それは、築十二年の中古マンションだった。
二ヶ月前、彼女はこのマンションの一室を仮契約した。単純に、建っている条件がいいわりに、部屋の値段が異様に安かったのである。
ここまではよくある話だった。ホラー小説をよく読むタイプだった彼女は、ピンと来た。もしかしていわゆる「いわく付きの部屋」というヤツかもしれないと考えた彼女は、それを単刀直入に、不動産屋に確かめることにした。
「あの部屋は、そういう部屋ではないですよ。大丈夫です」不動産屋は彼女に説明した。
「それに、お値打ちになってるのは、お客様が仮契約なさったお部屋だけではありません。じつを言えば、他の階もお値打ちなのです」
十階建てのマンションのなかで、ファミリー向けに作られているのが十、九、八階、七階から下はシングル用か、DINKS向けの造りだった。そのファミリー向けの3LDKタイプですら、その区の相場から言えば、破格だと言える値段なのだ。
マンション全体が安売りとは、いったい何なのか。
彼女に説明した不動産屋は、何か隠している風でもなかったし、欠陥住宅とかそういう事件で世の中を騒がせた設計事務所も、その建物には関わっておらず、正面玄関のオートロックやインターホンというセキュリティ装備のないマンションではあったが、それだけでこの価格はふつう、あり得ない。
彼女はこのマンションが何の事情でそうなっているのかけっきょく分からずに、不動産の仕事をしている友人にそのマンションのことを話してみた。これで自分自身納得ができれば、そこを本契約するつもりだったのだ。
「ああ、こりゃ高速道路の高架がそばを走っとるね、ここ。そのせいとちゃうの。意外に上の方はうるさいんかも知れへんよ?」
「なのかなあ。上まで行ったことないから」
「あと、近くに大きい公園があるやんな。ハトとかカラスがポッポー、アホー言うてぎょうさん飛んでくるとか」たしかに大きい公園はあるが、そこから鳥がたくさん来るから部屋が安くなるというのは、あまり納得いかない。
「まああとは、真紀ちゃんがそこをいっぺんじっくり見て、それで決めたらええんやないの。大きな買い物やからね」
それまで、間取り図と値段、室内を撮った写真という判断材料だけでこの話を進めていた彼女は、まだ現地を一度も訪れたことがなかった。
忙しいので、少なくとも仮契約の直前に行けばいいだろうぐらいに思っていたのだが、この意見を受け入れ、自分でマンションを見て、いろいろ感じとったうえで最後の判断をすることにした彼女は、ある日、ひとりでそこを訪れた。
あらためて見ると、建てて十二年にしては、外からの眺めはなかなかこぎれいな建物だと思えた。ホラー小説に出てくるような建物は、外面からして陰気だったり、イヤな感じがしたり、邪気を感じるのかもしれないが、少なくともそういう感じはしない。
もっとも、外見からそんな建物では、いくら安くても、彼女も購入をためらっただろうが。
ホールに入っていった彼女は、まずエレベーターの場所を探した。友人に言われた高速道路の音の響きから確かめてみるには、上に上がる必要があったからだ。
彼女が周囲を見回すと、壁にプラスチックのプレートが打ってあるのを見つけた。
そこには赤い字で「エ レ ベ ー タ ー →」と書いてある。
あんな引っ込んだところにエレベーターがあるのね。わかりやすい場所にすればいいのに。
思いつつそちらに歩いていった彼女の足が、プレートの下に作りつけてあった集合ポストの前でふと止まった。
宅配のチラシや何やらが詰め込まれないように、空き室のポストは粘着テープで無造作に塞がれていた。彼女はその、塞がれたポストの多さに、何だかゾッとするものを感じたのだ。
一階、二階の部屋の分のポストはすべて空いており、住人がいることがわかる。だが、三階から七階はだいたい半分、八階から十階のポストはすべて塞がれていた。最上階の三つのフロアがまったく無人とはどういう事だろう。
彼女がそこから目を離してエレベーターホールに目を向けたとたん、なぜか体じゅうが総毛だった。心の奥底から、このマンションはやはり何かがおかしいと、本能が叫びを上げた。
彼女が乗るのを待っているように、エレベーターのドアはすでに開いていて、そこだけ薄暗く、ろくに掃除もされないのか、隅に枯れ葉のたまったエレベーターホールに、光が四角く落ちていた。そして、ホールの壁に、あわてて貼り付けたような、一枚の古びた張り紙。そこに書かれたこの言葉。
住人のみなさまへ
エ レ ベ ー タ ー に
ち ゅ う い
し て く だ さ い
エレベーターに注意しろ。
エレベーターに気をつけろ。
エレベーターを警戒しろ。
その張り紙は全力で、とにかくエレベーターが変だと告げていた。でもそれがなぜか、彼女にはまったく理解できない。
だいいち、張り紙の内容が奇妙だった。こういう、住人がよく通る場所にする張り紙なら、ふつうは不審者に注意とか、カギのかけ忘れとか、火の始末とか、ゴミは分別してとか、そういう内容ではないのか。
それともこのエレベーターは故障しているのだろうか。だからここでドアが開いたままになっているのかもしれない。
彼女は、乗らないのか、と問いかけているような、開いたままのエレベーターから目を離せずにいたし、自分がエレベーターから二歩ほど後ずさっているのにも気付かなかった。
そこだけ朱色の墨で書かれた ち ゅ う い の文字。
三つのフロアが無人のマンション。
吹きさらしの、枯れ葉のたまった最上階の通路のようすが、彼女の目に浮かんだ。
閉じられてほこりっぽく、輝きを失ったドアのノブに引っかけた、電力会社の「ご入居のみなさまへ」のパンフレットが入った袋が、ブラブラと風に揺れている。そう、何年も、何年も、そのままで。
「ちょっとあんた!」
突然響いたその声と、肩をガッとつかまれた事で、彼女はヒャィイッ!と失神したような声をあげて、飛び上がった。
腰が半分抜けた彼女が振り向くと、うす緑色のツナギ作業服を着た中年の男性がいた。
「ごめんなさ、あ、あた、あたし」
「あんた、こいつに乗ろうとしてたのか」たしかに男はそう言った。エレベーターをエレベーターと呼ばず、こいつと。
「いえ、あ、あたし、その」
「こっちに来なさい。こいつに乗っちゃいけない」
男がそういったとき、エレベーターの扉が、ゆっくりと閉じていくのを彼女は見た。
あと少しだったのに、
あと少しでお前が、この逃げ場のない場所に入ってくるところだったのに。
そう言いたいかのような、渋々としたドアの動きに感じられた。
中年の男性が出してくれた、温かい、生きた心地のする茶をすすりながら、彼女が小さな管理人室でイスに座って、このマンションを訪れた理由を説明すると、男は言った。
「外来のひとだと思ったよ。このマンションの住人は、子供から老人まで、あいつにはぜったい乗らんからね」聞けば、男はこのマンションの管理人で、ここを三年任されているという。
「あのエレベーターは、いったい何なんですか?」ようやく心の落ち着きを取り返しはじめた彼女は、管理人にそう尋ねた。
「おかしいんだよ。あのエレベーターは」
「おかしいって、何がですか?」
「説明できん。あんたもあいつがおかしいと思ったから、乗れなかったんだろう。おれもあいつはおかしいと思ってる。どこがどうおかしいかは、説明できんがね。ただ」
「ただ、何ですか?」
「前にここから出て行った住人が言ってたには、あれがいつも待ってるんだそうだ」
「待っているって・・・」
「出かけようとするとかならず、エレベーターが扉を開けてそのフロアで待ってる。その人が九階にいたとき、その階は、そこの家族以外、入居者がいなかった。誰もエレベーターを呼ばないのに、部屋から出ると必ず、エレベーターがそこにいて口を開けてる」
「そんな・・・」
「ここから出ていった住人は、みんなエレベーターが怖いと言って、いなくなる。一階と二階は階段で上がれるから、人が住んでる。そこから上に住んでる人間も、階段を使う元気はあるけど、何があってもあいつには乗らん。あんたも、ここはやめといたほうがいいと思うよ。不動産屋も、ここの部屋がうまく売れないのは、あの薄気味悪いエレベーターのせいだと知ってるんだ」
さっきエレベーターの前で凍り付くほど味わった恐ろしい感覚を、温かな飲み物でほぐされてしまった彼女の心に、マンションに対する未練が少しだけ顔を出した。
「でもわたし、三階ぐらいまでなら階段でもいいですよ。他に人も住んでるんですよね。それに、管理人さんも教えてくれたから」
管理人は彼女の言葉を聞くと、フーッとため息をついた。
「じゃあ、これを見るといい。これを見てまだ気が変わらないなら、あんたはたいした肝っ玉だと思うよ」
管理人はそう言うと、小さな管理人室の隅にあった、小さなテーブルクロスのような布をかぶせられ、鉢植えが二つ乗せられた箱のようなもののそばへ行き、それらを全部取り去った。その下から現れた、小型のテレビモニターを見て、彼女はビクッとした。
「これはあのエレベーターについた、監視カメラにつながってる。俺はあんまり見たくないし、いつもこうして布をかぶせて、忘れていたいんだ。もしあんたがあの中を見て、それでもこのマンションが欲しいなら、買えばいい。見るかね?」
「それで、結局どうしたん?」僕はそこまで聞いて、彼女の目を見た。
「白い服を着た、髪の長い女でも映っとったか?井戸から出てくるアレみたいな」
茶化しても、彼女は黙ったままどんどん酒を飲むばかりで、なかなかその先を話さなかった。
僕もここまで聞いてしまっては、最後まで聞かなければおさまらない。
何杯目なのかわからないほど飲んだあと、ようやく彼女は意味ありげなことを言った。
「・・・なにかが立ってるの。エレベーターの中で、ボタンを押すところに寄り集まって。黒くて、影みたい。全部で三つくらい。それがね」
僕はそれを聞きながら、寒くなった。やっぱり聞かなければよかったと、少し思った。
「あたしが見てるのに気付いたんだと思うの。カメラの方に寄ってきた。電源が入ってるのに、画面がじわじわ、じわじわ、下から上に、真っ黒になった。ほんとに真っ黒なの。あいつら、カメラを通してテレビからこっちに出ようとしてるみたいに思えて、あたし、イスから落ちて悲鳴をあげた。そこで」
「そこで?」
「管理人さんがテレビの電源を切った。あたし・・助かったのかな」
僕は思わずため息が出た。ぬるくなってしまった燗酒を銚子に注いで横を見ると、彼女は眠ってしまっていた。
その彼女を、タクシーで連れて返って、僕の部屋に一晩泊まらせたのは、変な気持ちがあったからではない。彼女がこの晩、暗い部屋に一人で帰ることはできないだろうし、一人で眠ることはできないだろうと思ったからだ。
僕の思ったとおり、彼女は明け方、小さく悲鳴を上げてベッドから飛び起き、床で寝ている僕の布団にもぐり込んできた。誓って僕は何もしていないが、そこは細かい話だし、あとは想像におまかせする。
最後に、ちかごろ僕が気にしていることを話そう。
いつ携帯に連絡しても、彼女が電話に出ないのだ。会社のほうにもかけてみたが、連絡がつかず、困っていると言う。いちど、彼女の住んでいるアパートにも行ってみたが、新聞がどっさり溜まっているのを見ただけで、ドアもノックせずに、逃げるように帰ってきた。
そして僕が最近、恐ろしい光景を想像してしまうようになったことも、ここに書いておく。
彼女が見たという、エレベーターの中の影が、三つから四つに増えているのではないだろうかと思うのだ。
それを確かめるために、僕もあのマンションへ行き、そのエレベーターを見なければいけないだろうか。
今度はそいつは、僕のことを待っているのではないだろうかと。
だけど僕はいま、
それを考えることすらとてもこわいのだ。 |