第三章 6 異変
俺は自分のしたことに驚いてもいたが、一度触れてしまった彼女を離したくはなかった。
意外なことに彼女は抵抗しなかった。
それは彼女も俺と同じ気持ちだという事なのだろうか。
彼女が震えているのが伝わってくる。いや、震えているのは俺の方なのか。気のせいか彼女の身体は熱いように思える。
いつだったか、何かあれば守ってやるから、というような事を彼女に言ったことがある。
その時も決して口から出任せを言ったつもりはなかった。だが今は同じ言葉が胸の中を去来するのに、その重みを初めて感じ、簡単に口に出すことはできなかった。
いつも捉えどころのない彼女の心が、今は確かにここにあるのだと、この腕の中にあるのだと思うだけで、胸がしめつけられるようだった。
彼女の心がどこかへ行ってしまわないように、もう一度しっかりと抱きしめる。彼女は壊れてしまうかと思うほど華奢で、尚のこと愛おしさがこみあげてきた。
外で何か物音がした。玄関の方からだ。
もう一度ガタンと音がしたかと思うと、続いて鍵を開ける音が二度聞こえた。
この家の鍵を持つ人間は彼女以外には一人だけだった。
思わず腕を緩めると彼女は顔をあげて俺を見つめたが、その目はどこか悲しげな色を放って見えた。
なぜそんな顔をするのかと思う間に、彼女はすり抜けるようにして俺から離れ玄関へ行ってしまった。
「帰って来るなら連絡くれればよかったのに」
廊下から彼女の声がする。博士も何か言ったようだが聞き取れない。きっと腰が抜けるほど驚いているに違いない。
両手に土産物の紙袋を幾つもさげた博士は、リビングのドアを開けたまま立ち尽くした。
彼女はキャスターつきのスーツケースを転がしてきて、博士の後ろで立ち止まる。
「よ!おかえり、博士」
俺はソファの肘掛けに腰かけて片手を挙げた。
実際なんと言えばいいのかわからなかった。彼女は何事もなかったような顔をしているが、俺の手の中には彼女を抱きしめた感触がはっきりと残っていて、まだ心臓が破裂しそうな状態なのだ。
「君達はいったい…どういうことなんじゃ」
「とりあえず着替えて来たら。話はそれからにしましょ」
博士はまだ何か言いたそうにしていたが、大量の荷物は残して二階へ着替えに行った。彼女は土産物の中から菓子箱を一つ取り出し俺に手渡した。
「どういうことだよ」
俺は彼女の耳元に顔を寄せて小声で言った。
「まだ今日は帰って来る予定じゃなかったろ」
「さあ」
彼女は首を傾げて言う。
「何か察知したんでしょうね」
彼女はキッチンへ行くと、カップボードから白い大皿を出しカウンターに置いた。
俺は菓子箱の包装紙をはがし箱を開け、小袋にはいった菓子を無造作に掴んで皿にあける。
彼女がコーヒーを淹れなおしている間に、俺はその小袋を一つとって中の菓子を口に放り込んだ。
どこの土産物の店にもありそうな、チョコレートをサンドしたクッキーだった。朝からコーヒー以外は何も口にしていない事を急に思い出し、空腹を感じていた。
そうこうするうちに着替えた博士が戻ってくる。
「二人とも座りなさい」
今度は彼女はカウンターに湯気が上がるマグカップを二つ置く。
俺がそれをテーブルに運んでソファに腰をおろすと、彼女はもう一つコーヒーを持って俺の隣りに座り大きくため息をついた。
「二人してメールでおかしな事を頼んでくるし……」
博士は意味ありげに俺を見て口ごもる。俺は昨日かけた電話のことだと思い至ったが、彼女の前なので口にするわけにもいかない。
「二人してって、お前もメール送ってたのか」
彼女はただ頷くだけで何も答えなかった。博士の不自然な様子には気づいていないようだった。
「似たような文面じゃったぞ。哀君のが先に来たがな」
そういえば、その電話でどうも心に引っ掛かることがあったのだった。妙な違和感の理由が今は思い出せない。
「とにかく何かあったんじゃと思って、予定を早めて帰って来たんじゃ。哀君の解毒剤が完成したのかね」
彼女はソファにもたれたままで力なく首を横に振ると、あなたから話してくれない、と静かな口調で言ってから俺を見た。
俺は彼女が新しい解毒剤の実験をした事、自分は無断でそれを飲んだ事、そのためにコナンのアリバイが必要になった事などを話した。
博士は驚きながらも時折頷いたりして、最後まで口を挟まずに聞いていた。
俺が話し終えると博士は、わしだけ除け者とは水臭いのう、と誰にともなく呟いた。
それがあまりにもしみじみとして寂しげだったので、俺は慌てた。
「い……いや、そういうわけじゃなくて。灰原は博士に心配かけたくなかったわけだし。
ていうか、俺も知らなかったんだし。な?」
そう言って隣りを見ると、彼女はソファの肘掛けに片肘をつき、こめかみを押さえている。
眉を寄せ目を閉じていて苦しそうにも見えた。
「おい、どうしたんだよ、具合でも悪いのか」
「なんでもないわ。ちょっと頭痛と、悪寒がするだけ」
「大丈夫か。おまえ、それってまさか副作用なんじゃ」
俺は彼女の肩に手をおいて顔を覗き込んだ。頬が赤みを帯びている。
「そんなはずないわ。今朝の検査では、白血球の僅かな減少以外、目立った数値の変化は、なかったもの」
息を吐くのに合わせないと、声を出すのも辛そうだ。
「哀君。どうしたんじゃ」
博士も身を乗り出す。
「大袈裟ね。なんでもないって、言ってるでしょ」
「いや、なんでもなくないだろ」
彼女はそのままずるずると、肘掛けに両腕を置きその上に顔をうつ伏せる。
「おい、灰原」
彼女を揺すった時、身体が相当熱いことに気がついた。額に手を触れてみるとやはりかなりの高熱のようだ。
「おまえ、だいぶ熱あるぞ」
ずっと我慢していたのだろうか。
もしかしたら俺が来た時にはもう体調が悪かったのではないか。電話で疲れていると言っていたのは、口実だと思っていたが本当だったのだ。
頭の中は彼女の事でいっぱいだったのに、目の前の彼女の異変に少しも気づいてやれなかった。俺はそれが悔しくてたまらなかった。
ここまで読んで下さっている皆さん、ありがとうございます。
次回もなるべく早く更新したい気持ちはあるのですが…^^;
頑張ります!
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