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現実サーガ  作者: 光太朗
1/7

1 「君が、主人公だ」


 今日もまた、いつもどおり、非日常的な日常が始まる。


 吉川美琴は、きつく、靴ひもを締め直した。

 あの日から、革靴は履いていない。何が起こるかわからないから。

 ごく普通の私立中学に通う彼女の、午前八時十分の標準装備は、イマドキの子にしては長いスカートのセーラー服と、教科書やらが入った紺色の鞄、忘れてはいけないのが携帯電話、家の鍵──それと、小さなダガーとタリスマン、アミュレット。あと煙玉。

「……よし」

 寝癖なのかファッションなのか判断の難しい、四方に跳ねたショートボブを揺らし、自分に確認するように、小さく呟いた。

「行くぞ」

 握りしめた両の拳を、ぅしっ、と手前に引く。美琴なりの、気合いの入れ方だ。

目の前に、ドアノブ。

 あとは、これをくいっとひねって家を飛び出して、学校まで走るだけ。

 ──そのまま、三分が経過した。

「ミコトくん、いいたかないけどさ」

玄関に突っ立っていた白髪の男が、淡々と口を開いた。

 見た目には二十代半ば。黒スーツに黒ネクタイを見事に着こなしている姿は、まるでホストのようだ。そうでなければ化粧品か矯正下着のセールスマン。要するに、胡散臭さを醸し出している。

 彼の名は田中。

 美琴は、彼の下の名を知らないし、聞いてみようと思ったこともない。ただ、「田中です」と名乗られたので、田中と認識している。

 それだけの関係だ。

「わかってます」

 長身を見上げることはせず、そう言葉を返す。

 田中は、ああそうとあっさり引き下がったあと、美琴がぴくりとも動かないので、やはり告げることにした。

「遅刻するよ」

「わかってますってば!」

 ひとの気も知らないで──とは、いわなかった。

 いっても無駄だと知っているからだ。

美琴は息を吸い込んで、ドアノブに手をかける。ビデオを早回ししたみたいに、勢いをつけてドアを押し開け、急いで閉めて鍵をかけた。するりと、田中も続く。

季節は夏ど真ん中。雨の気配はなく、日差しが暑い。

 しかし美琴には、空を見上げる余裕も、年頃の少女らしく日焼けを気にする余裕も、皆無だった。

 くるりとドアに背を向け、ぐっと右足で踏みきり、走り出した。

 学校まで、猛ダッシュで十分。今朝見たテレビによると、本日の矢那呉市のモンスター確率は五十パーセント。

 もし出てきたら、ザコならダガーで応戦。基本的には煙玉で逃走だ。値の張るタリスマンを身につけているから、エンカウント率は下がっているはずだが、油断はできない。

 開かずの踏切が開く奇跡を待つつもりは毛頭なく、歩道橋を駆け上がる。さらにスピードを上げて階段を下り、コンビニの横も走り抜け、中間地点まで来たあたりで、美琴は足を止めた。

 泣きそうになった。

道の真ん中に、白くて小さな、猫のような生物が三匹。

「あー、出て来ちゃったねえ。残念」

 ぜえぜえと肩で息をする美琴とは対照的に、寝起きのようなテンションで田中がつぶやく。

「さあ、どうする、ミコトくん」

「決まってます」

 美琴は迷わず、鞄の外ポケットから小さなボール状のものを取りだした。煙玉、定価千円。

「逃走ーっ!」

 叫ぶと同時に、アスファルトに向かって投げつけた。ピンク色の煙が吹き出すのを確認する間もなく、そのまま白猫の横を走り抜ける。

 猫のようなそれは、ホワイトキャトビ。生命値一二の、ザコ中のザコ。

 世間一般で、モンスターと呼ばれる類の生物だ。

 ザコならダガーで応戦する、と前述したが、あくまでそれは美琴の心意気であって、現実がそのとおりになるとは限らない。

 装備からもわかるとおり、美琴は元々、本当は、モンスターと戦う気などほとんどなかった。というより、逃げる気満々だった。

 彼女の、唯一の武器装備は、ないよりましと田中にもらった初心者向けダガー。刃渡り二十センチにも満たない、小さな小さな短剣だ。装飾品装備は、敵との遭遇率を下げるタリスマン(定価九万の高級品)と、万が一モンスターに遭遇した際に回避率を上げるアミュレット(定価四万のまあまあ高級品)、あとは道具として、逃走率を九十パーセントまで引き上げる煙玉十こ。

 吉川美琴、十五歳。

 彼女は、ご近所さんや同級生たち……のみならず、ここに暮らすすべての人間たちとは違い、モンスターと戦う知識も、度胸も、もちろん経験もなかった。

 少し前までは、本当にどこにでもある中学の、どこにでもいる中学生だったのだから。

 ──いや、正確には、『どこにでもある中学の、どこにでもいる中学生』だという事実は変わらない。

 彼女が、おかしな世界に紛れ込んでしまったわけではない。

 彼女だけを取り残して、世界が、変わってしまったのだ。

「なんで、なんでこんなことに……。私の日常を返して──!」

 何度目かわからない、魂の叫びを入道雲にぶつける。すぐ隣から、答えは返ってきた。

「なんでって……だから、ミコトくんは勇者だからでしょ。しっかりしてよ、そんなんで世界が救えるのかね」 

「その、勇者っていうの、やめてください……」

 悲痛な声で、美琴は切願した。


 そもそもの始まりは、七月二日。

 まだ梅雨明けもしておらず、降水確率ニ十パーセントなのに朝から雨が降っていたあの日。

 両親ともに出張中のため、ひとりで二階建ての一軒家を任されていた美琴は、いつものように七時に起きて、着替えて、買い置きのパンを食べるために一階へ下りた。

 冷蔵庫から微糖のパックコーヒーを出して、牛乳と一対一で混ぜる。食パンは焼かずにそのまま皿に出し、テーブルに置く。

 さあ食べようとしたときに、チャイムが鳴った。

 まだ午前七時半。変だな、とは思った。

 とはいえ、無視するという発想はなく、ドアを開けてしまった。

 開けなければよかったと、後に美琴は激しく悔やむことになるが、このときはやはり寝起きということも手伝ったのか、モニターで確認するとか、覗き穴から見てみるとか、そういうことは一切しなかった。

「どうも、おはようございます」

 立っていたのは、世の胡散臭さを体現したような、黒スーツに白髪の男。

 雨だというのに傘も持たずに、しかし濡れた様子もなく、ひょろりとそこにいた。

 戸惑う美琴をよそに、おじゃましますとかいいながらずかずかと上がりこみ、リビングのソファに勝手に座って、そこでやっと「あ、忘れてた。田中です。どうも」と名乗った。

 美琴は、何か非難めいたことをいおうと口を開けたものの、うまく言葉が出てこずに、田中を見やった。

 これは誰だろう?

 当たり前のように上がり込み、平然と名乗ったところからすると、親の知り合いなのだろうか?

「両親に、用ですか?」

 結局出て来たのは、そんな間の抜けた問いがひとつだった。

 それでも、両親はいないというのは伏せておく。子どもひとりだと知られるのも危険かと思ったのだ。しかし田中は、問いには答えず、マイペースに名刺を差し出した。

『世界管理委員会 田中』と書かれた、白く味気ない名刺。

「……なんなんですか?」

根本的な問いしか出てこない。

 田中は、テレビ下の収納に流行りのゲーム機を確認すると、

「『ティピカルサーガ』って知ってる?」

 いきなり世間話的なことを始めた。

「……き、聞いたことはあります、けど……。わたし、ゲームはほとんどやらないので」

「ああ、そうなんだ? じゃ、『ティピカルサーガ』ってどういうゲーム?」

 何がどうなって「じゃ」とつながるのかわからない。人間というのは、混乱するととりあえず投げられた質問に答えてしまうものなのか、それとも単に美琴の気が動転していたのか、美琴は馬鹿正直に『ティピカルサーガ』について知っている知識を引き出していた。

「ニュースで取り上げられるぐらい人気の、ゲームソフト……ですよね? 発売日の前の日から、ゲーム屋の前にすごい行列ができたって。確か、この前出たのが三作目で……、えと、見たことはないけど、アニメも人気で、グッズもすごい売れてるとか」

美琴が生まれるより十数年も前に売れ始めた、ディーダ社の『ファイン』というゲーム機。当初は、サイズも大きく場所を取る割には、現代の携帯電話にも劣るほどのゲームしかできなかったが、それでも家庭でテレビを使ってゲームができるというのが話題を呼び、日本のみならず、世界中の子どもたちが欲しがったといわれている。その後、数多くのゲーム会社が設立され、たくさんのハードが売り出されたものの、依然としてトップをひた走っているのは、やはりディーダ社だ。

 現在売れているのは、『ファイン』が何度もモデルチェンジを繰り返し、初期型とは比べものにならない性能を誇る『ファイン・ファイン』というゲーム機だ。本体価格が五万円もするのに、いまや一家に一台といわれている。幼児向け、学生向け、大人向け、老人向け、と各世代に対して考え尽くされたソフトを出しているのが、勝因だろう。

『ティピカルサーガ』というのは、その『ファイン・ファイン』対応のゲームソフトだ。プレイヤーが勇者になって、悪の魔王を倒すという使い古されたシナリオながら、そのシンプルさが全世代に受けている。もともとゲームをやり込んでいるゲーマーの間でも、奥の深いシステム、自由度の高さが話題となり、発売日前日には徹夜組が出るほどの人気シリーズとなっているのだ。

 美琴は、懸命に『ティピカルサーガ』について思い出していた。そういえば、クラスでもよく話題になっている。隠れボスを倒しただの、レベルがいくつまで上がっただの。

「困るんだよねえ、そういうの」

 質問を投げておきながら、田中はそれ以上の答えを待たず、大げさな仕草で肩をすくめ、ため息を吐き出した。

 自分の答えが悪かったのだろうかと、美琴は思考を中止して、田中を見る。思いがけず目が合って、目を逸らすタイミングも逃してしまった。

 軽い声とは裏腹な、深い、漆黒の瞳。思わずどきりとする。

 それは、特別な感情というわけではなく、恋もしたことのない十五歳の少女にとっては、当たり前のトキメキだった。しかし田中は、ニヤリを笑みを見せ、

「なに、ミコトくん。僕に惚れた? いけないな、ヤケドしちゃうよ」

 実に萎えるセリフを吐いた。

「なにが困るんですか?」

「あれ、流しちゃうの? つまんないな」

 トキメキは増すどころか一気に冷めた。そのことに感謝すらしつつ、美琴はあきらめてダイニングの椅子に座る。話を聞くにしろなんにしろ、動きながらでないと遅刻してしまう。

「世界っていうのはさ、ひとつしかないと思う?」

質問を重ねながら、田中もまた美琴の向かい側に移動した。

「……さあ。なんでもいいです」

「僕も食べていいかな」

「どうぞ」

 長い指が、美琴の皿から半分に千切られた食パンをさらった。その目が牛乳パックを見つめたので、美琴は無言で立ち上がり、彼の分のカフェオレも用意する。

「結局、あなたはなんなんですか?」

「だから、その話をしてるところでしょ、いま」

「……?」

 美琴は眉をひそめながらも、朝食の続きにとりかかる。食パンをもぐもぐしながら考えた。

 彼の話題といえば、『ティピカルサーガ』と、哲学的なおかしな質問ぐらいだ。

「……世界、管理委員会」

 名刺に記されていた言葉をつぶやいた。

 世界管理員会という、謎の組織からやってきた、ホストのような男。ゲームの話と世界の話──

 美琴ははっとした。

「宗教!」

「違う違う、そういうんじゃないよ。お金も取らないし。ってか、お金ないでしょ? お家のひともいないでしょ? この家に君しかいないからって、やましいことをしようっていうのでもない。ちゃんと仕事で来てんだよ」

 美琴はもう一度、彼を見た。

 両親が不在であることなど、とっくに知っていたらしい。それどころか、今更だが、どうして名を知っているのだろう。

 見るからに胡散臭いのに、なぜか追い出そうという気にならない。加えていうなら、この男が自分に何かよからぬことをするという場面が思い浮かべられないほど、奇妙な安心感のようなものさえあった。

 他では見たことのない、真っ白な髪。深く黒い瞳。

 そこまで考えて、美琴は気づいた。

 どこか、人間らしくないのだ。

「世界っていうのはね、君には想像もつかないくらい、無数にあるんだ。世界認定基準っていうのは、まあ細かくいえばたくさんあるけど、基本的には、君の知っている世界は全部実際にあると思っていい」

 美琴は、ゆっくりと瞬いた。

「……わたしの知ってる世界?」

「ゲームはしなくても、本は読むでしょ? マンガとか小説とか。小さいころはテレビアニメだって見てただろうし、いまでも映画とか見るでしょ」

 美琴は眉根を寄せた。

「怪獣が街を破壊する世界とか、魔法を使う女の子がいる世界とか?」

「そう。ひとつのタイトルにつき、ひとつの世界。君の暮らすこの世界の人間はね、僕らにとってはいい迷惑なんだけど、世界をどんどん量産してるんだ。もうずっと昔からね。空想だと思って、フィクションのつもりで世界を作って、本や映像にして世に出すんだろうけど、基準以上の人間がそれを認識すれば、世界は実際に生まれる。それを管理するのが、僕の所属する、世界管理員会の仕事だ」

 美琴は、ゆっくり、できるだけゆっくり、カフェオレを口に流し込んだ。

 ごくり、と飲み込む。

「はあ、そうですか」

 何かを期待していたらしい田中は、不満げな顔を隠そうともしない。

「信じてないでしょ」

「そういうわけでもないですけど……なんていうか、自分には関係ない話なので」

 突拍子もなさすぎて、リアリティがないのは確かだが、関係ないというのも本当だった。

 たとえば美琴は、サンタクロースの存在そのものは否定しない。世界のどこかにいて、世界のどこかの子どもにプレゼントをあげているのだろうと思っている。というより、別にそれでかまわないと思っている。ただ、自分にプレゼントをくれていたのは、サンタクロースの名を語った両親であったし、多くの場合がそうであると知っている。テレビに登場するサンタクロースも、サンタクロースに扮した外国のそれっぽいおじいさんだと、知っている。

 真実を知っているが、夢物語を否定するつもりもない。

 つまりは、そういうことだ。目の前の田中が語ったファンタジーな話が真実だろうと、虚実だろうと、かまわない。

「……ちょっとクールすぎない? いまどきの子はみんなそんなんなの?」

「そうですか? で、そのたくさんある世界がなにか?」

「……うーん。まあいいか」

 なにか予定と違ったようだったが、田中はそのまま話を続けた。

「基準以上の人間が認識すれば、世界は生まれるっていったけどね、これが結構細かいルールで決まってるんだよ。単純に人数の問題じゃない。いくら一千万人が認識していても、ひとりひとりの認識が小さすぎたら、世界は形成されない。逆に、たった百人でも、ひとりひとりが朝も夜もそればっかり考えるぐらいに支配されていれば、その世界は空想したとおりに構成される。というより、空想ではなくなるわけだ」

「その話、歩きながらでもいいですか?」

 もう、美琴は、とりあえずは彼の話を聞こうという気になっていた。とはいえ、このままゆっくり聞いていては遅刻してしまう。

 一度二階に上がり、紺色の味気ないスクールバックを手に戻ってきた美琴は、田中には注意も払わずに、部屋の明かりを消していった。留守番電話をセットして、最後に濃い茶色の革靴に足を入れる。

「学校行くの? なんの準備もなくて平気?」

「準備ならしてます、ちゃんと」

 それどころか予習もばっちりだ。田中は、意味ありげな笑みを見せたが、気にせず美琴はドアを開ける。

 雨は止んでいたが、いつまた降り出すかわからない天気だ。空気に針を刺したら、破裂して水があふれ出しそうなぐらいにじっとりとしている。

 美琴はオレンジ色の傘を持ち、田中にも予備のビニル傘を手渡した。

「えーと、どこまで話したっけ?」

「世界が生まれるってとこです」

 だいぶ省略したが、思い出したようだった。傘を振り振り歩きながら、田中は続けた。

「そうそう、それで、『ティピカルサーガ』の話になるわけなんだけど」

 ちらりと、美琴は隣の田中を見上げる。

 本当についてきた。そうまでして、聞かせたい話なのだろうか。

「いまの話だと、『ティピカルサーガ』の世界があるってことですね。立派なのが」

「そう、そういうこと。知ってる? いまや十億人以上が『ティピカルサーガ』を認識してるんだ。十億だよ、十億。ことの重大さがわかるでしょ」

 といわれても、いまいちわからなかった。

 そもそも、十億という数字が大きすぎてぴんとこない。世界人口は確か六十億を超えているはずだから、六分の一程度ということだろうか。世界中で六人に一人、といわれれば、すごいような気もする。

 美琴は、ちょっと考えた。

「それで、そのゲームの世界ができていることが、なにかまずいんですか?」

 当然、そういう疑問につながる。

「ん、いい質問だね、ミコトくん。別にね、それ自体はまずくなかったんだけど、なにせこれだけ多くのひとから認識されて、熱狂的なファンまで世界中にいるってのは初めてだからね、イレギュラーな事態が起こっちゃったんだよ」

「……なにかまずいっていう展開になるわけですね。あ、信号赤ですよ」

 車の姿のない小さな交差点だったが、律儀に美琴は足を止めた。おっと、と田中もブレーキをかける。

「そもそもね、ミコトくんの住むこの世界のひとたちのどれだけが、自分たちの世界について考えてると思う?」

「また質問ですか」

 言外に答えを拒否。田中は、特に答えは期待していなかったようで、ため息を吐き出して首を振った。

「特にこの国はひどいね。ゲームに心酔する人数はものすごく多いのに、基盤となる自分の世界のことを考えている人数なんてスズメのナミダ」

 青になったので、美琴はすたすたと歩き出した。なぜ自分は、朝っぱらから説教を聞いている気分になっているのだろう。 

「こっからが本題だよ」

「やっとですか」

 横断歩道を越えたところで、田中は美琴の前に回り込むと、人差し指を突き出した。その指を、地面に向ける。

「つまりね、バランスが崩れてしまったんだ。まさに、この国から」

 行く手を阻まれ、美琴は立ち止まった。

 彼の声音が少しだけ真剣みを帯びていた。漆黒の瞳を見上げる。

「この世界と、『ティピカルサーガ』の世界は、混ざり合ってしまった。二つの世界は、もう完全に、融合してしまっている。いまそのことを知らないのは、君だけだ」

 意味がわからず、美琴は田中の言葉を反芻した。

 知らないのは、わたしだけ──

「なにか質問は?」

 といわれても、言葉が出てこなかった。

 ばかばかしい。

 質問するにしろ、なにを聞けばいいのかわからない。   

「わけがわかりませんし、信じられません。事実、わたしはいつもどおりに起きて、いつもどおりに学校に行くところです」

「でも今日は僕が来た」

 その論法は卑怯だった。美琴は大きく息を吐き出した。

「結局、あなたは、なんなんですか?」

 その質問に戻ってくる。ふむ、と少し考えて、田中はなにやら閃いたのか、悪童のように笑った。

「君にとっての、ゲームマスターってとこかな」

「……ゲームマスター?」

「プレイヤーを導く役回りだよ。僕は君を導くために、世界管理委員会から派遣されたんだ」

「プレイヤー? なんの? そのゲームの? 導くって──」

 どこに、と続くはずの言葉を飲み込んでいた。

 田中の向こう側の、道脇にある小さな公園から、得体の知れないものがのそりと姿を現していた。

 ひどく太った猿のようにも見えたが、美琴の知るそれよりもずっと毛むくじゃらで、大きく、うす汚れていた。なにより、大きな猿だとしても、それが公園から出てくるなど言語道断であった。

 美琴は完全に言葉を失っていた。逃げることも思いつかなかった。

 ただ、自分よりも大きな毛むくじゃらのそれがゆっくりとこちらを向き、目が合ったとき、初めて危険だと感じた。

「そ、……う、あ……」

 それはなに、うしろを見て、危ない──なにひとつ言葉にならない。

「ほら、出て来た」

 頭にくるほどあたりまえのテンションで、田中がそれを見た。

「だいじょぶ、最初だから僕がやるよ。じゃーん!」

 気の抜けるかけ声とともに、スーツのポケットからタバコの箱を取り出す。タバコを一本取り出すような仕草をしたかと思うと、右手を思い切り上に引き上げた。

 美琴は、本気で、ものすごく長いタバコが出て来たのかと思った。

 箱のサイズを完全に無視して出て来たのは、ファンタジー映画で見るような古びた長い剣だった。といっても、ずいぶんと細い。大きな針のようだ。

「マイ武器、レイピア」

 わざわざうしろを振り向いて、美琴に紹介する。

驚けばいいのか褒めればいいのか悲鳴をあげればいいのか、もう美琴にはまったくわからない。ただ、頭の端っこで、奇妙に冷静な自分が、うっすら理解し始めていた。田中のいったことは、たぶん、本当のことなのだ。

 反応がないことにつまらなそうな顔をしたものの、田中はけむくじゃらの生き物に向き直り、手にした武器を軽々と構え、躊躇なく刺した。

 切ったのではない。生き物の額の中央を、まっすぐに突き刺したのだ。

 けむくじゃらのそれは、悲鳴も上げなかった。血が飛び散ることもなかった。突き刺した部分から穴が広がっていくように、瞬く間に暗闇に支配され、それは消えた。まるで、画用紙の上で黒く塗りつぶしたように。

 コトリと、小さな青い石がアスファルトに転がって、暗闇も溶けてなくなった。

「……はっ──」

 息を吐き出したことで、自分が呼吸もできずにいたことに気づいた。力が抜け、美琴はその場に崩れるようにへたり込む。

「だいじょーぶ?」

 しゃがんで美琴の顔をのぞき込む田中の手には、もうあの剣のようなものはなかった。美琴は、ゆっくりと酸素を吸い込む。

「……世界が……」

 手の甲で汗を拭い、もう一度息を吸った。

「混ざって、いるから……?」

「そう」

 ものわかりのいい生徒を見るように満足げに、田中は美琴の頭に手を乗せた。思わず、びくりとしてしまう。あの生き物に、剣を突き刺した手だ。

「さっきのは、『ティピカルサーガ』のモンスター。名前はドーアント、生命値は一〇〇〇。魔力はないけど、腕力があるから危険だね」

「殺したんですか」

 非難するつもりもなく、ただそう聞いた。

「ゲームだよ、ミコトくん。あれが、『死んだ』ように見えた? ゲームでは、ふつう、『倒す』っていいかたをするね。亡骸も残らないし──」

 腰を上げ、青い石を拾い上げた。

「──お金になる。これを店に持っていけば、換金できるよ。この世界の人間が考えるRPGってのは、大抵そういうシステムだ」

 つまり、本当に、ゲームなのだ。

 自分が、ゲームの世界に紛れ込んだのではないというのは、わかっていた。自分の家も、ここから見る景色も、なにひとつ変わらない。

 ゲームの世界そのものが、やってきてしまったのだ。

「ミコトくんにとって、この状況がアタリマエじゃないのはね、君がゲームでいうところのプレイヤーだからなんだ。さっきいったでしょ、知らないのは君だけだって」

「……プレイヤー」

 ぽつりと繰り返した。

 テレビの前にすわって、ゲーム機の電源を入れて、コントローラーを握る人物のことだ。

 ──それが、わたし?

「世界が混じり合っているから、君が主人公を操るわけじゃない。ミコトくん、まさに君が、主人公だ」

 耳を疑った。

 もうなにを聞いても驚くまいと思っていたのに、驚きの次元すら超えていて、眉一つ動かせなかった。

 しばらくたって、ゆっくりと顔を上げた。美琴は、なぜか機嫌の良さそうな田中を見た。

 このひと、絶対ドSだ──そんな妙な確信を持った。

「さあ、立ち上がれ、勇者ミコト! 魔王をやっつけよう!」

 高いテンションに目眩を覚え、美琴は二度と立ち上がれそうになかった。 




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