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猫の子町  作者:出雲隼凱
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3/11

依頼(其の3)

 拝啓

  突然このような手紙を差し上げるよな失礼をどうぞお許しくだ
 さい。実は貴方様のことを以前から娘に聞かされ存じ上げていた
 のですが、他に頼れるような人も見当たらず、藁をも掴む思いで
 筆を執った次第です。
  先日私の一人娘の、幾田小町がフィリピンで自殺しました。私
 にはどうもそのことが信じられません。警察や弁護士にも調査を
 お願いしてみようと考えましたが、海外だということを理由に頭
 から拒否されてしまうのではないかという思いが先に立ってしま
 い、足が前に進みません。例えば私が警察に調査を依頼したとし
 ても国際的な警察組織に調査が回されてしまうことでしょう。当
 然そのような組織はお忙しいのでしょうから、私の娘の自殺の件
 など相手にもされないかもしれません。いや、相手にされるわけ
 がありません。弁護士に依頼したとしても、通訳その他の経費で
 恐らく膨大な調査料を請求されるのは目に見えています。そこで
 私が行き着いた結論はフィリピンの国の言葉に精通して、尚且つ
 フィリピンの国のことについて詳しい貴方様を頼るということで
 した。
  あつかましいのは重々承知の上です。ただ出来ることならば貴
 方様と一度お話をさせて頂きたいと考えております。この手紙に
 私の住所と電話番号を書いておきます。無理なお願いだとは思い
 ます。ただ貴方様が最後の頼りだとだけ言わせてください。

 敬具                
                       幾田 優子
                    住所 ………………
                    電話 ………………     

「まいったなあ…」
薬缶がまるで激怒しているかのように注ぎ口から湯気を吐き出していた。山瀬は厚手のコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れてまたテーブルに戻ると、もう一度手紙を読み返した。確かに山瀬はフィリピンの共通語であるタガログ語に精通し、以前数年間フィリピンに滞在していたこともあった。だがこの手紙にあるような調査などという難しいことに関わったことは一度もなかった。熱いインスタントコーヒーを啜りながら、いったいどうしたものか決めかねていた。このまま知らない振りをして忘れてしまおうか。いや、それも失礼だしせめて電話で断ろうかなどと考えていた。
「いや、電話したら俺の性格上断れなくなるな、こりゃ」
いつの間にか口から独り言が零れていた。山瀬は断るのが下手な性格だった。以前から他人に何かを頼まれると断れず、引き受けてから頭を抱えて後悔するのが常だった。山瀬は自分の性格をよく知っていた。
「どっちにしても断らないと…。そんな調査だなんてできる筈ないに決まってる」
山瀬は熱いコーヒーを一口啜った。
 山瀬にとってフィリピンは嫌な国ではなかった。以前住んでいたときは事業に失敗してしまったが、日本と比べると生活するのは然程苦にはならなかった。かえって日本での毎日の規則正しい生活に縛られることの方が山瀬にとっては苦痛だった。その証拠に山瀬は日本へ帰国する飛行機の中でいつも憂鬱な時間を過ごしていた。いざ飛行機が着陸態勢に入ると、「またか…」という寂しさに駆られるのが常であった。ぬるくなってしまったコーヒーを飲み終わる頃、山瀬の頭の中にフィリピンの光景、あの時間の感覚を鈍らせてしまう不思議な魔力が漂ってきた。
「そういえばもう帰ってきてから6年になるなあ。話だけでも聞いてみるか」
山瀬は心の中で呟きながらまた布団に戻って右へ左へごろごろしながらだらだらと時間をやり過ごした。以前ならこの時間は店を空ける準備で忙しい時間帯だった。その忙しさを忘れられないのか、この時間になるといつも胸がそわそわとしていた。窓から差し込む陽の光がカーテンを透して半分遮られていた。半分はカーテンのオレンジ色を透して部屋にほんのり黄金色の光となって充満していた。カーテンを少し寄せて吐き出し窓をほんの少し開けると、カーテンをふんわりと揺らす気持ちのいい風が部屋を満たした。
「もうすぐ夏も終わりだなあ、このままいくと年が明けちまうな」
風はカーテンを揺らし続け、部屋の中に作られる黄金色の陰でさえも揺らしていた。その揺れに共鳴するかのように山瀬の心も幾分揺れていた。
 携帯電話の6度目のコールが鳴り終わらないうちに幾田は電話に応対した。
「もしもし 幾田ですが…」
一人娘を亡くしてまだ日も経っていないとみえて、まだ声に張りが感じられなかった。当たり前のことだと山瀬は思った。
「あ、私お手紙をいただいた山瀬と申しますが…」
山瀬の声のトーンも少し控えめになっていた。
「あら、本当に突然お手紙なんて差し上げてしまって申し訳ありませんでした。でも山瀬さんが一番適任だと思い込んでしまって…」この答えと相手の心境を考えている山瀬は既に断るための言葉を心のどこかににしまい込んでしまっていた。
「私は調査なんて大それたことしたこともないし、お役に立てるかどうかは分かりませんが、具体的にはまず何をすればいいのでしょうか」
断るはずが考えていることとは裏腹に口が動いてしまう。言ってしまってから携帯電話を掴んでいる反対の手が額を叩いていた。携帯電話のダイヤルを押し始めたときにはこうなることは自分でも分かっていたが、こうも簡単に幾田の依頼を受けてしまうような言葉が口から出てしまうとは思ってもみなかった。
「今度の週末に東京の兄のところに行こうと思っているのですが、その帰りに山瀬さんのお宅に寄らせていただいても宜しいでしょうか。とにかくお電話口では失礼なことだと存じますので、是非そうさせて頂きたいのですが…。ご迷惑ではないでしょうか」
幾田の一方的な話の進め方が山瀬に緊張感を与えていた。案外この母親の、娘の死は自殺ではないという勘が当たっているのかもしれないという考えが山瀬の頭をよぎった。
「ということは他殺なのか…」
小さな生温い沼の底からゴボッと浮かび上がってくる泡のように、山瀬の脳裏に嫌な言葉が浮かんだ。山瀬は首を小刻みに横に振ってから幾田に答えた。
「私は構いませんが…」
話は2分とかからなかった。ただ電話を切った後も山瀬は幾田の熱の篭った話し方のせいで緊張感を拭い去ることが出来なかった。風は既にカーテンを揺らすのに飽きて一休みしているかのように吹くのを止めてしまった。山瀬の緊張を悟ったかのようにカーテンは重く動こうとはしなかった。
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