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Paradise Lost

作者: 宗像竜子

Prologue


 ── 知恵の実を食べたのは、”さいしょ”の子等。

 ── そそのかしたのは、本当に”蛇”だったのか?


+ + +


 熱のない白い光の下で、産声が上がった。

 赤子は泣き叫ぶ。

 自分がここに在る事を訴えるように。そしておそらくは── 己を抱きあげるであろう『母』を求めて。


《── メリー・クリスマス、”おしまい”の子》


 激しい産声に重なったのは、静かな機械越しの声。

 声質こそ女性的なものだったが、造られた異質さは拭えない。

 赤子の耳にもそうだったのだろう。まるで不安に駆られたように、益々激しく泣き声を上げる。


《そしてようこそ…この終わり行く世界へ》


 淡々と紡がれる言葉。

 誕生を寿ことほぐ言葉は、不自然に造られたものなのに、けれど確かにそこには『慈しみ』と表現出来る響きがあった。

 けれど、やがて赤子が泣き疲れて眠るまで、抱きあげる腕も、あやす手も現れなかった。代わりに、何処かへ何かを伝える信号音が、子守唄のように微かにするばかり。

 どれ程時間が過ぎた頃だろう。

 ようやくその空間に、赤子以外の人間が姿を現した。

 その数は三名。

 その姿と言えば、真っ白な無菌服を身に着けた、一見医師のよう。さらに言えば、その赤子の父親にしては些か年嵩の男達だった。

「…随分、久し振りの『生産』だな」

 何処か壊れ物を扱うような手つきで、眠る赤子を抱きあげながら、ぽつりと男の一人が呟く。

「そうですね。…数年振りではないでしょうか」

 過去を思い返すように、隣に立つ別の男が答えれば、残る一人の男が肩を竦めた。

「労働力はまだ十分だと判断されたんだろう。流石に数年というのはなかったが、一年程度なら過去にもあったはずだ。それに数年単位ならさして世代交代に影響もしないだろう?」

「…ああ、そうだな」

 赤子を抱いた男は自分の内に生じた不安を振り払うように頷き、その視線をぐるりと周囲に巡らせる。

 今の会話をおそらく聞いていたであろう存在が、何か反応を返すのではないかと期待して。

 けれどその願いも空しく、返って来たのは拒絶するような沈黙だった。

(──……。本当に問題はないんだろうか?)

 考えすぎだと思いつつもそう思ってしまうのは、子供が突然生まれなくなった事だけが理由ではなかった。

 『ヒト』以外の種族── 主に、食糧となる栄養源としての動植物── も、以前に比べると生産頻度が落ちているのだ。

 備蓄が十分であると判断されたのだろうと多くの人間が楽観視しているが、もし完全にあらゆる生産が停止してしまったなら。ぞくりと背中を悪寒が走り、男は思い浮かんだ最悪の想像を振り払うように頭を振った。

 腕の中で赤子はすやすやと眠っている。無菌服越しの温もりに、男は思う。

(一体、君が大きくなる頃…世界はどんな風になっているんだろうな)

 今まではずっと変わりない日々が続くと思っていた。それが、少しずつ何かが変わり始めている気がしてならない。それも、よくない方向へ。

 考えすぎであればと願いつつ、男とは同僚達とその場を後にする。

 新しい命が生まれる場所ながらも、そこはいつも居心地のよい場所ではなかった。何故ならそこは、彼等がもう自力では存続出来ない事を何よりも雄弁に告げる場所だから。

 ありとあらゆる『生産』── そこには『繁殖』も含まれる── を、たった一つの人工知能の手に委ねられてから、すでに何百年もの年月が流れ、彼等はその方法を忘れてしまった。

 方法を調べるにしても、その情報源は当の機械の中だ。

 資源の枯渇により、あらゆる情報が電子化されたされた今、もはや一個の『個性』を持ってしまったそれに、情報提示を拒否されてしまえばどうしようもない。

 本来ならば造り手である彼等が、被創造物に生殺与奪権を奪われているこの現状に危機感を抱いている者はほんの一握り。


 ── 最終的に機械がその造り手を裏切る事など有り得ない。


 やがてその根拠のない幻想は、この『生産』を最後にヒトの子が生まれなくなる事で現実味を帯びる事となる。

 何とかしようと、『母』に対話を求めるものの受け入れられる事はなく、そこでもはやそれがヒトの手から離れた存在である事を思い知る事になった。


 …そして、十三年の月日が流れ。

 その間ずっと沈黙を守り続けていた『母』がようやく意志を見せた。

 ── 彼女の要求はたった一つ。

 もはや自力で生きて行けない彼等に出来る事は、その要求を飲む以外になかった。




 ── 何でこんな事になったんだろう。

 一体何度目になるかわからない問いを、心の内で繰り返す。

 ひんやりと肌を刺す冷気に辟易へきえきしながら、必要最小限に絞られた照明の下、終わりの見えない通路を一人歩く。

 一人分の足音は、硬質な床から狭い空間を反響し、益々孤独感を募らせる。

「寒……」

 鳥肌立った腕を擦りつつ、思い返すのは今朝のこと。

 朝、いつもと同じ時刻に自分に与えられた部屋で目を覚ますまでは、実に代わり映えのない一日の始まりに過ぎなかったのに──。

「本当に…なんでこんな事になったのかなあ……」

 その時の事を思い出し、ため息をつく。あの時、やはり頷くべきではなかったのだ。

 そうは思っても後の祭り、時間の感覚もろくにないが、歩きだしてそれなりの時間が経過している。引き返すのも今更だし、戻った所で何の変化もないだろう。

 だから進むしかない。

 そして目的を果たし、帰る。それしか元の日常に戻る手段はおそらくないのだから。


+ + +


 冬の、朝。

 特殊ガラス越しに見える空は重い灰色で、今にも泣き出しそうな雲行きだった。

 雨は嫌だな、そんな事を思いながら身支度を整える。

 基本、外界に直接出るのは移動の際の僅かな間だけなのだが、冬の雨は冷たい。ほんの僅かでも濡れずに済むならそれに越した事はなかった。

 髪に櫛を通し、服装を簡単にチェックして、食堂に向かうべく部屋を出る── までは、本当に日々の繰り返しとなんら変わりはなかった。

 違っていたのは扉の外に、見覚えのない男達が立っていたこと。就学中の子供ばかりを集めた区画にあって、彼等はあまりに異質だった。

 その数は三人。年齢的にはいずれも四十代、あるいはそれ以上だろうか。きっちりと身に着けたスーツといい、何処か冷たい雰囲気といい、もっとも身近な大人である教師とは違う。

 一体いつからここにいたのだろう。出てくるのをじっと待っていたのかと思うと、相手が女性であっても同じような感想を抱いただろうが、正直いい気持ちにはならない。

 自分の部屋の前ではあるが、彼等が自分に何か用があるとは思えず、そのまま通り過ぎようとした所に、男の一人が引き留めるように口を開いた。


「おはよう、マリン君」

 

 …確定だ。

 これで彼等が他でもない、自分に用がある事が確実になった。

 マリン── 自分ではあまり気に入っていないその名は、紛れもなく自分に与えられたものだ。

 名前まで呼ばれては無視も出来ない。仕方なく立ち止り視線を向ければ、口を開いた男が小さく会釈した。

 口調こそ穏やかだが、その表情は作り物のように薄っぺらい笑顔。

「── 何ですか?」

 あからさまに警戒するマリンへ、男は思いの外あっさりと核心に入った。

「君に頼みたい事があるんだ」

「…頼み?」

 どう見ても彼等は『大人』で、まだ教育を受けている最中の子供でしかない自分より、ずっと何でも── 技術的にも、役割的にも── 出来るはずだ。

 そう思った事は顔にも出ていたらしい。作ったような笑みが消え、男達の顔に素の表情らしきものを浮かんだ。

 苦笑、不満、苛立ち──。

 それぞれに浮かべたそれは、彼等の困惑を雄弁に物語っていた。

「…詳しい事はここでは話せない。申し訳ないが、これから我々と共に来て貰えないだろうか」

 実にわかりやすい、常套句。

 本能的にそれが良い話ではない事を悟る。そして、同時に拒否権がないだろう事も。

 『大人』は『保護者』だ。『子供』に属する者は彼等に従わなければならない。そう定められている。それがどんなに気に食わなくてもだ。

 そして不承不承、男達に連れられて向かった先で、マリンはまったく予想もしていなかった事態に自分が巻き込まれた事を知るのだった。


+ + +


「わざわざこんな所まで済まなかったね」

 通されたのは無駄に空間を使った、広い部屋だった。

 デスクとソファセットに最小限のキャビネット関係が置かれているだけで、装飾的なものが一切ないせいか、余計に空間を感じる。

 その広い部屋で向き合うのは、マリンの部屋を訪れた三人の男の内、一番年若く(とは言っても、マリンより三十歳近く年上に違いないが)、そして温和な雰囲気を感じた人物だった。

 他の二人は何か別に用があったのか、単に立ち会う必要を感じなかったのかこの場にはいない。三人の大人の男に囲まれる圧迫感から解放され、マリンは正直ほっとした。

 ただでさえ、大人と接する機会は少ないのだ。教師から年長者は敬うように、と教えられはしたが、実際にそれを実行するとなると別だ。

「これから君に頼む事は、世界の存続に関わる重大な事だ。それは留意してもらいたい」

 暗に拒否権はないと告げる言葉。さらに世界の存続ときた。これで嫌な予感がしない方がおかしい。

 しかし、拒否権はないとほのめめかしつつも、強制的に何かをさせようという意志はないらしい。わざわざ説明の機会を与えられている事がそれを証明している。

「…一体、何なんですか」

 声が不機嫌なものになるのはどうしようもない。

 何しろ結局あのまま連行されて朝食も取れなかったのだ。空腹状態で小難しい話を聞く事を考えて憂鬱ゆううつになる。

 男は何故かその様子に少し表情を緩めた。

「詳しい話の前に、まずは食事が必要だね。もっと後で訪問すべきだと言ったんだが、他の二人がせっかちでね」

 苦笑混じりにそんな事を言われ、思わず腹を押さえる。鳴った訳ではないと思うが、空腹を見透かされて恥ずかしい。

「…大丈夫です」

「いや、これからする話は正直途方もないし、詳しい説明をすると長くなる。…朝食に行く所だったんだろう?」

 マリンの痩せ我慢に、男はわかっているとばかりにそんな事を言う。逆らうのもばからしくなり、マリンは仕方なく頷いた。

「そうか。じゃあすぐに用意させよう。少し待っていてくれるかな」

 何処となく嬉しそうに男が言い、デスクの上にある端末を操作する。食事を持ってくるように指示したのだろう。

 やがてさほど待つ事もなく、部屋へ温かい食事が届けられる。パンやスープにサラダといった軽食だが、味は良かった。

(なんか餌付けされてるみたい……)

 もそもそとパンを口に運びながらそんな事を思う。

 だが、世界の存亡をうんぬんという話の後で出す食事にしては普通だから、そんな意図はおそらくないのだろう。単純な厚意として受け止める事にした。

 男はマリンの食事が終わるのをデスクで待っている。気にしないように配慮しているのか、単純に仕事があるのか、時折端末を叩く音がする。

 男の人柄なのかもしれないが、最初に感じた警戒心は少し薄れている。少なくとも、一通り話を聞いてみてもいいと思う程度には。

「…ごちそうさまでした」

 時間にしては十数分程度で食事が終わる。

「では、お腹も落ち着いた所で、早速本題に入ろうか」

 皿を下げるのを待ってから、男がソファの方へ移動してくる。てっきりそのままマリンの前に座るのかと思いきや、男は予想もしない行動に出た。

 ── そのまま床に腰を下ろしたかと思うと、頭を下げたのだ。

「まずは先に、全人類を代表して謝る。本当に申し訳ない」

「な!? ちょっと、何やってるの!!」

 大の大人の男に土下座をされて、いい気分に浸れるほどマリンは出来ていなかった。男の言葉の内容も吟味出来ないほどにうろたえる。

「やめてよ、そんな事しないでってば!!」

「いや、本来ならこの程度では済まない。それくらい途方もない仕事を、年端も行かない君に任せなければならない。大人として実に不甲斐ないばかりだ。だが、わかって欲しい。君に頼む事は、それだけ重要で大切な事なんだ」

「わ、わかった! 聞くよ、聞くから!! 頭を上げてよ!!」

 男はマリンの返事に、ようやく立ち上がった。 

「……。で、何。ぼくに何をさせたいって言うの」

 仕方なくと言わんばかりの言葉に、男はほんの少しだけ困ったような、苦笑とも取れる表情を浮かべ、まったく予想もしない事を口にした。


「マリン君。君に── 我等が『母』を説得してきて貰いたい」


「…説得?」

 あまりの途方もない言葉に、思わず反芻する。自分の耳を疑った。

 『母』── その単語が示す物は一つしかない。

 世界の全てを生み出し、統御し、管理する── 自ら『判断』し、『修復』し、また『成長』する事が出来る超巨大コンピューター。

 ”イヴ”と名付けられたそれは、遠い昔に製作者達によって『生産』に関わる全てを委ねられ、現在に至っている。

 あらゆる資材に生物全般── すなわち『ヒト』すらも、それによって人工的に生み出されているのだ。

 本体はヒトによって生み出された人工知能に過ぎない。

 けれど、今となってはその親すらも凌駕してしまっている。何しろ『彼女』がいなければ、もはやヒトは自力では生きて行けないのだから。ヒトにとっては、『世界』そのもの──『神』にも等しい。

 男はそんな存在を、説得しろというのだ。たった十三年生きただけの、無力に等しい子供の自分に。

 一体、何をどうやったらそんな事が出来ると言うのだろう。

 冗談なのだとしたら、あまりにも笑えない冗談だった。

「── 我々もこんな事を君のような子供に任せたくはないんだ」

 おそらくそれは、男の包み隠さない本音だろう。まだ何も行っていない時点で、過小評価と受け取る事も出来たが、マリン自身その通りだと思った。

「だが…、肝心のイヴが君を指名した」

「え? …── ぼくを?」

 思いがけない言葉に、素直に驚いた。

 何しろ普段の生活に密接に関係はしていても、イヴの存在は日常からもっとも遠いものなのだ。

「最後に生み出した子になら、対話を許すと伝えてきた。…イヴの方からアクセスしてきたのは、本当に久し振りの事なんだ。少なくとも三十年近くは、ずっと沈黙し続けていたらしいからね。だから君にしか任せられない。他の代理を立てたとしても、イヴには簡単に見破られるだろう」

 その後、男の口から深刻な状況が伝にえられる至り、マリンも簡単に拒める状態ではない事を理解した。

 すでにイヴはあらゆる生産活動を停止しつつあり、その予兆はマリンが生まれる十三年前にはすでにあったという。

 資材関係は今あるものでなんとかなるとしても、ヒトを含めた動植物の生産── いわゆる繁殖に関してはどうする事も出来ない。

 今はまだ備蓄に余裕があるが、各種薬品や食糧など、それでしかあがなえないものの生産が完全に停止してしまったら、現在の総人口を考えてもせいぜいもって五、六年ほどという試算も出たという。

 事が公になっていないのは、未だイヴが完全には生産を停止していない事、今回の『対話』という意志疎通の場を設けてきた事が理由だが、何よりも発表する事によって起こるであろう弊害を恐れた為だ。

 限りある食糧。飢え、乾いて死んでゆく未来を前に、おそらく暴動なども起こる。暴動が起きれば、少なくない怪我人や死人も出るだろう。

 そうして食糧や薬がなくなれば、当然ながら待つのは完全なる死── 滅亡だ。

「…イヴを説得って、どうしたらいいんですか」

 事の重大さを理解すると、マリンは今更ながら困惑した。

「相手はその…機械、なんでしょう? すごく大きいな。そもそも会話自体、成り立つものなんですか?」

 自分の一体何倍の大きさがあるのかすらわからない機械に向かって、普通に人間に話しかけるように会話する自分を想像し、その現実感のなさに途方にくれる。

「その事ならば大丈夫だ。イヴは機械だが、機能を自ら拡張してゆく段階で『自我』と呼べるものが形成されている。…もっとも、私は直接話した事はないがね」

 マリンの困惑を理解したのか、ようやくマリンの前に腰を下ろした男は安心させるように頷いた。

「中枢に近い場所に、その自我と直接接する事が出来る場所がある。君はそこで彼女と話せばいい」

「…また『生産』して下さいって?」

 言葉にすれば実に単純だ。だが、話す内容は世間話などではない。

「期待はしないで下さい。ぼくは特にこの世界に強い愛着とかないし、機械の気持ちなんて想像も出来ない。イヴの機嫌を損ねてしまうかも。…そういや、この対話で失敗したらどうなるんですか?」

 普通なら対話に失敗した時点で、何らかのペナルティはあるだろう。何しろ、人類の未来がかかっているのだから。

 その質問は予想していたのか、男はごく普通の口調で尋ねてくる。

「マリン君、君は死にたい訳ではないだろう?」

「え? それは…まあ」

「なら、その事を訴えてくれればいい。イヴが何処まで我々に対して愛着を持ってくれているかは謎だが、我々がいなくなれば彼女の存在理由自体もなくなるのだからね」

「…でも、困るんじゃないんですか」

「もちろん、再び以前のように『生産』を行ってくれるようになれば助かるが、それが難しければ何故それを止めてしまったのか、その理由だけでもわかればいい。君は今の現状を打破する突破口だが、まだ教育期間を終えていない年齢の君に全ての責任を被せるつもりはないよ」

 つまり、上の方の人間もマリンにはさほど期待はしていないという事なのだろう。当然と言えば当然だ。

 他に代理が置けないから依頼するが、最悪でもイヴが生産を停止した理由が分かればよし、という所か。単に余計なプレッシャーをかけずにおこうという、男の配慮なのかもしれないが。

 それでもイヴが素直にその理由を教えてくれるとは限らず、重大なのには変わりない。拒否権のない状況でそれ以上はどうこう言えるはずもなく、マリンは結局イヴとの対話を了承した。


 それは長い長い、一日の始まりだった。




 一体どれだけの時間を歩いたのか。

 ひょっとしたらそこまで長くはなかったのかもしれないが、少なくとも朝からの一連の出来事を思い返すだけの時間は経っている。

 おそらく機械の排熱を考えての気温なのだろうが、外気温とさほど変わらない冷気にマリンの唇は青ざめていた。

 防寒具くらいもらうべきだった、と思っても後の祭りだ。

 イヴの中枢へ繋がる通路へ足を踏み入れると同時に、入口は他を拒絶するように閉まってしまい、そんな余裕など何処にもなかったのだから。

 ようやく行き止まりが目に入った時はほっとした。

(…ここか)

 よく見れば扉のような部分がある。その奥がイヴの中枢にアクセス出来る場所なのだろう。

 冷え切ってぎこちない足を進め、扉に触れる。ひんやりとした金属の感触を指が感じると同時に、そこが口を開いた。

 そこから温かな空気が吹きつけ、その温かさに思わず吐息が漏れる。

 どうやらこの中は快適な温度になっているらしい。マリンの訪れに合わせてそうしてあるのか、最初からそうなのかは不明だが、冷え切った身体にはありがたい。

 薄暗いその中へ、誘われるように足を踏み入れた。

 ヴン…、と何かが起動するような音がし、室内が明るくなる。そこには今までの通路の比ではない、見た事も用途もわからない機械が室内の壁と言う壁に埋められていた。

 これのどれがイヴの中枢なのか判別出来ない。あるいはこれ全てがそうなのか。一体どうやってイヴとアクセスを取ればいいのかと周囲を見回していると、不意に声がした。


《いらっしゃい、”おしまい”の子》


 何処からか発せられたそれは、マリンをそう呼んだ。

 改めてぐるりをさほど広くない空間を見回す。当然ながら、そこにマリン以外の人影はない。思わずそうしてしまったのは、迎え入れたその声がやけに友好的なものだったからだ。

 与えられた役目の中でも、おそらく最重要項目であろう『生産』を行わなくなった『母』── イヴ。

 それを説得するのがマリンに課せられた役目だ。普通に考えれば、相手との友好的な対話は無理だと思うし、マリンもそう思って身構えていた。

 けれどどうして、まるでマリンが来るのを待ちかねていたように聞こえたのだろう。

「── イヴ?」

 思わずわかりきった事を確認すれば、何処か楽しげな声が答える。

《ええ、そう呼ばれていますね。それは製造ナンバーの一部に過ぎないし、本当の名前はもっと長くて、どちらかというと記号に近いのだけど》

 あまりにも人間くさい返答に、マリンは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

(本当に、これ…機械?)

 声は聞き間違えのないほど、明らかな合成音声だ。おそらく彼女が造られた当初の技術のままなのだろう。

 今はヒトの肉声と区別がつかないほどの音声も存在するだけに、余計に作られたものである事がわかる。だが、ただの音の羅列だと表現するには不適切だと言わざるを得ない。

 そう言えば、イヴには長い年月の間に自我的なものが形成されたと説明があった事を思い出した。その時はさほど深く受け止めていなかったが、こうして直面すると戸惑いは隠せない。

 そんなマリンを余所に、イヴは本当に『話す』事が目的だったかのように話しかけてくる。

《あなたの名前は?》

「マ、マリン」

《そう、いい名前ですね。誰が名付けたのかはわかりませんが…生命の根源を司るものと同じ音です》

「…そうなの?」

 響きは綺麗だけれど、何か可愛すぎる気がして自分としてはあまり気に入っていない名前だ。まさかそこに何か意味があるなどとは考えもしなかった。

《”海”という意味です。…見た事は?》

「聞いた事はあるけど、見た事はない」

《そう……。そうですね。ヒトはいつしかここから動かなくなってしまいましたから。おそらく記録映像でしか見た事がない者ばかりでしょう。単にあなたの瞳が青いからつけたのかもしれません》

 何処か淋しげに答える言葉には、やはり敵意のようなものは感じない。その事に勇気づけられ、マリンは単刀直入に話に入る事にした。

「…イヴ。どうして『生産』を止めたの?」

 対するイヴの回答は、実にあっさりとしたものだった。

《必要性を感じなかったからです》

「──…は?」

 ヒトの身勝手さに嫌気がさして、とか、ヒトを滅ぼす為、とかそういう理由を思い描いていただけに拍子抜けする。まるで単に試算の結果でそう出たと言わんばかりだ。

《意外そうですね》 

「だ、だって……」

《おおよそ、大人達に私にまた『生産』を行うよう頼んでくるように言われたのでしょう》

「うん……」

 見透かされている言葉に、益々対峙しているのが機械の塊である事を忘れそうになる。何処にも姿はないのに、目の前に誰かが立って話しているような感覚。

《では逆に尋ねます。どうして『生産』を止めてはいけないのですか?》

「え、それは…世界が滅んでしまうからで」

《違います。世界そのものは『生産』を止めようと滅ぶ事はありません。私に依存する種が滅び、それによって構築された文明が廃れるだけです》

 理路整然と淡々と告げる言葉は、突き放しているようなのにやはり何処か優しい。

「…イヴはヒトが嫌いなの?」

《いいえ》

 おそらく否定されるだろうと思いながら尋ねれば、イヴは予想通りその問いかけを否定した。

 マリンを受け入れた時に友好的に感じたのは錯覚ではなかったらしい。だが、そうなるとイヴの行いは矛盾する。

「じゃあ、どうしてぼく達を滅ぼそうとするの?」

《滅ぼそうとはしていません。ただ、私の在り方を今までの生物の在り方を照らし合わせると、これ以上『生産』を行う必要性を見い出せなかっただけです。結果としてヒトやその他の種が滅ぶ可能性はありますが、決してそれを目的に停止する訳ではありません》

 イヴの言葉は、十三年しか生きていないマリンには今一つ理解しづらいものだった。

「よく…わからない。今まで通りではどうして駄目なの」

 先程からこちらから聞くばかりで、おそらく会話にもなっていない。そのくせ、その答えを理解出来ないのだからどうしようもない。

 それを歯がゆく思いながらも、何となくイヴはどうこちらが頼もうと、その意志を曲げないであろう事はわかった。すでにイヴの中では結論が出ている。

 けれど、同時に思う。ここに来る前に男も言っていた事だ。

 『生産』をやめてしまったら、イヴは自らの存在意義を自分で否定する事になるのではないだろうか?

「イヴはその為にいるんじゃないの?」

《そうですね》

 疑問を向ければ、イヴはそれを認めた。けれどマリンがその矛盾を突く前に、イヴは先に答えを出してしまう。

《あらゆる『生産』を統御する事が私の役目です。…だからこそです。生み出すばかりが統御ではないでしょう?》

 言われてみればその通りだった。

 彼女の仕事は、そもそも『生産』するだけではなかったのだ。過剰と判断すれば生産を止め、不足と判断すれば再び生産を行う、その一連の流れそのものこそが──。

《疑問には思いませんか? 本来自らの子孫を残し未来を紡げない種は、淘汰されるべきなのです。そうして、数えきれない種族が過去のものになっていったではありませんか。どうしてヒトや限られた種だけ、こんな不自然な形で種を保存されなければならないのでしょう》

 その観点からすれば、今の状況はイヴにとっては必然なのだろう。

 何故、『生産』を止めてしまったのか。そこに原因などないのだ。本当にただ、『不要』だと判断した結果に過ぎない。

 だが、それをそのまま持ち帰った所で、成果とみなしてくれるのか甚だ怪しいし、マリンも流石にこのまま帰る気にはなれなかった。

 思わずため息が出る。やっぱり無理だったのだ。自分のような子供に、何百年という時間を『生きて』きたものを説得するなど。

 落胆しつつ、ふと思う。どうしてイヴは、自分にだけ対話を許したのだろう。

「…ねえ、イヴ」

《何でしょう》

「どうして、ぼくとなら話してもいいなんて言ってきたの」

 イヴの中ですでに結論が出ていて、他に口をはさむ余地がないのなら、今まで通り、外部のアクセスを拒絶し、沈黙を守っていても良かったはずだ。

 そうした所で、おそらく自分達には事態を変える事は出来なかっただろう。

 マリンが産まれた頃にすでに予兆があったのに、イヴに対話を求める以外にその改善策を見出せていなかったのだから。

 そこまでヒトは今まで与えられる事を当然とし、甘受してきたのだ。

《気になりますか》

「うん。当然じゃないか」

《それはやはり、あなたが特別だからですよ。”おしまい”の子》

 最初に声をかけてきた時と、同じ呼び名。現時点では確かにマリンの事を意味する言葉だ。間違いではない。

 けれど『マリン』という固有名詞ではない、その呼び名はひどく落ち着かない気持ちにさせる。”おしまい”という言葉が、イヴの決定が揺るがない事を表しているような気がするからだろうか。

《私が『母』として最後に生み出したヒトの子です。選択を委ねるのなら、あなたが最適だと判断しました》

「…選択?」

 思いもしなかった言葉に、マリンは目を丸くした。

《ただ、会話する為だけにこんな所にまで呼んだりしませんよ》 

 当たり前のように言われた言葉に、ただ呆然とする。言われてみれば確かにそうなのだが、イヴを説得する事しか念頭になく、よもやイヴから何かを求められるとは思ってもいなかったのだ。

《私には二つ願いがあります。けれど、おそらく一つは叶わないでしょう。ですからあなたには、もう一つの願いを叶えて貰いたいのです》

「ちょ、ちょっと待って」

 本当に、一体どうして誰も彼も自分に何でもやらせようとするのか。

 自分は無力な子供なのだ。特別な知識も、才能も、技術だってない。せめて教育期間を終えた、大人であればもう少し何とかなったかもしれないのに。

「ぼくには荷が重いよ。別の人じゃ駄目なの…!?」

《…そうですね、絶対にあなたでなければならない理由は確かにありません。ただ…あなたで”おしまい”にする事を決めた日が特別だっただけです》

「特別って…ぼくの誕生日が?」

 マリンが産まれたのは、冬の最中。

 年が変わる間際の、特別でもなんでもない日だったはずだ。

《ええ。明日でしょう?》

「え? …あ」

 すっかり忘れていたが、確かに明日はマリンの十四歳の誕生日だ。

 上の世代からも数年離れている事もあり、特に祝ってくれる人がいる訳でもなく、マリンにとっては一つ年を取るだけの、他に何の意味のない日。

《今はもう、誰も覚えていませんが…昔は”クリスマス”と呼ばれる特別な日だったんです。”神の子”が産まれた奇跡の日》

 機械が紡ぐ、合成音声の言葉。

 作り物の言葉なのに、何故か聞き流す事は出来ない。

《そんな日になら、そんな日に生まれたあなたなら、私の願いも叶うかもしれないと…そう思ったんです》

 無機質なはずのそれは、強い願望の色を宿し、やけに人間的に聞こえた。




「…願いって、一体何なの」

 今の世界では『神』そのものと言っても過言ではないイヴが叶えられない願いというものが想像出来ずに問いかける。

《叶えてくれるのですか?》

「それはまた別! …取りあえず、聞いてみないと出来る出来ないもわからない」

 機械の言葉に振り回される自分を自覚しながらも、マリンは先を促した。

《さほど難しい事ではありません。左の方を見てもらえますか》

 言われて視線を向けると、そちらには他よりもシンプルな機械があった。いくつかのボタンと、操作パネルらしきものしかない。

 歩み寄ってみると、その表面がうっすらと埃を被っていた。他のものはそうでもない所を見ると、この機械だけが長い間触れられていないという事だろう。

《その中央にあるボタンを押すだけです》

 それは数少ないボタンの中でも、あからさまに別格である事がわかるものだった。

 カバーがかけられ、しかも黄色と黒で囲まれており、簡単に触れてはならない物だという事が説明をされなくてもわかってしまう。

「…念のために聞くけど、これを押したらみんな諸共って事はないよね」

 今までの会話が普通だった為、そうした可能性をすっかり見落としていたが、自ら本来の役目を放棄した時点で、イヴが『狂って』いる事も有り得るのだ。

《いいえ、そんな物騒な物ではありませんよ》

 そう思った事が伝わったのか、イヴは何処となく楽しげに否定する。

 説明らしきものがパネル上に書かれてはいるのだが、相当に古いらしく(おそらくイヴが造られた年代のものだろう)掠れてしまって判読できない。

「じゃあ、これは何?」

《私の全機能停止ボタンです》

「…!?」

 思わずそこにイヴがいる訳でもないのに声のする方を見てしまった。

 それではまるで──。

「イヴ…死にたいの?」

 『生産』を停止するどころではない。イヴは自分そのものを葬り去ろうとしているのだ。

《…私はあなたが生まれるずっとずっと昔から、ひたすら『生産』を行ってきました。そういう意味では、今の人類は私の『子』であり、私は『母』と言えるでしょう》

 返って来たのは否定でも肯定でもない、そんな言葉だった。

《でも── 私はいつしか気付いたのです。私を生み出したのは『ヒト』で、私もそういう観点で行くならば『子』であると。だから求めてもいいでしょう? …私を、愛して下さい。労って、よく頑張ったと褒めて下さい。私は…独りである事に疲れてしまった。非生産的な『生産』を繰り返す日々にも》

「イヴ……」


《── 私を、抱き締めて》


 全ての飢えを集約したようなその『声』は、マリンの心を深く抉った。自らを殺したいと願う程の、絶望がそこにあった。

(これは…機械なんか、じゃない。『自我』のようなもの、なんてものじゃない、これはもう──『イキモノ』じゃないか)

 こんな哀しい声を、マリンは今まで聞いた事がなかった。

《『温もり』がどんなものか教えて下さい。『淋しさ』を埋めて欲しいのです。プログラムを侵食してゆくような、空虚…これが『淋しさ』なのでしょう? …私はずっと独りきりです。永遠に…この星が終わりを迎える時まで。ヒトが、生き物が全ていなくなっても……! もうイヤです。いつまで私はこうしていなければならないのでしょう。どうしてヒトのように、終わりを迎える事が出来ないのですか? …愛して下さい。アイシテ…あいして……!!》

 その声の悲痛さに堪らなくなり、マリンは思わず腕を広げ、目の前の機械を抱き締めるように身体を触れさせた。おそらくそれは、イヴのほんの一部に過ぎないはずなのに、それでも全然腕が足りない。

 人の腕は小さい。子供の腕ならなおの事。

 あまりにも長い年月の間、自ら拡張し、『成長』してしまったイヴを包み込む事など、下手したら全人類が手を繋ぎ合わせても不可能だろう。

 伝わってくるのは冷たく硬い金属の感触。柔らかくも温かくもない、その事実がただ切なかった。

「イヴ…ごめん。本当に、ごめん。叶えてあげられなくて、ごめん……」

 何故か謝りたい気持ちでいっぱいになり、マリンは謝罪を繰り返す。

《…いえ、いいのです。ありがとう。あなたは優しい子ですね》

 静かな言葉には、先程の狂乱めいた熱はもうない。けれどあれこそがイヴの『真実』なのだろう事はわかる。

《わかっていた事です。だから先程言ったでしょう? 一つは叶わないと。私にはヒトでいう所の、触感も温感もない。抱き返す腕すらも。求める方が悪いのです》

「イヴ……」

《どうしてそれが欲しくなったのか、自分でもよくわかりません。気付いたらそれは、もう私の中にあったのです。── 滑稽でしょう。独りが辛いだなんて、ヒトでもないのに》

「そんな、そんな事ないと思う。イヴの事をぼくは何も知らないけど…『自我』があるんでしょ。だったら、『心』だってあっても不思議じゃないよ」

《ココロ……》

 イヴは噛み締めるようにその単語を呟くと、しばらく考え込むように沈黙した。

《…”おしまい”の子、あなたは私が思っていた以上に私を理解してくれるのですね》

「そういうつもりはないよ。ただ、イヴは機械よりヒトに近いって思っただけ」

 こうして会話をしていても、多少の言葉の硬さはあるものの、機械音声である事が気にならないくらいだ。

 それに、程度は違うがマリンの中にもイヴの孤独に通じる感情がある。

 最後にたった一人で生まれ、共に学ぶ者どころか、友人と呼べる存在もいない。一人だけ年が少し離れた最年少という事もあって、周囲は変に特別扱いをしたり気を使う。

 そういう目に遭っているのは、紛れもなくイヴのせいではあるのだが、けれど恨む気持ちは湧かなかった。今はむしろ、同志のような、不思議な連帯感を感じつつある。一種の同情なのかもしれない。

《そういう認識自体が、私には嬉しい事ですよ》

 マリンの感情の微妙な変化に気付いているのか、いないのか、イヴは本当に嬉しそうにそう言った。

《…どうか、私を哀れと思うなら、もう一つの願いを叶えて下さい。私は自分で自分を壊せない。プログラムが狂っても自動的に修復してしまうように出来ているのです。だから狂う事すら出来ない》

 それは長く世界を支え続けた『母』なる機械の、悲鳴だった。

《私に温もりを与える事が出来ないのであれば、せめて終焉をくれませんか? どうか、この終わりない孤独から私を救って下さい》

 イヴの言い分はわかった。けれど、だからと言ってそうですかと頷ける話ではない。何より、今日半日でいろんな事があり過ぎた。

「…少しでいい。考える時間が欲しい」

 結局、マリンは時間稼ぎの言葉を口にした。

 心情的には、イヴの願いを叶えてやりたい。けれど、それを実行すれば待つのは──。

《構いません。一晩でどうでしょうか。出て右手に、昔ヒトが寝泊まりしていた場所があります。長い事使われていませんが、機能的にはまだ生きているはずです。寝心地のよい場所はないでしょうが、そこを使うといいでしょう。申し訳ないのですが、食事は……》

「一晩くらい大丈夫だよ。…ありがとう、イヴ」

《いいえ。良い返事を期待していますよ》

 会話はそこで途切れ、ふっと室内の照明が落とされる。

 話はここで終わりだと言う事だろう。マリンは言葉に甘え、再び通路に出ると言われた通りに右手の壁に目を向けた。

 薄暗くて行きは気付かなかったが、確かにそこにわかりにくいが部屋らしきものがあった。

 中は通路と異なり、やはり快適な気温に保たれていた。ある程度こうなる事を、予想していたのかもしれない。

 簡易にだが、バスやトイレも完備しているようだ。かつての技術者が寝泊まりした場所なのだろう。

 照明は絞られており、真っ暗ではないが、考え事をするには丁度いい。マリンは部屋の片隅に置いてあったベッドの上に身を横たえると、軽く目を閉じた。

 機械の塊であるイヴの中枢は、そうとは思えないほどに静かだった。微かに何かが動くノイズのような音がするものの、不思議とそれは耳に優しく馴染む。

(…ああ。そうか)

 唐突に思い浮かぶ。

(ぼくもここで生まれたんだ)

 当然ながらまったく記憶にないし、初めて来た場所とさして違わないが、そう考えればここは『故郷』とも言えるのだ。

 今までのイヴとの会話を思い返す。与えられた時間はおそらくあまり長くはないだろう。誰かに相談する事も許されず、こんな途方もない事を決めるにはあまりにも足りない。

 けれど──。

 何故だろう、不思議と焦りはなかった。この場所がひどく落ち着くからだろうか。

 機械仕掛けの『母』の『胎内』は── マリンを優しい微睡みに誘った。




 夢を見た。

 上下左右の区別もつかない真っ黒な世界で、ひたすら走る。

 恐怖はなかった。

 その先に、待っていてくれているという確信が心を温める。

 早く、早く。一刻でも早く。

 走る足は小さい。先へと伸ばす手も、記憶にあるものより小さい。その事に違和感を感じないまま、ただ走る。

 わかっているのは、先で待つものが随分長い間待ってくれているという事だった。

 だから、急いで。

 やがて視界の先に、針で突いたような光が見えた。一気に心が沸き立つ。

 ああ、一体そこはどんな場所だろう。そこで待つのは、一体どんなものだろう。

 光はどんどん大きくなり、やがて目前に姿を現す。躊躇なく光に飛び込む。光の向こうに、何かが見えた。

 本能的に腕を伸ばす。

 初めて目にするはずなのに、何故かそれの名前が何かわかった。


『     』


 名前を呼ぶと、それは嬉しそうに笑った。


+ + +


 目を覚ますと、室内は薄暗いままだった。

 どうやら自分が思っていた以上に神経が張り詰めていたらしく、すっかり寝入ってしまった。結局ろくに考える時間などなかったが、そのお陰か頭はすっきりした。

 外を伺う窓もなく、時刻を知る術がない為、今が一体何時なのかもわからないが、おそらく中途半端な時刻だろう。下手したら真夜中かもしれない。

 そろそろと起き出し、軽く頭を振る。

 何か変な夢を見た。内容はうろ覚えだが、嫌な夢ではなかった。その証拠に、すごく気持ちが穏やかだ。

 寝ている間に、感情も整理されたらしく、マリンなりの結論が出ていた。いや、元々結論は出ていたのだ。ただ、それを口にし、実行する勇気が足りなかっただけで──。

 少し空腹感があるが、耐えられないほどではない。マリンは立ちあがり、イヴが待つ部屋へと向かった。


+ + +


 部屋に入ると同時に、照明が明るくなる。

《メリークリスマス、”おしまい”の子。…そして、少し早いですがハッピーバースディ。十四歳ですね》

 半日ほどですっかり耳に馴染んでしまった合成音声がそんな言葉をかけてくる。最後はともかく、最初のものは聞きなれない言葉だ。

「…? メリー……?」

《クリスマスの挨拶ですよ。『楽しいクリスマスを』という意味です。あと少ししたら日付が変わります》

 予想はしていたが、やはり夜中だったようだ。

 これからのやり取りを考えるととても楽しいどころではない気がしたものの、イヴが何処となく楽しそうだったのでマリンもそれに従う事にした。

「…メリークリスマス、イヴ。答えが出たよ」

 そっと指を、機能停止ボタンのカバーにかける。

「これが正しいのかぼくにはわからないけど…どちらにしても結果が同じなら、誰かが幸せになれる方を選ぶ事にした」

《いいのですか? 私が機能を停止したら、近い将来、あなたも死んでしまうのですよ。怖くはないのですか》

 イヴが今更のように尋ねてくる。

 自分で停止する事を頼んでおいて、今になってそんな事を聞く事に違和感を感じながらも、マリンは頷いた。

「怖いよ、怖いに決まってる。…イヴを止めたなんて事がわかったら、どんな目に遭うかわかったものじゃないし」

 唯一、イヴと接点を持つ事が許されたとはいえ、他の誰にも相談せずにこんな重大な事を決めてしまえば、きっとただではおかないだろう。

 ここに来る前は、会話が失敗してもペナルティは課せられないという話だったが、それはイヴがその後も活動している事が前提になっているはずだ。

「でも…最終的に滅ぶ未来しかないのなら── イヴも、一緒に行こう?」

 イヴの機能を停止させなくても、このままイヴが生産をやめてしまえば、いずれ訪れる結果は同じだ。みんな死んで、それで終わり。

 ただ、機能停止させなかった場合、イヴは一人で人々が次々に死んでゆくのを見守る事になるのだ。

 自分で機能停止を求めるほどに孤独からの解放を求めるイヴを、真の孤独の中に残す事は、マリンには出来なかった。

「…こんな事しか、出来なくてごめんね」

《いいえ、愛しい子。あなたはきっと…私の願いを叶えてくれると思っていました》

 その時、マリンは確かにイヴが微笑んだ顔が見えた。

 姿などなく、目の前にあるのは機械の塊でしかないはずなのに、幸せそうに笑っていると感じられた。何故かそれは、先程夢の中で見た『笑顔』に重なった。

《…最後にあなたにクリスマスプレゼントをあげましょう》

「プレゼント?」

《良い子は、クリスマスにプレゼントが貰えるのですよ》

 一体何だろうと思っていると、側の端末から何らかの言葉が書き連ねられた紙片がプリントアウトされた。

 はらりと床に落ちたそれを拾い上げ内容を確認するものの、それは言語というよりは暗号そのもので、一体何が書かれているのかわからない。

「…何これ?」

 イヴがプレゼントだと言う以上は何か特別なものである事は確かだが、一見意味のない文字列にしか見えない。困惑するマリンに、イヴは意味深な言葉を告げた。

《言うならば…”知恵の実”、という所でしょうか》

「実?」

 何の事やらさっぱりわからない。『クリスマス』と同様、昔には意味のある言葉だったのだろうか。

《暗号化していますが、それを解読する事は今のヒトの技術でも出来るはずです。…もし、あなたが私の願いを叶えてくれるなら、渡そうと思っていたものです。いずれ必ず必要となります。あなたの切り札にもなるでしょう。大事に持っておいでなさい》

 言葉遊びのようにそう言って、それが何かを答える気はないらしい。少し考えてマリンはその紙片を丁寧に折り、服のポケットにしまった。

 相手が人なら悪戯としか受け取れないが、他でもないイヴがそう言うのだ。それに、どんな物であれ、誰かに何かを贈られるのは初めてで、その事が純粋に嬉しかったのもある。

 返せるものが、『終焉』しかない事が少し哀しかったけれど。

「ありがとう、イヴ。大事にする」

《ありがとう、マリン。…あなたのこれからの人生に幸い多からん事を》

 これからも何も、イヴがいなくなったらあと数年程度で終わる人生なのだが、その祝福の言葉は何故か胸に焼き付いた。

 初めてマリンの名前を呼んだイヴに、マリンは彼女の『子供』として、今まで彼女によって生み出されそして死んでいった子供達の代弁者として、最大の感謝を告げた。

「…今までありがとう。そしておやすみ、…『お母さん』」

 その言葉は、ごく自然に唇から零れ落ちる。同時に目から勝手に何か熱いものも溢れてきたけれど、それは無視した。

 様々な感情を込め、マリンはイヴの全機能停止ボタンを静かに押す。

 壁と言う壁に埋められていた機械から、次々に光が失われてゆく。そして何百年もの長きに渡って『世界』を支えてきた存在は、たった一人の子供に看取られて永遠の眠りに就いた。



Epilogue


 長く長く、『ヒト』に代わり世界を管理してきたイヴ。

 彼女がいなくなった今、このままならヒトは運命を共にする事になる。

 何故ならヒトは、もはや自分自身で子を育めないのだ。どうやって生み出すのかさえ、もう忘れてしまっている。

 イヴの言うとおりだ。こんな不自然な形で、存続させ続けるべき理由が何処にあるのだろう。ヒトがいなくなったって、きっとこの星は変わらず在り続けるのに。

 だから成長を繰り返し、肥大化してしまった彼女が望む温もりを与えてあげられないのなら、せめて最初に彼女を造った人間に代わって与えるべきだと思った。

 他の誰もが与えようとしてこなかった、『終焉おしまい』を。

(なんで…ぼく、だったのかな)

 それはきっと、イヴ自身もわからないだろう。たまたま、クリスマスの日に生まれただけ。最後の子供に選ばれただけ。

(…本当は、あなたは死にたいんじゃなくて、『ヒト』になりたかったのかな。イヴ)

 本当の事はもうわからない。

 機械の身体に、0と1だけで造られたプログラムで構成された彼女が、『自我』を持っていた事自体、本来有り得ない事だ。

 けれどマリンは、イヴは肉体こそ持っていなかったものの、『ヒト』と同じような『心』を持っていたと思う。心があるのなら、もうそれは── 機械の塊などではない。

(あなたは、ヒトだったと思うよ)

 それも、誰より優しい。

 イヴは結局、自分の事だけを考えていた訳ではなかった。ただ、終わりたいと願っていただけなら、『遺産』など残すはずもないのだ。

 これが、一種の『愛情』でなくてなんだと言うのか。

 イヴがクリスマスプレゼントと称してマリンに託した文字列は、解読の結果、イヴのブラックボックスを解読する為のアクセスコードである事が判明した。

 切り札になる、とはこういう事だったのだ。実際、マリンがそれを手にしていた事で扱いが劇的に変化した。

 イヴから貰ったはずなのに、いつの間にかマリンが自分で入手してきた事になっていたのには、少し腹が立ったが。

 そこにあったのは、ありとあらゆるものの『生産』の記録。もちろん、どのようにして生産したのかも詳細に記録されていた。

 あまりにも膨大なデータを解析するのは相応の時間が必要だという事だが、いくつかの動植物に関してはすでに人為的な繁殖に成功したらしい。

 自然繁殖が実現するのにはまだまだ時間が必要となりそうだが、自分で命を繫ぐ道が出来つつある。

 マリンもまた、今までの代わり映えのない日常生活へと戻った。

 単調な日々、目新しい出来事もない。けれど、惰性のように生きていた毎日とは確実に何かが変わっていた。

(イヴ…あなたの事は、絶対に忘れないから)

 マリンは最後に託された紙片をぎゅっと握りしめた。解読が済んだそれを、特別に譲ってもらったのだ。

 今、マリンには一つ目標があった。実現可能かも不明だが、少しずつその為の努力もし始めている。死後の世界でも構わなかったけれど、今は別の形でイヴと会う事が目標だ。

(…いつか、きっと)

 自己満足なのは百も承知だ。けれど本当は── 叶うなら、停止ではない、もう一つの願いを叶えてあげたかったから。



 …マリンのその夢が少し形を変えて実現するのは、それから十年ほど後の事になる。


+ + +


 知恵の実を食べたのは、”さいしょ”の子等。

 そそのかしたのは、”蛇”。

 ── それは『罪』の始まりというけれど。


 ひょっとしたらそれは、違うのかもしれない。

 与えられるばかりの場所は、自分では何も生み出さない。工夫もない、努力もない。


『食べてごらんなさい』


 そう言ったのは、ひょっとしたら──。

 …今までありがとう。ぼく達は今、『母』の手を離れた。

 うまく歩けるかはわからない。立ち止って、挫折するかもしれない。でもそれはきっと、必要なこと。

 いつか、ぼく等もあなたの元へ行くよ。

 子供はいつだって、母なる場所へ還りたいと望むものだから。

 だから少しだけ待っていて。



 今度はきっと── 今度こそはきっと、あなたを抱き締めてあげる。

まさか、が三度続きました。

人はやろうと思ったら出来るものらしいです。

が。

取りあえず、全方向に向けて土下座致します……。

締め切りを優先にした結果、今回は完全な推敲不足です(汗)

いろいろエピソード的なもの(主にイヴ絡み)を大幅に削っているので、説明が不親切になっている部分も多いかと…反省あるのみです。


そしてちっとも厨ニ臭がしない件。


普段書かないので、最後の最後までいまいちわかりませんでした(涙)

最後に今回も企画を立ち上げ、お誘い下さいました、そうじたかひろさまに感謝を。

読者の方々には、幸せな聖夜が訪れますように。

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[一言] こちらでははじめまして。みてみんDVD企画から拝読しました。 宗像さんの小説は初めてです、まずはそこから。 予想とは少し違って、まあどんな予想ってのはおいて、最初に思ったのはとてもすらすら綺…
[一言] 感想遅くなってしまい申し訳ありません。 執筆お疲れ様でした。 「Paradise Lost」拝読させて頂きました。 有り得そうな未来の世界を、綺麗な描写がとても引き立てていたと思います。 …
[一言] 夕べ読ませて頂き、そのまま目を閉じました。 とにかく余韻に浸りたかった。 何からも邪魔されたくなかった。 細かな部分を指摘するなどという野暮は致しません。 そんなことは出る所に出れば校正とい…
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