ミコトちゃん、という女の子がいた。
その子はいつも真っ白のワンピースをまとい、これまた白い靴下に黒いシューズを履いている。
彼女と初めて会ったのは、まだ寒さの残る三月の雨の日だった。
まだ日の入りまで何時間かあるというのに辺りは薄暗く、空は灰色の雲で覆われていた。人通りも少なく、細道に入ってからは人の気配すらない。そういえば、大雨洪水警報が出ていたっけ。先ほど携帯電話の天気予報のサイトで目にした気がする。
と、水溜まりに足が入り水を跳ね上げる。じわりと白いハイソックスに染みていく感触が気持ち悪い。雨が憎くなり、お気に入りの青いギンガンチェックの傘から空を見上げた。雨粒はギンガンチェックを突き刺すかのようだ。
心の中で何かがもぞり、とうごめいた。不吉な、何か。思い出したくない、私の記憶。
――きっと今日は不吉な日だ。
確信はないけれど。数m先は見えないほどの激しい雨も、このアルミホイルを噛んだような嫌な感じも、不吉だと感じさせる一要素だと思う。
そんな時だった、ミコトちゃんと会ったのは。
公園を横目に過ぎようとした時、彼女の差している紅色の傘が私の足を止めた。公園にある大きな木の脇でたたずんでいる、一人の少女。その姿はひどく異様で、そこだけが日常から切り取られたようだった。
目の覚めるような紅色の傘、
大人びた無地の白いワンピース、そして髪の長い女の子。
非現実的、幻想的な光景。だから、私は思わず公園に足を踏みいれたのだろう。そして、自然と少女に声をかけていた。
「ねえ、何してるの。一人で」
傘で顔は見えない。かといってしゃがむと制服のスカートが濡れるので、顔のパーツで唯一見える小さな唇を見つめて言葉を待つことにする。すると、彼女のそれがかすかに動いた。
「え?」
雨の音で聞き取れなかったため、少し腰をかがめて耳に意識を集中させる。
彼女は傘の柄をくるりと回した。そのため顔が見えるようになり、同じ高さにあった褐色の瞳と目が合う。
「待ってるの」
幼いながらもどこか大人びた響きをもつ声。その言葉の意味を尋ねようと口を開きかけたその時。
強い風が吹いた。
「あっ」
紅の傘が少女の手から離れ宙を舞う。本当に、ふわっという風に飛んでいった。意外と結構飛ぶものだな、少し感心した。彼女は走って傘を追い掛ける。
しかし、湿った地面に足をとられ転んでしまう。私は彼女の元へ走り寄った。
「大丈夫?」
少女は土に両手をついて無言でうつむいている。泣き出さないかと心配になった。
先ほど飛ばされた傘は風にあおられころころと転がっている。私は小走りで拾いにいき、なおもうつむいたまま微動だもしない少女に
「はい」
と差し出した。
しかし、受け取る様子はない。私はどうしたらいいのか分からなくて、自分の傘の柄を強く握った。
彼女の着ている白いワンピースはみるみる内に雨に濡れて肌に張り付き、体躯の細さを目立たせる。寒くないのだろうか。私は腰をかがめ、彼女の頭上に先ほど拾った傘を差して雨粒を遮断する。校則のせいで膝より下のスカートは濡れてしまうだろうが、この際構わない。
それで、やっと気付いた。
少女の左膝から血が流れ出している。
かなりの量だ。彼女は前かがみの姿勢だし、私の視線は高い位置にあったから見えなかった。
傷口は雨で洗われてはいるものの、流れる血が地面をほんのり赤く染めていた。とても痛そう。
「大丈夫?」
何で今日に限って、ハンカチやティッシュを忘れてきてしまったのだろう。今日は不吉な日というより厄日だろうか。
でも正直今の私は、何か非現実的なことをしてくれるんじゃないかと少しだけわくわくしていた。
と、彼女がいきなり立ち上がった。不測の事態に私は目を白黒させる。
彼女が私を見る。同じ高さの視線。呆気にとられている私の手から紅色の傘を奪うと、無表情で言った。
「みこと」
「……え?」
「あたしの、名前」
いや、ここは自己紹介するところじゃないでしょう。
心の声が聞こえたかのように、少女――ミコトちゃんはクスリと笑った。
私は、うまく笑い返せただろうか。
「あっ……」
困って目を反らしていた私だが、傘が飛ばされた時よりも細々とした、しかし強い声がして視線を戻される。
悲鳴をあげるところだった。どうにか飲み込んだけれど、ひぃっとのどがなった。
有り得ないほどの量の血が吹き出ている。足首を伝い、靴下がみるみる内に緋色に染まる。
靴は黒いのでよく分からないが、その下には血溜りが出来てゆく。
これはちょっと刺激強すぎですよ。わくわくな気分は一気に萎え、代わりに恐怖で鳥肌が立ってくる。
ミコトちゃんは不思議そうな顔をして自分の膝を見つめていた。その後、膝を手で払う仕草をする。転んだ時についた砂が落ちると共に、血がこすれて赤い領域が広まった。そしてその手をこちらに向ける。手の平は赤黒かった。まるで赤い絵の具を塗りたくったかのよう。
体感的な寒さと、違う意味での冷えに歯ががちがちとなる。加えて、私は血が苦手だ。特に、あの日――大事なあの子が亡くなった時――を境に、傷や血を酷く恐れるようになった。それらは死を連想させるから。
なおも彼女の膝小僧は血を吐き続けている。そして血は白い肌、白い靴下と滑っていき地面にたどり着く。そう、窓ガラスを雨の雫が伝うのと同じ感じ。それにしても、人間の身体からこんなに血が出るなんて。
そんな中、ある疑問が頭の中を駆け巡っていた。最初に見た時はあんなに血は出ていなかった。
私が目を離したあの一時に、何があった?
うっすらと涙が浮かんできている私に彼女が声をかけてくる。
「ねえ」
返事をする余裕が今の私にはない。
「お願い。お姉さんの家で休ませて」
……えっ!? という言葉は口に出さずに済んだが、新たな問題発生。私は、どう返答したらいい?
「あたし、このままじゃ死んじゃうかもしれない……」
とすがるような瞳で私を見つめる。
こんな小さな女の子が頼んでいるのに、断れる訳がない。大人しく従うことにした。
でも、ミコトちゃんを後ろに率いた道の途中、そっと振り返り彼女の身体に半透明なところはないか確認したのは、いつかテレビで見た心霊体験特集を思い出したから。
* * *
風呂場の蛇口をひねりしばらくの間水を出していると、傷口はすっかり綺麗になった。裂けた皮膚から覗く桃色の肉がよく見える。こねたスライムのようなグロテスクな傷口につい顔をしかめてしまう。
蛇口を閉めると、戸にかけてあるバスタオルで優しく水滴を吸い取ってあげる。そして洗面所に置いておいたバンソウコウのシールを素早く剥がし、慎重に傷口に貼る。
一つの試練をやり終えると、寒いはずなのに額に汗をかいていた。そっと手の甲で拭う。
その間、ミコトちゃんは傷口を洗ったときでさえびくともしなかった。普通、水がしみて痛がるだろうに。
「今日は帰る」
そっけなく彼女は言った。私は心の中でほっと息をついた。
「そっか……」
じゃあ気を付けてね。バイバイ。という言葉達は彼女によって口にする機会を失った。
「ただ」
背を向けていたミコトちゃんが振り替える。
「飲み物を一杯ちょうだい」
もちろん嫌とは言えない。こんな年下の女の子に振り回されている自分が情けなくなってくる。ミコトちゃんは自分の身体が濡れていることを気にしてか、大丈夫、玄関で立って飲むから、と付け足した。
私は玄関に移動した彼女にりんごジュースを差し出す。その時に誤って触れてしまった手がとても冷たかった。私は黙って飲み終わるのを待つ。
両手でコップを持ち少しずつ少しずつ飲む、ミコトちゃんの長い髪の毛先から水滴が一滴落ちた。
「あなたのことを」
「え?」
「待ってたの」
それが最初に会った時に尋ねたことへの答えだと理解するのにしばらく時間がかかった。『ねえ、何してるの。一人で』……私を、待っていた?
「そんな、どうして」
思わず声が大きくなる。だってミコトちゃんとは初対面のはずだ。
「じきに分かるよ」
そう言って彼女は少し笑った。
「名前、教えて」
「渡辺深雪だけど……」
つい素直に答えてしまう。
「みっちゃん、ね」
はっとして彼女の顔を見る。みっちゃん、それは学校でのあだ名。そのことをミコトちゃんが知っているわけはないと思うけれど。そう簡単にワタナベミユキの名がみっちゃんに結び付くだろうか。微笑をたたえたこの少女がひどく不気味に見えた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、ミコトちゃんは飲み終わったコップを下に置き、
ゆっくりとドアを開けた。
外の世界は赤かった。真っ赤な、綺麗な夕焼け。雨もすっかりやんでいる。
日が落ちる。
彼女はとじた紅色の傘を右手で持ち、夕日の方へ歩いてゆく。
と、しばらく歩いたところで立ち止まり私に振り返える。
「みっちゃん。ありがとう」
そう言って見せた笑顔は、夕焼けのためか儚げに見えた。
* * *
ミコトちゃんと再び出会ったのはまたしても雨の日、五日後のことだった。
「みっちゃん」
自宅のドアの鍵を開けている時にそう声をかけられ、振り向くと彼女がいた。
「りんごジュースがおいしかったから、また来たの」
それがどんな意味を含めているかはもちろん分かっている。
「……じゃあ、うちんちにあがる?」
「うん」
怖がることなんてない。そう自分に言い聞かせ、ドアの向こうへ私達は消えてゆく。
「この前の言葉、どういう意味だったの?」
ミコトちゃんがりんごジュースを一口飲んだのを見計らって質問した。
「何のこと?」
「私のこと待ってたってどういうことなのか、きちんと説明してほしいんだけど」
「じきに分かるって言ったじゃない」
鼻で笑う。
これ以上問いただしても無駄と判断し、ふと尋ねてみる。
「ミコトちゃん、何年生?」
見たところ小学校四、五年生だろうか。でも、かなり小柄なので低学年にも見える。
彼女は軽くうなずいて言った。
「あたし、学校行ってないから分からない」
思わず彼女の顔を見つめた。伏し目がちな瞳。最初頭によぎったのは『いじめ』
という単語だった。
だからって自分の学年が分からないというのはあまりにおかしな話だ。
「……何で行ってないの?」
してはいけない質問だったかもしれない。
「さあ」
まるで他人事のようだ。
「……君、一体何者なの?」
やっと口に出来た。
ミコトちゃんは何秒が私をじっと見つめた後、くすくすと笑い出した。
「あたし、血が出やすい体質なの」
「少しも痛がらなかった」
「我慢強い性格なの」
「……」
言い返せなくて悔しい。
「あたし、幽霊なんかじゃないよ」
と言って哀しげな表情をつくる。不覚にも胸がきゅんとした。
「ごちそうさま。帰るね。また、来るよ」
あまり表情のない彼女なのに、最後に満面の笑みを残して帰ってゆく。すると私はしばらくその場から動けない。あんなに不気味なのに、あの笑顔で私は胸が苦しくなるのだ。そして自然と思い出される。
二度と見れないあの子の笑顔を。
そして、ミコトちゃんは雨の日は毎回私の家の前に立っているようになった。りんごジュースがまた飲みたい、そう言って。私は彼女を家にあげる。
彼女は出されたりんごジュースを飲みほし、そして帰ってゆく。
いくつかの会話も交した。私が十五歳だということ、特技が水泳だということ。でも、ミコトちゃんのことを尋ねるといつもはぐらかされる。そういえば、未だに年齢も教えてもらっていない。
ある日、ミコトちゃんが言った。
「あたし、みっちゃんのこと好き」
突然の告白に面食らう私に構わず続ける。
「自分を隠しているところとか」
と、目を細め愛しげに私を見つめる。
何だか嫌な気持ちになった。
「それは、ミコトちゃんも一緒じゃないの」
と、思ったことを口に出す。
「それは違うね」
「どうして」
「これが、あたしのありのままの姿だから」
そしてもう一度自分の言葉にひたるように言った。
「みっちゃん。好きだよ」
……彼女は魔力を持っているのかもしれない。学校にいる時も、ミコトちゃんのことが頭から離れない。
そして、雨が降るのを心待ちしている自分がいることに気付いて戸惑う。
今日、二十日ぶりに雨が降った。
平日の朝、私は泣きながら帰路を歩いていた。今頃授業は一時間目の最中だろう。
学校を抜け出したのは初めてだった。それくらい、私にとって嫌なことだった。朝のHR前、同級生の女子に言われた言葉が頭の中で反響する。涙がとまらない。こんな時、脳裏に浮かぶのは紅色の傘を差した少女のことだった。
ミコトちゃんに、会いたい。
いる訳がないのは分かっている。でも、会わないと私の心は死んでしまう。
彼女との出会ったあの公園に差し掛かったところで、みっちゃん、と呼ばれた時はまさかと思った。
でも、そのまさかだった。急いで涙を手で拭い、公園の中に入る。傘の下から、こちらをうかがう瞳がのぞく。
「……何で?」
何でいるの……。
「あたしに会いたいって声が聞こえたから」
と言って、いつもは帰りぎわにしかしない笑顔を見せる。雨にそぐわない、まぶしい笑顔。だめだ、また涙がこみあげてくる。
ミコトちゃんはしばらく私を冷静な目で見つめていたが、
「みっちゃん、妹がいたでしょう」
と言った。
どきりとした。
そう、私には一歳下の妹が『いた』。名前は渡辺亜祐。あゆは……。
「ミコトちゃん、知ってるの?」
――あゆは、殺されたってことを。
去年の夏の終わり、同級生の手によって十四年の生涯に幕を下ろしたあゆ。犯人はあゆのように可愛くなりたいと願った女の子だった。あゆの可愛さを手本にするために手元に置いておきかったから、そう犯人は呟いたらしい。そんな動機理解できないし、当然したくもない。
犯人の部屋にまるでキリストのように釘で打ち付けられていた妹の無惨な姿が、今も目に焼き付いている。さらさらだった自慢の髪も血でこびりつき、
透明感のあった皮膚も茶色く変色していた。そして、あゆにたかる小さな黒い虫達。生きていたときのあの輝きは、面影もない。
どうして、あゆが死ななくちゃいけなかったの?
「みっちゃん」
名前を呼ばれて我に返る。息が荒くなり、汗をかいている自分に気が付いた。
ミコトちゃんと目が合った。そして、やっと分かった。目があゆに似てるんだ……。彼女は口角を上げ微笑む。
心の氷が溶けていく。
「……他のクラスの女子達がね、半年前に殺された二年生が私の妹だってことをどこかで知ったらしくて、それで、言ってきたの。
『妹って殺されるほどヤな奴だったんだ』
って……。他にも、死体ってどんな感じだったの? とか、殺した方の二年部活の後輩だったんだけどすごくイイ子だったよ、とか……。笑って、言ったの」
話している内に、再びその時のあゆをけなされた屈辱感と亡くした時の悲しみが蘇ってきて、
たまらずかがみ込んで嗚咽をあげた。
「……何であんなに死を軽く扱えるんだろ……。やっぱり……私の気持ちなんて誰も分からないんだよね……」
「あたしは分かるよ」
と、これまで黙って話を聞いていた彼女が口を開く。そして、自分の傘を放ったかと思うと、私を抱きしめた。温もりを感じる。私は彼女の胸に顔をうずめて泣きじゃくった。ミコトちゃんなら全て分かってくれている、そんな気がした。
背中に小さな手を感じる。彼女は子供を寝かし付ける母親のように、背中を優しくさすっている。
「もう、苦しまなくていいんだよ。あたしが楽にしてあげるから」
ふと、さする手が止まる。
「あたしが――みっちゃんを殺してあげるから」
――え?
すぐには意味が理解できず、顔を上げた。
突如背中に鋭い衝撃にを受ける。私は反射的に立ち上がって傘を手放し、ミコトちゃんから身体を離す。動いた拍子にじんじんと脈を打つような痛みが走った。足に力が入らず、その場に膝をつく。
ミコトちゃんに目をやると、神妙な顔でこちらに視線を向けていた。真っ赤な手。白いワンピースには赤い斑点が浮かんでいる。
恐る恐る背中に手をやってみると、電流のような痛みを感じると共に生温かな液体に触れた。手を見てみると、べったりと血がついている。予想はしていたが、ショックだった。
染み渡る水のように恐怖がじわりと込み上げてくる。
「いや……」
尻を付きながら、手を付いて後ずさる。ミコトちゃんはゆっくりと、でも確実にこちらに歩を進めていた。
「どうして……」
こんなことってないよ。つーっと目尻に涙が伝う。ミコトちゃんは、手に何も持っていなかった。
もう、目の前だった。彼女がすっと右手を動かす。思わず目をつぶると、激痛が右腕を襲う。
「いやぁぁ!」
まぶたを開くと何てことだろう、ミコトちゃんの手が私の腕を貫通していた。ああ、これだったんだな。出会ったあの日、彼女の膝から突然血が吹き出した理由がやっと分かった。
彼女が手を引くと、ずぼっと抜ける感触があった。同時に血液が宙に舞う。
私は倒れ込んだ。冷たい瞳が私を見下ろす。
今、私は確実に死に向かっている。
「――あゆちゃんも、あちらの世界で待ってるよ」
と、いつもと変わらぬ口調の彼女。あゆ……。死んだら、あゆに会えるのだろうか。
「あなたを、待ってたの」
あの言葉だ。苦痛に顔を歪めながらも聞いてみた。
「そろそろ……教えて。どういうことなのか……」
「偶然じゃない、必然だったのよ、あたし達が出会ったのは。こうなるのも、ずっとずっと前から決まっていたんだよ」
「どうして……私が……?」
「運命だったから仕方ないのよ、みっちゃん」
と言って、私の左胸――ちょうど心臓のある位置――に手を当てる。先ほどみたいにやられたら、死ぬのは確実だ。
私は叫んだ。
「嫌、死にたくない!!」
彼女の手がゆっくりと押し当てられ、鋭利な痛みが胸をつらぬく。私はたまらず悲鳴をあげた。そして意識が薄れてゆく。
その時、ふと一つの考えが頭に浮かんだ。
もうこれしかないと思い、渾身の力を振り絞って言う。
「……りんごジュース……家の冷蔵庫にあるの……。それ、飲んで、いいから……っ」
まだ言い終わってないのに、いきなり喉元から液体が出てくる。血だ。
「本当?」
賭けのつもりだった。しかし、ミコトちゃんは想像以上の反応を見せる。
胸の上にある手の動きが止まっている。私はうなずいて肯定の意を見せた。彼女はしばらく考えていたかと思うと、
「分かった、飲む。だから――生かしておいてあげるね」
と言い、手を離し背を向けて歩き出す。紅色の傘を拾って。 出会ったあの日の別れの時みたいに、彼女は振り向いて言った。
「みっちゃん、これからも大好きだよ。――サヨナラ」
雨のノイズのみが私を包む。ああ、やっと、やっと終わったんだ。ほっとしたら景色がぼやけ、終いには見えなくなった。
* * *
目が覚めるとベッドの上だった。
とはいっても夢なのではない、出血したところはずきずき痛むし、腕には点滴がつながれている。
ここは病院だ、と分かった。
病室に駆け付けたお母さんとお父さんは、私のために泣いていた。医師の説明によると、私は五日間も眠っていたらしく、一ヶ月は入院しないといけないとのことだ。
その後、警察の人から色々なことを聞かれた。本当のことを言えるはずもなく、私は架空の犯人像を造り出して話すしかなかった。
入院してしばらく経った今日、お母さんにあの日一度家に帰ったのかと聞かれた。どうして、と尋ねると
「家のテーブルに、りんごジュースとからのコップが置いてあったからよ」
と言った。
りんごジュースが私を救ってくれたのだ。きらしていなくて良かった、心からそう思った。
「ミコトちゃん……」
もう彼女と会うことはないように思う。
でも、それでいい。
私は彼女を恨んでいない。
彼女の、私に同情するでも慰めるでもない自然な態度が心の傷を癒してくれたから。背中をさすってくれたあの手と、太陽のような笑顔は計算でしたものじゃないと信じている。
それに、名前の通り、ミコトちゃんは命というものに一番近い存在だったような気がする。何故なら、あゆが亡くなってから抜け殻のようだった私に気付かせてくれた。死ぬことの辛さと、生きることの幸せを。
あゆ。私はまだそっちには行けないよ。お母さん、お父さんが悲しむから。
窓の外に目を向ける。雨だ。
遠くに、紅色の傘を差した少女が見えた気がした。
ミコトちゃん、という女の子がいた。その子はいつも真っ白のワンピースをまとい、これまた白い靴下に黒いシューズを履いている。彼女は、雨の日に現れる。もしかしたら……。
あなたの側にも――。
|