第二章 7 二人の夜は…
「今回はあなたに使う予定はなかったけど、こうなってしまった以上仕方ないわね。」
実際苦々しい思いだった。そもそも彼に解毒剤が効かなくなってしまうことを恐れて計画したことだったのに、結局連続投与まですることになってしまった。
「なるべく耐性がつかないように時間をあけたいけど、効果がなくなり幼児化してしまってから再投与すれば身体への負担は大きいし、必ずもう一度効くという保証もないわ。
もちろん彼女の前で江戸川コナンになるわけにもいかないしね。
そのあたりのバランスを考えると、前回までの経過と検査の結果を見る限り5時間毎の服用が妥当でしょうね」
ただしこれは私の推測にすぎないのだと付け加えた。様々な環境や条件のわずかな違いが時に予想外の結果を引き起こす。故に推測がはずれることは非常によくあることなのだ。
つまりやってみなければわからないという事だ。
5時間というのも、薬の成分の違いによる差異を私の経験とこれまでの経緯から予測したものだ。あるいはもっと長く保つかもかもしれないが、彼女に会わせる以上慎重を期したい。
ひととおりの説明を終えると6時半をまわったところだった。
彼を買い物に行かせるわけにもいかず、食事の世話までするはめになってしまう。
「なんでもいい?」
一応聞いてみたが最初から異議を受け付ける気はない。私がキッチンへ入ると、彼はあたりまえのようについてくる。
「なに?」
うろうろされると邪魔なので、用があるなら早く済ませて向こうへ行っていてほしい。
しかし彼は既にシャツの袖のボタンを外し始めている。シャツはダークグリーンとネイビーを基調にしたチェック柄で、襟元からは黒のTシャツが覗いている。彼はその袖を肘の辺りまで折り曲げた。
「何年一人暮らししてたと思ってんだよ」
得意気に言いながら、彼はいつもの時計を外してカウンターに置くと手を洗う。自分にやらせろということらしい。
しかしキャンプへ行ったりしても彼が料理をしているところは見たことがないので、簡単なことだけ頼むことにする。
とりあえずすぐにできる生野菜だけのサラダを作るのにキュウリとトマトを切ってくれるよう言った。
だが彼がまな板にキュウリを置いて包丁を下ろそうとした瞬間、思わず包丁を持つ彼の右手を握って止めていた。
「なんだよ。危ないだろ」
彼は心底驚いた顔で私を見たが、とても危なっかしくて見てはいられなかった。ほとんど包丁など握ったことがないと、一目でわかる持ち方だったのだ。
「だってあんまりひどい手つきだから」
私は大きく息を吐いて彼の手を離してから言った。包丁を持たせるのはあきらめ、レタスを二、三枚洗ってちぎり氷水に浸すよう指示をする。
「ああ、シャキッとさせるためな」
彼は知ったふうに頷きながらレタスの葉を剥し始める。やはり無駄に知識だけはあるらしい。
「二、三枚って二枚?三枚?」
「……。二枚でいい」
彼は私の憂鬱も気づかぬようで、なんだか楽しそうにしている。
私は彼に断念させたキュウリとトマトを切り、冷蔵庫から玉ねぎを取り出す。
そうやって目を離している間に、大量の氷とわずかな水が入ったボウルに、彼の手から1センチ四方にまで刻まれたレタスが次々投入されていくところだった。
「あなたの母親か探偵事務所の彼女がいつもこんなふうにするわけ?」
私はただひたすら呆れて言った。
あとは私がやるから、お願いだから邪魔をしないで。
「そんなひどい言い方しなくたっていいだろ。
聞こうと思ったんだけどさ、さっきもレタス二枚か三枚か聞いただけで、おまえ嫌な顔してたじゃん」
一応気づいていたらしい。私はため息をついて彼に玉ねぎを一つ手渡す。
「どこまで皮なのかわからなかったら、どうぞ遠慮なく聞きなさい」
結局彼のありがたい申し出は一層疲れを増幅させただけだった。何故手伝うなどと言い出したのか理解に苦しむ。
余計な時間がかかり、四人掛けの木目調のテーブルにすべて並べ終えたのは8時頃だった。
そこで向かい合って座ってから気がついたのだが、彼とふたりで食事をするのはたぶん初めてだ。
「そういえば、一人暮らしが長かったようなことを言っていたけど、ご両親はどうしてロスにいらっしゃるの」
「オヤジが向こうの方が仕事しやすいんだろ。普通おいてくか、中学生の息子を。 子供が嫌がったら行くのやめるかムリヤリ連れてくかどっちかだろ」
「そうね。私にはよくわからないけど、そういうものかもしれないわね」
「あ……いや……」
余計な事を言ってしまったと思ったらしい。彼は次の言葉を探して言い淀んでいる。
「気にしないで。なんとも思ってないか。」
本心だった。ただ本当にわからないだけだ。今更それ以上何も思わない。
簡単な食事を終えてふたりで食器を片づけ始めた頃、不意に彼の携帯が鳴った。
着信画面を見て彼の顔色が変わる。
「やべ……博士に電話すんの忘れてた」
変声機を持って子供の声で電話に出たとたん、博士の怒鳴る声が私にまで聞こえてきた。思わず彼は耳から携帯を離す。ずっと電話がつながらず連絡を待っていたのだ、と相当強くなじられているようだ。
「博士がずっと電話してたらしいぜ」
「うちの電話はコードを抜いてあったしケータイも切っていたから。
そういえばメールも見てないわね」
「なんでんなことやってんだよ」
「邪魔が入ると嫌だからに決まってるでしょ。
結局誰かさんに一日中振り回されて、邪魔が入ったどころじゃなかったけどね。
それにあなただってさっきまで電源切ってたじゃない」
新一君、哀君はそこにおるのかね。君らは今何処におるんじゃ。
博士の声が一層大きくなった。彼は私に携帯を押しつける。
博士の剣幕はすさまじかった。
なぜ一日中電話に出なかったのか、なぜこんな時間に彼と一緒にいるのか、ご飯は食べているのか、風邪はひいていないか、夜は寝ているのか。博士の心配はとめどない。
なだめるのにたっぷり時間を要し、電話を切ると汚れた食器をそのままにしばらく座り込んでいた。
しかも私たちはもっと大事なことを忘れていたことに気づいたのだった。
「江戸川君はいったい何処へ行ったのかしらね」
ここまで読んで下さっている皆さまありがとうございます。
今回で15話目になります。全体の中で云うと、正確にはわかりませんが、三分の一ぐらいまできたでしょうか。
小説の基本みたいなものを知らずに書き始めたので(今も知りませんが)、思いもかけずたくさんの方が読んで下さり感謝の気持ちでいっぱいです。
ネット小説ならではの注意すべきことについては、連載を始めてすぐにいくつか気がついたのですが…。自分の書きたいことと相反するものだったりして、正直毎回かなり悩んでいます。
でもこんな拙い文章でも楽しみにして下さる方もいらっしゃるようなので、今までどおりマイペースで書いていこうかなと思っています。
今後は徐々に本題(タイトルの意味など。実はちらっとでていますが)にシフトしつつ、灰原さんの恋が叶うようがんばります。
皆さまも少しでも楽しんで下さると嬉しいです。
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