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窓から流れ込む風が、薄絹のカーテンを揺らしている。
机の角まで差し込んできた春の陽光が心地よい。こんな日は外に出て乗馬にでも出かけたかったが、ノイシュタット侯フェリクスは、今日も今日とて執務に追われていた。
「なぜ、私がこれほどまでに苦悩しなければならんのだ」
と文句を言っても、何も始まらない。反対に、処理すべき懸案は無数にあった。
「フェリクス様、嘆いたところでなんにもなりませぬぞ。手と頭をお動かしくだされ」
「わかっている。しかし、どうしようないからこそ嘆きたくなるんだ」
白金色の髪をぐしゃぐしゃとかきむしる。我慢が限界に達したときに見せるフェリクスの悪い癖だった。
「されど、フェリクス様。他の地域では、我が領地とは比較にならないほど多くの問題を抱えているそうです。まだこれだけで済んでいることに領民に感謝しませぬと」
「ああ、ありがたいことだ」
副官のオトマルのほうは見向きもせず、フェリクスがぞんざいな返事をした。
――これは相当に参ってるな。
と、感じはしたものの、あえてそれには触れないでおいた。
――確かに、仕事の量は尋常ではないほどに多い。
それもこれも、フェリクスの領主としての力量がずば抜けているがために、皆が彼に頼ってしまうせいだった。
しかしそのおかげで、このノイシュタットの地は、他の領主がうらやむほどに富み栄えていた。
町に出て、人々の顔を見ればわかる。
屯所にいる兵士も、客寄せをする商人も、そして通りをゆく庶民も、皆が明るい顔で日々の生活を送っている。
一方、農村では、ひとりひとりが手を抜くことなく精一杯に土を耕していた。
領民が生気に満ちているのなら、その地が豊かになるのは必然。ノイシュタットは、そうしたひとつの典型であった。
――だが、フェリクス様の負担を軽くせねば。
〝青年侯〟は文句を言いつつも、やるべきことをかならずやる。否、やりすぎてしまうほどだ。
周りがどこかで歯止めをかけてやらなければならないのだが、それこそが副官である自分の役割だと自負していた。
「そこまでお疲れでしたら、そろそろお休みになられてはいかがですか?」
「そうしたいのは山々だが、今日中にこれだけは片付けておかないとな」
これである。
オトマルが書類を覗き込むと、北方の農村が洪水の被害にあっているとの報告であった。
確かに、こうした災害には迅速かつ的確に対応しなければならない。ひとつひとつの遅れが、即、被害の拡大につながるからだ。
これは手伝ったほうがいいだろうとオトマルが進言しようとしたとき、不意に執務室の扉が叩かれた。
「何か?」
「密偵が帰還いたしました。通しますか?」
「ああ、通せ」
フェリクスがため息をつきつつ答えると、扉を開けて普段着の兵が入ってきた。通常ならば叱責を免れえないところだが、それは|仕事|(、、)のためだった。
情報の収集の指示を受け、各地で動いている密偵のひとりだ。
「報告いたします」
「何があった?」
「カセル侯の領地、アルスフェルトの町が翼人の集団に襲撃されたそうであります」
フェリクスとオトマルの表情が硬くなる。
今はあえて疑問の声を出さず、すぐに先を促した。
「二日前の夕刻、無数の翼人が集団で町を襲撃。市内はほぼ壊滅。郊外にあったレラーティア教の神殿も、神官らとともに崩壊したそうであります」
想像以上の被害に、さすがの二人も唖然とする他なかった。
姿勢を正して兵に問うた。
「……それは、どこまでが確認できたことなのか」
「町が翼人の集団に襲われたことは確実であります。アルスフェルト近くのガッセンへと逃げた同市の住民から、部下の者が直接話を聞きました」
フェリクスがオトマルのほうを見た。
――どこまで誇張があるのか。
「仮に、町や神殿が壊滅したというのが大げさだとしても、複数の翼人に我々人間の町が襲撃されたことだけでも、十分な大事件でしょう」
フェリクスも同じ考えだった。
これまで、地方の農村などで村人が翼人に襲撃されたり、逆に一部の〝反翼派〟――翼人を毛嫌いする人間たち――が暴走し、相手の集落に攻撃をしかけることはあった。
しかし、いずれも小規模なもので、騎士団が動く必要さえなかったほどだった。
それが今回は、よりにもよって翼人が人間の町を襲ったのだという。
「ということは、その翼人どもは狙ってやったということか」
「でしょうな。目的は|測(はか)りかねますが、何かの必然性と、そしてもちろん勝算があったからこそ仕掛けたのでしょう」
「だとしたら、これはもう、アルスフェルトのあるカセル地方だけの問題ではないぞ」
「ええ。もし、あれだけの都市を本当に壊滅させたというなら、その翼人の集団はおそろしく高い戦闘能力をもっているということになります」
「それだけではない。翼人の機動力は驚くほど高いと聞く。馬と比較するのさえばかばかしいほどだとな」
「ということは――」
「ああ。もはや、どこの地域が襲われても不思議はないということだ」
フェリクスは眉間にしわを寄せたまま、報告する兵に向き直った。
「アルスフェルトは南方の大都市だったか」
「はい、カセル侯の居城のあるヴェストベルゲンには及びませんが、商工両面でそれなりに栄えた古い町です」
「オトマル、その規模の町を壊滅させるくらいの力をもった集団が、我が領地に来たらどうなる?」
「もちろん最低限、撃退はできるでしょうな。やられっ放しということは有り得ません」
当たり前だ、とフェリクスが答えた。
「ただ、それは相手が人間だった場合です」
「翼人だったら?」
「……準備しだいでしょう。弓兵を中心に軍を再組織すれば、なんとか対応できるかもしれません。当然、大弩弓などの武器を増強する必要があります。ただ、そういった準備を万全にしたとしても――あまり想像したくはありませんが、こちらの被害は大なるものがあるでしょうな」
「なぜだ?」
オトマルは即答した。
「経験が絶対的に不足しているからです。我々は、空を舞う敵と戦ったことなど一度としてありませぬ」
「だが、経験がないのは相手も同じではないのか」
「いえ、翼人は空中だけでなく地上に降り立って戦うこともあると耳にしたことがあります。それに、戦では――」
「高い位置を確保したほうが有利、か?」
「しかり。我々人間は、最初から最後まで絶対的に不利な状況のまま戦いつづけなければならないのです」
「確かに、あまり想像したくはないな……」
オトマルの説明を聞き終わったフェリクスは、こめかみに手を当てた。
――領主たるもの、常に〝万が一〟を想定しなくてはならない。
また頭の痛い、そして非常に重い懸案事項が出てきてしまった。
黙り込んだフェリクスに代わって、オトマルが兵に問うた。
「現状の確認はどうなっておる?」
「はっ。部下を数名、アルスフェルトの地へさらに派遣いたしました。また、カセル侯の動向をうかがうために商人に偽装させた者を二名、ヴェストベルゲンにも向かわせました」
カセル侯の名を聞いたところで、フェリクスが顔を上げた。
「そういえば、ゴトフリート殿はどうしている? 騎士団を動かしたのか?」
「残念ながら、カセル侯が動いたという話は入ってきておりません」
それを聞いて、オトマルが首をかしげた。
「よくよく考えてみれば、以前からカセル地方では人間と翼人の争いが多かったですな」
「ああ、ダルムやアイトルフと同じくらいにな。よくゴトフリート殿も愚痴っておられたよ」
「ということは、人間に恨みを持った翼人どもが一致団結して襲撃を企てたのでしょうか」
「それでも、いきなり人間の町を襲うか? 私は、何かもっと大きい目的があるような気がするが」
「そもそも翼人は、部族が違えばそれだけで互いを目の敵にするといいますからな。複数の部族が協力するというのは考えにくい。かといって、一部族で都市を襲えるほどの規模があるとも思えません」
「情報が足りんな」
密偵の兵には、このことにもっと人員を割いていいと告げてから下がらせた。
フェリクスは、信頼の置ける副官のほうにゆっくりと向き直った。
「オトマル――」
「わかっております。弓兵隊をすぐに増強させましょう。|軍費(ぐんぴ)の一部をバリスタなどの補強に当てて構いませんな?」
「ああ、それに攻城戦用の|櫓(やぐら)も|造(つく)っておくんだ。その上にバリスタや弓兵を置けば、より高くまで矢を飛ばせる」
「なるほど、さすがですな」
「私をおだててどうする。すぐに――」
準備を、と言おうとしたところで、廊下のほうからけたたましい足音が響いてきた。
フェリクスは、今度こそ頭を抱えて机に突っ伏した。
「ああ、また厄介事が向こうからやってきたぞ……」
近衛兵の制止の声も振り切り、扉が勢いよく開け放たれた。
そこには、栗色に近い金髪をした妙齢の女性が険しい表情で立っていた。
「お兄様、翼人が人間の町を襲撃したって本当ですか!?」
その言葉に、フェリクスが跳ね起きた。
――なんだって?
「なぜ、それを知っている!?」
密偵がこぼしたはずがない。いかなる情報も、自分の前以外では口にすることさえ禁じている。
しかし、眉をひそめたのは妹姫のアーデルハイトも同様であった。
「お兄様こそ何をおっしゃってるんです? もう城下ではその噂で持ちきりなんですよ」
フェリクスがオトマルと顔を見合わせた。
「どういうことだ? 私たちでさえ、つい先ほど密偵から聞いたばかりなのだぞ」
「まったくわかりませぬ」
「アルスフェルトからここまでは最短でどれくらいかかる?」
「四日かと。しかし、昨日はカセルもこちらも雨でしたから、もっと余計にかかるはずですな」
「襲撃があったのが二日前……計算が合わぬではないか」
二人は沈黙した。
不可解なことが多すぎる。くわしいことはわかっていないが、これはもう、翼人によるただの襲撃でないことだけは確かだった。
「お兄様、どうして二日前に起きたことを知っているのです?」
アーデルハイトが小首をかしげた。
町で噂になっているといっても、翼人が人間の町を襲ったという漠然としたことだけだ。正確な日付などわかるはずもなかった。
「実はさっき、密偵がそのことを報告してきたんだ」
「お兄様、詳細をわたくしにも教えてください!」
「アーデ!|政(まつりごと)に首を突っ込むなといつも言っているではないか。襲撃はカセル地方で起きた。元より、お前にはまったく関係のないことだ」
いつもいつも、あれこれと政務について知りたがる。こうしたアーデのわがままをいつまでも放置しておくわけにはいかなかった。それであえて厳しく言ったのだが、こうすると――
泣きそうな顔をする。
ずるい。
唯一の肉親であるかわいい妹にそんな顔をされたら、答えぬわけにはいかないではないか。いや、やっぱりそれではいけない、妹のためにならないと心中で葛藤をつづけていたが、意外なところからとどめが刺された。
「おそれながら、閣下。アーデルハイト殿下は確かに政への知識は足りておりませんが、いつも画期的な考えを生み出していることも事実のはず。伝えられる範囲で伝えてみてはいかがでしょう」
「ユーグ、お前まで……」
言ったのは、それまでアーデの背後に影のように付き従っていた背の高い男だった。
妹姫の目付役であるユーグだ。
彼は常に冷静沈着で、若手の騎士の中では最も信頼のおける人物なのだが、なぜか時々こうして妹の味方についてこちらを困らせることがある。
「まあ、いいだろう。オトマル、説明してやってくれ」
「はっ」
投げやりなフェリクスに代わって、オトマルが密偵から伝えられたことをありのままにアーデに教えた。
詳細を聞くに従って、姫の秀麗な顔がどんどん険しくなっていく。最後の辺りでは叫び出すのではないかと思えるほどで、さすがのオトマルも我知らず半歩下がっていた。
「どうして、アルスフェルトを……」
「わからん。こちらが聞きたいくらいなんだ。お前も何か気づいたら、こちらに教えてくれ」
そう声をかけても、アーデはうつむいたままぶつぶつと小声でつぶやいているだけであった。
フェリクスは肩をすくめると、二人に退出を促した。
「さあ、もう気が済んだろう。こちらは、まだやらなければならないことが山積みなんだ。とっとと出てってくれ」
兄のすげない言葉にも、アーデは珍しく素直に従った。その後ろにユーグがつづく。
「ユーグ、その子を暴走させてくれるなよ」
「はい、努力はしてみます」
「わたくしはもう子供じゃありません!」
最後はアーデらしい一言を残して、扉は閉じられた。
「まったく、なんだったんだか」
「しかし、例の件は非常に重要な気がします」
「――ああ、歴史が動くのかもしれない」
これまで、人間と翼人が表立って衝突することはなかった。
しかし、もしそれが起きたとしたらどうなるのだろう。翼人は、その全員が生粋の戦士だという。女子供でさえ、剣の基礎を習うという話は人間の間でも有名だ。
しかも彼らには、空を飛べるという最大にして最高の利点がある。武器は人間のほうが発達しているだろうが、どちらが有利不利ともいえないものがあった。
――ということは、戦ったらどちらもただでは済まないということだ。
背筋を悪寒が走り抜ける。
窓のカーテンは、相変わらず風に揺れていた。