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それが夕日の中ならば

「ふぅっ」
 ぴかぴかに磨き上げられた窓ガラスを見つめ、真実子まみこは満足げなため息をついた。気のせいかもしれないが夕日がひときわ美しく見える。薄暗くなりつつあるので、外の景色と同時にぼんやりと自分の顔も映っていた。
 真っ黒だったサッシも見違えるようになっている。ここまでするのは本当に大変だった。かなりの疲労感があるが、その甲斐はあったと思う。
「ねぇ、綺麗になったでしょう?」
 真実子は、少し離れたところで同じように窓拭きをしていた諒一りょういちに声をかけた。彼もまた相当、熱心にやっていたはずだ。きっと疲れていることだろう。
 諒一は手を止め、少しだけ何かを考えているようなそぶりを見せた。それから、微笑みながら真実子の方へ近づいてきて、演技がかった動作で両手を前に広げて、言う。
「君の方が綺麗だよ」
 差し出された諒一の右手には、薄汚れた雑巾が握られている。もとは真っ白だったのだが、サッシを拭いたあとの黒い筋がいくつも付いていた。
「……………………はぁ?」
 たっぷりと十秒は沈黙してから、真実子は気の抜けた声を出した。
 自分たちはそんな甘い会話をするような間柄ではない。断じて、ない。
 はて、諒一は変なものでも食べたのだろうか。それとも頭でもぶつけたのだろうか。
「――って、言われたら、どうする?」
 どうやら冗談だったらしい。少しだけ残念に思いながら諒一の顔を見ると、汚れた手で顔をこすったのか頬に面白い模様が付いていた。
 真実子は呆れたように、わざとらしく大きなため息をついた。
「雑巾を目の前に言われて嬉しいと思う? そういう台詞は恋人同士が夜景の綺麗なレストランで、とか、二人きりの白い砂浜で、とかのムードがあるところで言ってこそ意味があるのよ」
 言ってから、あまりにも陳腐なシチュエーションだったかと真実子は自分の想像力のなさに恥ずかしくなった。もっとも、そんな場所でこんな歯の浮くような台詞を言われたら思わずふきだしてしまうに違いない。とくに相手が諒一ならなおのことだ。
「まあ、ごもっともだな」
 そう言いながら、諒一は近くにあった椅子に反対向きに腰を下ろした。背もたれに肘をついて両手で顎を支える。ああ、顎まで汚れてしまうと真実子は思ったが、諒一は気づいていないようだ。足を開いて座っているので制服のズボンの膝が埃で白くなっているのが目立つ。真実子のスカートの裾も埃まみれで、ジャージに着替えるべきだったかと後悔した。
「じゃあ、さ。こういうのはどう?」
 諒一は掃除を終わりにするつもりのようだ。まぁいいかと、真実子も窓の高いところを拭くのに使った椅子に座って諒一と向き合い、彼の話を聞く。
「彼氏の部屋を彼女が掃除した。彼女が『綺麗になったでしょう』と嬉しげに言う。そこで彼氏が『君の方が綺麗だよ』と言う。彼女は何と答える?」
 またまた何を言い出すのやら。
 何を期待しているのか分からないが、諒一は散歩を待ちわびている犬のような目をして真実子を見ていた。何となく真面目に考えなければいけないような気がして、真実子はうーんとうなる。
「えっと……、照れながら、『何、言ってんのよ』かな?」
 恋人に綺麗だと言われれば、普通は嬉しいだろう。たぶん。実感が湧かないので真実子は自信を持って答えられないが。
 諒一はふむ、と頷いた。それから、にやにやしながら次の質問を投げてくる。
「じゃあ、ベッドの下からエロ本が出てきて『君の方が綺麗だよ』は?」
「それ、全然、意味が違うでしょうが!」
 真実子は手にしていた雑巾をぎゅっと握りつぶした。幸い乾拭きだったので水が垂れるようなことはなかった。
 諒一がけらけら笑っている。なんだか無性に腹が立つ。
 もう阿呆は放っておこう。真実子は掃除の後片付けをするべく、雑巾を洗いに行こうと立ち上がった。それを諒一が「まぁ、待てよ」と引き止める。
「いや、実はさ、年末の大掃除のとき、うちの両親が同じようなやり取りをしてたんだ。掃除していた場所はガスレンジだったけど。母さんが油汚れがすっきりしたのを見て『綺麗になったでしょう』と言ったら、父さんが『君の方が綺麗だよ』って」
「あんたのお父さんって……」
 真実子は納得した。諒一のそこはかとない変人ぶりは遺伝だ。
「で、俺は考えたわけだ。もし掃除していた場所がトイレだったら?」
「嬉しいわけないでしょ!」
 思いっきり叫んでしまった。諒一はうんうんと頷いて満足顔だ。何か乗せられたようでむかつく。
「そうなんだよな。同じ台詞なのに状況が違うと、まったく違う意味を持ってくる。実に面白い」
「あんた、何が言いたいのよ?」
 諒一の意図が読めず、真実子は苛立つ。
「じゃあさ、これは、どう?」
 まだあるらしい。諒一の『もしも』に付き合うのもいい加減、嫌になってきた。どうにも苛立って仕方がない。それでも真実子が再び、すとんと椅子に腰を下ろしてしまうのは、いったいどういうことだろう。
 今度の諒一の語り口は、妙に静かだった。
「……明日は卒業式。普段はめった掃除なんかしなかった部室をぴかぴかをにしようと、黙々と掃除をする男女。窓から夕日が差し込んできて、なんだかしんみりとした雰囲気。あらかた終わったところで女が『綺麗になったでしょう』と言う。それに対して男が『君の方が綺麗だよ』と答える。けれど、彼らは別に恋人同士でも何でもない」
 ――それは今まさに真実子と諒一の置かれている状況だった。
 真実子は諒一の顔をまじまじと見つめるが、夕日に赤く照らされて表情が読みにくい。けれど目元が笑っているように見える。
「ね、これはすごくムードがあると思うけど? この場合の『君の方が綺麗だよ』はどんな意味があると思う?」
 真実子は息を呑んだ。
「どんな意味があるの?」
 声が少しかすれてしまっている。心臓が早鐘のように鳴っているのは仕方ないだろう。
 諒一は余裕綽々、相変わらず頬杖をついたままの姿勢でにこやかに言った。
「『愛の告白』」
 真実子は困惑した。諒一の真意が分からない。何故なら――。
「…………それは、掃除をしている二人が卒業生の場合じゃないの?」
 そう。確かに二人は卒業式を明日に控えて部室を掃除していた。
 だがそれは、明日、先輩たちの卒業祝いパーティーをするためである。部屋の端に置かれた机には紙皿、紙コップ、スナック菓子などが用意してある。買出し部隊の部員たちがさっき置いていったものだ。
 掃除だって初めは大人数でやっていた。最後に二人が残ったのは、真実子がこだわって窓を磨いていただけで、諒一はそれに付き合ってくれたのだった。
「まぁ、いいじゃん。というわけで、愛の告白ね」
「え?」
 諒一はきょとんとしている真実子の雑巾をさっと奪うと、洗いに行ってしまった。
 扉のバタンと閉まる音に、はっと我に返った真実子は水道に向かった諒一の背中を慌てて追いかけた。
 誰もいなくなった部室には、二人が飾った『ご卒業おめでとうございます』の垂れ幕が夕日に赤く照らされていた。

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