坂東蛍子、花を愛でる
「隊長!指示を!」
「・・・」
川内和馬は普通の男子高校生である。温厚で、女子と間違われるぐらい線が細く、栗毛の短髪を整髪剤で尖らせている。マーマレードジャムが何より好物で、旅先には携帯用の瓶に詰めていつも持ち歩いている。今はまだ平凡な日本人の少年に過ぎないが、その内では着実に特異な才能が醸成されていっており、秋の修学旅行で京都の鳴き廊下を無音で踏破した時に裏の世界での人生が決定付けられることになる。それ以外にはさして特筆することの無い、普通の高校二年生だ。
「隊長!」
現在の川内和馬に敢えて普通ではないところを見出すとすれば、それは彼が坂東蛍子親衛隊隊長であるというところだろう。坂東蛍子親衛隊(通称坂東隊)は、全校生徒の憧れの的である坂東蛍子を本人の与り知らないところから支える校内の非公認組織である。とある宿命的なきっかけによって蛍子を礼賛しなければならない使命感に駆られた和馬が設立したこの組織は、潜在的に志を同じくしていた同士達の心胆を揺り動かして急速に規模を拡大し、周囲の非公認ファンクラブを取り込んで今では校内でも1、2を争う大きさの組織に成長していた。彼らは「蛍子の生活に干渉しない」という大原則の下、校内で敵の少なくない坂東蛍子のことを陰から見守り、必要とあらば敵意を排除している。
要するにストーカー集団である。
「目標、更に接近!」
そんな彼らは今大いなる危機に直面していた。正確には彼らの見守る蛍子が大いなる危機に直面していたのだった。
普段の坂東蛍子はとても凛とした姿勢と穏やかな応答をする人物であり、棘の無いコミュニケーションにも関わらず相手に太刀打ちできないと痛感させてしまうような、そんな言いようの無い場違い感を纏った傑物であった。校内での彼女の不動の地位は、文武の才能や美貌だけでなく、そういった部分も大いに影響していたのである。しかしそんな無欠の逸材に見える彼女も、一人になった時には極稀に我を忘れたような振る舞いをする時があった。端的に言うならば、普通の少女のように見える時があるのである。そんな時の蛍子はとても自由奔放で、天真爛漫で、隙が多く、豊かに笑ったり怒ったりしている。活動の過程で蛍子のこのような側面を発見した坂東隊一同は、戸惑い以上に新しい蛍子に強い魅力を感じ、鼓動を早くさせた。そして今まで以上に彼女を守らねばという思いを強くしたのである。
しかしそんな蛍子の側面は、人前では一切露にならないことから考えても、本人が他人に知られる事を由としていないと予想される一面であり、即ち彼女の学校生活においては完全に裏の顔と言えるものなのであった。要するに、現在校舎裏の花壇の前にしゃがみ込んで花に話しかけている蛍子の姿は、本人の生活のために絶対に秘匿しなければならないものなのである(少なくとも和馬はそう解釈していた)。川内和馬は携帯電話を肩で挟んだまま、双眼鏡を使い、改めて花を愛でることに夢中になっている蛍子と、その西方15mの柱の陰から彼女の様子を窺っている女子生徒のことを見た。運の悪いことに、その人物は生徒会書記、流律子であった。
「おいあれ、鬼の流じゃないか?」
「風紀にうるさい上に、坂東さんを滅茶苦茶嫌ってるって話だぞ」
「不味いですよ隊長!あの女、これをネタに坂東さんを揺すりかねませんよ!」
隊員達の悲痛な叫びが電話口から轟く中、川内和馬は額の汗を拭い、黙って事態の成り行きを見守った。
何故私が隠れなきゃならないのよ、と流律子は心の中で愚痴を零し、静かにため息をついた後、前方でしゃがみ込んでいる坂東蛍子のことを改めて目視した。それにしても、何をやっているのかしら。彼女は園芸部員でも無ければ緑化委員でも無かったはずだけど。律子は頭の中で浮き上がる様々な可能性に×印をつけながら、平生の坂東蛍子のことを考え、きっととてつもない合理がこの行動の中にも隠れているのだろうと予想し、漠然とした恐怖を覚えた。それは人智を超えた才能というものへの恐怖だった。ここのところ、流律子は坂東蛍子へのコンプレックスに思い悩んでいたため、そのささやかな負の感情も彼女にとっては無視出来ない重荷の一つ足り得るものなのであった。
「今日は何だか肌が綺麗じゃない?いつにも増してよく見えるわよ」
流律子は突然の蛍子の発言に身を竦めた。自分に話しかけられたと思ったからだ。柱の裏で、寄りかかった背に汗が滲むのを感じている律子の混乱を置き去りにして、蛍子は再び口を開いた。
「ねぇ花ちゃん、その後どうなの?」
律子は自分の名前の字面を頭上に思い浮かべ、ひっくり返したり、アナグラムしたりした後で、ようやく蛍子の話し相手が自分では無いことを確信した。彼女は冷静さを取り戻しながら、怪訝な目で再度蛍子を見つめた。流律子には本校きっての才女の目が花壇に咲いた一輪のマーガレットに向けられているように見えてならなかった。
「決まってるでしょ。向こうの彼とのことよ」
坂東蛍子は好奇心の滲んだ笑みを浮かべてそう言い、隣の花壇の日々草を指差した。間違いない、と律子は目を見開いた。坂東蛍子は花壇の花と会話している。何故かは分からないが、校舎の裏で隠れるように身を縮めながら、マーガレットと楽しそうに話し込んでいるのだ。流律子は柱の脇から顔を覗かせ、頭を捻った。私が対立出来ない程に頭脳明晰の坂東蛍子が、放課後に花壇の花に話しかける意義とはいったい何なのだろう。植物に話しかけると成長の具合が良くなるという話を聞いたことがあるけれど、それを実践しているのかしら。いやでも、花壇の管理者でも無い人間がそんなことをする義理はないはずじゃ・・・。
「もうっ煮え切らないんだから!そんなことしてると他の女に取られちゃうわよ!」
下世話な発言を添えて花弁を指でつつく坂東蛍子の幸福そうな笑顔を見て、流律子は確信した。律子はその笑顔の意味するところをよく理解していた。それは一人が二人になった時に浮かべる笑顔だ。現在の彼女の頭の中には小難しい御題目は一切無く、ただ単に花との会話を楽しんでいるだけなのだ。そうと分かると、律子の中の動揺は胸の奥へとなりを潜め、それと入れ違いになる形で段々と怒りの感情が沸き出てきた。坂東蛍子がこんなことをすることは許されない、と律子は思った。天賦の卓見で八面六臂の活躍を見せる坂東蛍子は、隙の無いストイックな生活と人間らしからぬ空気を匂わせているからこそ、自分が如何に努力しても勝てないのだと諦めがついていたというのに。こんな隙だらけの人間臭い部分がある、同じ土俵の人間だということになってしまったら、全力を尽くしても負け続けている私という人間が益々惨めに思えてくるじゃないか。そんな屈辱は俄かには受け入れ難い。坂東蛍子は勝者として然るべき態度でいる義務があるのではないのか。流律子はこの上なく業腹が極まり、蛍子の陽気な茶番を眺めながら恨みや憎しみの思いを呪詛のように体の中で忙しなく反復させた。
「・・・大丈夫だ」
「隊長?」
「総員、撤収!」
「えぇ!?」
「撤収だ!急げ!」
携帯電話のスピーカーの向こうから聞こえるくぐもった騒音を耳元に感じながら、川内和馬は再び流律子へ焦点を合わせた。律子は柱の陰で優しく微笑んでいた。和馬はその笑顔の意味するところをよく理解していた。
【川内和馬前回登場回】
尾を飲み込む―http://ncode.syosetu.com/n4350ca/
【流律子前回登場回】
去り際に言葉を隠す―http://ncode.syosetu.com/n1529cd/