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ボクシング

作者:雲鳴遊乃実
 ポールが四本、安全のためのパイプ棒が四本。床に倒した四角いマットをそれらで囲んでしまえば、体育器具庫に即席のリングができあがる。誰が始めたのだか知らないが、そのリングの作り方や活かし方は生徒の誰かに脈々と受け継がれてきていたらしい。
 去年の担当者は卓球部の先輩たちだった。室内競技だというのにやたらと強面で身体も無駄に鍛えていて、学校の中を我が物顔で歩き回っていた方々だ。その人たちが卒業して弾丸のように外社会へと飛び出していった後、体育器具庫の鍵は俺たち現役勢に受け継がれた。
「助けてください」
 マットの上に転がった少年は震える声で小さく喚いていた。腕と足をテープで留められていてどうにも動けないでいる。
 そりゃあ、誰だって助かりたいだろう。俺にはわかる。周りの連中ももちろんのこと、リングに上がって、使い古されたくすんだ白いグローブをでたらめにテーピングしている、今日の担当の、二年生の芝崎もきっとわかっているはずだ。ほくそ笑んではいるけれど。
「それじゃ、一発いきまーす」
 人差し指と薬指だけを器用に折り曲げ波打つように挙手をして、グローブと一体化した右手を腰元に構えた。もがいている少年を周りの連中のうちの二人が抱え上げた。涙を滲ませた少年は、目線をあちこちに飛び回している。
 相手から逃げるように、まずは体育館に通じている方向の扉を見つめた。でもそっちの扉は固く閉ざされている。すぐそのことを悟ったらしく、少年の目は今度は周りの奴らに転々と渡っていき、最後に入り口に一番近いところにいる俺を見た。縋るような目。その瞬間に鈍い音が響いた。湿り気のある雑巾を床に落としたときのような音を出して少年は屈み込んだ。
 代々受け継がれていることだ。被害者を一番傷つけずに一番驚かせられる部位が腹なのだと。
 芝崎がうねうねと腕を揺らせる。タコのような、クラゲのような、妙ちきりんなダンスの後に、にたにたしながら少年の顔を見つめた。
「はい、じゃあ落ち着くまで待って見ようか」
 随分興に乗っているようだ。相手が一年生で、反応が率直だから、心の中が盛り上がってしまっているのかもしれない。
 少年がまたか細い声を上げて何かを言っている。その音を遠ざけるように、俺は体育器具庫の外に出た。
 校庭と図書館の隙間。狭いその場所には、授業のとき以外に人がくることはあまりない。生徒の間に鍵が伝わっているのにとくに問題になっていないのも、その重要性の低さの表れだ。
 雨のシミが浮いている体育館にもたれかかって、春の空を見上げた。青春、なんて言葉があるけれど、今日の空は青と言うよりも薄い水色だ。薄い雲が散っているらしく、釈然としない。いつもなら校庭の遠くに見える隣県の連峰も霞んで途切れてしまっていた。
「馬越、いないと思ったら外にいたのかよ」
 入り口から声がして、面長の顔が生えるように出てきた。幡多という奴だ。
「もう見飽きたよ。先週も一年生相手にやってただろ」
「そうだけど、芝崎が調子に乗ってて面白いことになってるぜ」
「あれ、いったい何なんだ」
「ケーブルテレビで見た海外のヒールレスラーの真似だって」
「へえ」
 はたして屈強なレスラーがあんなタコ踊りをするのだろうか。
 鼻を鳴らしたら、幡多も同時に溜息をついていた。遠くでホトトギスが鳴いている。
「で、あの一年生は何をやらかしたんだ」
「さあ。交野がどっかからか連れてきたんだよ」
「通り魔じゃねえか」
「そんなこと言われても、普段から碌な基準があるわけでもなし。ただ先輩方の意志を形だけ真似て受け継いでいるだけですよ僕たちは」
 年上に敬意を払わない後輩を粛正すべし。一応掲げられているその意志を覚えている奴がどれだけいるというのだろう。少なくとも芝崎はない。交野もきっと考えてなどいない。だらっとした通り魔による粛正が、埃の舞う器具庫の中で今日も元気に行われているというだけのことだ。
 くぐもった声が外にまで聞こえてきた。普通の感じではない。俺と幡多は顔を見合わせた。
「今の、よくない感じじゃないか」と俺。
「交野の野郎、やり過ぎたな」と幡多が舌打ちし、器具庫に飛び込んでいった。俺もそのあとをついていった。
 そして、血のにおいを嗅いだ。
 しかしマットに倒れていたのは少年では無かった。つるんでいた、あの周りの連中が鼻を押さえて丸まっている。体育館側の扉が開いていて、敷居のところで芝崎が持ち上げられていた。
 確かに、持ち上げられている。首をあたりをつかまれて、つま先立ちで、口からひゅうひゅうと息を漏している。
「は?」
 と、口にしたのは俺も幡多も同じだった。
 状況が見えない。少年は体育館の側にいて、芝崎をつかんでいる男に頭を下げている。
 その相手は見知らぬ男だった。

 朱田、という名前を翌日に知ったのは、ホームルームが始まってすぐのことだ。
 絆創膏まみれになっている芝崎の傷口を指で突っついて遊んでいたら、勢いよく扉が開かれた。あまりにも大きな音で、担任の中村がお怒りなのかと思って急いで席に戻った。でも入ってきたのは俺たちとそう変わらない背丈の男で、しかも昨日芝崎の首を握り潰そうとしたあの少年だった。
 転校生の朱田。本当は新学期が始まってすぐに転入する予定だったのが、ずれ込んで5月の今になったらしい。自己紹介するように、と中村が言うのを頑と無視して彼は自分の席に座った。勢いが良すぎてあたりの塵が舞い上がっていた。誰もがその容姿を呆然と見つめていたが、その鋭い目に当てられて口を開けず沈黙を守っていた。
 芝崎はおっかないやつだ、という噂はすぐに広まった。芝崎が周りに自分の絆創膏を指し示しながら言うものだから信憑性抜群だったらしい。自分から進んで朱田と会話しようという奇特な奴は皆無だった。朱田の方も、自分から会話をするタイプには全然見えなかった。
 クラスの中に朱田という台風の目ができあがった。誰もそこには近づかない。朱田は遠目から見れば無風である。授業中に騒ぐこともないし、居眠りもしない。休み時間は文庫本を開いてずっと読んでいる。度胸のある奴がタイトルを確認したら『嵐が丘』と書いてあったらしい。それを聞いた文芸部員が噴き出していた。即座に朱田に睨まれてそいつはその日一日ハツカネズミのごとく震えて口を利かなくなってしまった。
「朱田は一人親なんだってさ」
 教室の窓際で、幡多が教えてくれた。俺の席は元から窓際で、廊下側の幡多が俺のそばにわざわざよって噂話をしてくれていた。
「親の離婚?」
「そうそう、それがどたばたして、こっちに来るのが遅れたんだって」
 転校生が来るという連絡は、四月には中村先生伝いに聞かされていた。諸事情で遅れているなどと言われてもいた。
「今暮らしているのは母親だとさ」
「ふうん。逃げてきたのかな」
「父親、よっぽど怖い奴だったんだろうよ。で、遺伝したんだ。あの睨み方は普通じゃないね」
 幡多は一人得心した様子で頷いていた。
「調べたのか」
「おうよ。朱田が何も言わねえから、むしろ詮索欲に火がついたよね」
「何だよその近所のおばちゃんみたいなの」
 幡多が口を開いたが、すぐに閉ざした。朱田が入ってきたのだ。幡多の瞳は、今日も見事に霞んでいる連峰に注がれていた。
 はっきりしない遠い空。あの山の向こう側にずっと行けば、海のある街がある。俺たちの暮らしているこの県には海は接していない。朱田が元々暮らしていたのもあの山の向こう側だ。彼は俺たちが密かに憧れているあの海を捨ててやってきて、鋭い瞳で威嚇しつくしている。
 朱田は転校する前日に、学校見学で校内を回っていた。誰もいない体育館で物音を聞いて、すぐに俺たちが潜んでいた体育器具庫を見つけて駆け込み、少年を助けた。少年との面識は皆無で、状況を見ただけで芝崎を攻撃したらしい。負傷した芝崎だったが、日頃の行いもあって誰からも哀れまれなかった。転がっていた連中も同じく。体育器具庫には近づかないが、朱田に見つからないように、こっそり一年生をささやかに恫喝していると聞いている。
 俺は卓球部にすっかり近づかなくなっていた。受験が迫っていることもあり、いつやめようかと思っていたときだったので、きりが良かった。不祥事の煽りを食らう前に因習から逃れられたのは幸運だったのかも知れない。
 だが、俺は果たして元々離れようと思っていただろうか。あの日芝崎の首を締める朱田を見ていなかったら、今もまだあそこにいたんじゃないか。
 どうにもそれは、信じたくなかった。

「馬越さん」
 参考書を買いに書店に寄った帰り道に、声をかけられた。振り向けば芝崎がいた。
「受験勉強っすか」
 俺の横に滑るように並んだ芝崎からは奇妙に爽やかな香りがつんと漂っていた。
「最近部活に来てくれないですけど、勉強忙しいんすか」
「それなりに」
 大変だあ、と芝崎が手を叩いて笑った。
「なんだお前、酒でも飲んだのか」
「やだなあ、そんなの答えられるわけないじゃないですか。ただ、気合いを入れようと思いまして」
「気合い?」
「あ、来るっす。ちょっと、離れてて」
 芝崎の目が鋭くなった。視線の先は書店の入り口だ。訳がわからないまま、俺は芝崎の後ろ側に回り込んだ。
 扉が開く。見覚えのあるシルエット、朱田だ。
「だりゃあ」
 駆け込む芝崎の背中が遠ざかっていく。
 芝崎の身体が浮き、足が前に伸びて朱田めがけて飛んでいった。渾身のドロップキックは、朱田の片手でたたき落とされアスファルトに伏せた。濡れ雑巾を絞るような音で芝崎が呻いていた。
 朱田が何も言わずに歩いて行く。俺の方向へ向けてだが、顔はこちらを向いていない。買ったばかりの本を広げて、さっそく読みふけっている。
「待てよ」
 気がついたら、口が動いていた。
 すでに俺を通り越していた朱田が、目を細めて俺を振り向いた。視線が俺に刺さってきて、汗がにわかに湧きだした。
 びびっていることは百も承知だった。歯で唇を軽く噛んだ。頭の中がぐるぐると巡っているのが自分でもわかった。
「あれでも、俺の後輩なんだよ」
 芝崎の悲鳴はもうだいぶ薄れていたが、俺は構わず話し続けた。
「何勝手に殴ってるんだよ」
「襲ってきたのは向こうだ」
「一番最初に首締めたのは朱田の方だろ」
「俺は止めただけだ。悪いことはしていない」
 そのとおりだ、と思ってしまった。言葉が続かない。実際そうだと俺自身が自覚している。
 何をしているんだろうな。
 芝崎はもう呻いていない。とっくに回復したのだろう。視線が集まっている。ここで大事になれば受験に響く。仮にも進学を考えている上で、暴れるのは得策じゃない。猿でもわかる。
「それでも」
 と、だけ言って俺は飛びかかった。
 頭の中の風景には、あの霞の中の連峰が浮かんでいた。

「馬越さん、俺感動したっす」
 俺の肩を支えながら、芝崎は喋っていた。
「あんなにものの見事にボコられている人を見たのは初めてっす。人間ってあんなに殴られても生きていけるものなんですね」
「馬鹿にしてるのかお前」
「しかも話せる! すげえ!」
 すでに夕刻が迫りつつある街中で、紫色のビルの影に囲まれながら俺と芝崎は歩いていた。赤い夕焼けが連峰の向こう側に落ちていくのが見て取れる。
「路地裏に誘われていて良かったですね。あの場で殴られていたら先輩、チクられていたかもですよ」
「そりゃあ朱田も受験生だからだろ」
「あ、そういうことですか。でも朱田さん俺を殴ってましたよ」
「先に蹴られたからな」
「なるほど、計算してんすね」
「お前が無計画すぎるんだ」
「馬越さんもっすよ」
「……そうだけどさ」
 連峰の濃い影が、ビルの合間に現れている。
 霞が目だたなくなって、今頃になってようやくその形が明らかになった。
 目を細めてその姿を見つめているうちに、足が止まった。芝崎も止めてくれた。
 往来のまばらな街中の通り道で、二人して並んで立っている。
「計画的に、か」
 俺は呟いて、芝崎を振り向いた。
「芝崎、お前んちのケーブルテレビ見せてくれよ。プロレスの」
「なんでっすか」
「仕返しだ」
「おお! 了解っす! それなら撮りだめしたDVDがあるっす」
 はしゃいでいる芝崎が肩から離れて、途端に足がふらついたが、歯を食いしばってアスファルトを踏みしめた。吐息が歯の隙間から漏れたが、まだ歩けると自分に言い聞かせた。
 

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