「セシル!」
「あれ? 先に帰ったんじゃなかったの?」
「少しドレスの調整してたのよ」
城門のところで、セシルは後ろからアンジェリーナに呼び止められた。彼女はセシルを見つけて駆けてきたのか、風に煽られたらしい栗色の髪が乱れている。けれどもまったく息があがっていないところがさすがというべきか、アンジェリーナはセシルのそばまでたどり着くと澄ました様子で隣に並び、軽く衣服を整えた。それだけで良家の子女といった雰囲気を取り戻してみせるくせに、その呼吸同様伯爵令嬢という肩書きと見た目に似合わず、アンジェリーナは軍籍に身を置く女性なのだ。それもただの王国軍ではなく、親衛隊。つまりは国王アルフレッド直属の部隊にいる。それももうすぐ配置換えらしいという話を聞いて、彼女が自分の部下だか同僚だかになるのだと思えば、セシルは苦笑するしかなかった。
「どうしてこっちから? 車は使わないの?」
「今日はなんとなく歩きたい気分だったから」
セシルが居るのは、馬車や車――魔法で動く馬のない車体だけのもの――が通るための広い門ではなく、その隣に設けられた人が行き来するための小さな門の手前だった。普段だったらセシルも行き帰り車か馬車かを使うのだが、たまにはゆっくりと歩いて帰ろうかと車を出すのをやめたのだ。馬車だったらわざわざ来てくれた御者を帰すのには気が引けるところだが、車ならそのまま懐の小箱に仕舞ってしまえばそれでいい。セシルがいつも持ち歩いている手のひらより小さな箱は、アンジェリーナが持ち歩く鞄と同様、拡張された内部空間に様々なものが揃えてある、非常に便利なものである。いつか家具一式揃った小屋も丸ごとひとつ仕舞ったので、どこかで遭難しても全く問題ない。
というわけで気分によって徒歩で帰宅することを選んだのだが、アンジェリーナが居るなら車を出したほうが良いだろうか。そうセシルが懐に手を入れようとした直前に、アンジェリーナは「じゃあ私も歩くわ」と逞しくも言い切った。
「え、その服と靴で?」
セシルは思わず、まじまじとアンジェリーナの頭からつま先までを眺めてしまった。城下にある屋敷はそう遠くないけれども、今日の彼女は動きにくそうなドレスにかかとの高い靴を履いている。普通の令嬢ならまず無理だ。普通のご令嬢なら歩こうとさえ思わないだろうが。
「平気よ、この格好でも動けるようにしているもの。そうじゃないといざというとき役に立たないでしょ」
そう言ってひらりとドレスの襞をつまんでみせるアンジェリーナの、その衣装の下には絶対に何か仕込んでありそうである。刺さりそうなピンヒールも本当に刺さるかもしれない。シルヴィアは彼女に憧れを抱いているようだが、絶対にやめてもらいたいとセシルは思った。
かなうことならあの子には、そういった物騒なものとは、ずっと無縁でいてほしい。
「……。まあ、アンジュがいいならいいんだけど」
「良いってば。ね、行きましょうよ」
ここで普通ならばその手を取って歩くのだろうけれど、彼女の恋人のことを思うとなんとなくそれはためらわれた。そんなセシルの心情を察したらしいアンジェリーナはひらりと手を振り、先に立って歩き出す。横に女性を連れていてそれは落ち着かないところがあったものの、セシルは下ろしっぱなしの手のひらを軽く握って、彼女とともに門をくぐった。
太陽はまだ幾分か高いところにあり、日の入りが遅くなったことを実感する。ほんの数ヶ月前ならば暗くなっていたはずの空も、まだ西の端が薄紫に霞む程度だった。夏が近い。
「シルフィー、元気なかったわね。調整がうまくいっていないの?」
人の行き交う雑踏に紛れて、アンジェリーナは問うてくる。城の手前の大通りは、いつでも人で溢れかえっている。セシルは話を不用意に聞かれてしまうことのないよう注意しつつ、世間話と変わらない調子で会話に応えた。
「あのあとも会ったの?」
「さっき。帰り際に顔出しておこうと思って、会いに行ったらずいぶん沈んでいたわ」
「そうか……」
アンジェリーナの言うとおり、今日もシルヴィアは上手く『謳え』なかった。歌詞も旋律も覚えているのに、どうやらどうしても魔力が邪魔をするらしい。泣きそうになりながら、それでも唇をきゅっと結んで謳おうとするシルヴィアに、「もういいよ」とどれほど言ってやりたかったことだろう。
「難しいよなぁ」
思い出してセシルはぼやく。単に技術的なものというより、精神的なところに依るものが大きいからだ。そこに詠唱が成功しないことも相俟って、もはや泥沼と化していた。出口がどこにあるのかは、セシルにもシルヴィアにも分からない。なにか、きっかけがあれば。
そればかり思いながら、セシルはここ数日を過ごしている。
「ねえ、どうしてアルフレッド様は、シルフィーに光臨式の謳い手なんて任せられたの? どうしたって負担になるのは分かりきっているじゃない」
「それは……たぶん、シルヴィアの血筋を証明するためだよ。シルヴィアはあの通り、王族としての外見は受け継いでいないうえ、普通では考えられないくらい完璧に存在を隠されてきた。陛下が妹だと紹介しても、受け入れられるかどうか……。けれど、式で使う光の煌珠は、王族の血筋――魔力にしか反応しない。だからシルヴィアが式を成功させれば少なくとも、濃い血を引く姫だということは疑いようがなくなるんだ」
そして現状、王家に国王アルフレッドを除いてそこまでの血を引くものがいないということは、シルヴィアを第一王女として扱うことに誰も異議を唱えないということだ。たとえ王の実妹だということまで証明できなくとも、実質はそれだけで十分である。
「でもだからって……」
「光臨式は十年に一度しか行われない。今度のを逃したら、たとえ公の場に出たってシルヴィアには疑いが付きまとう。陛下はそれを避けたいんだよ」
光臨式の歌い手――。
十年に一度、世界に満ちる魔力、その循環が安らかであるように願って執り行われる光臨式は、数々ある国の祭事のなかでも最も重要なもの。式の中心は王族、すなわち光の煌珠を守る一族が歌を捧げる儀式で、そこでは詠唱に反応して煌珠がまばゆく輝くから光臨式と名付けられたとも言われている。
魔力の循環をまもることは、世界を護ることと同義だ。力が正常に巡らなくなれば、人も、なにもかも生きてはゆけない。
だからこそ謳う。代々の王族がその守護者とともに、安寧を祈り、かわらない日々が続いていくことを願って。
シルヴィアがアルフレッドから任されたのは、まさにその歌い手だった。国王は、今までアルフレッド自身が守護者であるエルヴィス公とともに負っていた役目を、今度の光臨式ではおまえがやりなさいと、はじめて外に出る妹に託した。シルヴィアが戸惑い、緊張するのも無理はない。まして彼女は、いまだ名も顔も知らぬ守護者とともに、心を添わせて謳わなければならない。
そう、『守護者』。
「守護者、まだ決まっていないの?」
アンジェリーナも同じことを考えたのだろう。誰にともなく、咎めるような口調で尋ねるのは、彼女自身の苛立ちを表しているようだ。
だが、セシルは答えを見つけられず、曖昧に言葉を濁すしかない。
「……。さあ……」
「さあって何よさあって。だいたい、守護者なんて光臨式のとき以外は半分以上ただの象徴みたいなものでしょう。四六時中ひっついているわけでもなし、それなのにあの子を必要以上に不安な気持ちにさせるなんて腹立つわ」
「それはそうだけど」
と、セシルは歩いているうちにだいぶん橙色に染まってきた空を見上げて苦笑した。風が涼しくて心地いい。けれどもアンジェリーナはそんなことなどお構いなしに、本気で憤慨して頬を上気させている。冷たい風が撫ぜても、彼女の怒りはおさまりそうにないようだ。そうして同じ風はまた、セシルの心からもわだかまりを吹き飛ばしてはくれなかった。
「……守護者のことは」
セシルは半分は隣のアンジェリーナに、もう半分は、今しがた去ってきた城の小さな姫君を思いながら、息の混じる言葉を吐いた。
「なによ」
「……いや」
何事かを言いかけてとめたセシルを、アンジェリーナは軽く睨み上げる。そう怖い顔しないで、とセシルはいつもどおり穏やかに笑ってみせながら、内心ではもう一つ、軽いため息をついていた。
たったひとつですべてのことが滞ってしまって、なにもかもがうまくゆかない。在るべき答えに手が届かない気がして、それがひどくもどかしかった。
「まったく。せっかくエメリアさんが来て多少安心できるかと思ったのに」
しばらく歩くうちに、住宅街に入ってきた。人通りは少なく、どちらかといえば馬車や車の行き交うことのほうが多い。ここにはかつての七王家、現在では王家を除く貴族の屋敷と、城に勤める大臣ら上位の政務官たちの住まう家が集まっていた。エルヴィス公爵家の屋敷も、アンジェリーナの、ローゼル伯爵家の屋敷もここにある。
「エマのことも、僕は心配だよ」
雑音が減ったことで、セシルは少し声を潜めた。
「どうしてよ」
「シルヴィアが、母君が亡くなったときのことを思いだすんじゃないかと」
あの状況をアンジェリーナが直接知るわけではないけれど、聞き知っているそれに彼女は眉間に皺を寄せた。嘆くようなため息がその艶やかな唇から零れ出る。
「あぁ……」
「彼女はあのとき、シルヴィアを除いて唯一生き残ったひとだ。シルヴィアはショックからか状況なんかをほとんど忘れてしまっているけれど、もしもエマが引き金になったらと思えば……。エマはシルヴィアが懐いているひとだし、扱い方も心得ているから安心だけど、その点だけは、ね」
奇しくもそのとき、真っ先に異常を感知したのはセシルだった。当時まだ幼かったセシルは、シルヴィアに会うため登城したところで胸騒ぎを覚え、彼女の部屋へ行く前に衛兵を呼んだのだ。あれは確信に近い感覚だった。シルヴィアの身に危険が迫っていると、理屈抜きに第六感が告げていた。
結果的にシルヴィアはかろうじて助け出されたものの、彼女を守って母であった王妃は亡くなった。そのときのことを、シルヴィアはほとんど憶えていない。けれどセシルは、涙を零すことも忘れ、あのきれいな青い瞳を見開いて震える、小さな身体を憶えている。駆け寄って抱きしめたとき、自分を見てふっと気を失った、その柔らかな重さも。血の気を失って青ざめた頬と翳を落とす睫毛に、セシルはもう二度と、二度と彼女がこんな目に合うことのないようと、噛み締めた唇から血が滲むほど願ったのだ。
「セシル」
呼ばれて、セシルの意識は過去から夕暮れの街へと戻る。声がしたほうに目をやると、アンジェリーナが歩みを止めぬまま、厳しい眼差しで真っ直ぐに前を見つめていた。本当はその視線の先がどこに向けられているのか。セシルに、それが分からないはずはない。
「守ってやりなさいよ」
アンジェリーナは言った。力強い、きっぱりとした声だった。
「あの子が、一番頼りにしているのはあなた。だれより信じているのもあなた。あなたの以上に、あの子を支えてやれるひとはいないわ」
「……うん」
「そうありたいと願ったのもあなたでしょう?」
「……そうだね」
薄闇に変わり始めた空へと視線をやりながら、分かってる、とセシルは小さく呟いた。
***
セシルが帰宅すると、家の中はどことなく慌しかった。不思議に思いながら使用人に帰宅を告げ、自室へ戻ろうとしていたところで、上階から下りてきたエルヴィス公爵――父、ジュリアンと鉢合わせる。
「ただいま、父さま」
「おや、ちょうど良かった。すれ違ったら面倒だと思っていたんだ」
「何が?」
「探さなきゃならないだろう」
しれっとジュリアンは言ったが、彼がセシルを探すことなど指先一本でできることだ。たとえ街の雑踏に紛れていてもあやまたず使い魔を飛ばしてくる彼である、そうなったとして、労力などほとんどないに等しい。
怪訝な顔をするセシルに、いつまでも若々しい父はにやっと少年めいて悪戯に笑った。
「喜べ。城から晩餐の招待が来ている」
要するに、これを告げるのを引き伸ばしていただけらしい。城からの招待、つまりはアルフレッドが夕食の席に公爵一家を招いたのだ。セシルがまだ幼かった頃の先王の時代にもたびたびあったことで、もはや珍しくはないのだが、城に引き止められなかったのには疑問を感じた。そういうとき、大抵セシルは帰宅せず、そのまま残って空いた時間をシルヴィアと過ごすのが常だったのに。
「伝令とすれ違ってしまったのかな」
「そうでなく単に間に合わなかったらしい。おまえが城を出た直後に、アルがシルヴィアに会って決めたそうだよ。それにしても遅かったな」
「アンジュと歩いて帰ったんだ」
「歩く? 珍しいね」
「少し、考えごとがしたくて」
このとき父の背後から階段を下りてきた兄がアンジュという名に反応して目を瞠ったのだが、セシルはさっぱりそれを無視した。一瞬目が合ったのをふいと逸らして、手すりに置いた腕を見おろす。ジュリアンも気配で気づいたらしく、こちらはまたもにやっと笑った。息子たちをからかうのが好きな父親である。
もしここでシリルが何か声をあげたら、一言ふたことはからかわれるのだろうな、と思いながら、セシルは父の横を抜けて階段を上った。
「着替えてくる」
「ああ。――セシル」
自室に向かおうと隣をすり抜けた息子を、ジュリアンはふと呼び止めた。セシルが半身を捻って振り返ると、父は先ほどまでのふざけた雰囲気をどこへやったのか、普段どおりのなかに真剣さを潜ませた眼をしてセシルを射抜いた。
「なに?」
「おまえ、まだ迷っているのか」
何のことを言われたのか――示唆するものがなにもなくとも、セシルは何を問われたのか正確に理解した。ただ父からそう尋ねられたことが少し意外で目を丸くしてひとつ瞬き、そして、ゆっくりと首を振る。
「いいや。もう決めたよ」
それだけ告げると彼はもう振り返ることなく階段を上がり、自室に入って上着を脱いだ。ワードローブを開いて仕舞うと、代わりに少しだけ上等なものを取り出して袖を通す。釦を留める前に机へと歩み寄り、鍵のかかった引き出しを開けて手のひらに乗るくらいの小さな箱を取り出した。青く光沢のある天鵞絨張りの箱はそれだけでも高価なものだったが、これはもともとセシルの用意したものではない。中身だけ手にしていたら、見かねたらしい父の使い魔二人がどこからか持ってきたものだ。
セシルは小箱を開けないまま手のひらに乗せてしばし見つめ、それから大切そうに上着の懐に仕舞いこんだ。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。