「じゃあ行ってくるね」
セシルがそう言って頭を撫でると、イヴはセシルが纏うローブの端をきゅっと握って、何も言わずに彼を見上げた。青い瞳はゆらゆらと揺れている。
一人で残されるというのは、彼女にとってとても怖いことなのだ。今にも泣き出しそうな瞳にできるならそばにいてやりたいと思うのだけれど、用事があればそうはいかない。せめて眠っているうちに出かけて帰ってこられたら良かったのだが、急なことなのでそうもいかなかった。
「すぐ帰ってくる?」
「うん、できるだけ早く帰ってくるから。お屋敷から出ないで、いい子にしていてね」
屋敷から出ないでと言っても、どうせ彼女はこの屋敷の敷地内から出られない。そのこと自体は知らないが、いやだと言っても仕方のないことは彼女にも分かっているのだろう。イヴは涙をこらえる顔をして、こくんとひとつ頷いた。
***
イヴを部屋に残して身支度を整えたセシルは、玄関ホールへ向かう階段を足早に降りていく。足元まで覆う黒い外套の裾がひらめいて階段を摺る、けれどそれが彼の動きを阻むことは一切ない。見る人が見れば分かるような、彼はそういう隙のない身のこなしをしていた。
その彼が階段の中ほどまで降りたところで、ふと足を止めた。一度目を伏せて何かを考えるようにしたあと、静かに視線を滑らせる。その先に、淡い紅色の髪をした少年が一人。まだあどけない顔立ちをした子どもは、セシルが通り過ぎたばかりの踊り場の手すりに腰かけて、床に付かない両足をぷらぷらと宙に遊ばせていた。外側に身体を向けているためセシルから見えるのは後姿だが、その薄紅の色合いには見覚えがある。
「……ハル?」
名を呼ぶと、少年は首だけ回して振り返り、快活そうな笑顔を見せてひらひらとその手を振ってみせた。
「久しぶり」
「久しぶり、って言うほどでもないと思うけれど」
彼に会ったのはつい半月前だ。その時はイヴを寝かしつけてから家を出て、起きだしてくる前に戻った。彼女は半日くらいひたすら眠っているから、自分の睡眠時間を考えなければ慌しいことでもない。とはいえあまり長く家を空けているのは心配で、どちらにせよ可能な限り早く帰ってくるのだが。
セシルが苦笑しながら訂正すると、少年――ハルはわざとだったのかそうでないのか、読みづらい顔で首を傾げた。
「そう?」
「そうだよ。ところでお前がここにくるなんて珍しいね。どうしたの?」
セシルが一度は下りた段をもう一度上がって近寄れば、ハルも器用に手すりの上でその身体を反転させる。普段、ハルの身長はセシルの胸ほどしかないが、今は目線が同じくらいの高さにあった。覗き込んで感情を見るには丁度いい。
とは言っても、見た目よりかなり大人びたこの少年は自身を隠すことに随分長けていて、瞳を覗き込んだところで隠されてしまえば滅多なことでは分からない。
「んー、別に。なんとなく」
その答えはおそらく嘘だ。この屋敷は来てはいけない場所でなくとも、彼が好んで寄り付く場所ではないから。
でもやっぱり、セシルが探ってみても彼の髪と同じ色の瞳からは何も読み取ることができなかった。セシルのそんな視線に気づいてか、ハルは気まずそうに目を逸らし、今しがたセシルが下りてきた上の階へと顔を向ける。
「……彼女は?」
「部屋に居るよ」
「そっか」
ハルはわずかにその瞳を曇らせて上階を見つめたまま動きを止める。複雑そうにしている心中は、表に出さないだけでセシルがいつも感じているものと同じだろう。
彼女はなにも知らない。何も気づいていない。けれど、周囲には――セシルも含め――いくつもの思惑が絡んで彼女を幾重にも取り囲んでいる。逃れるすべなどどこにもない、その分、知らないほうが幸せといえるのだろうか。
「…………帰る」
しばらくして、ハルはぽつりと呟いた。どこか寂しそうにも見受けられる表情に、セシルはふと、そういえばいつも彼と一緒にいる片割れがいないことに気がついた。そうして、ハルがひとりでここに来た理由にもなんとなく察しをつける。だがあえてそれをつつくことはしない。
けれども、そういう理由ならなんでここに来たんだか。落ち込んだなら落ち込んだで別のところに行けばいいものを、この屋敷に来ると余計に拍車がかかるだけだろうに。
セシルは呆れて何か言ってやろうかとも思ったが、結局開きかけた唇をつぐんだ。思ったことを、何と言えばいいのか分からなかったのだ。
「あ、そういえば今から出かけるところでしょ? セシルもぼくと一緒のほう?」
そんなセシルの内心を知ってか知らずか、ハルは少し明るさを取り戻した声で訊く。たぶん今ごろ彼の頭の中は、帰って片割れと仲直りすることでいっぱいなのだろう。そんな顔をしていた。
「うん、ちょっと王城に。ここからだと直接は行けないから、うちを経由して向かうよ。それで」
セシルが視線で指したのは玄関ホールの床、そこには直径が人二人分ほどある円陣が刻み込まれている。内部に複雑な紋様を描くその陣の一番外側を閉じる円は一部が欠けて、環が不自然に途切れた形だ。
「じゃあ一緒に行く」
ハルはちらりとそれを一瞥し手すりから身軽に飛び降りると、セシルが懐から出したものを受け取って先に階段を下りていった。
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