第四章 2 揺れる心
朝目が覚めて起き上がると、昨日とはうってかわって身体が軽くなっていた。
昨日は昼間から食事の時以外はほとんど眠っていたし、いつもの風邪薬も効いたようだ。
私はまるで時計の振り子だ。心を決められない。
あの時身を挺して私を守ってくれた彼女のことが心に浮かぶ。
彼らがもとの運命に戻るのを見届けるのだと覚悟し、同時に自分の思いは心の奥底に閉じ込めたはずだ。
それなのに一度彼が触れた心は、ひもを離してしまった風船のようだった。
私自身もつかまえることができない。
今朝の検査結果の数値には特に変化はなく、あと四十八時間から七十二時間程度は子供に戻りそうになかった。
けれどもそれがリミットだと思っている。
リビングへ上がって行くと男たちはまだ寝ていた。
冷蔵庫を開け、血液検査用のボトルがビニール袋にくるまれて置いてあるのを見つける。
律義にデータを残さなければと思ったらしい。
ソファで眠りこけている彼を見てみれば、毛布は腹の辺りまでしか掛っておらず腕が片方だらりと床に垂れていた。
私は傍まで行って毛布を掛け直し、はみ出した腕をそっと取って毛布の中にいれる。
彼の無防備な寝顔はなぜか私を穏やかな気持ちにさせた。
朝食の支度をしようと、もう一度冷蔵庫を開け卵や野菜を取り出した。キャベツを刻み始めたのだが、段々と立っているのが辛くなってきた。
やはりまだ本調子というわけにはいかないらしい。しゃがみ込んでしまいたい程になり、包丁を置いてさっと手を洗った。振り向きざまに、すぐ後ろに立っていた彼とぶつかりそうになった。
はっと息を呑んだが、気分が悪く咄嗟に抗議の言葉も出てこなかった。
彼はすぐに気がついたらしく、顔が真っ青だぞ、と手を貸してくれる。
ソファに座っただけでいくらかましになったものの、立ち仕事はできる気がしなかった。
「まだ無理だろ。メシぐらい博士と俺でなんとかすっから、休んでろよ」
「いつから起きていたの?」
昨日似たような会話をしたばかりだと思いつつ訊いた。
「おまえが最初に冷蔵庫を開けてボトルを見つけて、あっ、工藤君、私の為にサンプル採取してくれたのね、ステキ、と思ったあたり」
「後半が著しく現実と違うんだけど。それにしても人が悪いじゃない」
「おまえが言うか」
ではあれは寝顔ではなかったのだ。無防備を装っていたということか。
そう思うとなんだか安らぎを感じていた自分が滑稽に思え、彼を軽く睨んでみる。
無論彼はその意味を知るはずもなく、横になった方がいい、と立ち上がり場所を空ける。
言われるまま横たわると、すーっと身体が楽になってきた。
彼は屈んで私と自分の額に交互に手をあててから、熱はもうなさそうだな、と独り言のように言う。
「でも無理すんなよ」
彼が私の前髪をかき上げるようにして撫でた時、ベッドでは博士が目を覚ましたらしく、起き上がって大きく伸びをしているのが見えた。
結局日がな一日寝たり起きたりするはめになってしまった。
本当はデータ整理さえ終われば、部屋の模様替えか片づけをするのもいいと思っていたのだ。
幼児の身体の時にするよりは、はるかに効率はいいはずだ。
しかし熱が出た後でそこまでする体力もなく、二人にそれを指示する気力もなかった。
だがたとえ模様替えや片づけをしたところで、せいぜいその程度である。
元の身体でいられる貴重な時間だというのに、息をひそめていなければならない。
私の前では口にしなかったが、彼にしたところでそういう思いはあったろう。
一歩も外には出られず、ただ暇をもてあまし、同じように時が無駄に過ぎて行くのを待っているしかなかったのである。
組織がある限り、元の身体を取り戻したからといって、元の暮らしには戻れないのだ。
もっとも私には戻るべき元の暮らしなどないのだが。
わかっていたはずの事だが、今はそれを身をもって思い知ったのだった。
夕食には博士と彼がカレーを作ってくれた。
普通に考えればそう簡単には失敗するものではない。ルーの箱の裏には必ず作り方が書かれているので、その通りにつくりさえすればそこそこの物は出来上がる。
しかしつい2、3日前に彼が不器用に包丁を握りしめていたのを目撃した私は、自分が作ると願い出た。
「大丈夫だって。カレーはキャンプで何回も作ってるし、博士だって子供じゃないんだし」
彼は私の両肩に手を置いて、いつもの調子で笑顔で言う。
「私が心配なのは博士じゃなくてあなたの方なんだけど」
「だから大丈夫だって。心配しなくても指切ったりとかしないから」
「そうじゃなくて、私が言ってるのはカレーの出来上がりの事よ」
言い終わる前に彼は私にくるりと後ろを向かせ、そのまま階段まで肩を押してリビングから追い払おうとする。
その場にいてもおそらく気が休まらないので、私は大きくため息をついて見せてから地下室へ退散した。
カレーは意外な事に(と言っては二人に失礼だが)とても良い味だった。
おいしい、とひとこと言うと、彼は、だろ?と子供のように嬉しそうな顔をする。
「ほとんど新一君が一人で作ったんじゃ。わしは野菜の皮むきを手伝ったぐらいでな」
「そうなの?」
「まあな」
彼は照れくさそうに答えて目を逸らし、博士は感心した様子で続ける。
「ちゃんと玉ねぎがあめ色になるまで炒めておったしな。カレーがうまくなるって言うじゃろ。焦がさんように相当慎重にやっておったから。うまいはずじゃ」
それは二十分程度玉ねぎをひたすら炒め続けなければならず、見た目よりかなり根気がいる作業だ。しかも焦がさずにいるのは簡単ではない。
私もよほど時間に余裕がある時でなければ、そこまではしない事が多い。
私は手を止めて彼が、俺意外に料理の才能あるかもなー、などと博士と話しているのをじっと見つめた。彼の一生懸命な姿を想像して、心の中が今までになく温かい思いで満たされるのを感じていた。
よく普通のひとたちがいう幸せとは、もしかしたらこういう気持ちのことかもしれない。
後片付けも免除された私は、それでも二人のために食後のコーヒーだけは淹れた。
そして彼と並んでソファに腰を下ろし、ずっと気にしていたことを口に出した。
「ごめんなさい。勝手なことして。」
昨日までの経緯を聞いた時の、博士のどこか物悲しいような声が耳に残っていた。
博士は自分に言われたのだとわかり、私に顔を向ける。
「博士には本当に感謝しているの。こんな私をおいてくれて、こんなによくしてもらって。
だから心配かけたくなかった。それだけよ」
博士はしばらく無言だった。いつもの柔和な表情とは違い険しい顔で、ふと私は不安に駆られた。
「わしは哀君にはそんなふうに遠慮はしてほしくないんじゃ」
博士は心を決めたように口を開いた。
「何しろ哀君が幸せとはいえない子供時代を送り、組織にいいように使われ、今もこうして苦しんでおるのは…わしにも責任の一端がある事だと思っておるんじゃから」
私は博士が何を言っているのか理解できなかった。
組織?責任の一端?博士の言葉が何度も頭の中でこだまする。
視界の端で何かがかすかに揺れている気がした。ゆっくりと顔を横に向けると、彼はそれほど驚いているような顔ではなかった。むしろ平静に見える。
しかし彼の膝の上で握り締められた拳は小刻みに震えていた。
ここまで読んで下さっている皆さん、こんにちは。
ちょうど30話になりました。
…長いですね^^;
読者の方も最初の頃の話とか忘れてしまいますよね、きっと。ペース上げたい気持ちはあるんですけど…(*^_^*)
今回なかなかうまくまとまらず、また開き直って更新してしまう感じです。
次回は日頃私が疑問に思っていることを、少し新一に語ってもらおうかな、と思っています。
いつもこんな話にお付き合い下さっている皆さん、感想や評価を下さっている方々、本当にありがとうございます。
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