灰色の絨毯で隅々まで覆われた空。世界の色が、酷く褪せて見えた。
私達姉弟を除いて、動くものは何一つない。風すら、何かに怯えるようにじっと息を潜めている。
周囲を囲む、毒々しい色の葉をつけた木々。汚れた空気を吸って、代わりに毒ガスを世界に吐き出す。単調な繰り返しを、飽きることなく、それが自らの存在理由だとでも言うように。
もはや図鑑で見かけるような植物は育たなくなってしまった、変色した土壌。その上を、何も言わず踏みしめていく。
あれから三日。このどうしようもなく腐敗した"外の世界"の光景に、もう慣れ始めていた自分を恐ろしく思った。
四六時中身に着けていなければならない暑苦しい防毒マスク、酸性雨から肌を守るための特殊スーツ。ドロドロとした液体食料を入れたリュックサック。突然の環境の激変に、案外人間は対応できる術を持っているのかもしれない。そんなことを考えていた。
前を楽しそうに歩く弟のシュウは、何故私達二人が突然外の世界に出されたのか知らない。正面が透明な素材で出来ているため、マスクは顔が見えるようになっているのだが、シュウの表情は、いつ見ても明るかった。私の顔はシュウにはどんな風に映っているんだろう。
もう10歳だというのに、ずっと年下のように感じる幼い言動や考え方をする弟を見ていると、私はいつも心がきりきりと痛んだ。
――どうしてこんなことに。
三日間のうちに飽きるほど考えた疑問の答えは、いつも決まっていた。
――しょうがない。今更そんなこと考えてもどうしようもない。
だけど、その答えを導き出すたびに私は問いかける。もし神という存在がいるのなら答えてほしい。何故。
私達が一体何をしたのか。何もしてない。全ては逆らえない大きな流れの結果。なのにどうしてこんな目にあわなくてはいけないんだろう。
弱気な心が顔を出すたび、私は自分で自分を戒めなくてはならなかった。
姉の私がそんなことでどうする。お母さんが泣くよ。
「お姉ちゃん。マヤお姉ちゃん」
弟の声で、私ははっと我に返った。歩きながら物事を考える、私の悪い癖だ。
シュウは不思議そうな顔で私を見つめている。小声でつぶやいていたのを聞いていたのかもしれない。
それか、不味い食べ物を口に入れたときのようなおかしな顔をしていたのかも。
「ごめん、なんでもない」
邪険に扱ってはいけないと頭の中では分かっているが、こういう時はつい投げやりな口調になってしまう。
後でしまったと思った時は、もうシュウの顔は私を睨んでいる。
「嘘でしょ。僕知ってるよ。昨日お姉ちゃんが、僕が寝た後もずっと難しそうな顔して考えてるの」
「へぇ。じゃあ寝てるふりでもしてたの?」
「違うよ。だって僕、眠くならなくて……目はつぶってたもん!」
必死に弁解をするシュウは可愛い。私の汚れきった心が洗われる。
シュウは言葉遣いだけではなく、精神年齢も幼い。それは育った環境もあるが、一番の原因は私のように勉強をしていなかったからであり、また、私が勉強をさせなかったからだろう。あの子には、出来るだけガラスのように綺麗な心のままでいて欲しい。何も知らなくていい。そんな、私のエゴのせいだった。
「ほらほら、足が止まってるよ」
出来るだけ心の中を悟られないよう、自然な感じで話しかける。
だが、シュウは疑念のこもった様な瞳で私を見つめたまま動かない。しまった、小さい子の敏感さを甘く見すぎた。
「ねぇ、お姉ちゃん何か隠してるでしょ」
「え、何を?」
体中から一気に噴出した冷や汗に不快感を感じながら、わざとらしく驚いたふりをしてみるが、我ながら下手くそな演技だ。
驚いているのに、顔は引きつった笑顔になっている。意識すればするほど、不自然な表情になってしまう。
「僕、お姉ちゃんに隠し事されるの嫌だ。だってお姉ちゃんは、僕のお姉ちゃんだもん」
シュウは涙声だ。マスクを通しているから少しくぐもって聞こえるが、それが余計耳に張り付いた。
私には、これ以上隠しとおせる自信がなくなった。"ドーム"を追放されてから三日、空は、そして私の心は変わることなく灰色だ。
「どうして、ねえどうして」
弟はそう言って、私の腕を掴んで本格的に泣き始めた。
当然だった。泣かないほうがおかしい。私が今まで隠し通せた事の方が不思議なくらいだ。
もしかしたらシュウは気づいていたのかもしれない。気づいていたけど、それを認めたくなくて、明るく振舞っていたという風にも考えられる。もし本当にそうだとしたら、私はこの子の姉を名乗る資格はない。そう思った。
「もうお母さんとお父さんには会えないの。私達は捨てられたのよ」
そう、私達は捨てられた。正確には"二度"捨てられた。
一度目は、まだ弟が言葉も話せない赤ん坊の時。私は五歳で、弟を泣き止ませることさえまともに出来なかった。
幼い私達姉弟を拾ったのは、前の両親と同じように貧困層の中年夫婦だった。
二人は私達を見つけ、最初は人売りに渡そうと考えていたらしいが、シュウの必死に泣く姿を見て、親として私達を引き取る事を決めたのだという。このことを私が知ったのはつい最近のことだ。
私は成長するにしたがって、もっとこの世界の事を知りたいと思うようになっていた。
だが貧しいため教育を受ける事はできない。元々、高い授業料を払った一部の子供しか受けられないものなのだから、当然と言えば当然だった。父は、女が勉強をする必要はないと言ったが、母は、お金を払わなくても自分で出来る方法があると教えてくれた。
その方法は単純で、図書館に行く事だった。図書館に行けば、本がいくらでも置いてある。本があれば、そこから様々な知識を学ぶ事が出来る。
だが私は字の読み書きができなかった。そのため、元々は中流階級で会計の仕事というのをしていた母から読み書きを習い、来る日も来る日も読書という名の勉強に明け暮れた。私の事を乞食だと言って馬鹿にする連中が、図書館には少なからずいたが、負けず嫌いな私は彼らと喧嘩になり、服を汚物まみれにされて家に帰ったこともあった。
大げさな表現を使えば、私は「血反吐が出るほど」勉強した。政治経済、自然科学、哲学、神学などなど、この世にある、学問という学問を片っ端から頭の中に入れていった。私には時間が無かった。昔の言葉で光陰矢のごとしというのがあったが、とにかく時間の許す限り、私は勉強をしなければいけないと考えていた。今だって、時間が無いのは一緒だ。
私が図書館に通っている間、シュウはずっと狭い家に居た。シュウは何も出来なかったが、その代わり貧困にあえぐ家族を明るくするムードメーカーのような存在になっていたことも事実だ。いつもシュウは、私に何か言っていた気がする。それは将来何になりたいかということだっただろうか。私はそれを聞いて、思わず馬鹿と言って笑ってしまい、弟を泣かせたことがあったのはよく覚えている。何だったけな。シュウの将来の夢。
私達は、前の家族の事は忘れ、今の家族を本当の家族のように思って暮らしてきた。少なくとも私は幸せだった。
だけど、それは長く続かなかった。
戦争で環境を修復不可能なまでに破壊しつくした人間。その最後の砦であるドームは世界各地に点在していたが、
人口の増加による食糧不足や貧富の差の拡大、衛生面での問題などが次々と起こり、ドーム自治政府は「間引き」の決断を迫られていた。私達の住む「東北」というエリアのドームは元々の数も少なく、残っていたドームも、ほとんどが間引きの議論の過程で生じた内紛が原因で殺し合いとなり、廃墟と化していた。
私達のドームはこれを教訓として早めの対策を練り、「貧困層、四人以上の家族」を外の世界に追放する事を決定した。
その結果、私達家族はあっという間にドーム追放が決まってしまっていた。
同じ貧困層の人間達は、初めこそ政府に対してデモや抗議の姿勢を見せていたが、次第にどうしようもないと分かると、醜い内輪もめが始まった。政府は、「四人以上の家族の内、成人でない子供だけを追放させれば、それ以外の家族の残留を保障する」という条件を付け加えていた。つまり、子供を捨てれば親だけは助かるということである。労働力の確保が狙いだった。
何回かに分けて追放は行われ、私達の追放も迫ってきた。私達家族は、家族一緒に出るか、それとも子供を捨てて親だけがドームに残るか、上辺だけの家族会議を行っていた。もちろんシュウは会議には参加できず、一人で遊んで暇を潰していたのだが。
父親が考えているのは、明らかに私達を捨てるほうだった。それは声に出さずとも、普段の態度ですぐに分かる事であり、私はほとんど捨てられると確信していたようなものだった。しかし、母親のほうは迷いがあるらしく、ちらちらと私の顔を見ては悲しそうな表情になり、うつむいて何も言わなくなるという事がよくあった。
結局は、二人とも私達姉弟を捨てる事で一致した。
何を言っても効果がないのは分かっていた。私達は元々捨て子。本当の家族でもない子供と共に、危険なドームの外へ出ようなどと考える人間はいない。
政府からは、一週間分の液体食料や防毒マスク、スーツと言った最低限のものが支給された。
と言っても、中には粗悪品も混じっていて、マスクが機能していなかったのか、ドームの近くで青い顔をして倒れている人間が何人もいたのを覚えている。
ドームを出る直前、ゲート近くにいた警備兵から、廃墟になったドームの近くでは殺し合いが起きているということを教えられた。一週間分しか食料がないのだから、当然といえば当然だ。私達は、人の立ち入らないような場所をあえて目指すほかなかった。最後に待ち受ける運命は一つしかなかったが、それを弟に話す事はとてもできなかった。
――お母さん。
心の中で叫ぶ。私達を守って。弟が、よぼよぼのおじいちゃんになってから死ねるように、お願い。右のふとももの横に手を当てる。母親からもらった、最初で最後のプレゼント。これがある限り私達は大丈夫。そう、自分に言い聞かせた。
シュウはいつの間にか泣き止んでいた。森の中は相変わらず静寂に包まれている。
せっかく閉鎖的な空間から解放されたというのに、そこが汚染された世界では、森林浴を楽しもうという気にはならなかった。
「もう大丈夫?」
私の問いに、シュウはぎゅっと口をつぐんだまま頷いた。
親に見捨てられた。そんなことをいきなり言われて、こんな世界に二人で投げ出されて。気休めの言葉もロクにかけられない自分が腹立たしかった。
「行こう。このまま歩けばどこか町に着くかもしれない」
そうは言ってみたものの、このまま歩けば森が開けるという確信はもてなかった。しかし、このまま森の中を進んでもいずれ食糧が尽きて餓死するということは明白だ。何とかして、食料を得る方法を考えなければいけない。
薄暗い森の中をしばらく歩くと、行く手に何か岩のようなものが見えた。形からして自然のものとは思えない。驚いた私は、シュウの手を引いて歩くスペースを早める。もしかしたら街があるかもしれない。街なら、何か食糧があるはず。私の頭の中では、そんなことが一瞬にして渦を巻き始めていた。シュウは少し困ったような顔をしていた。とりあえず食べ物をなにか見つけなければこの子を助ける事も出来ない。
やはり岩は人工物だった。私達がその岩の前まで来ると、廃墟になった小さな村のある、開けた場所になっていることが分かった。
岩は看板と同じような役目を果たしていて、汚れが付着していて読み取れなかったが、何かこの集落の名前を書いていたことだけは確かだ。まさかこんな森の中に村があるなんて。期待はしていたが、本当にあると少し戸惑ってしまう。
岩の横を通り、村で一番大きいと思われる通りに出た。かつては舗装されていただろう道路は見る影もなく、穴が空いたり、ひび割れたりしている。道路の両端にある民家は、外観こそかろうじて家の形を保っているのもあるが、ほとんどは屋根にぽっかり空いた巨大な穴が地面まで貫かれており、ドアだけでなく、外壁がなくなり、中が丸見えになっていた。主のいなくなった家の末路。私達の体も、朽ち果てたらあんなふうになってしまうのかもしれない。考えただけで、ぞっとした。
「ねぇお姉ちゃん。あそこ」
シュウが私の腕を掴み、一点を指差していた。私は何気なく指差す方向を見た後で、何か嫌な感じがした。
シュウも同じ事を思っていたのか、私の顔を、怪訝な顔つきで見つめている。
私達がいる場所から、十メートルほど離れたところ。ひび割れたコンクリートの道路の上に、明らかに石とは違う白い物体が何個も積み重なっていた。それはちょうど、二人の人間が折り重なって倒れているように見える。遠目に見ても、紛れもなく人骨だった。
「見ちゃ駄目!」
私は咄嗟に、両手でシュウの視界を塞いだ。心臓の鼓動が急激に早まっていく。
比較的新しいものなのだろうか。だとすれば、私達と同じようにここに辿り付いた人間がいるのかもしれない。
ドーム自治政府は正式なコメントを出していなかったが、殺人などの重犯罪者は、ドーム追放を命じられるということを本で読んだ事があった。もしかしたら、そういう犯罪者達のなれの果てなのかもしれない。
大通りをしばらく歩くうち、いよいよじわじわと、危惧していた不安が押し寄せてくるのを感じていた。
廃墟の村には、めぼしいものは何もない。食べ物も、使える道具も、全てはもう遠い昔に塵と化してしまっていた。
食料が尽きる一週間後まで、ここで探索を進めたとしても、時間の無駄になるということは想像できる。でも、だからといってここを出てまた同じような集落の廃墟が見つかるかといえば、もちろん確信できない。
いや、廃墟とはいえ、暗い森の中で野宿するよりは良いかも知れない。少なくとも雨風を防ぐ事は出来る。
一人で考え事をしていた私は、シュウが見当たらない事に気がついた。
さほど広くない村とはいえ、建物がいきなり崩れてくるとも限らない。私は急いでシュウを探しに行った。
何処を見ても静かだった。シュウがいればすぐに分かる。確信はできなかったが、自分の感覚を信じて、小さな音にも耳を澄ませた。
と、ガタと何かが動く音がした。近くの民家から。まさかあの中に。
「シュウ! どこにいるの」
大声で叫ぶ。近くにいるのは分かったが、不用意に中に入るわけにもいかない。声に気がついて、戻ってきてくれる事を祈った。だが、シュウは一向に戻ってくる気配がない。物音が聞こえなくなった。嫌な汗が体に纏わりつく。
「シュウ!」
もう一度叫ぶ。考えるより先に、体は民家へと向かっていた。私の顔は、最悪のケースを想定していたために泣きそうになっている。もう泣いているのかもしれない。息が荒くなる。民家の開け放たれた玄関の扉が見える。ドア枠に手をかける。叫ぶ。返事がない。叫ぶ。もう何を言っているか分からない。背後から大声。私の声ではなかった。
「その建物から離れるんだ!」
ドームを出た後、初めて聞いた弟以外の人間の声だ。若い、でも私よりは年上だろう。
振り返ると、ボロボロのスーツとマスクを身に付けた長身の男性が、私の後ろに立っていた。おそらく私が走り始めた頃には後ろにいたのだろうが、声をかけられているのに気づいていなかったかもしれない。
「早く! いつ崩れるか分からないんだぞ!」
そんなこと分かってる。でも、シュウが中に。
「あの、弟が」
「弟? 君の弟が中にいるのか」
青年の声には、緊張と驚きの感情が混ざっているようだ。
そう、弟が中にいる。私の大事なシュウ。死なせては駄目。絶対に駄目。
「シュウは私の命なのよ!」
無意識のうちにそう叫んでいた。頭の中はもう少し冷静なのに、表面に出て来る言葉は完全にヒステリックになっている。
「大丈夫だ。シュウ君は必ず出て来る。ここで名前を呼び続けるんだ」
青年は幾分落ち着きを取り戻したのか、冷静の声で私をなだめる。
私も、彼のどこか人を包み込むような温かさで落ち着き、民家から少し離れ、名前を呼び続けた。
何分か、何十分か経った時、ドタドタと危なっかしい走り方でシュウが民家の外から出てきた。私は思わずシュウを抱きしめて嗚咽し始めていた。シュウの方はというと、突然の出来事に目をキョロキョロと動かしていた。
「そうか、三日前に」
青年はそれっきり黙り込んでしまった。私達が貧困層という理由だけで追い出された、そのことを聞いて同情しているのだろうか。ドームから出た後、私は誰のことも信じられなかった。だからこそ、誰も訪れないような場所を選んで歩いてきたわけだ。
「辛かっただろうね。君たちは強いよ」
彼の顔は、汚れてほとんど不透明になってしまったマスクを通してでもはっきりと見えた。良い人だ、そう直感的に思った。私たちを見ている目が、普通の人間とは違う。私の母と、少し似ているかもしれない。
私達は、昔は大豪邸であっただろう巨大な家の廃墟の近くで腰を下ろしていた。廃墟はもうほとんどが崩れてしまっていて、これ以上崩れたとしても特に危険はない。誰もいないこの寂しい村では、何かの建物の側にいないと落ち着けなかった。風が時々砂埃を立たせる。
「まさかこんな所に人が住んでいたなんて。一体いつの時代の話なんだろう」
青年の目は、遠い日を懐かしむわけでもなく、かと言って戦争を引き起こした自分たちの先祖を恨んでいるようにも見えない。過去の事をあれこれと考えてもどうにもならない。それは私には分かりきったことだった。だが、いまだに割り切れない自分もまだ心の中にはいた。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。僕はカイ。一ヶ月くらい前、ドームを追放された。えっと……」
カイはそこまで言って、うつむいた。不思議に思っていると、彼の腹の虫が鳴きだした。シュウと私は、思わず噴出してしまった。
「すまない。貴重な食糧をもらってしまって」
本当にすまなそうに言いながら、液体食料を勢いよく口の中にいれていく。よっぽど空腹だったのだろうか、よく見ると彼の頬は少しこけていた。食料を囲んで、三人は家族のように談笑している。シュウはもうカイのことを気に入ったのか、隣に座って食事の様子をじっと見詰めていた。
「あの、こんなこと聞くのも失礼なんですけど」
私は思い切って彼に聞いてみることにした。一ヶ月前は、まだ貧困層のドーム追放は行われていない。ちょうど一週間前から始まったことなのだ。とすれば、追放される理由は限られてくる。大方予想はついていた、だが、本人の口から直接聞きたかった。
「あぁ、分かってるよ。罪状は、第一級殺人さ」
カイの顔がくもる。殺人。分かっていたが、やはり信じられなかった。基本的に、ドームを追放されるのは殺人を犯した犯罪者のみ。目の前の温和そうな青年が殺人犯だとは、私でなくても耳を疑うことだろう。やっぱり、とつぶやきそうになってあわてて口をつぐみ、ショックを受けたような顔をしてうつむいた。いくら良い人とは言っても、やはり会ったばかり。子どもが、それも女がそんな知識を持っていることを知れば、警戒されて何をしだすか分からない。
「とても人殺しをした人には見えない。何があったんですか」
正直な気持ちだったが、カイはその質問にさらに表情を暗くした。聞いてはいけないことだったのだろうか。だが、ここまで来たからには聞かないほうが不自然というものだ。彼は液体食料を一パック空にし、何か考えるように目を閉じた。
「……父親を殺したんだ。僕と弟でね」
今まで聞いたどんな声よりも低い。ほとんど聞き取れないほどだ。
「どうして」
好奇心が抑えられなかった。他人のことを知ったとして、それは何の役にも立たない。ただ他人に同情して傷の舐めあいをするだけ。分かっていたが、今は何もかも忘れたい気分だった。ドームを追放されたことも、これから待ち受ける逃れようのない運命のことも。
「ひどく、虐待されていた。特に弟がね。あの子は可愛かったから、女装をさせられて見世物さ。もちろんただの見世物じゃない。客にどんなことをされようが文句一つ言えない。奴は、父親は、弟が陵辱される様を見て楽しんでいた。人間の屑さ」
カイは自嘲するように笑った。希望を失った、乾いた笑いだった。
「僕は弟を守ってやりたかった。だけど、そのころ子どもだった僕には何も出来やしなかった。僕自身も、時々父親の慰み物にされていたんだ。そうして、僕達は大人になった。弟は、心も体も傷だらけで、成長して見世物の役割を解かれた。それと同時に、僕達はロクに食べ物も与えられず、地下室に閉じ込められた。どうしてだと思う?」
突然質問を振られ、私は戸惑って首を横に振った。カイは、何か吹っ切れたように笑い出した。笑い声は誰もいない街に響き、どこまでもこだました。シュウは少し怯えているようだった。
「ドームでの殺人罪は死刑を意味する。奴は成長した子どもに興味はなかった。つまり、僕達は用済みになったから、地下室に閉じ込めて餓死させようって魂胆。死んだ後に、病死なりなんなりいくらでも誤魔化しはできる。認めたくないが、父は有名で有能な医者だったからね」
「ひどい……」
知らないうちに、声が出ていた。人間は醜いものだ、なんて古い書物にはいくらでも書いてあることだが、それを実感した今、自分が人間であることさえも否定したい衝動に駆られた。気がつくと私は、心からカイに同情していた。
「だから殺した。人を絶対に殺してはいけないって、そう思うかい? 僕は思わないよ。人間って動物は、自分が生きるためなら何だってする。鬼にだってなれる。おとなしくて、親に反抗しない、良い子として振舞ってきた、そんな僕でさえ、出来た」
最後のほうはほとんど声になっていなかった。肩を震わせ、カイは顔を覆った。その様子を横から見ていたシュウが、そっと背中を撫でていた。
どうして同じ人間同士なのに分かり合えないのか。それは人間でいる限り永遠に解けない謎かもしれない。でも、私はそれでも、今ここにいる一人の青年とは、真の意味で分かり合えるかもしれないという希望を、微かに抱き始めていた。
「弟と二人、ドームを出た後は大変だった。食料はたったの三日分。死刑を意味するっていうのはまさにこのことで、他の死刑囚達が食料を奪い合って殺し合いをしていた。僕たちも否応なしにそれに巻き込まれたよ。今まで生きてこられたのが不思議なくらいだ」
カイの話を聞きながら、私は何か頭の隅に引っかかるものを感じ始めていた。生まれたばかりの希望の光、それがだんだんと弱くなってくるような、形容できない気持ち。これは一体何なんだろう。
「でもね、他人から来る日も来る日も食料を奪うというのは中々常人が出来ることじゃない。ついこの間だけどね、油断して僕は食料を奪おうとした相手に左手を傷つけられてしまったんだ。もう感覚はほとんどないよ」
そう言ってカイは、左手をブラブラと動かした。多分腕を折られたんだろう。
「三週間ほど経って、僕は別の方法を考え始めた。知ってるかい。この"外の世界"の空気はほとんど汚染されてるけど、実は地下の方にはまだ汚れてない、綺麗な空気が多少は残ってるってこと」
突然、激しい悪寒がした。彼が何を言おうとしているのか、私には分からないはずなのに、無意識ではすでに分かってしまっている。私の第六感とでも言うべきものが、必死で危険を知らせようとしている、そんな気持ち。束の間の逃避から現実に引き戻され、私の精神が再び緊張してきていた。
彼に質問しなくてはいけなかった。それは決して聞いてはいけない、禁断の問いかけだと分かっていたとしても、それでも私は問わなければいけない。
あなたの弟は、一体どこへ行ったの?
突然強い風が吹き、私達の体を通り過ぎていった。
シュウが私の顔を見た。カイは笑っていた。
「僕はとても腹が減っていたんだ。大昔に使われていた地下シェルターの中で、暑苦しいマスクを外した時、純粋な人間の本能がまるで津波のように僕の体の奥底から押し寄せてきた。弟は大人になっても綺麗なままだった。彼の体は誰にも渡したくない、そして僕の中で永遠に生き続けさせたい! そう思ったんだよ」
悦に入っている、異常者の話し方。完全に自分に酔っている彼を見ながら、私は込み上げてくるものを必死に押さえた。この人は、忌み嫌っていた父親の血を受け継いでいる。血は争えない、そういうことなのか。
「つい二日ほど前のことだよ、"彼の魂"は全て僕の中に取り込まれた。亡骸はゆっくりと、噛み締めるように大事にしたからね、長くもったんだ」
カイはその場面を思い出しているのか、恍惚の表情を浮かべ、不意にシュウに視線を移した。シュウは無表情で震えていた。カイは微笑み、一気にシュウの体を自分の近くに強引に引き寄せ、そして右腕で軽く弟の首を絞めた。目の前の信じがたい光景に、私の心臓は一気に跳ね上がった。
「やめてっ!」
「まだ話は終わってないよ。弟を食べた後に思ったんだ、やっぱり若い肉のほうが良いってね。もちろん弟は若かったけど、それでも子どもというような年齢じゃない。子どもの犯罪者なんてそうそういるもんじゃないとは思ったけど、まさかドームでそんなことが行われていたとはね。僕は運がいいよ」
ギギギという物が擦れる音がし、シュウの表情が見る見るうちに恐怖と苦痛にゆがんでいくのが見えた。カイはそんな弟を見ながら、おぞましい笑みを浮かべていた。私の目がこれ以上ないほど見開かれる。
「やめて、シュウを離して!!」
悲鳴に近い叫び声を上げ、カイに歩み寄ろうとした。だが、彼は来るなと叫んだ直後に、スーツの中に隠し持っていたナイフを取り出し弟に突きつけた。ナイフには赤黒いものがこびりついている。
「分かるよな。可愛い弟を目の前で殺されたくなかったら、後ろへ下がれ」
冷徹な声。そこには私が彼に感じた、一筋の希望も夢も、何一つ感じられなかった。カイの瞳の輝きは消えてしまった。まるで、そんなのは全て幻だったんだよと、あざ笑うかのように。
カイは私が離れたのを確認してから、自らもシュウと共に後ろに下がり、私との距離をさらに広げた。シュウの苦しそうな顔ははっきりと見える。泣き出しそうになりながら、泣く事によって目の前の現実から逃げようとしている自分に気づいてをれを止め、私は思考を巡らせた。
「実を言うと、ここは僕のテリトリーなんだよ。村のことはほとんど知り尽くしてるし、この近くに地下シェルターがあることもね。ここのシェルターはよく出来てるんだ。シェルターって、ほとんどは錆付いたり破壊されたりしてるのが多いんだけど、何故かここのはほとんど完全な近い形で残ってた。外からは分かりづらい造りになってるし、そもそもこんなところに人なんか来ないからかな」
カイの話す声は楽しそうだった。私はそれを無視して目を閉じ、必死に考える。何かなかっただろうか、この状況を打破することの出来る、何かとっておきのものが。
と、私の脳天に突如雷が落ちたような衝撃が走った。あった。スーツの右太ももに隠し持っている、母親からの大切なプレゼント。
「大丈夫。君の命だけは助けてやるよ。ま、そこにある食料は全部頂くけどね。これも運命だと思って――」
何もかも手に入れたような気になっていたカイの表情が凍りついた。その視線は、私が両手で握り締めているものに向けられていた。
母親からもらったプレゼント、錆付いて、本来の色からすれば大分みすぼらしい印象はあるが、それは紛れもなく黄金の銃だった。
まだ母が会計員として働いていた薔薇色の時代。彼女に想いを寄せていた同僚の男性が、護身用にくれた高価なものだという。結局二人は結ばれなかったが、母は錆付いたこの銃をずっと大切にしていた。
「お前、どうしてそんなものを」
カイの驚きと焦りと怒りが混ぜこぜになったような表情。鬼のようだ、と思った。人間は、自分の身を守るためなら鬼にだってなれる。彼のその言葉を思い出していたら、不意に笑いがこみ上げてきた。私も鬼のような顔をしているのだろうか。
「何笑ってるんだ! 銃を捨てろ、弟が殺されてもいいのか!」
明らかに怯えていた。声が震えているのが良く分かる。形勢逆転。でも油断は出来ない。弟は絶対に渡さない。私が守らなくてはいけない。人殺しをしても、どんな汚いことをしても、私たちは生き抜いてみせる。だから、今ここで立ち止まるわけにはいかない。
「そっちこそいいの? もしシュウを殺したら、私はためらいなくあなたを殺すわ。この距離からなら、私にだってあなたの顔を狙い撃ちにすることくらいできる」
精一杯、緊張を隠して言った。本当はシュウが殺されたら、なんて考えることすら嫌だが、ハッタリとしては使える。思ったとおり、カイの目は先ほどよりも動揺していた。ただの小娘だと思って油断していたに違いない。いい気味。
「畜生、ガキの癖に調子付きやがって」
怒りが頂点に達したのか、カイはいきなり思いもよらない行動をとった。苦しがっているシュウのわき腹のあたりに、ナイフを突き刺したのだ。ブシュ、という気の抜けた音をかき消すように、悲鳴とも叫びともとれないような幼い声。シュウの体が、まるで糸の切れた操り人形のように力なく崩れ落ちた。カイは、不気味な笑みを浮かべ、私の顔を見ている。その顔を見た瞬間、抑えていた体の中の炎が、私の胸を焼き尽くした。
――殺してやる!
震える指を引き金にかけ、膝を突いているいる男に銃口を向けた。ためらいはない。引き金を引く、が、
「?」
カイが、不思議そうに私を見つめている。驚いたのは私のほうだ。再度引き金を引く。動かない。トリガーが錆付いていて動かなかったのだ。一瞬だけ見えた光は再び消えて、私は暗闇のどん底に突き落とされた。
私が構えた腕をぶらんと下ろすのとほぼ同時に、灰色の空から雨が降り始めた。それはまるで、今の私の気持ちを代弁している涙のように思えた。もう駄目。そう思うしかなかった。
「ははっ、残念だったなぁ。まぁ、人生なんてそんなもんだ。そうそう上手くいくものじゃない」
カイの、一転して希望を取り戻した明るい声。慰めるような、その耳に障る声を聞きながら、私は地面に崩れ落ちた。どうして、どうしてなの、お母さん。
「最低よ……あんたは」
なんとかそれだけ言ったが、もはや私に口を動かす以外のことは出来なかった。シュウを失いたくない。そう強く願っていたはずなのに、冷酷な現実を突き付けられ、一体どうすればいいのかわからなかった。雨に濡れた地面に、薄っすらと私の惨めな顔が見える。
「気違い。殺人鬼。あんたなんか人間じゃない。人間の皮を被った鬼よ」
涙声になっていた。
「何とでも言え。お前の弟が、俺を生かすために役に立てるんだ。光栄だろう?」
「そんなわけないでしょ。あんたなんか、屑よ。生きる価値のない最低の屑よ!」
涙が止まらなかったが、そんなことを気にする気にはなれなかった。無駄な抵抗だと分かっていても、私は叫び続けるしかない。
「あんたはお父さんと同じよ! 結局自分の父親と同じことを自分でやってるのよ!」
「……何?」
私の言葉を受け流していたカイが、立ち上がって私に向き直った。雨のせいで表情は良く見えないが、声でかなり怒っているのだということは予想できた。父親に似ているという言葉が禁句だったとは思わなかった。コンプレックスを持っていたらしい。
「ガキ、もう一度言ってみろ。誰に似てるだって、えぇ!?」
いよいよ叩きつけるような激しい雨になってきた。その雨にもかき消されないほどの大声でカイは叫び、近づいてきて私の腕をつかんだ。それと同時に、足で私の体を踏みつけ動けないようにする。凄い力だ。恐怖と痛みで銃を落としそうになる。だけど、これだけは離してはいけない。たとえ弾丸が撃てなくても、これはお守りなんだから。
「銃をよこせ。お前の体に興味はないが、その銃はハッタリに使える」
カイは冷たい声で言いながら、銃を持つ私の右腕を、片手だけでねじり上げた。あまりの痛さに、声が出ない。のどが潰れた様な、奇妙な音が出ただけだった。
「やめ、て……」
至近距離でも聞こえないような小声。カイは目を見開きながら、私の腕から銃を離そうと躍起になっている。体の震えが止まらない。怖い、私ここで殺されるかもしれない。弟も、家族も、自分の命さえも、何一つ自分の意思に関係なく奪われてしまう。
「折るぞ、二度と使えないようにしてやる。この俺の腕みたいにな」
歯を食いしばり、腕に力を入れながら、カイは笑っていた。他人を傷つけることに快楽を感じてる。殺人鬼。
と、私はあることに気がついた。さっきから滝のように降り続いている雨。もしかして、この雨で銃の錆が取れているかもしれない。もしそうだとしたら引き金が動く。
それは賭けだった。でも、私にはもう後がない。やるしかない。
「なかなかしつこいな。大丈夫だ、もう少しで、お前の腕、へし折って、やるからな」
力を入れているせいか、カイは途切れ途切れに言葉を発していた。私は痛みを忘れ、必死で銃の照準をカイの顔に向けようとする。腕を掴まれているため持ち上がらない。手首だけでも、上のほうに向けた。まだだ。まだ届かない。
「ほら、どうした、泣いてみろ。痛いだろ、苦しいだろ? 何とか言えよ、このガ――」
私は全身全霊を込めて腕を動かし、銃口をカイの防毒マスクに押し当てた。目を閉じ、引き金を引く。雨の音を掻き消す、すさまじい轟音。反動で私の腕は、掴んでいたカイの腕を引き離し、そして何かが折れる鈍い音と共に空に跳ね上がった。
毒ガスを吐き出す赤紫色の広葉樹の下、私とシュウは雨宿りをしていた。
シュウは幸い気絶していただけだったが、ナイフで刺されていたのはわき腹ではなく、空気を浄化する機械のポンプだった。
防毒マスクとその付随品である空気浄化装置はデリケートな構造のため、一度壊れたらまず修理することは不可能。
シュウにその事を話すと、何のためらいもなくマスクを外した。汗で張り付いた短い綺麗な黒髪。三日ぶりに見る、弟の素顔だ。
十歳とは思えないほど成長の遅いシュウは、汚染された空気が肺にくまなく循環してからも三十分程度は生きていられるということを知らなかった。無邪気に、やっと暑苦しいマスクを外せたと言って喜んでいた。
「ねぇマヤお姉ちゃん。大丈夫だよ。それ外しなよ」
シュウはにこにこして、私の防毒マスクを指差した。この子は何も知らない。あと三十分程度の命だということも、私達の未来は永久に閉ざされたということも。
「うん、そうだね。暑いもんね」
私は多分、これ以上無いくらい笑顔だと思う。緊張の、いや、生きたいという意志の糸がぷつんと切れたような喪失感。
慣れない左手でマスクを外す。時間はかかったが、もう時間を気にする必要も無くなった。
大昔の言葉を使うと、私は大和民族の血を引いているはずだが、髪の毛は黒ではなく栗色だ。シュウは綺麗だねと言ってくれたが、他の大人達は気持ち悪がった。今思えば、私は生まれたときから普通の人間とは違う道を歩くよう定められていたのかも知れない。
「あぁ、気持ちいいねシュウ」
猛毒の空気を肺いっぱいに吸い込んで深呼吸し、私はシュウに話しかけた。シュウは嬉しそうにうなずき、私の傍にすり寄ってくる。可愛らしくて、思わず抱きしめた。太陽のように暖かかった。私の太陽、希望の光、命に代えても守りたかったもの。涙をこらえ、私はシュウを胸から離し、無邪気なその顔を見つめた。
「ねぇシュウ? シュウの将来の夢って何だったかなぁ」
森の中を歩いていたときに不意に浮かんだ疑問。死ぬ前に、シュウの口から聞いてみたかった。
シュウはちょっと考えるような仕草をした後、思い出したと言いたげに目をぱっと開いた。
「マヤお姉ちゃんと結婚すること!」
嬉しそうな笑顔。聞いた瞬間、私は涙をこらえられなくなった。そうか、私は"彼"と結婚するんだ。綺麗な指輪をもらって、幸せになることを誓って、大きな白い家を建てて。
「どうしたの? お姉ちゃん、ねぇお姉ちゃん」
彼と二人で愛を育もう。決して消えない、激しい愛の炎を燃やそう。
「そうだね、二人で幸せに暮らそうね。誰もいない静かな場所で、子どももいっぱい作ろう。いっぱい、いっぱい……」
最後のほうはかすれた声になった。私は空を見上げる。澱んだ空。一筋の光さえ差す気配はない。
神様、もしいるのなら教えてください。私たちを楽園から追い出して、その上何故こんな仕打ちをなさるのですか。それも全て決まっていたことなのですか。もしそうだとしたら、私達はその程度だったということなのですか。
雨は、まだ止みそうになかった。
<了> |