第四章 5 もう何も見えない
「博士とは生まれる前から縁があったってわけね。」
彼女は博士からオパールのペンダントを両手で包むようにして受け取った。
グリーンがかったブルーのそのオパ−ルは楕円の形をしていて、ゴールドの飾りで縁どられている。
オパ−ルは特有の様々な色彩を放ち、ゴールドの枠とチェーンは少しも黒ずんでおらず二十数年前のものには見えなかった。
彼女が手入れを怠らなかったのだろう。
博士の告白は大筋は予想通りだったはずだが、博士の言葉を直に聞くことはどこか非現実感を伴っていた。
「博士が謝ることなんてないのに。博士は何も悪いことしてないじゃない。」
彼女は自分の掌の上から博士に視線を移して言った。
「一人でゆっくり見てもかまわないかしら。」
「ああ、もちろんじゃ。君のお父さんの大学時代の写真もあるんじゃが、一緒に持って行くかね。」
彼女は首を横に振るとそそくさと立ち上がる。
「それはあとで博士と一緒に見るわ。」
「おい、灰原…。」
彼女の眼が潤んでいる事に気がついて、俺も思わずソファから腰を浮かせた。
だが彼女はそのまま振り向こうとはしなかった。
そのときまた携帯が振動した。ポケットから携帯を取り出す隙に、彼女は地下に続く階段へ向かう。
電話はやはり蘭からだった。博士が話している間にも何度もかかってきていたのだ。
何かただならぬ事があったのかもしれない。
俺は階段を降りて行く彼女の後ろ姿を見送りつつ電話に出る。
「ああ、やっとつながった。」
蘭の心から安堵したような声が妙に懐しく聞こえた。
気まずい別れ方をしてからさほど時間は経っていないのだが。蘭は泣き出しそうな声で続けた。
「新一、どうしよう。コナン君とずっと連絡がとれないの。」
確かに蘭にとっては緊急事態と言えるだろう。俺は踵を返してリビングの奥から裏口へと出る。
外は穏やかな天気ではあったが、もう夜も深まってかなり冷え込んできている。
肩をすくめて空いた方の手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「ああ…悪い。」
つい口にした。コナンの携帯はずっと電源を切ったままにしていたのだ。
「どうして新一が謝るの。」
「あー、いや、えーっと俺んとこには電話あったぜ。連絡するの忘れてた。」
「ほんと?」
「ああ、なんか蘭に電話したけど話し中だったからって言ってたぞ。」
「えーっ、それいつの話?」
「悪い。そこまで聞かなかった。」
博士かフサエさんに連絡してコナンから電話させるようにするから、と言って電話を切った。
蘭はそんな気配を微塵も感じさせなかったが、おそらく最後に二人で話した時の事は心にあっただろう。
電話を切ると自然にため息が洩れる。
俺はいったい蘭のことをどうするつもりなのか。
蘭は今も俺にとってかけがえのない大切な存在であることは確かだ。しかしそれは彼女に恋していることとは別の次元の問題だった。
蘭が俺に恋愛感情を抱いている以上、俺が蘭の期待に応えることはもう難しい事のように思われる。
このまま曖昧にしてしまうのは彼女にも蘭にも不誠実だと思う。
しかし一言も好きとさえ告げていなかった蘭に、他に好きな女性ができたなどと言えるものではない。
そもそもなぜ彼女に心を奪われてしまったのだろう。
いやむしろなぜ今まで彼女に何ら特別な思いを抱かなかったのだろう。
子供の姿だったからだろうか。いつも蘭がそばにいたからだろうか。
たぶん両方なのかもしれない。
彼女は、俺はずっと蘭しか眼中になかったのだから今の感情は一時的なことだ、と思っているらしい。
確かに彼女とのことはまだ本当に始まったばかりで、ただ好きでたまらなくて、ただ抱き締めていたくて。
先の事を考える余裕などないのだが、それでもいつか彼女への気持ちが変わってしまう日が来るなど、今の自分には到底思えないのだった。
それでは彼女の問いかけの答えにはならないのだろうか。
何も羽織らずに外へ出てきたので、そろそろ身体が震えだしてきた。
俺はコナンの携帯の着歴から蘭の名前を選び発信ボタンを押す。
だが呼び出し音が鳴り始めてから、変声機がないことに気がつき慌てて電話を切った。
コナンでいる時は二台の携帯を使いあんなに必死に演じ分けていたのに、元の身体に戻った途端コナンの事はほとんど頭になかった。
コナンとしての時間を否定するつもりはないが、つまりそれが俺の本音なのだろう。
今はもう彼女の前では言えなくなってしまったが、やはり一日も早く完全に元に戻りたい。
いや、もしかしたらこのままずっと元の身体でいられるのでは。
俺は少し前に芽生えたこの安直な考えを、なかなか捨てることができなかった。
彼女によれば予想を遥かに超えた効果らしいし、現実に試してみなければ何が起こるかわからないのだというような事も言っていた。
だとすれば、予測に反して永久に効果が持続するということはないのだろうか。
彼女は組織の目を気にしているようだが、工藤新一でさえあれば日本の警察も動いてくれるだろう。FBIやCIAとも協力し一気に事を進めれば、狙われる前に組織を壊滅できるのでは。
解毒剤の効果が思いのほか長く続いたことで、気が大きくなっているのかもしれなかった。
彼女に話してみようか。一笑に付される可能性は高いが。
だが今はとにかく変声機だ。
あとで彼女に俺の楽観論を言うべきか否か考えながらドアのノブに手をかけた時、突然心臓をギュッと掴まれるような激しい痛みに襲われた。
一瞬で痛みは全身に伝わりどっと汗が吹き出す。
身体が焼けるように熱くなり、激痛のために俺は膝をついて呻いた。
必死にドアノブに手を伸ばし廻そうとするが、呼吸もできないほどの苦しさで思うようにできない。
何度も繰り返しやっとの思いでノブは廻った。しかし座り込んだ自分の身体が邪魔をして、外側に開くタイプの古くて重いその扉は開かなかった。
真冬の夜の空気が全身の汗を冷やして、悪寒が走る。
全力でドアノブを握りしめていたはずがいつのまにかその手に力が入らなくなり、そのまま目の前が見えなくなっていった。
ここまで読んで下さっている皆さんありがとうございます。
これからもあたたかく見守って下さると嬉しいです。
次の更新は早くても今月末頃になると思います。お待ちいただいている方々にはいつも本当に申し訳なく思っています。お許しください。
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