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ふと目を開けると、窓の外が白みはじめていた。食事をとったあと、すぐに寝た気がするから思ったよりも眠れたようだった。
リゼロッテは少し身を震わせて、赤い翼を体にまとわせた。
もう春とはいえ、さすがに朝晩はまだ肌寒い。いくら寒気暑気に強い翼人といえど、適度な暖かさが一番に決まっていた。
外の森は、少し霧が出ているようだった。薄い幕を引いたかのように、遠くの木々がかすんで見える。
「お母さん……」
小さな声に振り向くと、ベッドの上で寝ているディーターの寝言のようだった。
――お母さん、か。
自分にとってはもう手の届かない存在。もしかしたら、この子にとっても。
ディーターと自分は同じなのかもしれない。自分だって、寝言で我知らず母の名を呼んでいる気がする。
目が冴えてきたリゼロッテは椅子から立ち上がって、音を立てないように慎重に扉のほうへ向かった。そして廊下へ出て、螺旋階段を自分でも危なっかしいと思う足取りでゆっくりと降りていった。
一階の回廊まで来ると、広間のほうから話し声が聞こえてきた。
扉のところまで行き、一度気持ちを整えてから軽く二度、それを叩いた。人間の家で扉を開けるときは、まず合図にこれをするのだと聞いたことがある。
「いいぞ、入ってきて」
すぐに返事があった。人懐っこいテオの声だ。
部屋に入ってみると、ヴァイクもベアトリーチェも、そしてもちろんテオもいた。なぜか、オイゲーンの姿だけは見当たらなかったが。
「おお、リゼロッテちゃんか。早起きだな。よく眠れたかい?」
「うん」
隣でヴァイクが、居間にある大きな窓の外に目を向けた。
「オイゲーンも戻ってきたみたいだ。ちょうどよかったな」
言い終わると同時に廊下に軽快な足音が響き、広間に老執事が入ってきた。
「皆さん、お集まりのようですな。ひとり余計なのがいますが」
「うるさい、黙れ」
「この死に損ないのことはともかく、町の様子を少し見てきましたぞ」
悪態をつくテオをしり目に、オイゲーンは偵察の結果を皆に話した。ヴァイクが行くと言ったのだが、ここは自分のほうが地理にくわしいといって譲らなかった。
「火事のほうは、さすがに収っておりました。もう、燃える物がないようですな……」
「翼人は?」
と、ヴァイク。
「少なくとも目に見えるところには。それより、生き残った者たちのほうが|重傷(じゅうしょう)です」
「大怪我をしようと、命があっただけありがたいと思え」
「いえ、そういう意味ではないのです。こころの怪我、ですな」
「――そうか、無理もない。あれだけのことが起きたんだ」
「ええ、歩くどころか立っている者さえ珍しい様子でした」
生き残った人々はそれなりの数に上るものの、皆、意気消沈してしまい、死人も同然の状態だ。近くに翼人の姿はなくとも、いつ再び襲撃を受けるのかと誰もが怯えている。
だが、テオにはもっと切実なことが気にかかっていた。
「町の治安はどうなってる? 本当に動いている奴はいないのか?」
「いいや。腹立たしい話だが、お前の予想どおりだ、テオ」
オイゲーンの口調ががらりと変わっていた。
「略奪、か」
ヴァイクが吐き捨てるように言った。
「もう衛兵がいない状態ですからな。戦の混乱のあとによく起こることです」
「人間の世界では、な。翼人は、そんなことはしない」
皮肉げに告げたヴァイクだがそのことにはさして興味がないらしく、ゆっくりとオイゲーンのほうに向き直ってもう一度確認した。
「翼人は、本当にもういないんだな?」
「町には、ですな。ざっと調べてみましたが、周辺にかなりの気配がまだ残っています。おそらく、今日も何かをやらかすつもりなのでしょう」
朝の冷たい空気がさらに重たいものに変わった。
――あの生き地獄が、もう一日くり返されるというのか。
ベアトリーチェは、胸の青いペンダントを握りしめた。
「ということは、ここも危ないのでしょうか」
「ああ、それだったら心配はいりませんよ。ここは|準備|(、、)が整ってますから」
「準備?」
彼女の問いに、テオが自慢げに口の|端(は)をつり上げた。
「剣や盾はもちろん、弓や槍、それに攻城戦用の|大弩弓(バリスタ)まで、ここを守るために必要なものはありとあらゆるものが揃っていますからな」
「いざというときのために、ここから少し離れたところにある洞窟につながる地下道も準備してありますぞ」
オイゲーンまでもが胸を張って答えた。
「なんでそこまでするんだ?」
ヴァイクは、まるで軍のような武装に呆れ返った。
「まあ、いろいろと理由はあるのですがそれはいいでしょう」
御館様には敵が多いなどとは口が裂けても言えなかった。実はここ、別荘とは名ばかりで、万が一、町の館を襲撃されたときのための、文字どおり〝最後の砦〟なのであった。
――まさか、このような形で役に立つとは。
何事も準備しておくものである。
「ここの心配はいらないわけだな。じゃあ、問題は俺たちがどうするかだ」
と、ヴァイクはベアトリーチェのほうを見た。
すかさず、テオが応えた。
「ベアトリーチェさんは是非ここに残ってくだせえ。お嬢様も喜ぶと思います」
「この男と同意見なのは|癪(しゃく)に障りますが、ベアトリーチェ様はここに留まるべきです。あなた様がこれ以上の危険を冒す必要はありませんよ」
「ありがとうございます、でも……」
二人の気持ちは本当にありがたかった。しかし、その厚意に甘えるわけにはいかない。
「私は、何かしなければならないと思うんです。私にも何かできることがあるんじゃないかと。今、私ががんばることが、神殿長への……アリーセ様への、せめてもの手向けになるような気がして」
自分でも何を言っているのか判然としない。しかし、立ち止まっていては駄目なのだということだけは確信していた。
テオとオイゲーンの申し出はありがたいのだが、自分がここにいてもたいして役には立てない。カトリーネの面倒は二人がするだろうし、翼人との戦いになっても力のない自分は足手まといにしかならない。
だったら、まったく違う別のことをするべきだと考えていた。レラーティア教の神官であり、アリーセの遺志を継いだ自分にしかできないことを。
「なるほど。ベアトリーチェ様、強くなられましたな」
「え?」
驚いて、オイゲーンの顔を見た。
「失礼ながら、以前のあなた様からは優しさと同時に脆さも感じていたのです。ですが、今は芯の強さを感じる。アリーセ様は、よい子を持たれましたな」
ベアトリーチェは言葉に詰まった。まさか、突然そんなことを言われるとは思ってもみなかった。
――自分は本当に強くなったのだろうか。
いや、やっぱり全然そんなことはない。真に強いのはヴァイクのほうだ。
彼はこちらが想像することさえできないほど根深い何かを負っているようなのに、それでもまだ|他人(ひと)に優しい。それこそが、地に足のついた本当の強さだと思えた。
「では、ベアトリーチェ様。わたくしめの願いを聞いてくださいますでしょうか?」
「はい」
「おかしなことに、未だに騎士団が動く気配がありません。これほどのことが起きたにもかかわらず、です」
テオも顔をしかめた。
「そうだな。通常ならば早馬が飛んで、少なくとも最寄りの屯所から応援が駆けつけるはずなんだが」
「外からの助けはまったくないのか」
と、ヴァイク。
「ああ、今のところは。ほとんど放置されているような状態だ。領主であるカセル侯の騎士団が動いたという知らせもないんだよ」
「伝令も翼人に狩られているということか?」
答えたのはオイゲーンだった。
「それも考えられますが、正規の伝令だけでなく多くの者が町の外へ逃げていったのです。それなのにまだ助けに来ないというのは、やはり何かがおかしいと考えたほうがいいでしょうな」
外へ逃げた町の人間がことごとく倒されたとは考えにくく、少なくとも何人かは近くのガッセンの町までたどり着いたはずだ。
そこには騎士団の屯所のひとつがあるから、一晩明けた今、いい加減動きがあってもいいはずだった。
「正直なところ、何かここの騎士団は期待できそうにありません。そこで、ベアトリーチェさんにお願いがあるのです」
「はい」
「〝聖堂騎士団〟の救援をお願いしたいのです」
ベアトリーチェは、ようやく合点がいった。
聖堂騎士団は、神殿がもつ最強の軍だ。選りすぐりの精鋭が集い、神官としても優秀な者が多い。
神殿がなぜ武力組織を持つ必要があるのかという批判は以前からあるものの、実際のところ、各領主の騎士団や帝都を守る宮廷軍に匹敵するだけの力は確実にあった。
オイゲーンは、領主の騎士団が期待できないのなら聖堂騎士団に来てもらおうというのだろう。確かに、そこら辺の兵士よりかは遥かに信頼できる存在であった。
「実はわたくし、大神官のひとりと面識がありましてな。昨晩のうちに書状をしたためておきましたので、それを帝都の大神殿へ行って渡してもらえば、ほぼ間違いなく援助してくれると思います」
と言って、蠟で厳重に封印された手紙をテーブルの上に差し出した。
「ライナー様へですか」
「ええ、彼とは旧知の間柄でして。実は彼を幼い頃から知っているのですが、いやはや、いつの間にか大きくなって、気がつけば大神官にまでなっていたのです」
オイゲーンは微笑んでいた。
レラーティア教の神職は階層構造をなしており、上から全体を統括する大神官、それを補佐する高神官、各地域をまとめる神官長、神殿の長たる神殿長、そして末端に神官という形になっている。
大神官は全部で六人、その中から四年に一度、ひとりの大神官長が合議のうえで選ばれることになっていた。
「ベアトリーチェ様もご存じのとおり、大神殿にはおかしな連中も多いのですが、彼は本当に信頼の置ける人物です。彼だけの力ではすぐに聖堂騎士団を動かすのは難しいかもしれませんが、きっと何かしらの手助けはしてくれると思うのです」
ライナー大神官の評判は、ベアトリーチェも聞き及んでいた。
一介の神官から最高職にまで上りつめた異色の存在。本来は禁じられている神職の世襲化が事実上定着している大神殿では、まったく異例のことであった。
それだけに、周囲からの期待は大きい。ご多分にもれず内部の腐敗が進んでしまっているレラーティア教の救い主になるのではないかと以前から目されていた。
彼の名声は、このノルトファリア帝国を越え、周辺諸国にまで響き渡っているほどであった。
「わたくし自身が直接会いに行くのが一番なのですが、何分この状況です。お嬢様のこともありますし、ここを離れるわけにはいかないのです」
なるほど、とベアトリーチェは納得した。
確かに、これは自分にとって打ってつけの仕事に思えた。オイゲーンとテオは、カトリーネとこの町のことで手一杯だろう。かといって、翼人のヴァイクに伝令役を頼むわけにもいかない。
神官であり、この町の住人であり、これといってやるべきことがない自分こそが最もふさわしい。以前、大神殿への巡礼に出たこともあるから、帝都までの道程もよく知っていた。
「確かにお引き受けしました。この身に代えても、このお手紙はライナー様へお渡しします」
しかし、テオらは苦笑した。
「そこまで肩の力を入れなくても大丈夫ですって。それに、ベアトリーチェさんの身の安全が一番ですから」
オイゲーンも同意した。
「ええ、そうです。ただ、道中危険なこともあるでしょうから、できればヴァイク殿に護衛として付いていってもらいたいのです。そうしていただければ、わたくしどもとしても心強い」
皆の視線がヴァイクに集まる。
しかし思うところがあるのか、彼はしばらく沈黙を保っていた。
ベアトリーチェの強い視線に気づき、うつむいていた顔を上げておもむろに口を開いた。
「大神殿とやらに着くまでに、どれくらいかかる?」
オイゲーンが即答した。
「歩いてなら、早くても一週間以上はかかりますな。途中、森や丘を抜けなければならないので、もっとかもしれません」
「一週間か……」
「何か他に用事でも?」
「いや、そういうわけでは……」
言いよどんだヴァイクに、テオが問うた。
「そういえば、そもそもなんでこっちへ来たんだ?」
自分の知るかぎり、翼人の部族が住む地域はここからずっと離れたところにある。
翼人がこの辺りに用があるわけではないだろうし、実際にここ十年来、その姿を見たことは一度としてなかった。
「――ああ、実はあの連中を追ってきたんだ」
「仇か何かか?」
「いや、全然。そうじゃなくて、初めはただ興味本位だったんだ。はぐれ翼人が何をしてるのかって」
「はぐれ翼人?」
「ああ、部族を失ったり追放されたりした翼人のことだ。もしそうなったら、ひとりでこの広い世界をさまようしかない。たいていは、他の部族の餌食になるだけだ」
「そうか……」
「一度そうなったら、みんな死を覚悟する。俺だってそうだ」
寄る辺なきはぐれ翼人の虚ろな目。自分はこれまで、それを何度も見てきた。
「だが、あいつらは違った――特に、覇気に満ちたあの目が」
「そんなに違うのか」
「そこら辺の小部族の奴らよりも威勢がいいくらいだ。それであとをつけてたんだが、次から次へと別の翼人に会っていく。みんな、違う色の翼だった」
「じゃあ、相当の規模の集団かもしれんということか」
「たぶん、な」
聞いていたベアトリーチェも合点がいった。
「じゃあ、それでこの町の近くに」
「相手は見失ってしまったけどな。でも、そのときに例の死体を見つけたんだ」
「そういえば紫の翼の人、自分たちのことを〝|極光(アウローラ)〟と」
「クラウスだったか。あいつらの目的はわからずじまいだった」
悪辣で有名なヴォルグ族とかかわりがあるのかとも思ったが、相手はそれをきっぱりと否定した。逆に、それとは対極に位置する存在だと。
アルスフェルトの町への非道な行為を見るにつけ、その言葉がどこまで信用できるかわかったものではない。
だが、
――男の目には真剣な光が宿っていた。
「そういえば」
と、オイゲーン。
「今朝方、一部の翼人が北の方角へ向かっていましたな。遠目だったので、鳥と見まちがえたのかもしれませんが」
「北か……。帝都とやらはどっちの方角なんだ?」
「同じです」
「連中の本隊は、北のほうにいるのかもしれないな。昨日襲ってきた奴らがすべてではないような気がする」
「でしょうな」
「相手の統率はおそろしく取れていた。けど反対に、隊が分裂していて対応が全般的に遅かった。俺たちは、それに助けられたが」
「では、遠いところから伝令を使って指揮を執っている者がいたかもしれまん」
「なぜそう思う?」
「侵略戦は乱戦になりがちです。そこへ大将がみずから飛び込むはずがありません」
「なるほどな。それがわかるあんたも、ただ者ではないということか」
「ご冗談を。わたくしめは、ただの年老いた執事です」
「それはそうだ」
と、テオ。
「お前は黙っていろ、死に損ない」
「ふんっ、死に損ない死に損ない呼ばわりされるとは、俺も終わりが近いかもしれんな」
「当たり前だ。お前のような奴に長生きしてもらっては困る。世のためにならん」
「役立たずの、騎士気取りの、傲岸不遜の、放蕩者に言われたくないわ」
「なんだと?」
「なんだ?」
不毛な言い合いをつづける困った老人らをよそに、ヴァイクは思案していた。
――俺の進むべき道は、どっちだ。
このまま余計なことは考えず、他の場所へ移るという手もある。
――いや、それじゃ駄目だ。それでは、今までと何も変わりがない。
奴らを追うべきだ、と己の感性は語っていた。
「わかった、俺も一緒に北へ向かおう。どうしても奴らの行動が引っかかるんだ」
自分と直接利害がからんでいるわけではないのだが、このことをこのまま放置しておいてはいけないような予感があった。
「ヴァイク……」
それを聞いたとたん、ベアトリーチェの顔がぱっと輝いた。
しかし、それに釘を刺すようにしてヴァイクが言い放った。
「最後まで一緒にいられるかどうかはわからない。俺はあくまで連中を追う。途中で別れることも覚悟しておいてくれ」
ベアトリーチェが神妙な面持ちでうなずいた。それでも、ヴァイクがしばらくは一緒にいてくれるということで、安心感とともに不思議な喜びがあった。
一通り罵り合ったオイゲーンとテオも、ヴァイクの決断を歓迎した。
「とりあえず決まったようですな。リゼロッテ様のことはご安心ください。我々が命に代えても守りとおしてみせます」
「ああ、安心してくれていいぜ。ばかなことを考える翼人にも人間にも、指一本触れさせねえ」
「あの――」
しかし当の少女は、困惑した様子であわてて口を開こうとした。
が、ヴァイクがその先を制した。
「いや、この子も連れていく」
「え?」
驚きは、ベアトリーチェだけでなく全員に共通したものだった。
当のリゼロッテも、目を見開いてヴァイクの次の言葉を待った。
「みんなの言いたいことはわかる。だけど、リゼロッテはやっぱり翼人だ。人間の世界では生きられない」
「しかし、危険な旅ですぞ。さすがに幼い子を連れていくのは……」
「翼人の間にはいろいろな〝掟〟がある。危ないことはわかってるんだ。俺もできることならこの子をどこか安全なところにかくまってやりたい。だが、どうしても連れていかなきゃ駄目なんだ、同じ翼人である俺が」
「――――」
「リゼロッテもそれでいいな?」
「うん」
リゼロッテ自身も、初めからそうさせてもらうつもりだった。せっかく友達になれたディーターとここで別れるのはさみしかったが。
「これで、今後のことがはっきりとしましたな」
「ああ。ならば、出発は早いほうがいいだろう。まだアウローラが動き出していない今が好機だ」
「しかも、外はかなり濃い霧が出ております。秘密裏に移動するにはもってこいでしょう」
「じゃあ、すぐに準備だな」
ヴァイクの声を合図に、それぞれが散った。
ベアトリーチェは旅支度のためにこの館にあるものを提供してもらい、服はカトリーネのものをいくつか借りていくことにした。未だ目覚めない彼女であったが、事情を話せば喜んで貸してくれたはずだ。
ヴァイクは剣を鞘から抜き、テオから頂戴した布で丁寧に拭いていく。昨日の戦いでだいぶ汚れてしまったが、まだ刃は鋭いままだから研ぐ必要はなかった。
リゼロッテは、その間に朝食をとることにした。
ヴァイクは好きになれないようだったが、自分は人間の食事に慣れている分、問題なく食べられた。こうして朝からきちんとした食事をできるのは、本当に久しぶりのことであった。
「リゼロッテ、ちょっとこっちへ来て」
「うん」
ちょうど食べ終えたところへ、自身の準備はすでに|調(ととの)えたらしいベアトリーチェがやってきた。手には何かの布を持っている。
「よかった、ぴったりね」
その布は子供用の服だった。
リゼロッテにあてがってみると丈は十分だが、問題は背中の部分だ。翼人の背には大きな一対の翼がある。それに引っかからないように、背中の部分を大きく開ける必要があった。
「大丈夫、なんとかできる」
ベアトリーチェはためらいなく純白の服に|鋏(はさみ)を入れていった。ところどころをうまく縫ってつなぎ合わせ、体裁を整えていく。
別室ですべて着替えさせた。背中の部分は襟元のボタンで留めるようにしたことで、きれいに翼の付け根の部分をよけることができたのは、我ながら良案だった。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
「いいのよ、お礼を言われるほどのことじゃないわ」
うれしそうにはにかむリゼロッテを見て、ベアトリーチェも同じように喜びを感じた。
――翼人は別に裸でいても平気なのだとヴァイクは言っていたけど、リゼロッテだって女の子なんだから。
「――うん? なに?」
ふと視線を感じて振り返ると、リゼロッテがこちらの腕をじっと見つめていた。その視線の先には、紐がわりに袖を縛っているスカーフがあった。
「あ、これね」
それをさっと外し、同じようにリゼロッテの二の腕に巻いてやる。礼を言う少女の顔は、言葉以上の喜色に満ちていた。
ベアトリーチェはそんな様子にあたたかいものを感じながら、皆のところへ戻った。
「もういいようだな。じゃあ、すぐに出るぞ」
居間に戻ると、準備を終えたヴァイクが待ちかまえていた。
「それでは皆さん、どうかご無事で」
玄関まで見送りに出たオイゲーンとテオの表情は厳しい。特に、屈強な元傭兵は心配性なのか、笑ってしまうほどに険しい顔をしている。
「行ってきます、オイゲーンさん、テオさん。カトリーネのこと、どうかよろしくお願いします」
旅先でもずっと回復を祈っていますから、と付け加えた。
「ありがとうございます。あなた様方も、どうかけっして無理だけはなさいませぬよう」
礼をしつつ、最初の一歩を踏み出した。これからは本当に長い旅路になる、そんな予感をともなった大切な一歩であった。
朝日が、霧の薄膜を貫いて差し込んでくる。
どうか私たちの道を照らしつづけてください――ベアトリーチェは世界のあらゆる全き存在に祈りつつ、リゼロッテの手をしっかりと握るのだった。