序章 3 出会い
外は思っていたより風が強くてどんどん身体が冷えてくる。手袋をしてくるべきだった。歩くうち両手はすっかり冷たくなってしまった。
インターホンを鳴らし俺はなんとなく隣の洋館を見やる。もともと俺の住まいであるその無駄に大きな家は、遠目にもかなりの間手入れされていないことが分かる。壁や屋根は雨や埃で薄汚れたまま放置され、所々剥がれおちている。
両親がまだこっちにいた頃は、まめにメンテナンスをしていたのに、ロスへ行ってからはなぜかやめてしまった。どうせ業者に頼んでいたのだから、そのまま任せておけばすんだことなのだが。
インターホンは三回鳴らしたが応答はなかった。鉄の門扉を押しあけて中へ入る。門扉は俺の手と同じぐらいに冷たい。
コンクリートの家、というよりは研究所といった佇まいのその巨大な建物のカーテンは、すべてぴったりと閉じられていて中を窺うことはできない。カーテンを閉めると中は暗いはずだが灯りももれていない。エアコンの室外機も止まっている。
留守なのか。
裏へまわれば地下室の室外機があるのだが、寒くて確認するのは億劫だった。
仕方がない。こんな時のために預かったのだし。
女の子が一人でいる家に無断で入るのは気が引けたが、このままでは博士に連絡できない。もう一度門のインタ−ホンを鳴らしながら悴んだ手でポケットの中の鍵を探る。
「おーい、灰原、俺だー。入るぞー」
鍵を開けて玄関に入ると声をかけながら靴を脱いだ。家の中も寒い。リビングのドアを開けると思ったとおり中は薄暗い。そしてやはり同じように寒い。
部屋をぐるりと取り囲むようについている窓は以前はガラス張りのままだったが、最近になって博士はカーテンを取り付けたのだった。面積がかなりあるので圧迫感がないように、壁の色に近い薄いベージュにとふたりで決めたらしい。
それは、実のところ隣に沖矢昴が越してきたせいだ。一時灰原は、彼を警戒するあまりリビングにいても落ち着かないからと地下に引き籠っていたのだ、と博士が言っていた。
「灰原、いないのかー」
また声をかけながら部屋の奥に目をやった時、一人の女性が呆然と立っているのが見えた。
どれぐらいの時間沈黙していたのかわからない。おそらくほんの数秒だったろうが。
先に声を上げたのはその女性の方で、驚きの表情はすぐに怒りのそれに変わった。
「向こうを向いて」
見覚えのある顔の茶髪のその女性は、身体に巻いたバスタオルの胸の部分を抑えるようにして、たぶんできる限りの大声で叫んでいた。
「い、いや……あの……」
うろたえて言葉が出てこない。
「早く向こうをむいて」
髪が濡れたままの灰原……と思われる女性は更に声を荒げた。
「は……はい」
もぞもぞと返事をしてとりあえず後ろを向く。
しばらく間があり、灰原(おそらく)はふわりと後ろを通り過ぎ階段を駆け下りて行ったようだった。シャンプーだかボディーソープだかの香りがして頭がクラクラしそうだ。
何が起こったのかすぐに考えることができない。
灰原だ。たぶんあれは灰原だ。
あの雪の日血だらけだったアイツと、ついさっきの艶めかしい姿が交互に浮かぶ。
なぜ元の身体に戻っているのか。解毒剤が完成したのか。
それ以外の答えが思いつかない。
思考が停止している。
気がつくと地下室から聞こえていたドライヤーの音が途絶えていた。そろそろここへやって来るだろうか。アイツはこの事態をどう説明するだろう。
しかしいくら待っていても灰原が現れる気配はなかった。
いつのまにか俺はソファに腰掛けている。寒くて身震いまでしてきた。エアコンをつけることも思いつかず、ただ時間の感覚もなくぼーっと待っていたのだ。
いったい何をしているのか。服を着るのにそんなに時間がかかるのか。いつまで待たせるつもりなのだ。それとも副作用か何かで具合でも悪くなったのだろうか。いや、それなら助けを呼ぶはずだ。でももし声も上げられないほどの状態だとしたら。
イライラと不安は頂点に達していた。
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