロッテの様子が、あの夜以来おかしいせいだった。
ヴァイクは、何か考え事をいしているかのように黙っていることが多くなった。
リゼロッテのほうは、あまり彼に近づかなくなった。体調はまだすぐれず、さらには疲れがたまってきたせいでその足取りは重い。
――ふぅ。
そんな二人に挟まれていると、自分まで暗い気持ちになってくる。ベアトリーチェは彼らに悟られないように、そっとため息をついた。
何か、この青い空がもったなく思える。せめて曇天だったら、自分たちの気持ちにしっくりとくるのに。
理不尽にすぎない思いを込めて空を見上げていると、鳥の集団か何かが隊列を組んで飛んでいくのが見えた。
そこから一羽が離れて、こちらのほうに降りてくる。
――なんだろう?
と思っている間に、それが一気に急降下してきた。
見る見るうちに近づいてきて、いけないと思ったときにはもう、その紅色の翼と手に持った剣とが、はっきりと目に映るほどになった。
「ヴァイク!」
白翼の彼は、言われてからようやく気づいた。
ベアトリーチェの声に危険なものを感じ、反射的に剣を引き抜いて周囲の様子を確認する。
――上か!
とっさに剣を上段に構えつつ、飛び上がった。
すぐに来る激しい衝撃。剣を取り落としそうになるのを必死にこらえ、体を後方へ逃がしつつ、なんとかして相手の剣を受け流そうとする。
しかし、アセルスタンはそれを許さなかった。あえてわずかに力を引き、相手の動きに柔軟に対応していく。
その結果、二の手も|紅(あか)い翼の有利に動いた。
合わせた剣はそのままに、左足を振り上げて膝蹴りを見舞う。密着した状態のままのヴァイクはよけることもできずに、それをまとも脇腹に喰らうことになった。
「くっ……!」
だが、相手は無理に蹴りを放ったことでわずかに体勢を崩している。
その隙を利用して相手を押し返し、さっと距離をとった。
――まずいな……
脇腹に鈍痛がある。それほどたいしたことはないだろうが、もしかしたら肋骨にひびくらいは入っているかもしれない。
と考えた直後、風を切る危険な音が耳に届いた。
――しまった。
はっとしたときにはもう、相手が目の前にいる。
痛みに気をとられた一瞬の隙を突かれ、あっという間に距離を詰められた。
――今度は突きか!
最短距離から、剣の先端でこちらの胸を狙っている。
突きによる攻撃だけに、確実に受け止めることは難しい。相手のほうが勢いに乗っている分、それを受け流したとしても体のどこかに当たってしまうことは避けられそうになかった。
「ちっ」
舌打ちをしたヴァイクの体が沈んでいく。
相手の一撃を受け止めるのでも受け流すのでもなく、羽ばたきを止めて|落ちた|(、、)。
つい先ほどまで自分の体のあったところを、翼をかすめて相手の剣が|行(ゆ)き過ぎていく。
アセルスタンはすぐに反転して向き直った。しかし、そのときにはもう、ヴァイクは体勢を整え、剣を再び構えていた。
「今のをよけたか、たいしたもんだ」
その言葉には、素直な感嘆の響きがあった。
自分の突きには絶対の自信があった。族長メイヴは無類の強さを誇っているが、その|彼女と|(、、)唯一まともに勝負できるのが勢いにのせた今の突きであった。
大剣を軽く振る紅い翼の前で、一方の白い翼は荒く息をついていた。
――このままじゃやばい……
歯がみする思いだ。常に相手に先手をとられ、こちらは後手後手に回ってしまっている。
目の前の男は強い。
時間を追うごとに、こちらがどんどん劣勢に立たされるであろうことは目に見えていた。
それに、
――こっちは、リゼロッテとベアトリーチェを守らなければならない。
相手がはぐれ翼人であろうと部族の者であろうと、倒して――
「!?」
と考えたところで、ふと相手の翼に目がとまった。
これまでは守るので精一杯で気がつかなかったが、あの羽、あの色彩は忘れるはずもない。
「ヴォルグ族……」
「ほう、知っているのか」
アセルスタンが目を見開いた。
「まあ、それも当然か。ヴォルグ族は最強だ。敵なんていないからな」
「……クウィン族を知っているか」
得意げに語るアセルスタンの言葉を、ヴァイクの声が遮った。
「何?」
「クウィン族を知っているかと聞いている」
その声は、闇夜の底から響いてくるかのように冷たい。下にいるベアトリーチェらがこれまで聞いたこともない、底冷えのする氷の矢だった。
だが、アセルスタンはあっけらかんとしたものだった。
「そんな部族は知らんな。大方、もう潰されたんだろう? これからは真に強い部族のみが生き残る。つまり、ヴォルグ族がすべてを支配――」
アセルスタンの表情が固まった。
はっとしたときにはもう、白い翼の男がもう目の前にいる!
あわてて剣を構えるが完全に遅れた。初撃で体勢を崩され、それを立て直せないままヴァイクの剣勢にずっと押されていく。
右、左、右下、左上、下、上、と次から次へと鋭い剣撃が襲いかかってくる。
どれもみずからの剣を追いつかせるのに精一杯で、一撃を受け止めるごとにこちらの体勢が悪くなっていく。
――なぜだ……
最初に剣を合わせたときより、相手の力が強まっている気がする。衝撃が予想以上に強く、思わず己の得物を落としそうになる。
手がしびれてきた。まずい。
「このッ……!」
アセルスタンは、思いきって逆に距離を詰めにいった。お互いの|剣柄(たかみ)が胸に触れるくらいに近づく。ヴァイクは、あからさまにその状況を嫌がった。
――やはり、超接近戦が苦手なんだな。
内心、ほくそ笑む。相手は、手足が長いからリーチの面では有利だ。しかしその分、間合いの内側に入られるとそれがかえって仇になる。
アセルスタンは最初と同じように、左の膝蹴りを見舞おうとした。
ヴァイクが瞬間的に反応する。
だが、それこそが狙いだった。
相手にはあの膝蹴りの嫌な記憶があるために、必要以上に脇腹の防御に敏感になる。アセルスタンは足の動きを途中で止め、むしろ腕で相手を一気に突き放した。
しかし、そこからがアセルスタンの誤算だった。
――離れない!?
かなり押し返したはずが、相手はほとんど同じ位置だった。次の瞬間には、もう剣を振り下ろしはじめている。
驚愕するこころを落ち着かせる暇もないまま、防御に追われる。相手の剣は力強く、正確で、何より速かった。
劣勢がつづけば体力面でもきつくなり、なおさら厳しい状況に陥っていく。今のアセルスタンがまさにそうであった。
防ぎきれない攻撃が出てきて、一つ二つと生傷が増えていく。このままでは危険なことは、火を見るより明らかだった。
アセルスタンの内側に動揺が増していく。
族長との稽古を除いては、自分がこれほどまでに窮地に立たされた経験は、一度としてなかった。ひやりとする場面は、確かにいくつも経験してはきた。
しかし、現実にここまでの危機感を持ったことはなかった。
命の危険――足がすくみそうになる。
と、その事実に愕然となった。
――恐怖しているだと? この俺が? 他の翼人相手に? 族長以外の奴に!
「ふざけるなッ! 貴様ごときに俺が負けるか!」
族長が自分を見下す様を思い浮かべる。
それだけは嫌だった。彼女に笑われるような男にだけはなりたくない!
なりふり構わぬ捨て身の攻撃をしかける。
右の肩口を相手の剣がやや深く切っていくが、それさえも意に介さなかった。
――なんだと!?
ヴァイクはまったく予想していなかった形での相手の反撃に、完全に虚を突かれてた。なまじ相手の肩の辺りをとらえたことが、防御がさらに遅れる要因となってしまった。
相手の大ざっぱな一撃を、身をよじってかわそうとする。体への攻撃はかわせた。しかし――
ぱっと鮮血が散った。
いくつもの白い羽が、はらりはらりと散るがごとく落ちていく。
ヴァイクの左の翼、その先端が赤く染まっていった。
――よけきれなかった。
はっとしたときにはもう、翼が相手の剣の軌跡に巻き込まれる形で斬られてしまっていた。
傷は浅いが、翼人の翼は繊細だ。わずかに平衡感覚が狂うのは避けられない。傷そのものより、痛みの感覚に飛行の微調整が阻害される。
結果、戦いの主導権は再び相手に移った。
ずいぶんと雑な攻撃だがそれだけに先を読みづらく、対処が難しい。
しかし、狂ったように剣を振るいつづける相手を、ヴァイクは驚くほど冷静に見つめていた。
予想外の戦い方とはいえ、対応しきれないほどではない。ぎりぎりのところで受け止め、受け流し、かわすことでどうにか決定打を防ぐ。
――強い。
相手の力は圧倒的なほどで、おそらく単純な力のぶつかり合いでは勝てないだろう。
しかも、剣にぶれがない。
剣を通して相手の力がそがれることなく、もろにぶつかってくる。もし、ここに慎重さと相手の動きを利用する賢さが加われば、おそらく手がつけられなくなる。
だが、
――勝てない相手ではない。
ヴァイクは、アセルスタンの動きのひとつひとつをつぶさに見ていた。
そうしていると、無茶苦茶と思える動作の中にも一定のパターンがあるのがわかる。それが、いわゆる本人でさえ気づかない〝癖〟だ。
しかもタイミングのいいことに、翼の傷の痛みにも慣れてきた。
これなら、いつも通りにやれる。
防戦一方に見えて、その実、ヴァイクは今や相手に負ける気がしなかった。
結局、こいつには――
――慢心がある。
相手が、振るった剣の勢いを利用して振り向きざま次の一撃へ移ろうとしたその一瞬の隙。
ヴァイクの愛剣〝レア・シルヴィア〟が、相手の体の直上に入り込んでいた。
「…………!」
アセルスタンが心中で悲鳴を上げつつ、必死に回避行動をとる。
頭はよけた――最悪の事態は免れた。
肩もかわす――これで回避できた。
はずだった。
「ぐあぁッ!」
今度こそ本物の悲鳴を上げた。
一瞬の違和感ののち、背中に焼きごてを押し当てられたような激しい熱さに襲われた。
と同時に、体が大きく|傾(かし)ぎ、急速に落下していく。
バランスを取ろうとしても、翼がうまく動かない。何が起きた!?
そのアセルスタンの視界の隅を、|紅(くれない)色の翼の片割れが、血の軌跡を描きながらゆっくりと落ちていく。
アセルスタンはそれを、まるで他人事のように静かに見つめていた。
左の肩から地面に激突する。
近くから女の悲鳴が聞こえたが、そんなことよりも今自分がどうなっているのかまるで摑めないことのほうが苦しかった。
わかるのは肩と――そして、背中の激痛だけ。
少し遅れて、何かがバサリと地面に落ちた音が聞こえてくる。
体が震えて言うことを聞いてくれない。
いったい何がどうなってしまったのか。
――自分の体はどうなった? 俺のこころはどうしたというのか!
しばらくすると、あの白翼の男が大地に降り立った。こちらを悲痛な表情で見下ろしている。
――なぜ、敵に対してそんな顔をする? なぜ、俺をそんな目で見る!?
怒りにまかせて無理やりに起き上がろうとした。だが、すぐに平衡を失って膝をつく。
何かがおかしい。
| 何かが足りなかった|(、、)。
そこで初めて、自分の目の前に落ちている〝モノ〟に気がついた。
紅の羽、紅の塊、紅の血――紅の翼。
左の、翼が、ない。
「ああああ……うああああッ!」
発狂したように叫びだしたアセルスタンは、うずくまって大地をかきむしった。
「ない! 俺の翼がない!」
背中から鮮血が飛び散るのもかまわず、何度も何度も剣を大地に突き立てる。
その度に体勢を崩してよろめき、己の魂の半分を失ったことを、殴られたように体の内側へ思い知らされる。
「ああああ……」
ゆっくりと体を折ると、そのまま動かなくなった。
体が小刻みに震えている。そこに、つい先ほどまでの威勢のいい男の姿はなかった。
「こんな……」
ベアトリーチェは、凄まじいまでの男の苦しみを目の当たりにしていた。
これ程までに苦悩する人の姿をこれまで見たことがあっただろうか。かわいそう、いたたまれない――そんな陳腐な思いを圧倒的に凌駕する凄絶さが、そこにはあった。
「…………」
ヴァイクは無言のまま、男のもとへ歩み寄っていった。
強い相手だった。
一歩間違えば、倒れていたのは自分のほうだったろう。妙な慢心さえなければ、本人が言っていたとおり、最強になりえたはずだった。
だが、今やそうした可能性はすべて消え去った。
翼人の世界で不具者が生きていく道はない。このあとに待ち受けているのは、迫害と屈辱と絶望の道だけだ。
ヴァイクがアセルスタンの前まで来ると、おもむろに剣を振りかぶった。その表情からは、もはや感情の色は完全に消え失せている。
そこにあるのは、覚悟とほんのわずかな同情だけだ。
「許せ」
と言って、兄の形見でもある剣を振り下ろそうとした。
だが、それは思わぬ力に|止(とど)められることになった。
「リゼロッテ……」
服のすそを摑んで放そうとしない。その実際の力はたいしたことはなかったが、ヴァイクは剣を止めるしかなかった。
リゼロッテは一言も発しようとしない。だがその瞳は、雄弁なほどに悲しみを物語っていた。
――言いたいことはわかる。だが、
これから生きていっても苦しいだけならば、ここでそれを断ち切ってやるのも慈悲ではないのか。いくら傲慢であっても、翼人ならば戦いに敗れた者の末期を初めから覚悟していたはずだ。
しかしリゼロッテは、はっきりと首を横に振った。
「生きているなら、苦しいことがあって当たり前だ思う」
ヴァイクがぴくりと反応した。
「それから逃げちゃ駄目だってお母さんが言ってた。苦しいことから逃げてばかりじゃ生きていることにはならないって」
リゼロッテは胸のペンダントを見た。その赤い石は、昼の陽光を浴びて静かに輝いている。
「誰でも生きていいんだと思う。どんなことになっても、誰に悪く言われても」
生きちゃいけない存在なんてない。たとえどんなに弱くても、どんなに嫌われてもそこに存在する意味はあるはずだから。
リゼロッテの目は、ただひたすらにまっすぐだった。ヴァイクは、そこから目を逸らすことができなかった。
だから、ひとつ息をついてうなずいた。
「わかったよ、リゼロッテ」
――リゼロッテにはかなわない。
刀身についた血を拭ってから、剣を鞘に収めた。
そのときになって初めて、アセルスタンが反応した。
さっと顔を上げると、驚愕の眼差しでヴァイクの背中を見た。
「なぜだ……なぜ、とどめを刺さない……」
殺してくれと言わんばかりの震える声。
ヴァイクはあえて、その理由は語らなかった。
「とりあえず、お前の部族へ帰るんだな。ヴォルグ族が戦えない男をどうするかは知らないが、なんとかなるかもしれない」
ヴァイクは、振り返りもせずに言った。
「とりあえず、生きてみろ。俺は、お前たちのせいで部族も家族も友人も失ったが……今まで生きてきた」
その台詞を最後に、ヴァイクはリゼロッテとベアトリーチェを促して去っていった。
アセルスタンは、それを虚しく見送ることしかできない。
「おのれ……おのれ……」
その肩が小刻みに揺れる。それは、これまでのような悲しみと絶望によるものではなかった。
ただただ、こころを圧するほどに強い屈辱――
「ヴァイクとか言ったな……」
震える声を腹の底から絞り出す。それは魔神もかくやというほどの迫力を有していた。
「俺の名はアセルスタンだ! 憶えておけ! かならず貴様の翼も何もかも奪い去ってやる!」
あらゆる怨嗟を込めた黒く重たい言葉が、森の中に幾重にもこだまする。
しかし、誰もそれに応えない。
アセルスタンは、孤独のうちに震えていた。
大樹から落ちた一枚の葉が、剣の|刃(やいば)に触れる。ひとりの男の人生が今、奈落の底へ|堕(お)ちようとしていた。