薄い白磁のカップに残る冷めたお茶の水面を見つめて、シルヴィアは憂鬱なため息をもらした。
半月後に迫った国王の誕生を祝う式典と夜会は、シルヴィアにとってあの光臨式以来、公の前に立つの二度目の場となる。そこに待ち構える、大問題。
『カリダの皇帝が来る』
その衝撃がフィエルの王城を襲ったのは、今からさらに一月ほど前のことだった。知らせが城を駆け巡るより先にセシル伝手で兄から教えられていたシルヴィアも、実際に城がひっくり返りそうなほどの騒ぎを知って二度驚くことになった。
長く争っていたために、かの国との友好関係など過去数百年遡っても見られない。あの騒ぎはそのぶんの衝撃だったのだろう。
だがそれでも、そんな喧騒がわずか届いたばかりで、シルヴィアの身辺は比較的いつもと同じままだった。
もちろん衣装や装身具を揃えたり、招待客を確認したり、そういう細々とした作業ははいくらかあったのだけれども、それだってあわただしくしているのは主にまわりの人たちばかりであって、あるじであるシルヴィアは必要な時以外静かな自室に放っておかれている。おかげで静かに過ごせているのだけれども、反面、それでも城中に満ちる常とは異なる緊迫感のせいで、シルヴィアは必要以上に気疲れしていた。
公の行事で城が大騒ぎになることは今までにもあったのだろうけれど、それがシルヴィアの住まう離宮まで巻き込んだのは今回が初めてだ。
慣れないシルヴィアに、もう一か月も続くこれはきつい。
「大丈夫、シルヴィア」
かろうじてまだ温かみの残るティーカップで冷えた指先をあたためていると、かたわらからは優しい声音と髪を撫でる手のひらが降ってきた。
問いかける口調ながらその持ち主はすでに答えを知っているようで、表情を見なくとも苦笑いなのがわかる。触れてくる手のひらはどこまでも優しく、こわばりかけた身体から少しずつ力が抜けてゆく。
「……うん」
もう何度このやりとりを繰り返しただろう。セシルはシルヴィアが緊張をため込むたびに一定の間隔でほぐしてくれて、それで落ち着きを取り戻すシルヴィアはほうと安堵の息を吐く。
シルヴィアがカップに口をつけてソーサーに戻すと、すぐに隅へ控えていたマリーがポットを手にやって来て、また温かいお茶を注ぎ足してくれた。シルヴィア付きになったころはまだ城に上がって間もなくすべてに慣れない様子であった彼女も、最近ではすっかり侍女ぶりが板についている。
シルヴィアのほうは、まだほんの少し、馴染めないときがあるのだけれども。
「シルヴィア」
苦笑まじりの甘やかした声で名を呼ばれ、そっと頬を撫でられる。触れてくるほうに視線を向けると、その手が今度は空いていたシルヴィアの手に甲から包むように重ねられて、じんわりとしたぬくもりが伝わってきた。
幼い頃から、たぶんいちばん慣れ親しんだ体温。与えられるものがこれだけならば、きっといつまでも心穏やかに過ごすことができるのに。
そろそろ疲労の飽和しそうな頭のなかが、そんな詮無いことを考えた。
「……うん。だいじょうぶ」
心地よく、まとまらない思考とあいまって頭がぼんやりとしてくる。瞼を半分伏せて視界までぼけてしまえば、なんだかそのまま眠ってしまえそうだった。
「寝てしまってもいいよ」
ゆるゆるとシルヴィアの頬や頭を撫でながら、それこそ眠気をいざなうような調子でセシルが言う。従ってしまってもいいかな、とはじめは思ったシルヴィアだが、一呼吸おいてふるふると小さく首を横に振った。
絹のような銀の髪があわせてこぼれ、淡く輝いて胸元に落ちる。
「ううん、起きてる……」
「そう?」
少しばかり乱れたシルヴィアの髪をセシルが指でゆるやかに梳いた。
頭を彼に預けつつも、シルヴィアはテーブルの上にあった分厚い本を誘引の魔法で引き寄せる。ふわふわと宙を漂ってきたものを手元に落として魔法を切ると、それは見た目を裏切らずずっしりと重い。さらに別の書類の束も引き寄せて、何度目になるかわからないため息をついた。
招待客のリストと、本は主だった貴族の家系図だ。
昼寝という選択肢は使い尽くした。そろそろ夜が眠れなくなる――ということは不思議とないシルヴィアだけれども、あんまり怠惰に寝てばかりなのもどうかと思う。
眠る以外にも、少しでも気が紛れるものがあればなんとかなるかもしれない。
「無理しなくてもいいんだよ」
隣から寄越された穏やかな声に、シルヴィアは可笑しくなって小さく笑う。いたずらっぽい声で、笑いながら答えた。
「だめだよ、セシル。あんまり甘やかすと、わたしだめ王女になっちゃうかもよ?」
「そうかな」
「そうよ」
けれどセシルがそんなことを言うのだって、本当はちゃんとわかっているからに違いないのだ。シルヴィアが、王侯貴族の家系図くらいとうに覚えてしまっていること――どこの血筋がどんな繋がりを持っているか、王女として必須の知識であるそれを幼いころからシルヴィアに仕込んだのは他ならぬセシルなのだから、彼がそれを知らないはずがなかった。そうしてもし、シルヴィアがそれを覚えていないというのなら、彼は全力で叩き込んでくれたことだろう。
叩き込む、とはいっても、なんだかんだと甘くなるのには違いないのだろうが。
「じゃあおさらいする? そうだな……シルヴィアが間違えるごとに、ペナルティとしてそこのお菓子をひと欠けずつ没収」
「えっ、なにそれ!」
「甘やかしたらだめなんでしょう?」
「だめだけど、だめだけどそんなにひどくもなくていいの」
セシルが指したお菓子はテーブルに置かれた籠の中にあるシリルの新作だ。カリダからもたらされた香辛料を使っているといい、食べると不思議な味がする。
退屈な時間の数少ない楽しみを奪われそうになって慌てているシルヴィアに、セシルはひどいかなぁ、と芝居がかって心外そうにつぶやきながらくすくす笑った。
「まあでも、絶対に間違えないとは言えないものね。僕でも」
「セシルでも?」
「それはそうだよ。あんなに面倒なもの、必要がなければ覚えたいとも思わないし」
くすくす笑いを収めたセシルは、打って変わってまじめな口調になってシルヴィアの持つ本に目を落とす。
「だいたいこんなの、覚えないでいられたほうが幸せなのかもしれないね」
うんざりしたように呟くのは、その必要性の裏にある駆け引きを思ってのことなのだろう、とシルヴィアは察した。家同士の繋がりを理解することが身を守ることになるなんて、経験のないシルヴィアにはいまいちピンと来ないのだけれど、セシルに言わせれば貴族たちはそんな『余興』が大好きなのだそうだ。複雑に絡み合った血縁もそのための駒になる。
「そういうことは外でやっててくれればいいのにね。わざわざ僕相手に持ち込まなくても、お楽しみの機会はあるのだろうに」
「そうもゆかないでしょう。セシルは『希少』なのだから」
フィエルは他国に比べて『貴族』と呼ばれる家系が圧倒的に少なく、たったの六つ、そう定められている。そこにフィエル王家を加えた七つの血筋がかつて『七王家』と呼ばれ、それぞれ煌珠の守り手を代々担ってきた。
それは王国としての制度に組み込まれた今でも変わらない。
血と魔力を守るため婚姻にも制約があって血縁が外に広がらず、義務と引き換えにその地位と権利を保障され、国王との結びつきも強いとなれば、外から見ればさぞ落とし甲斐があるだろう。
「その言いかたはよしてよ、シルヴィア。僕には全く価値なんてないのになあ」
「それはセシルがセシルだからでしょう? うっかり誘いにのるひとがいるかもしれないよ?」
「シルヴィア、七王家に生まれてそれはないよ。僕らはみな、その背負うべきものをちゃんと知っている。きみだってそうだろう?」
「わたしにだって、誇りがあるもの」
しっきりとした口調でシルヴィアが答えると、セシルは肯定するように微笑した。『七王家』につらなるもののだれもが、シルヴィアのそれとまったく同じ答えを出すだろう。
「みんな、僕も、そういうのに興味なんてすこしもないの」
だからいくら誘われようと、かれらには『価値がない』。――というのに。
理解のない連中は掃いて捨てるほど居るとセシルは苦く笑う。
「セシルは『そういうの』、得意だってシリルもアンジュも言ってたけど」
「巧くやれるかどうかと、好き嫌いは違うよ」
「嫌いなの?」
「うん。しつこいし、煩わしい。そんなこと絶対にできやしないしやらないけれど、本音をぶちまけてやりたくなるときがあるよ」
珍しい彼の言いざまに、シルヴィアは軽く目を見開いた。
弱音を吐いている――のだろうか、これは。セシルが疲れたり、精神的に参った様子を見せるのはほんの時折あることだけれども、こんなにあからさまなのはなかなかない。
せいぜいがちょっと弱ったようにほほ笑んだり、息をついたりするくらいだ。
シルヴィアにしてみれば、昔からそうしてすぐに穏やかな微笑をうかべてみせようとする彼が好きではなかった。自分のわがままだとは分かっていても、つらいならつらいと言ってほしい。呑み込んでしまうことなんてしてほしくない。そうすれば慰めることもできるのに、と、ひそかに胸を痛めたことも少なくなかった。
だからといって自分に彼ほどのひとをうまく慰めることができるかと問われれば、そちらにも自信はないけれど。
「絶対に、変わらないものがあるから?」
複雑な感情を秘めながら少しのあいだ黙って思いめぐらせたシルヴィアは、彼の言葉へそんなふうに応えを返した。へたなことを言って傷つけたくはないけれど、少しでもいいから彼の心に触れたくて。
セシルは、束の間何も言わなかった。
見当違いなことを言ったのではないかと、すぐに後悔と不安が湧き上がる。押し殺してそろりと彼を見上げたら、シルヴィアの視線の先でセシルは無防備なほどきょとんとした顔をしていた。見たことない、とシルヴィアが目を丸くしている間に、それはとても嬉しそうな、眩しげな笑顔へと変わる。
「うん」
誰に何と言われようとも、決して変わらない思いがある。――誇りも、義務も関係なしに。
セシルは中性的で身体の線も細く、とても綺麗なひとだけれど、シルヴィアがほんとうに彼を綺麗だと思うのはこんなときだ。
こんな、目をしているとき。深く、奥底まで光の通った、美しい紫の瞳。
シルヴィアが惹かれてやまない彼の色。
穏やかで陽だまりみたいないつもの彼も好きだけれど、今みたいな彼にはひとをどうしようもなく惹きつける強烈ななにかがある、とシルヴィアは思う。
それでも、シルヴィアが見惚れているあいだに、セシルはほほ笑みひとつでその色を隠した。
「それに、はっきり言って馬鹿馬鹿しいし。そのぶん巧くやれば、得られないものがないこともないけど」
「そうなの……」
だが失敗すればそれなりの損失を被るのだということは、そういった駆け引きを想像してみることしかできないシルヴィアにもわかる。馬鹿馬鹿しいと思いながらもその場所に居る以上、そのくだらないゲームに乗るしかない。
近いうち自分もそんなことをしなくちゃならないのかと思うと、シルヴィアもまた、セシル同様憂鬱なため息をつきたくなった。
落ち込みそうな気持ちを振り払うように、シルヴィアはおもむろに隣のセシルへ手を伸ばす。よしよしと彼のさらさらの頭を撫でてみて、セシルは驚いた顔をしたけれど、シルヴィアはなんとなく楽しかった。
目を丸くしたセシルも、すぐほほ笑んでシルヴィアの好きにさせてくれる。
そうしているうち、ふと彼がみじかい息を吐いた。
「……きみは、あんまりそういうのに染まらないでいてほしいな」
「…………」
「でもそれじゃだめなんでしょう」とふたたび言いかけた言葉を、シルヴィアは今度は胸の奥底で呑み込んだ。今、それはセシルを傷つけるような気がしたから。
そうして沈んでしまった空気を払うように、そういえば、とまったく別の話を思い出す。
「ねえ、シリルとアンジュはどこへいったの? なかなか帰ってこないのね」
「ああ、あの二人……」
「どうかしたの?」
セシルはなぜかやや遠い目をした。なんにも分からないので、シルヴィアはきょとんと首をかしげるしかない。
やがて視線をシルヴィアへと戻した彼は、すこし含みのある――言ってしまえばなんだか悪そうな笑顔を、それも満面に浮かべていた。どことなく楽しそうである。
「ちょっと、虫退治」
「?」
今度こそ、シルヴィアの周りに疑問符が舞った。
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