第二章 敵
山道を歩くのは、さほど困難なものではなかった。
翼人は、確かに普段は空を飛んでいることが多い。だが、二本の足がついている以上、地上を歩くこともよくあった。
問題なのは、ベアトリーチェのほうだ。長い時間、運動することに慣れていないせいなのか、一歩一歩を踏み出すだけでもかなりつらそうに見えた。
「大丈夫か?」
「え、ええ、なんとか……」
「歩くのが速いか?」
「確かに、ちょっと速いかも……」
とはいえ、リゼロッテはここのところ歩きどおしだというのに平気な顔をしていた。大人である自分が先に音を上げるわけにもいかなかった。
「少し休憩しよう。ちょうどあそこに日陰がある。お互い、無理は禁物だ」
その言葉に、ベアトリーチェは救われた。
――正直、もう限界。
リゼロッテの手前、膝をつくことだけは避けていたが、本当は倒れてしまいそうなほどに苦しい。
ここは、カセルの南から帝都へ向かう道の中でも最大の難所だ。本当は山と呼ぶほどの高さはないのだが、平坦なところに突然現れる峠道のため、ここを通る者はよく〝ベルムの山道〟と呼んでいた。
坂道の傾斜が急なうえに、粘土質の赤茶けた土がむき出しになって、日を遮るものがない。女でなくとも、悲鳴を上げたくなるような難所だった。
そんな中、ヴァイクが見つけてくれた木陰は風の通りもよく、休むには最高の場所だ。
「はい」
「――ああ、ありがとう」
リゼロッテが、水の入った袋を差し出した。水牛の皮をなめしてつくったものだ。これなら水漏れしない。旅人の必需品だった。
革の匂いが鼻につくが、疲れ果てた身には、水は最高の御馳走だった。
ようやく人心地ついて周囲の景色を見渡してみると、なかなかどうして、心休まるものがあった。
山そのものは土ばかりで見るべきものはないが、麓から向かいの丘にかけては豊かな草原が広がっている。
春の日差しにしっとりと照らされる中、一本一本の草木があたかも糸でつながっているかのように風にゆるやかになびき、緑の海が波打っていた。
「あっ、あれ!」
と、リゼロッテが元気よく立ち上がって、空の一点を指さした。
「ああ、飛行艇ね」
そこには、船の形によく似た物体が浮かんでいた。唯一違うのは、両側に翼のようなものが付いていることだ。
「飛行艇というのか、あれは」
なぜか、ヴァイクがそれを|苦々(にがにが)しげに目を細めた。
「そうよ、文字どおり空を飛ぶ船」
ここ二十年くらいの間に、急速に普及しはじめた乗り物。
まだ特権階級のためのものでしかないが、すばらしい移動速度を誇り、人間の世の中を根本から変えつつあった。
みんなの憧れでもあるそれは〝|飛翔石(ジェイド)〟と呼ばれる緑色の透明な石をその動力源としている。
「ジェイド、ね……」
ヴァイクの暗い声に、初めてベアトリーチェが彼の表情に気がついた。いつの間にか、怒りと憎しみがない交ぜになったように顔を歪めていた。
リゼロッテまで、純粋な憧れの視線を向けていた先ほどとは違い、驚いたような目で飛行艇の軌跡を追っていた。
「どうしたの?」
「知らないのか? ――そうだな、人間は知らないだろうな」
ため息をつきつつ、ヴァイクは空に浮かぶ〝棺桶〟をもう一度仰ぎ見た。
「ジェイドはな……俺たち翼人の心臓が死んでから結晶化したものなんだ」
「う、嘘でしょう? 飛翔石は、突然発見された謎の石だって……」
「翼人の死体を利用しています、なんて言えないもんな」
ベアトリーチェは絶句した。
「ジェイドは、熱を加えると浮かぶ性質があるんだ。たぶん、それを利用したんだろう」
「翼人が空を飛べるのも……その、ジェイドのおかげなの?」
「わからん。俺たちが飛べる理由は、自分たちでも知らない。翼の力だけではないことは感覚的にわかってるけどな」
ジェイドが鍵を握っていることは、薄々気づいている。しかし、本当のところは誰も知らない。誰も知ろうとしなかった。
「わかるだろう? そういうことだから、翼人ひとりが生み出す|飛翔石(ジェイド)の量には限りがある」
「心臓の大きさ……ってこと?」
「ああ。あれだけの大きさの船を飛ばすとなると、それこそ数百人分のジェイドが必要だ。どうやってそれだけの量を集めたのかは知らないが」
おそらくは、死体を|漁(あさ)ったに違いなかった。
「そんな……」
それを聞いたとたん、ベアトリーチェには今まで憧れだったはずの飛行艇が、この上なく不気味なもののように思えてきた。
翼人の心臓を糧とする乗り物――あれに乗ることは、いわば翼人の遺体の上に土足で踏み上がるようなものだった。
こころなしか、風も冷たくなってきたような気がする。暗澹たる気持ちで空を見上げる他なかった。
「でも、私は乗ってみたいな」
「リゼロッテ」
ヴァイクがたしなめるが、当の少女はどこ吹く風だった。
「だって、乗ってみたいんだもん」
と言って、笑っている。その様子は、年相応の少女の顔であった。
ベアトリーチェからも、ふっと笑みがこぼれた。リゼロッテが気にしていないのなら、それでいいのかもしれない。
「まったく……」
ヴァイクはそれが不満なのか、文句を言いつつ立ち上がった。
「休憩は終わりだ。さっさと行くぞ」
言うなり周りに振り向きもせず、ひとりで歩いていってしまった。
ベアトリーチェもあわてて立ち上がって、リゼロッテとともにあとにつづいた。
「この峠を越えたところの森に、夜営ができそうなところがある。暗くなる前にそこまで行きたい」
「そっか」
ヴァイクはすでに、先のほうまで飛んで道などを確認していた。
――抱えて飛んでくれればいいのに。
とは思うのだが、さすがにずっとそれをするのはきついらしい。しかも、リゼロッテはまだ飛び方が拙いために、二人をまとめて運ばなければならない。
それに、空を飛ぶと目立ちすぎる。
幸い、ここまで他の人に出会うことはなかったが、いつ誰が見ているともしれない。いらぬ騒ぎを防ぐためにも、用心するに越したことはなかった。
「ベアトリーチェ」
「え、はい」
「ここはきちんとした道なのに、いつもこんなに人通りが少ないのか」
「さあ……? 私も二度目だからくわしくは知らないけど、さすがに何かおかしいと思う」
「重要な街道なんだろう?」
「ええ、アルスフェルトから商業都市のエクハルトを経由して帝都につづく道だから、本当は商人の方たちがいつもひっきりなしに通っているはず……」
不自然さを通り越して不気味なまでに人気がない。
「例の襲撃の件が伝わったのかもな。翼人だって、大混乱が起きたところに好きこのんで近づくことはない」
「アルスフェルトへ行くかどうかはともかく、みんな外出も控えているんでしょうね」
あの騒動が引き起こした影響が、早くも周辺地域にまで及んでいる。その事実を思い知らされ、先行きへの不安がいや増してきた。
結局、その後も夕暮れ時になるまで人間どころか野生の獣に会うことすらなかった。
さすがに道のりはきつく、もう一度だけ休憩をとったものの、日が完全に没する前に峠を越えて森に入ることができた。
「ここだ」
しばらく薄暗がりの中をゆくと、ぽっかりと空いた広場のようなところに着いた。
真上はちょうど木々の天井が途絶えていて、暗くなりだした空も見える。
「ここなら火も焚けるし〝森の住人〟に迷惑をかけないですむ」
「なるほど、木や野生の生き物のことまで考えて――」
「それで当たり前だ。お前たち人間が無頓着すぎるんだ」
その物言いにベアトリーチェはむっとするが、事実なので反論したくともできなかった。
「人間は、自然から取れるだけ取ろうとする、後先のことも考えずに。狩りをしすぎて獣を絶滅させ、樹木を切りすぎて大地を荒らし、畑に水を引きすぎてみずから干魃を引き起こす。そういったことは、まだ他にいくらでもあるだろう?」
「…………」
「この森だってそうだ。植生が不自然に偏っている。大方、森が荒れてからあわてて手を加えたんだろう。自分で汚した大地を自分で直してるなんてな」
「ヴァイク……」
「滑稽だ。そんなことなら、初めから周りを大事にすればいいのに。俺たちには理解できない」
――ヴァイクの指摘は正しい。
実は、今こうして休んでいるこの森も、木々を伐採しすぎたことで土地が荒れてしまったために、植樹することでなんとか再生させた人工の森であった。
この辺りにある森や林は大半がそうだ。今では厳しい禁止権が敷かれ、この国の皇帝でさえ勝手に木を伐採することはできないようになっている。
その点、翼人は自然と共生していると聞く。彼らの生活とその知恵から、人間は多くのことを学ぶ必要があるのかもしれなかった。
ベアトリーチェがそんなことを考えているうちに、ヴァイクは落ち葉を集めて下に敷き、皆が座れるように整えた。
「獣よけに火を点けよう。夜は少し寒くなるしな」
「じゃあ、私が薪を」
「ああ」
名乗り出たベアトリーチェに、リゼロッテが小走りに付いていく。ヴァイクは、二人とは逆方向へ翼を羽ばたかせて飛んでいった。
今はもう人の手があまり入っていないところだけに、枯れ枝などは豊富にあった。リゼロッテと手分けして、できるだけ拾い集める。
「もう十分ね」
「うん」
あっという間に両手で抱えきれなくなるくらいになったので、いったん戻ることにした。
リゼロッテが突然膝をついて屈み込んだのは、薪を下に置こうとした瞬間だった。
手に持っていた薪が、音を立てて辺りに散らばった。
「リゼロッテ! どうしたの!?」
「なん……でもない……。少し、疲れただけ……」
口ではこう言うものの、その様子は苦しさが表ににじみ出ている。
顔は汗だくになり、肩で荒く息をする。
熱でも出たのかと額に手を当ててみるが、逆に冷たくなっていた。あまりにも苦しそうなその姿に、こちらのほうがおろおろとしてしまう。
「リゼロッテ……」
「どうした?」
そこへ、ヴァイクが戻ってきてくれた。
「急にリゼロッテの様子がおかしくなって……」
「そうか――」
「どうしよう?」
「とりあえず寝かせてやるんだ。翼が下にならないようにうつぶせにな」
言われるまま、枯れ葉を敷いた上にそっと横たえた。リゼロッテの顔は、未だ苦しさをにじませている。
「今はとにかく休ませるしかない。あとは――俺がなんとかする」
「う、うん」
気休めにしかならないかもしれないが、自分のケープをリゼロッテの肩にかけてやった。目の前で子供が苦しんでいるというのに、何もできない自分が歯がゆい。
隣では、ヴァイクが火を起こそうとしていた。枯れ葉を粉々にし、火打ち石を使って炎を|点(つ)ける。それを手慣れた様子で薪に移していった。
「翼人の方もよく火を使うの?」
「いや、たまにしか使わない。きちんとした料理をするなら別だが」
寒さを気にせず、野生の獣を恐れる必要もない翼人にとっては、火は儀式的な意味合いのほうが強かった。火は火でも、剣を鍛えるための|熾火(おきび)は特別であることに変わりはなかったが。
気がつけば、あたりは|真闇(しんあん)に包まれていた。ヴァイクが火を起こすのが遅れていたら、人間には何も見えなくなっていたに違いない。
焚き火の明かりが周囲を淡く照らす。汗に濡れたリゼロッテの顔がいっそう際立っていた。
ベアトリーチェは何もできない自分に苛立ちを覚えながらも、せめてと思ってリゼロッテの汗を優しく拭いてやった。
「ベアトリーチェ、お前も食事をとって休むんだ。リゼロッテのことは、今は見守ってやることしかできない」
「翼人は、こういった病気になることがあるの?」
これまでいろいろな病人を診てきたが、こんな症状はまったく初めてのことだ。
汗を大量にかいて呼吸が浅く早いが、実際の体温はむしろ低下している。知っているどの病気とも違う特殊なものだった。
「病気か……。確かに翼人特有の病気みたいなものだ、これは」
「じゃあ、どうすれば!?」
「あわてるな。リゼロッテの容態が落ち着くのを待つしかない。そのあとは――俺がなんとかする」
とヴァイクは請け合うが、具体的に何をどうするのかはけっして言おうとしない。
そのことに釈然としないものを感じつつも、人間の自分が翼人のことにあれこれと首を突っ込んでも仕方がない、ここはヴァイクの言葉を信じるしかないのだと、ベアトリーチェは自分に言い聞かせた。
リゼロッテのことが心配でならなかったが、帝都までの道のりはまだ長い。今のうちに食べられるものを食べて、英気を養っておかなければならなかった。
肉や果物を乾燥させたものを、水を含ませながら食べていく。けっして美味しいものではないが、旅には必携の糧食だった。
硬いそれらをしっかりと噛んで食べ終わったときには、思った以上に時間が過ぎていたようだった。ヴァイクは焚き火の炎の強さを気にしながら、リゼロッテの看病をつづけていた。
そういえば――
「ヴァイク。あなた、食事は?」
「ああ、さっき済ませてきた」
「そう……」
周囲の見回りに行ったときに、野生の果物の実でも食べたのだろうか。考えてみれば、翼人が普段どんなものを食事としてとっているのかよく知らなかった。
人間の食事でも口にすることはできるようだが、けっして好きこのんで食べているわけではないことは、その様子からよくわかった。
「リゼロッテはだいぶ落ち着いたみたいだ。とりあえずは、もう心配ないだろう」
「そう、よかった」
これで、ようやく一安心だ。ヴァイクの背後から覗き込むと、確かにリゼロッテの呼吸は元に戻り、嫌な感じの汗もかいていないようだった。
「ヴァイクも休んで。ずっと働きづめでしょう?」
「お前はどうする?」
「火の番は途中で代わってもらうから」
納得したようにうなずくと、ヴァイクは飛び上がって近くにある木の枝にとまった。
「俺はここのほうが落ち着く。あとで起こしてくれ」
暗くてよく見えないが、声の方向からおおよその位置はわかった。
こういった翼人の習性を見ると、やっぱり人間とは違うのだな、と改めて思う。
――自分はベッドが変わるだけでよく眠れなくなってしまうのだけど。
視線を下げると、その先には栗色の髪の少女がいた。今では静かに寝息を立てている。
――でも、改めて考えてみると不思議。あっという間に状況が変わって、つい先日までは名前も知らなかった人たちと、こうして一緒に旅して。
運命とは本当に数奇なものだ。一週間前の自分は、けっして現在の自分を微塵も予測できなかっただろう。
でも、今は確実にここにある。たとえどんなに不自然で不可思議でも、現在のこの状況はまぎれもなく現実だった。
出会いは人を変えるものよ、と、生前のアリーセはよく語っていた。
確かにそうなのかもしれない。ヴァイクやリゼロッテと出会ったことで、確実に自分は変わりつつあった。それがいいことなのか悪いことなのかは、まだわからないけれど。
その後、しばらくしてからヴァイクと火の番を交代し、自分も横になった。ベルムの山道を一日で越えた疲労は重く、すぐさま睡魔が襲ってきた。
――夢。
子供の自分が、同じ年頃の翼人と遊ぶ夢。そばにいる背の高い男の人は誰だろう? 背中の藍色の翼が美しく、うらやましかった。
自分の胸には、今の物とは違う赤いペンダントが揺れていた。
情熱の赤。
炎の赤。
そして、血の赤。
ペンダントがゆっくりと溶けていき、雫となって大地に落ちた。
あとには何も残らない、何も。
「――――」
はっとして目を覚ますと、体が小刻みに震えていた。粘着質の汗をかいて、背中に服が張りついている。寝る前は少し強すぎるかと思っていた焚き火の炎が、今では小さくなってしまっていた。
半身を起こして隣を見ると、リゼロッテの姿がない。もうすっかり良くなって、ヴァイクと同じように木のほうへ行ったのだろうか。
周囲をざっと見回してもその姿は見えない。眠気に抗えず、もう一度横になろうとしたとき、少し離れたところからわずかに話し声が聞こえてきた。
――行ってはいけない。
直感がそう告げていた。しかし、寝起きの鈍った頭はその意味を理解せず、なかば無意識のうちにその声のするほうへ向かってしまっていた。
「リゼロッテ、わがままを言うな……」
「わがままじゃなくて……」
会話の内容は口論しているようにも聞こえる。その二人の声がヴァイクとリゼロッテのものだということに気づいて、ようやく頭が冴えてきた。
「ジェイドを喰うんだ、リゼロッテ」
ジェイド? 飛翔石をなぜ?
「体がもう限界だろう? 強がるな」
ヴァイクの声がするほうを、木の陰から覗き込んだ。
そこは、ちょうど月明かりに照らされていた。
浮かび上がる翼のシルエット。
そして、彼の手のひらの上で淡く明滅する物体。
ベアトリーチェは我知らず、震える声を上げていた。
「ヴァイク、それは――」
それは生きているように見えた。外側は半透明で内からわずかに光を発しているが、赤黒くぬめった表面が、ぴくりぴくりと一定の周期で小刻みに反応している。
それは、鮮血にまみれているようにしか見えなかった。
「ベアトリーチェ……」
ヴァイクが、驚きと悲しみがない交ぜになった目を、声のしたほうへ向けた。
彼女にだけは見られたくなかった、見てほしくなかったという悲哀がにじみ出ている。
だが、あえてベアトリーチェの存在は気にせずに、リゼロッテのほうに向き直った。
「リゼロッテ、お前ももうわかっているだろう。俺たち翼人は、ジェイドを喰わなければ絶対に生きていけない」
「でも……」
「早くしろ。結晶化してからじゃ遅い。俺だって、いつもこれを持ってこれるわけじゃないんだぞ」
それでも、リゼロッテは動かなかった。頑なに首を横に振り、ヴァイクの目を見ようとしない。
「どうしてだ、リゼロッテ。苦しいのはお前自身じゃないか。ジェイドは俺が取ってきてやった。なんで、あえて我慢する必要がある?」
そこで、初めてリゼロッテがヴァイクのほうを向いた。
「ヴァイクこそ、どうして我慢するの?」
「俺は、我慢なんてしてない」
「してるよ。こころが痛いって言ってるのに、ヴァイクは我慢してる」
「――――」
いつの間にか立場が逆転し、ヴァイクはひとりの少女に圧倒されはじめた。
「どうして? どうして、他の人を犠牲にしてまで生きる必要があるの?」
「それが翼人という種族なんだ」
「だったら、私は翼人なんて嫌! 誰かを……誰かを殺してまで自分が生きたいとは思わない」
リゼロッテの揺れる瞳を、ヴァイクは怒気をはらんで目で見返していた。
他人を犠牲にしたくないだと?
――翼人も人間も、生きていくには他人を犠牲にするものだ!
誰かを殺してまで生きたくないだと?
――他人を殺すしか生き延びる方法がないなら、どうしろというのだ!
「リゼロッテ。お前の言葉は、翼人みんなに〝死ね〟と言っているんだぞ」
その声は、氷のごとく冷たかった。
リゼロッテはわずかに後ずさり、胸の赤いペンダントと小袋を握りしめた。
たまらず、ベアトリーチェは飛び出していた。
「ヴァイク!」
「……勝手にしろ。俺はもう知らん」
二人に背を向けて、飛び上がった。その姿はすぐに闇に消え、羽ばたきの音もあっという間に遠くなっていく。
リゼロッテは、ベアトリーチェの腕の中で震えていた。
「私、ひどいこと言っちゃったかな……」
「リゼロッテ……」
今はただ抱きしめてあげることしかできない。リゼロッテの細い肩にのしかかる重いものを、少しでも代わりに背負ってあげたかった。
焚き火のところまで戻ると、まだ疲れが残っていたのか、それともヴァイクの言葉に打たれたせいか、リゼロッテは目に涙を浮かべ、ベアトリーチェにしがみついたまま眠り込んでしまった。
もたせかけてくる少女の頭は、まだ小さく軽かった。
しばらく経ってベアトリーチェも眠気を覚えはじめた頃、上空の月明かりを遮る影があった。
ヴァイクだ。表情の消えた顔で、焚き火のそばまですっと降りてくる。
「…………」
なんと声をかけていいかわからない。先ほどのこともあるが、自分は翼人について何も知らなすぎた。
だったら、言うべきことはひとつだ。
「ヴァイク、翼人のことをもっと教えて」
わからないのなら教えてもらうしかない。それに知りたいというのが、今の自分の素直な気持ちだった。
ヴァイクは、しばらくしてから答えた。
「……そうだな。ベアトリーチェには知っておいてもらったほうがいいのかもしれない」
ヴァイクは自分の左手を見つめた。
「さっき、俺が手に持っていたのは……翼人の心臓だ」
――やっぱり。
ベアトリーチェはなかば予想していたものの、こころのどこかでそれを認めることを拒絶する自分がいた。
――だけど、そこから逃げてはいけない。
今まさに目の前で、彼らはその現実に苦しんでいる。
ヴァイクはベアトリーチェのほうには目を向けず、|訥々(とつとつ)と語っていった。
「翼人は、同族の心臓を喰いつづけなければ生きていけない」
「心臓……」
「厳密には、その中にある半透明のものだ」
「え?」
「翼人の心臓の中には、お前たちの世界でいう〝宝石〟のようなものがある。だけど、それはやわらかくてあたたかい。それこそが真のジェイドだ」
「それが結晶化したものが飛翔石?」
「ああ。だが、なぜか硬くなってからでは駄目なんだ。俺たち翼人は……やわからいジェイドを喰わなければ、自分の命をつなぐことさえままならない」
「どうして……」
「わからない。翼人の誰も知らない。俺たちの部族の長老でさえ……そのことを考えないようにしていた。だが、それが現実なんだ。ジェイドを得なければ体がおかしくなって、どこも悪くないのに死んでいく」
深く、重いため息をついた。
「今のリゼロッテには、すでにその兆候が出てる。まだあの程度で済んでるならいいが、ひどくなればあの状態が長くつづくようになる。そうなれば――」
ヴァイクが顔を上げた。
「もう、ジェイドを食べたくても食べられなくなる」
「じゃあリゼロッテは、その……ずっとジェイドを得てなかったってことなの?」
「翼人でも、子供のうちは必要ない。だが、この子ぐらいの歳になれば……」
視線の先には、苦痛を顔に表わしたまま眠る少女がいた。目の縁に残った雫が痛々しい。
――それは、翼人ならばけっして避けては通れぬ道。
生きていくには、かならず必要なことだ。その現実を拒否すれば、抗いようのない死が待っているのみ。
「他の食べ物では代えがきかないということなんでしょうね……」
「ああ。もちろん、俺たちだっていろいろ試してきたさ。祖先の昔からずっと、な」
ぱちり、と焚き火にくべた薪が乾いた音を立てた。
「だが、見つからない、見つけられなかった。いろいろな食べ物、ときには食べられないものでもあえて口に入れて試してきた。だが、どれも駄目だった。他の動物の心臓も同じだ」
「じゃあ……人間の心臓は?」
ベアトリーチェはおそるおそる尋ねてみた。自分でもすごいことを聞いているな、とは思うものの、今ばかりは聞かずにはいられなかった。
しばらく考えてから、ヴァイクは答えた。
「たぶん、役に立たないだろう。それに、不味すぎてとても喰えたもんではないと聞いたことがある。翼人の心臓でなければ意味がないはずなんだ」
そのはずだったのだが――
そのとき、ベアトリーチェははっとして思い出した。
アルスフェルトの西の丘。
人の死体。
きれいすぎる胸の傷。
そして、えぐられた心臓。
「まさか、あの翼人たちは……」
「なんだ、気づいてなかったのか。そうだ、あの連中はなぜか人間の心臓を喰らっていた。とち狂ったのか、そこに何か意味があるのかはわからないがな」
「じゃあ、そのためにアルスフェルトを!?」
「いや、それだけのためじゃないだろう」
当時のことを思い起こす。
「確かに、町で犠牲になった人間たちの遺体も胸を斬られているものはあった。だが、すべてではなかったし、そのためだけに人間の町を襲うのはリスクが大きすぎる。単に人間の心臓が目当てだったなら、もっと小さい集落を狙えばよかったはずだ」
「そっか……」
「結局は、まだ連中の目的はわからないんだ。そのために、俺は追っているんだけどな」
ヴァイクの瞳は、天上へと向けられた。
ベアトリーチェは翼人のことを思う。生きるために同族の心臓が必要というなら、常に互いに殺し合わなければならないということだ。
なんという非情。
なんという非業。
彼らの背負ったものの大きさを思うと身が震える。自分たち人間に、彼らの苦悩の一片も知ることはできないだろう。
――姿は似ていても、置かれている状況が違いすぎる。
「でもな、ベアトリーチェ。それは人間も変わらないんじゃないか?」
「え?」
「翼人の俺からすれば、どうしようもない事情があるわけでもないのに、互いに殺し合う人間のほうが信じられない」
ベアトリーチェは、完全に言葉に詰まった。
言われてみれば、人間もお互いを滅ぼし合おうとする。町では、殺人など日常茶飯事だ。
この世の中、どうあがいても弱者は弱者ゆえに虐げられる運命にある。しかも戦争などという、命を〝数〟で計算する人殺しの|遊戯(ゲーム)さえ存在する。
「俺は以前、上から人間のいう戦争というやつを見たことがある。あれは、ひどいなんてもんじゃない。お前たちがよく言っている悪魔という奴の仕業かと思ったよ」
まるで水に溺れた蟻の群れのように、バタリ、バタリと、まとめて人が死んでいく。
さらには、仲間が死んでも平気な顔で剣を振るいつづけ、ときには死体を踏みつけたり盾に使ったりすることさえあった。
それを見たときの戦慄は、今でもはっきりと覚えている。
そこには、人としての情も徳も、そして怒りや憎しみといった負の感情さえ見つけられなかった。
なぜか、素人のへたな人形劇を見ているような気分になった。
「だが、翼人の戦いは違う。相手のジェイドを奪って仲間を助けるという明確な目的がある」
「戦とは違うの?」
「違う。翼人は、戦う両部族が互いの了解を得たうえで、選び抜かれた戦士たちによって争うんだ。一種の〝儀式〟なんだよ。だから、たとえどちらが負けたとしても相手を恨まない。それから、戦士以外にはけっして手を出さないというのが掟だ」
そのおかげで、他者の命を必要とする業を背負った翼人という種が、これまで絶滅せずに生き残ることができた。
「だが、それをヴォルグという部族が破った……。たぶん、滅ぼされたのは俺たちのところだけじゃない」
「じゃあ、ヴァイクは――」
「ああ、俺もはぐれ翼人なんだ。帰るべきところを失った、な」
ヴォルグ族は、すべての掟を破った。
奇襲をかけ、姑息な罠を用い、剣以外の武器を使ったことさえあった。しかも集落を直接襲い、女性や子供までその手にかけていった。
「……そんなのは本来、自殺行為なんだ。団結した複数の部族に報復される可能性もある」
「相手を滅ぼすための戦いは、翼人全体の数を減らしてしまう……」
「お前、鋭いな。要は、いつか自分たちが食いっぱぐれることになる」
「それは――」
「狩りの〝獲物〟が減ってしまうからだ」
「…………」
「ヴォルグの奴らは、そのことをまったく気にしていないように見えた。俺たちからすれば、まるですべてを滅ぼすつもりなんじゃないかと思えた」
――そう、ヴォルグの民さえも。
それが、不気味さをさらにかき立てていた。
「奴らはある意味、ひどく〝人間的〟なんだ。ただ戦うことだけに意義を見出そうとしている。目的が見えないんだ」
「そこが人間の戦争と同じだと?」
「相手の土地を奪う、そこの人々を支配する。そういったことは、目的のように見えて実際は手段だ。なんのために土地を得て、なんのために人々を支配するのか――俺には、真の目的がまったく見えない。まるで、支配するために支配して、略奪のために略奪しているようにしか思えない」
それは浅はかというより、あまりにも無意識的な透明感の支配する奇妙な世界だった。
「なあ、なんで人間は戦争なんかするんだ? それがわかれば、ヴォルグ族やあの〝|極光(アウローラ)〟とかいう連中の意図もわかるかもしれない」
「…………」
ベアトリーチェは、何も答えることができなかった。ヴァイクの意見は純粋すぎるほどに純粋で、それゆえに鋭かった。
自分も以前から戦争の無意味さと虚しさを感じてはいたが、人間を外から見てきた人の言葉は、それとは比較にならないほどに明晰で容赦がなかった。
「もちろん、悪い人間ばかりじゃないことはわかってる。だけど何か似てるんだよ、あの連中と」
最終的な目的の見えない理不尽さと不気味さ。
それは彼らから、なにがしかの異常性を感じるためかもしれなかった。
戦争を起こす人間、翼人の掟を破るヴォルグ族、そして町を襲うアウローラは、すべてそれぞれの世界の常識から逸脱していた。
「――じゃあ、リゼロッテはどうなんだろう」
「何?」
「リゼロッテは、その……ジェイドを食べないのよね? それって、翼人の世界では有り得ることなの?」
今度は、ヴァイクが言葉に詰まる番だった。
自分は長く生きてきたわけではないが、少なくともジェイドを喰うことを拒否する翼人など見たことも聞いたこともない。
逆に小部族やはぐれ翼人など、喰いたくても喰えずに死んでいく事例は掃いて捨てるほどあった。
もちろん体のことがなければ、誰も好きこのんで他人の心臓を生のまま喰うなどということをするわけがない。
だが、生きるためには仕方がなかった。
まずくても病気を治すためには、嫌々苦い薬を飲むのと同じ感覚だった。
しかし、リゼロッテはなぜかそれを完全に拒絶している。これは、翼人の世界では普通考えられないことだ。
ということは、リゼロッテもひとつの異常なのだろうか――
「そう思いたくはないが、俺にはわからない。この子が何を考え、何をしたがっているのか」
「そうね。よく考えたら、私たちはお互いにお互いのことを何も知らない」
静かな寝息を立てるリゼロッテの頭をそっと撫でる。この小さな体に、いったいどれほどのものを抱えているのだろう。
遠くで、低く梟の鳴く声がした。すでに暗黒に支配された夜は、それでもなお闇が深まっていく。