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猫の子町  作者:出雲隼凱
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依頼(其の4)

 夕立が去っていった。日中の日差しに温められた何もかもがその雨に冷まされていった。生温かい雨は雫となってひたすら地面へと滴り落ち吸い込まれていった。日没までの僅かな光を得た夕焼けが全てを薄オレンジ色に染め尽していた。山瀬は幾田の訪問を言葉にすることのできない複雑な気持ちで待ち続けていた。商売をやめて暇を持て余している自分の時間を他のことに使うことが出来るのならばそれはそれで有意義なことである。ただ山瀬の心を誘っているものはそんな綺麗事のようなものではなく、ただ単にあの拘束感のない社会へほんの短い時間だけでも戻れるかもしれないという心の奥底に隠れている怠惰のようなものだった。湿気を含む晩夏の風が山瀬の身体を取り巻いていた。さっき降った夕立が道端の土埃を空気に巻き上げ、その臭いを含んだ風の湿った匂いが余計に山瀬の脳裏に懐かしいフィリピンの光景を思い浮かばせていた。
 ふと壁の時計に目をやると針は7時を回りかけていた。とそのとき玄関の呼び鈴が心地よい余韻を残して部屋に鳴り響いた。幾田優子は約束した通り、週末にやって来た。
「はーい、ちょっと待ってくださいね」
立ち上がりながらそう答えると山瀬は足早に玄関へ向かった。ドアの魚眼レンズの付いた小さい覗き窓からその向こう側にある外の光景を確認してみた。アパートの通路に付けられたライトが女の顔を照らしていた。70歳前後の老いて疲れ果てた女の顔が魚眼レンズで変形して見えた。女は二度目のベルを鳴らそうともせずドアから一歩下がっていつそれが開いてもいい距離を作っていた。まるで山瀬が覗き窓から覗いているのを知っているかのようだった。山瀬はそう思うと自分のしている行為が少し恥ずかしく思えて咄嗟にレンズから眼を離すと無意識に頭を掻いていた。
 ドアの鍵を左に回すとガチャっという機械的な音がした。ゆっくり前に押し開いてみるとそこには覗き窓から見るよりも痩せた幾田優子の顔があった。背筋をピンと張ったその姿勢がなんとなく育ちの良さを山瀬に感じさせた。
「こんばんは。初めまして、山瀬です。幾田さんですか」
ドアを開いてしまってから名前を訊ねるのもおかしいと山瀬は思ったが、この時間に初老の女性が訪ねてくる訳もなく、約束通りの時間帯だったこともあって、躊躇うことはなかった。
「はい、初めまして、幾田優子と申します。宜しくお願いします」幾多は疲れたような声で簡単に自己紹介をした。2人はとりあえずありきたりの簡単な挨拶を交わした後部屋の中に入っていった。山瀬はお茶かコーヒーを差し出そうと思い直ぐに薬缶にお湯を沸かし始めた。
「あら、どうぞお構いなく。お一人だと何かと不便でしょう。私も今一人暮らしなもので自由がきかなくて何かと困ることが多いんです…。娘があちらに行ってしまってからは寂しさも加わって一日一日がつらく感じられましてねえ…」
幾田はそう一気に言うと山瀬が指定した座布団に腰を下ろした。かなり疲れているように山瀬の目には映った。山瀬は返す言葉が見つからかった。薬缶のお湯が沸くまでのしばらくの間ふたりは何も話さずに黙っていた。
 やっとお湯が沸いて2人分の緑茶を持って幾田の反対側に腰掛けると、山瀬はそれを幾田に差し出した。
「大変でしたね。でもお身体に毒でしょうからあまり思いつめないほうがいいんじゃないですか」
幾田はちょっと熱めの湯飲み茶碗を両手で受け取ると一口も啜ることなくそのままテーブルの上に置いた。
「すいません。ちょっと熱過ぎましたか…」
山瀬の問いに幾田は声を出さずに首を小さく左右に振った。どこからどうやって話していいのか分からず、言葉を喉の辺りに詰まらせている様子だった。小さな間を置いて一口緑茶を啜ると決心が付いたかのように話し始めた。
「うちの娘、日本にいるときから可愛がっていた猫を5匹も連れて行っているんです。そんな娘が自殺するなんて、とても信じられなくて…。私宛に特別何の知らせもなかったし、私は全く納得できないで毎日眠ることさえもできずにいるんです。山瀬さんしかいないんです。頼めそうな方が…。私が知っていることは娘が住んでいた家の住所くらいのものなんです。私が調べに行ったとしても、確実に無駄足になってしまいます。山瀬さんなら言葉も話せるでしょうし、娘に何があったのか調べることができるのではないでしょうか。どうかこのつまらない母親の頼みを聞いてはいただけないものでしょうか。ちゃんとお金も用意してあります。どうか引き受けていただけないでしょうか」
幾田の唇は震えていた。顔は赤くなり眼には涙が溜まっていた。その涙を拭おうともしなかった。テーブルの上にそっと乗せられた両手は柔らかく握り締められていた。幾田の悲痛な願いと、動機の分からない娘の自殺への憤りが山瀬には理解できた。
「まあ、私も今商売をやめて何もしないでぶらぶらしているだけなので時間は有り余っています。ただ、幾田さんのおっしゃる調査というような大それたことにお力添えできるかどうかは私にも分かりません。幾田さんのお気持ちは分かりましたが、私が行ったとしても無駄足に終わるかもしれませんよ」
山瀬は俯いている幾田にゆっくりと静かに答えた。そう答えてしまえば確実に引き受けることになってしまうことは分かっていたが、老いた幾田の俯いている姿を見ていると自然に口がそう動いてしまった。山瀬の答えを聞いた幾田の顔にほんの少し安堵の表情が浮かび上がった。
「それでも構いません。本当に何も分からなかったとしても山瀬さんの口からもしそれが聞けるなら私も諦めます」
既にもう後戻りは出来ない状況に追い込まれている山瀬にはとうとう依頼を断る言葉は見つからなかった。
「分かりました。どうなるかは私にも分かりませんが出来る限りの事はしてみましょう」
幾田は娘の住所を書きとめてあったメモを山瀬に手渡し、来たときよりは少し元気のある表情を顔と身体に浮かべて帰っていった。窓から入ってくる心地よい風がカーテンを揺らしていた。しかしその風を山瀬には感じ取ることが出来なかった。幾田優子が帰った瞬間からやらなければならないことが一気に倍増してしまっていた。
 航空券を予約しなければならない。山瀬はパソコンの前に座りインターネットで旅行会社のサイトを見ていた。この時期はお盆休みも終わって、どの国に行く航空券も殆どといっていい程安上がりだった。とりあえず都合のいい日を予約して今度は幾田小町の死亡記事について検索し始めた。フィリピンの新聞記事だったが思ったより簡単に小町の事件記事に行き着いた。あまり得意ではない英文をゆっくりと読み始めた。

    カミギン島で日本人女性自殺

  甲 月 乙 日 午前海岸に打ちあがった女性の水死体を地元の漁師が発見し た。女性の氏名は幾田小町、年齢48歳、日本国籍と判明した。カミギン島警察 の調べにより遺体に外傷がなかったことと、司法解剖の結果これといった異常も 発見されなかったことから、死因は自殺による溺死と断定された。当初カミギン 島警察は、男女関係のもつれ、若しくは、金銭関係のもつれと考え調査したが、 結果何の情報も得られず自殺という結論に至った。尚幾田小町氏の遺体は火葬さ れ日本大使館によって本国の遺族に送り届けられた。

簡単な記事だった。
「とにかく検死はされた訳か」
山瀬は首を傾げていた。この記事だと地元警察も島の人たちから何の手掛かりも得られなかったことになる。もし自分が行ったとしても何の情報も得られないかもしれない。ただ引き受けた以上は、幾田優子の期待に応えられるだけのことをしなければならない。小さな義務感が心の片隅を占めていた。開いた窓から忍び込む濃紺色の夜の臭いを纏った風が山瀬の前髪を揺らしていた。
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