―あなたが、動くと、
この愚鈍で恥知らずな、眼球は役割を思い出す。
〜目前の恋しい人〜
僕はもともと、出来が悪く、見てくれで人より目立つことで、自分を地位を作っていました。
―あの日から、よけいに頭の弱い人間になったようで、
―僕は彼女を見かけただけで、それはそれは阿呆の子になったように、
だらしなく、口を半開きにさせて、いとも容易く、世界を見失うのでした彼女は、もちろん、僕の気持ちなど、知りません。
彼女はクラスの全員から『委員長』と呼ばれ、特に僕の仲間内では『小局さん』など、どこから仕入れてきたのかわからないあだ名をつけられて、
オブラートに包まれたナイフのようなからかいを投げつけられていたのですから。
でも、僕はそんな仲間達に注意をすることはありませんでした。
彼女が真面目で勉強が出来て、家柄もいい、なんて、どうでもいいことなのです。
僕はただ、彼女を見て、自分の記憶の中で、彼女の欠片を集め、それらを、まるでアルバムをめくるように、あるいは標本のように、脳裏にはりつけて眺めていられれば、いいのです。
『視線の美学』といえば、いいのでしょうか。
この楽しみを覚えた僕は、今までのように、何も考えずに口から出任せに喋り、まわりを楽しませるという特技をしばしば忘れたり、逆に笑うべきところを聞き逃してしまったりするようになってしまいました。でも、別にかまいません。
彼女のことを考えている方が僕にとって有意義に思えるからです。
皆、最近、僕の様子が変だといいます。
僕は何も変わってなんかいないのに、不思議なものです。
僕は僕だけの楽しみを見つけただけなのに。
僕が彼女に目覚めたのは、どこかしら、不可思議な導きのせいだと思います。
僕は放課後、いつものように悪友達と口さがないお喋りをしながら校門を出ました。
その時、僕は、宿題の数学の問題集を机のうえに忘れてきた事を思い出しました。
僕は悪友達に軽い調子で謝り、先に帰ってもらい、一人で教室へ引き返しました。
僕の教室、二年四組は二階にあるので、僕は階段を二段飛びで駆け上がりました。
教室から、地理教師の中川が早足で出ていくところでした。
僕と目が合うと明らかに狼狽え、すぐに下を向くと、いっそう速度を上げて僕の横を通り過ぎました。
その瞬間、僕は肩で息をしながら、妙な雰囲気を感じ、横目で彼を見送りました。
教室になにか重大なものが残っているように感じられ、僕はスパイのような気分でゆっくりと教室へ向かいました。
引き戸のガラス枠に、そっと背中をつけて、中を覗くと、一人の女生徒が、窓際でたたずんでいました。
夕日に照らされた彼女は、何かを祈っているように、両手を目の前に、俯いています。
二つ結びにした黒髪がかかるセーラー服の襟の辺りが震えていました。
僕はその女生徒が、『委員長』だと、すぐにわかりました。
彼女は必要以上に目立ちたがるタイプではなかったのですが、真面目な性格と押しつけられた立場のせいで、僕らのような不真面目な人間から目の敵にされ、身勝手な話題にのぼる有名人でしたので、僕はすぐにわかったのです。
彼女はおとなしい方ですが、どこか勝ち気で、僕らのからかいにさえ、耐えられるのに、今、夕映えの教室の中で一人で肩を震わせていたのです。
二つ結びの後れ毛と夕日にけぶるうなじが綺麗だと思いました。
僕は見とれてしまった自分を心の中で叱咤して、引き戸をわざと乱雑に開きました。
咄嗟に彼女が振り向きました。
涙で赤くなった目を見張り、僕を確認すると、すぐに顔を逸らし、学生カバンをひったくるようにとると、僕の隣を走り去っていったのです。
僕は後悔しました。
とても悪いことをしてしまった、と
彼女の透明な悲しみを濁してしまったのだと、思いました。
悲しみに濡れた黒すぐりの瞳は、みがかれたばかりの宝石のように澄んだ光を持っていました。
セーラー服の青みがかった冷ややかな純白とは違う、薄く血の通った薄桃のうなじが、なぜかとても鮮明に頭のなかに残っていました。
僕は彼女がいた夕日に焦がされている床に視線を落としました。
主人公のいなくなったスポットライトは寂しげに黄金色を注ぎ続けています。
見兼ねて僕は自分の机に視線を移しました。
白い光沢のある背表紙は黄金色の恩恵から離れたところに置き去りにされています。
ミス・キャストの僕には、あまりにも不釣り合いで、僕はそれをカバンに押し込むと、一緒に夕映えの舞台から、逃げだしました。
下駄箱にも、彼女の姿はもうありませんでした。
その時です。僕は、先にある黄金色の溜まりが、悲しいものを美しいものに変えることを知ったのです。
教えてくれたのは、彼女の震える肩と、夕日に淡く反射した後れ毛のうなじでした。
それから、僕は無意識に彼女の姿を探すようになりました。
しかし、いつも、彼女は僕の視線を避けるように身をひそめています時折、僕達がいない昼休みの教室や移動教室の合間にクラスメイトの女子と笑いあうことがあります。
でも、彼女は敏感で、少しでも気配を感じると、僕に背を向けるようにするのです。
僕はあの日以来、彼女の宝石のような瞳をみることはできなくなっていました。
だから、僕は日常という地層の中で、それに近いものを探すようになりました。
彼女の背中
彼女の横顔
彼女の指
彼女の睫毛
彼女のふくらはぎ
それでも、あの日のように輝くものは見当たりません。
最近はテレビや雑誌に興味を持てなくなりました。
そんなところには、あの美しい宝石は存在しないからです。
彼女からはもう発掘できそうにありません。
それでも、僕は視線のスコップを彼女にあてつづけます。
彼女の隙をすこしでも逃したくなくて、僕の心の探知機の電波は、みっともないくらい、彷徨っています。
僕の目も、耳も、常に彼女を捕らえようと必死になっています。
漠然と広がる広野で、垂れ流しのような視覚と聴覚は彼女が現われるときだけ、その機能を活性させるのです。
そんなふうに彼女の欠片を収集しつづけて、僕の狭い頭の保管室は氾濫寸前というところまで追い詰められていました。
ある日、僕は彼女に声をかけられました。
突然の出来事に、僕はいつも以上に長い時間、周りを見失ってしまいました。
悪友の姿もからかいの声も全て僕のなかには至らず、彼女の声と姿だけが、世界の全てのように感じられたのです。
放課後、少し、教室に残ってて。
彼女は居心地の悪そうな表情で僕にそう告げました。
悪友達が、いたいけな肩の両隣を狭める岩のように、彼女は身を縮めていました。
短く、うん。とだけ応えました。
それが、精一杯だったのです。
いつもの教室が、特別な舞台に変わる。
期待がじわじわと膨らんでいきます。
まるで長年の夢がかなう舞台役者のように、浮かれていました。
そして、とうとう、僕はその階段を昇る時がやってきたのです。
僕は台詞を考えました。
彼女の心を震わせるような台詞を、考えようとするのですが、こんな時に限って、言葉は頭の中で渦を巻き、奇妙にうねってはどろどろになって蒸発していきます。
そして、なにも思いつかないまま、僕と彼女だけが、舞台にいました。
距離はあるにせよ、いつも探していた対象がかたわらにあるのです。
僕は机の上で両手を握り締め、彫刻のように固まっていました。
彼女の声が淡く空気を振動させました。
「ねぇ、長住くん、あの日のことバラしたいならバラせばいい。なにを企んでいるか知らないけれど、あたしの様子をうかがって楽しむのはやめて。あたしだって気付いてるのよ。あたしが怯えてると思ったら大間違いよ。目は口より語るのよ。あたしはあなたなんて怖くないんだから」
まくしたてるのは普段の強気な彼女でした。
彼女の声は鋭く尖っていて僕の収集した断片を粉々にしていきます。
美しい彼女の断片がバラバラになっていくのが、わかりました。
それは少しの痛みを伴い、涙腺へ流れ込んでいきます。僕はそれを食い止めるように、両手をさらに握りしめました。
目は口ほどに語るなんて、まったくの迷信です。
しかし、彼女はそれを信じているようなので、僕は目蓋を貝のように閉じました。
彼女の断片を集めている幸福な日々が崩れていきます。
引き戸が閉められたとき、僕は一人で悲しい喜劇の舞台へ置き去りにされました。
黄金色の祝福は、僕のすぐそばにありました。
しかし、僕に届くことはありません。
あと少しなのに、その中に入れてもらえないのです。やはり僕はミスキャストのようでした。
彼女の欠片が防波堤を突き破り、小さな雫となって零れていきます。
手のひらで受けとめても、溶けてしまったそれは、ゆるくのびて流れていきます。
見ているだけでよかったのに。
僕は彼女を憎むこともできずに、こぼれていく美しい欠片たちを哀れみました。
突然、引き戸が開かれました。
「どうしたの?なにかあったの?」
国語の柳井先生が、驚いた顔で僕を見ていました。
柳井先生は比較的若い女の先生でやはり、人気もありましたが、僕は彼女ではないことに落胆しました。
「悲しいことがあったの?」
柳井先生は心配そうに僕を見ながら、前の席に腰をおろしました。
「余計なお世話かもしれないけれど」
そういうと、薄いピンクのハンカチをくれました。
目は口ほど語れない、つたない僕は、さすがにハンカチなどは持っていなかったけれど、こんなふうに、ちゃんと言葉というものを使えば良かったのかもしれない。
僕は新しい知識を得ました。
僕はハンカチを受け取って零れ落ちるものを拭いました。
「通りかかったときに佐川さんとすれ違ったの。あの子、辛そうな顔してたわ」
佐川さんとは彼女のことです。
僕は言葉を使わなくては気持ちを伝えることができないし、彼女は理解してくれないので、素直な言葉で、伝えなくてはなりません。僕は慌てて柳井先生にお礼を言ってハンカチを返しました。
僕は走りました。
校門の所で、彼女の後ろ姿を見つけました。
そして思わず、叫びました。
「佐川さんが好きです!!それだけです!!」
僕はその瞬間に視線の美学を捨てていました。
しかし、少しも悲しくはなかったのです。
振り向いた彼女は、あの日よりも驚いた顔をしていました。けれど、あの日のうなじより濃い薄桃色の頬を、僕は可愛いと思いました。
気が付けば、僕は一面の黄金色の舞台にいました。
悲しくなんてあるはずがないのです。
肩で息をしながら、僕は僕の舞台を、完成させたのですから。 |